第9話(前編2)「折れた船路、香港への同行」
香港行きの準備が始まった。直樹は、電灯、発電機、導線、工具、契約書、紹介状を分け、ロンドンを留守にする日数を考え始める。エレノア、メアリー、ルイーザは、直樹の子を宿した女としてロンドンに残り、工房と屋敷を守る覚悟を固めていた。そこへ、ナポリから悲報が届く。アルゼンチンへ向かう途中、ベッラヴィスタ家の船が海難に遭い、当主ドメニコと末息子マルコが命を落としたのである。家は長女カルロッタが継いだが、若い未亡人イザベッラと、次女エレナ夫妻は居場所を失い、ロンドンの直樹を頼って来る。香港へ向かう直樹は、かつて命を救われ、支えられた家の者たちを見捨てられない。彼は香港行きの人数を増やし、彼らを新しい支店の力に変えようと考える。
香港行きの荷造りは、思ったより手間がかかった。
モロー邸の作業棟には、木箱がいくつも並んでいた。発電機の部品、電灯のガラス球、導線、絶縁材、工具、交換用の小さな部品。どれも香港で手に入るとは限らない。1つ足りないだけで、工事は止まる。1つ割れただけで、客人の前で恥をかく。
エレノアは、木箱の横に座り、品名と数を一覧に書いていた。
「発電機の部品は、予備を多めにします。香港へ着いてから壊れていたと分かっても、すぐには取り寄せられません」
直樹は箱の中をのぞいた。
「そうですね。ガラス球も多めに入れてください。船の揺れで割れるかもしれない」
「木箱の中に詰める布も増やします。輸送費は上がりますが、現地で割れているよりはましです」
メアリーは作業棟の入口で、職人たちに茶を配っていた。妊娠の予感を抱いてからも、彼女は動きを止めない。ただ、前よりも腹を冷やさないようにしていた。ルイーザは客間に回り、香港から来た商人への礼状と、ロンドンで会うべき銀行家の名を整理している。
直樹は、3人を見た。
ロンドンを離れる不安はあった。だが、3人はそれぞれの場所で動いている。エレノアは帳簿と契約、メアリーは屋敷と職人の食事、ルイーザは社交と紹介状。その役割が見えたからこそ、直樹は香港へ行ける。
そこへ、玄関のベルが鳴った。
ルイーザが先に動いた。しばらくして、彼女は顔色を変えて作業棟へ戻ってきた。手には封の切られていない手紙があった。封蝋には、ベッラヴィスタ家の印が押されている。
「直樹さん。ナポリからです。ですが、差出人はカルロッタではありません」
直樹は手を止めた。
「誰からですか」
「ロンドンのイタリア商人を通じて届いたものです。急ぎの手紙だと」
直樹は封を切った。
文字はイタリア語だった。以前なら読めなかった。だが、ベッラヴィスタ家で過ごし、カルロッタに礼儀や言葉を叩き込まれた時間がある。全部ではないが、意味は追えた。
読み進めるうちに、直樹の顔から血の気が引いた。
エレノアが立ち上がった。
「何があったのですか」
直樹は手紙を持つ指に力を入れた。
「ドメニコさんが亡くなりました」
作業棟の空気が止まった。
メアリーが小さく息を呑んだ。
「ドメニコさんって、あのベッラヴィスタ家の当主だね」
「はい」
直樹は続けた。
「マルコさんも一緒です。アルゼンチンへ向かう準備で、先に船荷と一部の人員を動かしていたようです。地中海を出て大西洋へ向かう途中で、船が荒天に遭った。船は戻れず、救助された者も少ない。ドメニコさんとマルコさんは、助からなかったと書いてあります」
直樹の頭に、ポルティチの館がよみがえった。
火山灰で汚れた部屋。高熱でうなされるマルコ。ベッドのそばで息子の手を握っていたドメニコ。62歳の当主が、灰と血で汚れた日本人の前に頭を下げた姿。
あの男は、直樹を拾った。
あの家は、直樹を客として置いた。
カルロッタは帳簿を広げ、王宮へ連れて行き、直樹がただの流れ者で終わらないように支えた。
その家の船が沈んだ。
直樹は、手紙をもう一度見た。
「ベッラヴィスタ家は、カルロッタが継いだようです」
エレノアは静かに聞いた。
「それは自然なことですか」
「自然です。彼女は長女で、実務を見ていました。父のそばで帳簿も契約も動かしていた。銀行も港の関係者も、カルロッタを当主として認めたのでしょう」
ルイーザは眉を寄せた。
「では、なぜその手紙がここへ来たのですか」
直樹は手紙の最後を見た。
「イザベッラさんと、エレナさん夫妻がロンドンへ向かっているそうです」
「ドメニコさんの未亡人と、次女夫婦ですね」
