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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第8話(後編1)「妻たちの目、ロンドンの光」

 モロー電光工房の試作電灯は、作業棟の中で確かな光を灯した。次に必要なのは、その光を金に変えることである。ルイーザは劇場主、銀行家、ホテル経営者の3人を選び、それぞれの妻も同伴させる。男たちは費用と評判を考え、妻たちは光の美しさと実用性を見抜く。後編1では、直樹が最初の客夫婦を前に電灯を実演し、ロンドンで大きく稼ぐための契約へ踏み出す。

 モロー電光工房の試作電灯は、作業棟の中で確かな光を灯した。次に必要なのは、その光を金に変えることである。ルイーザは劇場主、銀行家、ホテル経営者の3人を選び、それぞれの妻も同伴させる。男たちは費用と評判を考え、妻たちは光の美しさと実用性を見抜く。後編1では、直樹が最初の客夫婦を前に電灯を実演し、ロンドンで大きく稼ぐための契約へ踏み出す。


本文


 翌朝、モロー邸の食堂には、昨日とは少し違う静けさがあった。


 メアリーは少し遅れて入ってきた。髪はきちんと結い直し、服装も乱れていない。だが、いつものように大股で歩くことはせず、椅子のそばへ来た時だけ、わずかに足をゆるめた。


 エレノアはそれを見て、手元の紙へ目を落とした。


 ルイーザは紅茶を注ぎながら、何も言わなかった。だが、口元には薄い笑みが残っている。


 直樹が食堂へ入ってくると、メアリーはすぐに姿勢を正した。


「おはようございます、モローさん」


「おはようございます。体は大丈夫ですか」


「はい。朝食はできております」


 メアリーはそれだけ言い、直樹の前へ皿を置いた。卵、厚く切った肉、黒パン、バター、濃い紅茶。昨夜の名残を口に出すことはない。だが、直樹の皿だけは昨日よりさらに重くなっていた。


 直樹は皿を見た。


「今日も多いですね」


「今日はお客様を迎えます。途中でお疲れになっては困ります」


 メアリーは丁寧に答えた。


 エレノアは紙をめくりながら言った。


「今日の食事は、いつもの食費とは分けて見ます。客を迎える日の支出ですから」


「ありがとうございます」


 メアリーは素直に頭を下げた。


 昨日なら、そこで少し言葉がぶつかったかもしれない。だが、今日は違う。電灯を客に見せる日である。3人とも、それぞれの持ち場で失敗できないことを分かっていた。


 ルイーザは手帳を開いた。


「本日お招きするのは3組です。劇場主のエドガー・ベル氏と、妻のクララ夫人。銀行家のジョージ・エインズワース氏と、妻のアメリア夫人。ホテル経営者のトマス・ホワイトモア氏と、妻のマーガレット夫人です」


 直樹は名前を聞きながら、紅茶を飲んだ。


「妻も同伴なのですね」


「はい。電灯は、男たちの計算だけで売れるものではありません。夜の劇場、ホテルの食堂、客室、屋敷の応接間。そこを毎日使い、居心地のよし悪しを決めるのは、妻たちです。夫が迷っても、妻が欲しがれば話は早く進みます」


 エレノアは頷いた。


「契約書の草案は用意しました。設置費、発電機、配線、点検、交換部品、操作係の教育を分けてあります。最初の契約ですから、導入時の金額は少し抑え、点検と交換部品で継続して収入を取る形にしました」


