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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第9話(前編1)――「帝国の地図、香港からの注文書」

 サー・ナオキ・モローの名は、ロンドンの社交界と商業界に広がり始めた。王室の晩餐会で電灯と蓄音機を披露した若い異国人は、もう珍しい発明家ではない。英国の商人たちは、その光を劇場やホテルだけでなく、海の向こうの港へ運ぼうと考え始める。香港から来た商人と海運関係者を迎えることになったモロー邸で、客をもてなす役を引き受けたのはエレノアだった。メアリーとルイーザがすでに命の予感を抱く中、エレノアだけはまだ何も感じていない。その胸の奥には、女としての焦りと、工房を支える者としての静かな意地があった。

 王室の晩餐会から3日後、モロー邸の書斎には大きな世界地図が広げられていた。


 地図の上には、ロンドンから南へ下り、地中海、スエズ、インド洋を抜けて香港へ至る航路が赤鉛筆で引かれている。さらに香港から上海、天津、シンガポール、カルカッタへ線が伸びていた。直樹はしばらく黙って、その線を見ていた。


 ロンドンで灯した電灯は、もうロンドンだけのものではなくなりつつあった。


 ハリントンは地図の端を指で押さえながら言った。


「モロー氏。香港から来ている方々が、ぜひあなたに会いたいと言っています。商館、倉庫、埠頭、ホテル、領事館まわりに電灯を入れられないか、かなり本気で聞いてきました」


 直樹は顔を上げた。


「香港ですか」


「はい。英国の東洋貿易の大きな拠点です。そこへ入れば、上海、天津、シンガポール、インドへ話が伸びます。あなたの工房にとっては、大きな機会です」


 エレノアは机の横で、すでに紙を分けていた。香港向け、ロンドン向け、王室関係、民間商館。その4つに分け、見積もりの書式を変えている。彼女は感情を大きく出さないが、目はいつもより鋭かった。


「香港からの客人は、何人ですか」


「主な客は3人です。香港で商館を持つアーサー・ブレイク氏。海運会社の支配人ジェームズ・ペンローズ氏。それから香港のホテルと倉庫に出資しているヘンリー・スタンフォード氏です」


 エレノアはすぐに聞いた。


「夫人の同伴はありますか」


「今回はありません。男だけです」


「では、食卓は商談向けに整えます。酒は出しますが、飲ませすぎません。料理は重くしすぎず、話が長く続けられるものにします。応接室には地図を置き、作業棟には実演用の電灯を準備します。契約書は、香港での試験設置、保守契約、部品供給、操作係の教育、この4つに分けます」


 ハリントンは感心したようにエレノアを見た。


「奥様は、もう香港へ行く準備まで考えておられるようだ」


 エレノアは表情を崩さず答えた。


「モロー氏が行くかどうかは、まだ決まっていません。けれど、客人が来る以上、こちらが迷っている顔を見せるわけにはいきません」


 直樹はその言葉に頷いた。


「エレノア、今日の応接はあなたに任せます」


 エレノアの手が、一瞬だけ止まった。


「私でよろしいのですか」


「はい。香港からの客は、光そのものだけでなく、モロー電光工房が信用できる相手かどうかを見に来ます。帳簿、契約、支払い、保守の話を一番よく分かっているのは、あなたです」


 エレノアは静かに頭を下げた。


「承知しました」


 その声は落ち着いていた。だが、胸の奥では熱が動いていた。


 メアリーは厨房へ回り、ルイーザは玄関と客間の支度を整えた。3人はもう、ただ直樹のそばにいる女ではなかった。モロー邸を動かす女たちであり、工房を支える柱でもあった。


 午後4時、香港からの客人を乗せた馬車が門前に止まった。


 エレノアは玄関で彼らを迎えた。黒いドレスに白い襟を合わせ、飾りは少ない。だが、姿勢がよく、声もよく通った。にこやかだが媚びない。相手を立てるが、こちらを安く見せない。その加減を、彼女はよく知っていた。


「ようこそ、モロー邸へお越しくださいました。サー・ナオキ・モローは、作業棟で実演の準備をしております。まずは応接室で、香港でお考えの場所をお聞かせください」


 アーサー・ブレイクは、入ってすぐにエレノアを見る目を変えた。若い発明家の屋敷にいる女という程度に考えていたのだろう。だが、エレノアはそういう相手ではなかった。


 応接室に通されると、机の上には香港島と港の図、倉庫街の簡単な配置、商館と埠頭の位置を書き込むための白紙が用意されていた。ペン、インク、定規、計算用の紙もそろっている。