「はい。イザベッラ・ベッラヴィスタ、32歳。エレナ・ベッラヴィスタ、34歳。エレナさんの夫、パオロ、36歳です」
メアリーはゆっくり腕を組んだ。
「カルロッタと揉めたんだね」
直樹は否定しなかった。
「手紙には、きれいな言葉で書いてあります。家の再建のため、カルロッタが全権を握った。アルゼンチンでの事業を守るには、財産、船、出資の名義を分けられない。イザベッラさんとエレナさん夫妻には、生活費を出す。ただし、家の経営には入れない。そういう形です」
エレノアは目を細めた。
「跡目争いですね」
「そうです。カルロッタは悪人ではないと思います。ですが、家を守るために、切るところを切った。イザベッラさんはドメニコさんの後妻で、若い。エレナさん夫妻も、家の中心からは外された。父と弟を失ったあとで、それを受け入れるのは難しいでしょう」
ルイーザは手紙を受け取り、しばらく見た。
「ロンドンへ来るということは、直樹さんを頼っているのですね」
「はい」
メアリーが言った。
「直樹、香港へ行く準備中だよ。助けたいのは分かるけど、ロンドンに置くのかい」
直樹は答えられなかった。
香港へは、早く行かなければならない。商館、倉庫、ホテルの玄関広間。試験設置は、モロー工房にとって大きな機会である。ここで遅れれば、別の技術者や商人が隙を狙うかもしれない。
だが、ベッラヴィスタ家の者を玄関先で帰すことなどできなかった。
ドメニコは直樹を見捨てなかった。
直樹もまた、ドメニコの家の者を見捨ててはいけない。
その日の夕方、イザベッラ、エレナ、パオロの3人がモロー邸へ着いた。
馬車から降りたイザベッラは、以前より痩せていた。黒い喪服を着ている。32歳という若さが、かえって痛々しかった。顔は美しいままだが、目の奥には眠れていない影がある。ドメニコの妻として立っていた時の華やかさは消え、今は未亡人として、背筋だけで自分を支えていた。
エレナは、妹ではなく次女らしく、イザベッラの横に立った。34歳の体はしっかりしている。腕も腰も強そうだが、顔には悔しさがあった。泣き疲れた女ではない。泣きながらも腹の中に火を残している女だった。
パオロは一歩後ろにいた。36歳。船会社の倉庫を預かっていた男らしく、荷物の置き方や馬車の積み下ろしには自然に目が行く。だが、その顔には敗れた男の苦さがあった。カルロッタとの争いで、言葉でも金でも勝てなかったのだろう。
直樹は玄関まで迎えに出た。
「イザベッラさん。エレナさん。パオロさん」
イザベッラは、直樹の顔を見た瞬間、唇を震わせた。
「サー・モロー」
英語だった。上手ではない。だが、意味は分かった。
「夫は、あなたのことをいつも話していました。火山の日に、あなたがいなければマルコは死んでいたと」
直樹は胸が痛んだ。
そのマルコは、もういない。
「お悔やみ申し上げます」
直樹は静かに頭を下げた。
「ドメニコさんとマルコさんには、大きな恩があります。どうか中へ入ってください」
イザベッラは踏み出しかけたが、そこで一度止まった。
「私たちは、ベッラヴィスタ家を追われたわけではありません。ですが、もう、あの家には私たちの席がありません」
直樹は黙って聞いた。
エレナが、姉のように前へ出た。
「カルロッタ姉さんは、家を守るためだと言いました。父の名義、船、出資、アルゼンチンの計画、すべてを1つにまとめなければ、債権者に食われると。言っていることは分かります。でも、分かることと、受け入れられることは違います」
パオロも低い声で言った。
「私は倉庫を預かっていました。荷札も、人足の名も、船荷の流れも分かっています。だが、カルロッタ様の前では、私はただの次女の夫でした。家の中心に残る席はありませんでした」
直樹は3人を見た。
3人とも、ただ助けてほしい顔ではなかった。
失意はある。怒りもある。だが、まだ働く気力は残っている。そこが大事だった。
エレノア、メアリー、ルイーザも玄関広間へ来ていた。
エレノアはまずイザベッラへ礼をし、次にエレナとパオロへ視線を移した。彼女は相手の悲しみを見ながら、同時に荷物の数、連れてきた使用人の有無、手元の資金、今夜泊める部屋の数を考えている顔だった。
「お部屋を用意します。喪中の方を玄関で立たせておくわけにはいきません」
メアリーは厨房へ向き直った。
「温かいものを出すよ。長旅で腹も冷えているだろう」
ルイーザは穏やかに言った。