「それでいきましょう」


 直樹は答えた。


 ルイーザは直樹の襟元へ目を向けた。


「モローさん、今日は服装も大事です。発明家としてだけでなく、この屋敷の若い主人として見られます」


「お願いします」


 直樹が立ち上がると、ルイーザは襟を直し、上着の肩を払った。指が胸元に触れる。直樹はその手首を取り、軽く引き寄せた。


 ルイーザは逃げなかった。


 直樹が口づけると、彼女はすぐに受けた。短い口づけではなかった。食堂にいるエレノアとメアリーの視線を感じながらも、ルイーザは直樹の肩に手を置き、深く応じた。


 唇を離すと、ルイーザは息を整え、何事もなかったように直樹の襟をもう一度直した。


「これで大丈夫です」


「続きは」


 直樹が小さく聞くと、ルイーザは目を伏せた。


「今夜、私が参ります」


 言葉はそれだけだった。


 直樹は頷いた。エレノアは紙を見るふりをし、メアリーは皿を下げながら少し唇を結んだ。嫉妬はある。だが、今日は誰もそれを乱暴には出さなかった。


 ◇ ◇ ◇


 午後4時、モロー邸の玄関に馬車が止まり始めた。


 最初に来たのは、劇場主のエドガー・ベルと妻のクララだった。ベルは丸顔で声が大きく、黒い上着の胸元に派手な時計鎖を垂らしていた。クララ夫人は金髪を高く結い、深い緑のドレスを着ている。彼女は玄関へ入るなり、壁、燭台、窓の位置を見た。


「こちらで、あの電灯を見せていただけるのですね」


 ルイーザがにこやかに迎えた。


「はい。今日は作業棟へご案内いたします。まだ整えている途中ですが、光はご覧いただけます」


 次に来たのは、銀行家のジョージ・エインズワースと妻のアメリアだった。エインズワースは細身で、笑っていても目は笑わない。数字を見る男の顔だった。アメリア夫人は控えめな紺のドレスを着ていたが、応接室に通されると、燭台の火を見て静かに言った。


「火を使わずに明るくできるなら、子ども部屋にも安心ですわね」


 最後に、ホテル経営者のトマス・ホワイトモアと妻のマーガレットが来た。ホワイトモアは大柄で、髭をきれいに整えた男だった。マーガレット夫人はふくよかで、笑顔が柔らかい。だが、玄関広間を見回す目は、客を迎える家の女主人そのものだった。


「ホテルの食堂に新しい光が入れば、お客様は喜びますわ」


 彼女は入ってすぐにそう言った。


 直樹は応接室で6人を迎えた。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます。まだ完成した工房ではありません。ですが、ロンドンで最初にお見せする価値はあると思っています」


 ベルは笑った。


「若いのに大きく出ますな、モロー氏」


「小さく見せるために作ったものではありません」


 直樹が答えると、クララ夫人が面白そうに夫を見た。


「エドガー、よく聞いておいてください。劇場の男は、こういう若さに負けることがあります」


「お前まで私を急かすのか」


「まだ急かしておりません。光を見てからです」


 応接室に軽い笑いが起きた。


 ルイーザはその空気を見て、すぐに立ち上がった。


「では、作業棟へご案内いたします」


 ◇ ◇ ◇


 作業棟には、日暮れ前の薄暗さが入り始めていた。


 窓の外にはロンドンの霧があり、石炭の匂いが空気に混じっている。中には作業台が並び、金属部品、ガラス球、銅線、発電機が整えられていた。昨日まで雑然としていた台は、エレノアとメアリーの指示で片づけられ、客が歩く場所だけは広く空けてある。


 職人たちは作業を止め、壁際へ下がった。


 直樹は作業台の前に立った。


「こちらが、モロー電光工房で作る電灯です。蝋燭やガス灯とは違い、室内に炎を出しません。煤も少なく、匂いも抑えられます。劇場、ホテル、銀行、屋敷の食堂や応接室で使うことを考えています」


 エインズワースはすぐに聞いた。


「費用は」


 直樹はエレノアへ目を向けた。


 エレノアは紙を開いた。


「設置場所によって変わります。今日は大まかな形だけお示しいたします。発電機、配線、灯具、操作係の教育、点検を分けて見積もります。最初に払う額を抑え、点検と交換部品を月ごとの契約にする案です」