 ペンローズが椅子に腰を下ろしながら言った。


「これは驚いた。こちらの話を聞く前に、港の図まで用意されている」


 エレノアは静かに答えた。


「遠くからお越しいただいた方に、同じ説明を何度もさせるのは失礼です。場所を示していただければ、その場で必要な灯数と発電機の規模を考えられます」


 直樹は少し離れた席で、それを聞いていた。


 エレノアは強い。


 この女は、夜の寝室だけで直樹に寄りかかる女ではない。金と紙と人の目を見て、話の流れを作れる女である。


 ブレイクが地図へ身を乗り出した。


「まずは香港の商館です。夜に荷を動かすことが増えている。ガス灯では暗く、火事も怖い。倉庫にも灯りが欲しい」


 エレノアはすぐに紙へ書いた。


「商館、倉庫、埠頭。まずは3か所ですね。全部を同時に設置するより、1か所を試験設置し、3か月の結果を見て広げる方がよろしいと思います」


 スタンフォードが眉を上げた。


「最初から大きく売り込まないのですか」


「安全に使えなければ、2度目の注文はありません。東洋へ運ぶなら、部品の破損、湿気、操作係の教育、修理の遅れまで考えなければなりません。売って終わりにすれば、モロー工房の名に傷がつきます」


 その言葉で、客人たちは黙った。


 直樹は何も言わなかった。言う必要がなかった。エレノアが、彼の考えを商談の言葉にしていたからである。


 作業棟へ移ると、直樹は電灯を灯した。夕方の薄暗い空気の中で、ガラス球の中に白い光が生まれる。炎ではない。煤を出さず、揺れず、人の顔も紙の文字もはっきり見せる光だった。


 ペンローズは、しばらく口を開けて見上げていた。


「これが倉庫に入れば、夜の荷役が変わる」


 ブレイクも頷いた。


「商館の大広間にも使える。客に見せるだけで、こちらの力を示せる」


 エレノアはすかさず言った。


「ただし、見せ物だけにしてはなりません。灯りは毎日使うものです。点検係を置き、操作を覚えた者を育てる必要があります。香港で使うなら、現地に保守の拠点も必要になるでしょう」


 スタンフォードは直樹を見た。


「サー・モロー。あなたご自身が香港へ来られますか」


 直樹は、すぐには答えなかった。


 頭の中で、ロンドンの工房、作業棟、エレノア、メアリー、ルイーザの顔が並んだ。さらに、香港、清国の港、上海、天津、シンガポールの線が地図の上で伸びていく。


「行く必要があるなら、私が行きます」


 直樹は答えた。


「ただし、ロンドンの工房は残します。ここを空にするつもりはありません。部品、技術、契約の根はロンドンに置きます。香港は支店として育てます」


 ブレイクはその答えに満足したようだった。


「それなら話は早い。香港の商館と倉庫、それからホテルの玄関広間に、まず試験設置をお願いしたい。費用は高くてもかまいません。ただし、早く動いてほしい」


 エレノアは契約書の草案を机へ置いた。


「早く動くためには、最初に条件を決める必要があります。設置費、輸送費、滞在費、現地作業員の手配、保守契約、交換部品の継続供給。この6つを分けます。前金は半額。残りは試験点灯後にお支払いいただきます」


 ブレイクは笑った。


「奥様、あなたは手ごわい」


「工房を守るのが私の役目です」


 エレノアは、初めて少しだけ笑った。


 その笑みが、客人たちの気持ちをさらに動かした。冷たいだけの女ではない。話を締めるところは締め、場を和らげるところは和らげる。香港から来た男たちは、直樹の光だけでなく、モロー邸の女主人たちの力も見たのである。


 その日の夕方、香港向けの最初の大口契約がまとまった。


 商館、倉庫、ホテル玄関広間への試験設置。発電機、配線、灯具、操作係の教育、交換部品の供給、3か月の保守契約。さらに、結果が良ければ上海と天津へ紹介状を出すという約束まで付いた。


 直樹は契約書に署名し、ブレイクたちと握手を交わした。


 握手のあと、ブレイクがエレノアへ頭を下げた。


「奥様。今日の商談は、あなたのおかげで迷わず進みました。香港でこの光を見る日を楽しみにしています」


 エレノアは丁寧に礼を返した。


「こちらこそ、香港の港で灯りが役に立つことを願っております」


 客人たちが帰ったあと、モロー邸の玄関広間にはしばらく馬車の音の余韻が残った。


 直樹は契約書を持ったまま、エレノアを見た。


「よくやってくれました」


 エレノアは首を横に振った。


「私は、用意しただけです。光を作ったのはあなたです」


「違います。今日売れたのは、光だけではありません。モロー工房が信用できると見せたのは、あなたです」


 エレノアの顔に、かすかな赤みが差した。


 メアリーは厨房から顔を出し、笑いながら言った。


「今夜はエレノアの勝ちだね」


 ルイーザも扇を閉じ、穏やかに頷いた。


「ええ。今日は誰も文句を言えません」


 エレノアは2人を見た。メアリーもルイーザも、すでに自分の中に新しい命が宿ったような予感を口にしていた。エレノアだけが、まだ何も感じていない。そのことを、彼女は表に出さないようにしていた。