「お話は食事のあとでもできます。けれど、今夜のうちに、今後の行き先だけは決めた方がよろしいでしょう」
イザベッラは3人を見た。
直樹のそばに立つ女たちが、ただの愛人や屋敷の飾りではないことは、すぐ分かったはずだった。
その夜、モロー邸の食堂では、重い食事が並んだ。
誰も明るく話さなかった。笑い声もない。けれど、皿は温かく、酒は少しだけ出された。イザベッラは食事の前に祈り、エレナは黙ってパンをちぎった。パオロは、食べながらも屋敷の作りや使用人の動きを見ていた。
食後、直樹は書斎に3人を招いた。
机の上には、香港への航路を引いた世界地図が広げられている。ロンドンから地中海、スエズ、インド洋、シンガポール、香港。その赤い線を見て、パオロの目が止まった。
「香港へ行かれるのですか」
「はい。香港の商館、倉庫、ホテルに電灯を入れる契約がまとまりました。私は現地へ行きます」
エレナは驚いた顔で直樹を見た。
「では、私たちは遅すぎたのですね。あなたはもう、ロンドンを離れる」
「いいえ」
直樹ははっきり言った。
「あなたたちは、私と一緒に香港へ来てください」
部屋が静かになった。
イザベッラが直樹を見た。
「私たちが、香港へ」
「はい」
「私は未亡人です。エレナもパオロも、跡目争いに敗れた者です。あなたの香港行きの荷物になるかもしれません」
「荷物なら連れて行きません」
直樹は答えた。
「ですが、あなたたちは荷物ではありません。イザベッラさんはベッラヴィスタ家の女主人として館を動かしてきた。エレナさんは人を支え、看病もできる。パオロさんは倉庫と荷の流れを知っている。香港へ行けば、港、倉庫、商館、人足、荷札、保守部品、宿泊、食事、客の応接、全部が必要になります。私1人では回りません」
パオロの顔がわずかに動いた。
「私に、香港の倉庫を見ろと」
「最初は、私の荷物と部品の管理です。発電機、導線、ガラス球、工具、交換部品。香港へ着いた時、何が何個あり、何が壊れ、何を先に使うか。それを見られる人が必要です。あなたはそれができます」
パオロはすぐには答えなかった。
倉庫を預かっていた男にとって、これは施しではない。仕事である。そこが、彼の顔を少し変えた。
直樹はエレナへ向いた。
「エレナさんには、現地の住まいと人の世話を見てほしい。香港では、私たちはよそ者です。職人も雇う。通訳も雇う。病人も出るかもしれない。食べる場所、休む場所、体を悪くした者の世話。それを誰かが見なければ、工事は続きません」
エレナは唇を結んだ。
「私は、姉のように帳簿は得意ではありません」
「帳簿はエレノアがロンドンで見ます。香港では、目の前の人間を倒さないことが大事です。あなたには、それができる」
エレナの目に、悔しさとは違う光が戻った。
直樹は最後にイザベッラを見た。
「イザベッラさんには、香港での屋敷と客の応接をお願いしたい。私は若い異国人です。サーと呼ばれても、東洋の港で信用を作るには、家の形が必要です。喪が明けるまでは無理をしなくていい。ですが、あなたがいるだけで、私たちはただの男だけの工事隊ではなくなります」
イザベッラは、じっと直樹を見ていた。
「私は、ドメニコの妻でした」
「はい」
「でも、もうドメニコはいません。ベッラヴィスタ家の女主人でもありません。カルロッタが家を継ぎました」
「それでも、あなたはドメニコさんの妻です。そのことは消えません。私は、ドメニコさんに助けられました。あなたを見捨てることは、あの人への恩を捨てることになります」
イザベッラの目に涙が浮かんだ。
だが、泣き崩れはしなかった。
「あなたは、私たちを哀れんでいるのですか」
「いいえ。哀れむだけなら、ロンドンに部屋を用意して生活費を出します。そうではありません。私は香港で支店を作るつもりです。いずれ上海、天津、シンガポールにも広げたい。その時、港を知る人、倉庫を知る人、屋敷を動かせる人が必要です。あなたたちには、その力があります」
エレノアが静かに言った。
「ロンドン側としても、その方がよいと思います。直樹さんが1人で香港へ行けば、契約、工事、荷物、住まい、客の応接まで全部を抱えることになります。現地で信頼できる人を一から探すより、すでに関係のある方々を連れて行く方が安全です」
メアリーも頷いた。
「それに、直樹は人を拾うのが下手じゃない。拾ったあとで働かせるのは、もっと上手いよ」