 エインズワースは眉を動かした。


「売って終わりではないのですか」


「終わりにはしません」


 直樹が答えた。


「安全に使うには、点検が要ります。部品の交換も要ります。扱う人間の教育も要ります。光だけを売るのではなく、明るい場所を保つ仕組みを売ります」


 アメリア夫人が夫を見た。


「あなた、それなら銀行の大広間にも使えるのではありませんか。夜に書類を読む時、ガスの匂いで頭が痛くなることがあります」


 エインズワースは返事をしなかった。だが、黙ったまま紙を受け取った。


 直樹は発電機のそばに立つ職人へ合図した。


 男がゆっくりと機械を動かす。


 ガラス球の中に、白い光が生まれた。


 作業棟の中が、一瞬で変わった。


 光はすぐに安定した。昨日よりも落ち着き、ガラスの中の細い線がまっすぐ明るくなる。煤けた壁が白く浮かび、客たちの顔がはっきり見えた。揺れる炎ではない。人の頬も、手袋の縫い目も、ドレスの布の色も、そのまま浮かび上がった。


 クララ夫人は、思わず一歩近づいた。


「まあ……顔色が、こんなにはっきり見えるのですね」


 劇場主ベルは光を見上げたまま、口を開けていた。


「舞台裏にこれを入れれば、役者の化粧がよく見える。客席の入口にも使える。いや、劇場の正面に吊れば、人が集まるぞ」


「エドガー」


 クララ夫人は夫の袖を軽く引いた。


「正面だけでは足りません。婦人用の控室に入れてください。ガス灯では暑くて、化粧が崩れます」


「控室か」


「ええ。女性客は、そこを見ます」


 ベルは妻を見て、それから直樹を見た。


「まず劇場の正面と、婦人用控室だ。見積もりを出してくれ」


 エレノアがすぐに書き留めた。


 アメリア夫人は、光の下で手袋を外し、自分の手を見た。


「炎の揺れがないのですね。書類を読むには、その方がよろしいわ」


 エインズワースが低く言った。


「銀行に入れるには、安全性を確認しなければならない」


「当然です」


 直樹は答えた。


「試験設置から始められます。大広間ではなく、役員室か金庫前の事務室に一組。そこで明るさと扱いを見ていただければいい」


 アメリア夫人は夫の横顔を見た。


「一組ならよいのではありませんか。夜の計算で目を悪くしている行員もいます」


 エインズワースは少し考えた。


「一組だけだ。試験として入れる。月ごとの点検料も紙にしてくれ」


「ありがとうございます」


 直樹は深く頭を下げた。


 マーガレット夫人は、光の下で自分のドレスの布をつまんでいた。


「色が沈まないのですね」


 ホワイトモアが聞いた。


「何の話だ」


「食堂です。料理の色も、花の色も、婦人のドレスの色も、ガス灯よりきれいに見えます。宿泊客は、そういうところを覚えます」


 ホワイトモアは電灯を見上げた。


「ホテルの玄関広間に入れれば、新聞の話題になるか」


 ルイーザが答えた。


「なるでしょう。ただ、食堂まで入れた方が評判になります。壁際に一列並べれば、晩餐の席そのものが変わります。奥様方は必ず話題にします」


 マーガレット夫人は頷いた。


「私なら、人を呼びます。火を使わない白い光で晩餐をした、と話したくなりますもの」


 ホワイトモアは妻の顔を見て、決めた。


「食堂で見積もりを出してくれ。高すぎれば玄関からだ。だが、話は進めよう」


 エレノアのペンが速く動いた。


 直樹は3組の夫婦を順に見た。


 男たちは金と評判を考えている。妻たちは実際に使う場所を見ている。劇場の婦人控室、銀行の事務室、ホテルの食堂。直樹が狙うべき場所は、男の机の上だけではなかった。


 ルイーザが客夫婦を呼ばせた意味を、直樹はこの時はっきり理解した。


 クララ夫人は劇場の女性客を考えている。アメリア夫人は銀行で働く者と家族の安全を見ている。マーガレット夫人はホテルの食堂に座る客の顔を思い浮かべている。夫たちは最後に金を出す。だが、その前に妻たちが欲しがれば、話は一気に進む。