 だが、直樹には分かった。


 直樹はエレノアの手を取った。


「今夜は、あなたを離しません」


 エレノアは一瞬だけ目を伏せた。帳簿係でも、応接を仕切った女でもなく、ひとりの女の顔になった。


「はい。今夜は、私を見てください」


 その夜、モロー邸の寝室の明かりは、明け方近くまで消えなかった。


 直樹は、商談の成功を喜び、エレノアを何度も抱き寄せた。エレノアも、遠慮しなかった。昼の応接で張っていた気をほどき、直樹の腕の中で、女としての喜びをまっすぐ受け止めた。部屋の外ではロンドンの夜が静かに更け、遠くで馬車の車輪が石畳を鳴らしていた。


 明け方、エレノアは直樹の胸に頬を寄せたまま、ふと目を開けた。


 体の奥に、いつもと違う重みがあった。


 痛みではない。疲れだけでもない。腹の奥に、細い熱が2つ、静かに灯ったような感覚だった。


 エレノアは息を止めた。


「直樹さん」


「どうした」


 直樹は眠りに落ちかけていたが、その声で目を開けた。


 エレノアは自分の腹に手を置いた。まだ何も形はない。医者に確かめたわけでもない。それでも、女の体は先に知ることがある。


「私にも、来たと思います」


 直樹は起き上がった。


「本当ですか」


「ええ。まだ分かりません。でも……1人ではない気がします」


 直樹はしばらく何も言えなかった。


 エレノアは微笑んだ。昼の商談で見せた笑みとは違う。強がりも計算もない、柔らかい笑みだった。


「おかしな言い方ですが、2つ、灯った気がするのです」


 直樹はエレノアを強く抱いた。


「エレノア」


「はい」


「ありがとう」


「礼を言うのは早いです。まずは、工房を守らなければなりません」


 エレノアはそう言って、直樹の胸に額を預けた。


「メアリーも、ルイーザも、私も、ロンドンに残ります。あなたが香港へ行くなら、私たちがここを守ります。帳簿、職人、契約、部品、食卓。全部を止めません」


 朝になり、3人は食堂で向かい合った。


 メアリーは腹に手を置き、ルイーザは紅茶を冷ましながら頷いた。エレノアは、いつものように紙を前に置いていたが、その手つきは少し柔らかかった。


「直樹さんは香港へ行くべきです」


 エレノアが言った。


「香港の先には、上海、天津、シンガポールがあります。けれど、ロンドンを空にしてはいけません。ここで部品を作り、人を育て、契約を管理する者が必要です」


 メアリーが続けた。


「あたしたちは、待っているだけの女じゃないよ。工房を動かす。職人にも飯を食わせる。あなたが戻る場所を残しておく」


 ルイーザも静かに言った。


「あなたは外へ行ってください。私たちは、内側を守ります。あなたの子を宿した女たちが、ただ泣いて待つだけでは、モロー工房は大きくなりません」


 直樹は3人を見た。


 ロンドンへ来た時、彼の手元にあった自由資金は3200ポンドだった。今では、王室、劇場、銀行、ホテル、貴族の屋敷、そして香港からの注文が重なり、財産は大きく膨らみ始めている。名声もまた、彼自身の足より先に走っていた。


 だが、直樹は分かっていた。


 金と名声だけでは、工房は続かない。


 エレノア、メアリー、ルイーザ。


 この3人が、ロンドンに根を張るからこそ、自分は海の向こうへ行ける。


 直樹はゆっくり頷いた。


「分かりました。私は香港へ行きます。ロンドンは、あなたたちに任せます」


 エレノアは契約書の束を整えた。


「では、今日から香港行きの準備に入ります。持っていく機械、部品、工具、契約書、紹介状、現地で雇う通訳と職人。全部、分けて表にします」


 メアリーは笑った。


「エレノア、妊娠しても仕事の顔は変わらないね」


「当然です」


 エレノアは答えた。


「子を身ごもったからこそ、工房を守るのです」


 直樹はその言葉を聞き、世界地図へ目を向けた。


 赤い線は、ロンドンから香港へ伸びている。


 その線は、もうただの航路ではなかった。


 ロンドンに残る3人の妻と、海の向こうへ向かう直樹を結ぶ線であり、モロー電光工房が帝国の港へ光を運ぶ最初の道だった。

 前編1では、サーとなった直樹の名声がロンドンを越え、香港からの大口商談へつながる。客人を迎えたエレノアは、料理や応接だけでなく、契約、保守、部品供給、操作係の教育まで見据えて話を進め、香港からの注文をまとめる。その夜、直樹はエレノアと成功を分かち合い、エレノアもまた双子を身ごもった予感を抱く。メアリー、ルイーザ、エレノアの3人は、直樹の子を宿した妻としてロンドンに残り、モロー電光工房を守ると決める。直樹は、膨らんだ財産と名声を背に、単身で香港へ向かう準備に入る。

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