ルイーザは扇を閉じた。
「問題は、香港へ行く船室と費用、それから表向きの肩書きです。イザベッラ様は、亡きドメニコ・ベッラヴィスタ氏の未亡人。エレナ様とパオロ様は、モロー電光工房の香港出張団に同行する管理補佐。そうしておけば、外から見ても形になります」
直樹はうなずいた。
「パオロさんは、香港で倉庫と部品管理の責任者。エレナさんは、住まいと人員の世話。イザベッラさんは、応接と屋敷の体裁を整える役です。給金も出します。ベッラヴィスタ家の援助ではなく、モロー電光工房の仕事として扱います」
パオロは、初めてはっきり直樹を見た。
「給金を出すのですか」
「はい。働いてもらうのですから」
「私は、敗れた男です」
「香港では、敗れた過去より、明日の荷物を間違えないことの方が大事です」
その言葉で、パオロの口元が少しだけ歪んだ。笑ったのではない。だが、こわばっていたものがわずかにほどけた。
「なら、働きます。倉庫の帳面と荷札なら見られます。船荷の積み下ろしも分かります」
エレナも言った。
「私も行きます。姉に負けたまま、ナポリで腐るくらいなら、知らない港で働いた方がいい」
イザベッラは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷いた。
「私も参ります。ただし、私はドメニコの喪を忘れません」
「忘れる必要はありません」
直樹は答えた。
「その喪ごと、香港へ持って行ってください。ドメニコさんが作ろうとした新しい港への道は、アルゼンチンで折れました。なら、別の港でつなぎ直します」
イザベッラは、その言葉で初めて涙をこぼした。
エレナがそっと彼女の肩に手を置いた。
パオロは目を伏せた。
エレノアは、すでに新しい紙を取り出していた。
「では、香港行きの名簿を作り直します。直樹さん、ハリントン氏に船室の追加を頼みます。イザベッラ様、エレナ様、パオロ様の荷物は、明日中に必要なものと不要なものに分けてください。喪服は持っていくべきです。香港での最初の応接に、かえって重みが出ます」
メアリーは小さく笑った。
「エレノア、もう使う気満々だね」
「当然です」
エレノアは答えた。
「直樹さんが香港へ行くなら、行く先で倒れない形を作る必要があります。情で助けるだけなら、途中で全員が困ります。仕事として組み込めば、助けた相手も立てます」
ルイーザはイザベッラへ穏やかに言った。
「今夜はお休みください。明日からは忙しくなります。悲しむ時間も必要ですが、船は待ってくれません」
イザベッラは涙を拭いた。
「厳しい方々ですね」
メアリーが笑った。
「直樹のそばにいると、そうなるんだよ」
直樹は世界地図を見た。
赤い線は、ロンドンから香港へ伸びている。
さっきまでは、直樹1人が海を渡る線だった。だが今は違う。ドメニコとマルコを失い、アルゼンチンへの船路で折れたベッラヴィスタ家の一部が、その線に合流しようとしている。
カルロッタはアルゼンチンで家を継ぐ。
イザベッラ、エレナ、パオロは香港へ行く。
そして直樹は、ロンドンに3人の妻と工房を残し、海の向こうで新しい支店を作る。
運命は、人を同じ場所には置いてくれない。
だが、別れた道が、別の港で役に立つこともある。
直樹は地図の香港のあたりへ指を置いた。
「香港へ行きます。私たちで、そこにモロー電光工房の足場を作ります」
イザベッラ、エレナ、パオロは、その言葉に静かに頷いた。
その夜、モロー邸では、香港行きの名簿に3人の名が加えられた。
イザベッラ・ベッラヴィスタ。
エレナ・ベッラヴィスタ。
パオロ。
それは、敗れた者たちの避難名簿ではなかった。
香港へ向かう新しい支店の、最初の人員表だった。
前編2では、香港行きの準備中に、ベッラヴィスタ家の悲報が届く。アルゼンチンへ向かう流れの中で海運事故が起こり、当主ドメニコと末息子マルコが亡くなる。ベッラヴィスタ家は長女カルロッタが継ぐが、未亡人イザベッラと次女エレナ夫妻は、家の中心から外され、ロンドンの直樹を頼って来る。直樹は、かつて自分を助けたベッラヴィスタ家への恩を忘れず、3人を香港行きに同行させると決める。ただ保護するのではなく、イザベッラには応接と屋敷の体裁、エレナには住まいと人員の世話、パオロには倉庫と部品管理を任せる。直樹の香港行きは、単身赴任ではなく、モロー電光工房の香港支店を作るための小さな一団の出発へ変わる。