 光は、作業棟の中で白く灯り続けていた。


 火ではない。煙もない。だが、その場にいる者たちの顔を明るくし、これまでの夜とは違う夜をはっきり想像させていた。


 ◇ ◇ ◇


 実演のあと、客たちは応接室へ戻った。


 メアリーが茶を出した。最初に用意していた皿は少し大きすぎたため、ルイーザに目で止められ、急いで薄い焼き菓子と小さなサンドイッチに替えていた。メアリーは少し悔しそうだったが、客の前では顔に出さなかった。


 クララ夫人は茶を飲みながら、夫に言った。


「エドガー、劇場の正面に入れるなら、今月中に決めてください。ほかの劇場に先を越されたら、あなたは一週間怒るでしょう」


「一週間では済まん」


「なら、決めることです」


 ベルは苦笑した。


「分かった。モロー氏、劇場の正面と婦人用控室。見積もりを頼む」


 アメリア夫人も、夫へ静かに言った。


「あなた、試験設置なら大きな危険ではありません。むしろ、早く確かめた方がよろしいわ」


 エインズワースは直樹へ向いた。


「銀行は慎重だ。だが、試験設置なら始められる。契約書を見せてくれ」


 ホワイトモアは妻に言われる前に口を開いた。


「ホテルの食堂で使った場合、客が増えるかもしれん。まず食堂の片側に入れる見積もりをくれ」


 マーガレット夫人は満足そうに頷いた。


「片側では、すぐ足りなくなると思いますけれど、最初はそれでよろしいわ」


 エレノアは3件の内容を書き分けた。


 劇場。銀行。ホテル。


 それぞれ条件が違う。設置場所も違う。だが、すべてモロー電光工房の最初の契約につながる。


 ルイーザは客たちの表情を見ていた。


 男たちはまだ慎重である。だが、もう逃げる顔ではない。妻たちはすでに、自分の場所で電灯が光る姿を想像している。ここまで来れば、話は戻らない。


 直樹は応接室の中央で、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます。3件とも、明日中に見積もりと契約案をお届けします」


 ベルが笑った。


「若いのに、よく働く男だ」


 クララ夫人がすぐに言った。


「若いから働けるのです。あなたも見習ってください」


 応接室に笑いが起きた。


 エインズワースは笑わなかったが、契約書の草案を丁寧に折りたたんで懐へ入れた。ホワイトモアは帰り際に、作業棟の方をもう一度振り返った。マーガレット夫人はルイーザに近づき、小さく言った。


「あなたは、よい場所に来ましたね」


 ルイーザは一瞬だけ目を伏せた。


「はい。そう思っております」


 客たちの馬車が霧の中へ消えるころ、モロー邸の玄関広間には、静かな熱気が残っていた。


 エレノアは紙を胸に抱き、深く息を吐いた。


「3件です。まだ正式契約ではありませんが、断られる話ではありません」


「明日から忙しくなります」


 直樹が言うと、メアリーがすぐに答えた。


「今夜はしっかり召し上がってください。明日はもっと忙しくなります」


 ルイーザは直樹を見た。


「今日は、見事でした」


「あなたが妻たちを呼ばせたおかげです」


「実際にその場所を使う者に見せるのが、一番早いのです」


「覚えておきます」


 直樹はそう言い、ルイーザの手を取った。


 その手は少し熱かった。


 ◇ ◇ ◇


 夜、モロー邸の食堂には、客を帰したあとの静けさがあった。


 メアリーは直樹のために温かい肉料理とスープを出した。エレノアは契約案の紙をまとめ、明日必要な写しの数を数えている。ルイーザは何も言わず、直樹の向かいに座っていた。


 3人とも疲れていた。


 だが、疲れの奥に喜びがあった。電灯は客の前で成功した。劇場、銀行、ホテルへの道が開いた。モロー電光工房は、作業棟の中だけで光るものではなくなり始めている。


 直樹は食事を終えると、椅子から立ち上がった。


 そのままルイーザのそばへ行く。


 ルイーザは見上げた。


「モローさん」


「今夜はあなたの番です」


「はい」


 声は落ち着いていた。だが、扇を持つ指に力が入っている。


 直樹はルイーザの手を取り、立たせた。食堂にメアリーとエレノアがいる。だが、直樹は構わず、ルイーザの腰を抱いた。


 ルイーザも逃げなかった。


 直樹が口づけると、彼女はすぐに受けた。昼間よりも長く、深く、遠慮がない。ルイーザは上品に立っている女ではなく、今夜自分の番を待っていた女の顔になった。


 メアリーは目をそらした。


 エレノアは紙を閉じた。


 ルイーザは直樹の胸に手を置き、息を整えた。


「お部屋へ参りましょう」


 その一言だけでよかった。


 直樹はルイーザを連れて食堂を出た。


 2階の廊下は静かだった。外の霧が窓を白く曇らせている。直樹の寝室には、すでに火が入っていた。ルイーザが夕方のうちに整えさせた部屋である。燭台の位置、椅子の向き、シーツの張り方まで、彼女らしく整っていた。


 だが、部屋へ入ったあと、整っていたものはすぐに乱れた。


 直樹は高揚していた。


 客の前で光を見せ、3組の夫婦を動かした。劇場、銀行、ホテルが目の前に開いた。その熱が、まだ体の中に残っている。ルイーザはそれを受け止めた。むしろ、その熱を待っていた。


 直樹が抱き寄せると、ルイーザは自分から腕を回した。


「今日は、モローさんがロンドンをつかみ始めた日です」


「まだ始まりです」


「始まりだから、よいのです」


 ルイーザはそう言い、直樹へ深く口づけた。


 その夜、直樹は遠慮しなかった。


 ルイーザも、遠慮を求めなかった。上流の家で覚えた言葉も、社交の笑顔も、今夜は役に立たない。彼女は直樹の熱を受け、何度も名を呼んだ。直樹はそのたびに応えた。髪が乱れ、白い肩がシーツの上にこぼれ、ルイーザの声が暖炉の火に混じった。


 長い夜だった。


 エレノアの夜とも、メアリーの夜とも違う。ルイーザは受け身ではなかった。自分が望んでここへ来た女として、直樹を求め、直樹に求められることを喜んだ。直樹もまた、今日の成功で熱くなった体を、彼女へ惜しみなく向けた。


 夜が深くなり、暖炉の火が低くなったころ、ルイーザは直樹の腕の中で目を閉じていた。


 体は疲れきっている。


 だが、意識は妙にはっきりしていた。


 腹の奥に、これまで知らなかった温かさが残っている。疲れや余韻だけではない。もっと深く、静かで、逃げていかないものだった。


 ルイーザは、直樹の胸に頬を寄せた。


「モローさん」


「はい」


「今夜のことを、私は忘れないと思います」


「私もです」


 ルイーザはしばらく黙っていた。


 それから、自分の下腹にそっと手を置いた。


 根拠はない。


 まだ分かるはずもない。


 それでも、彼女の中に、はっきりした感覚があった。今夜、何かが宿った。そう思った瞬間、胸が震えた。


 ルイーザは直樹へ言わなかった。


 言葉にすれば、ただの思い込みになってしまう気がした。だから、今は自分だけのものとして胸にしまった。


 ロンドンの霧の向こうで、町はまだ暗い。


 だが、モロー電光工房の光は、もう最初の客夫婦に見られた。劇場、銀行、ホテルへ向かう道が開き、モロー邸の夜には、ルイーザの胸に新しい予感が残った。


 直樹の光は、ロンドンへ広がり始めていた。


 そしてその夜、ルイーザは、自分の中にも消えない温かさが残ったことを感じていた。

 後編1では、直樹が3組の有力客夫婦をモロー邸へ招き、電灯の実演を成功させる。劇場主、銀行家、ホテル経営者は最初こそ慎重だったが、同伴した妻たちが光の価値を見抜き、それぞれの夫に導入を促す。電灯は劇場の正面と婦人控室、銀行の事務室、ホテルの食堂へ進む道を開いた。夜、成功に高揚した直樹はルイーザを迎え、彼女はその夜、自分の中に新しい命が宿ったような予感を抱く。

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