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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第8話(中編2)「工房に灯る光、滋養の食卓」

 エレノアが最初の夜を越えた翌朝、モロー邸は動き出す。直樹は作業棟で電灯の試作を始め、メアリー、エレノア、ルイーザもそれぞれの役目に入る。支出の見方、食事の段取り、客選びは、まだ最初から整っているわけではない。それでも3人は直樹を支えようと動き、直樹も若い男として、彼女たちを女として意識する。中編2では、モロー電光工房の最初の光が灯り、夜には年齢順で二番目となるメアリーが、直樹の寝室へ入る。

 翌朝、モロー邸の食堂には、早くから湯気とインクの匂いが混じっていた。


 エレノアは少し遅れて食堂へ出てきた。髪はきちんと結い直している。灰色のドレスも乱れていない。だが、階段を降りる足取りには、昨夜までの彼女にはなかったやわらかさがあった。


 直樹が顔を上げると、エレノアは一度だけ目を合わせ、すぐに視線を下げた。


「おはようございます、モローさん」


「おはようございます。無理をしていませんか」


「大丈夫です。少し体が重いだけです」


 言ってから、エレノアは自分の言葉に気づいたように頬を赤くした。


 台所の入口で、メアリーが皿を持ったまま立っていた。彼女は何か言いかけたが、すぐに飲み込み、直樹の前へ朝食を置いた。


「温かいうちに召し上がってください。今日は作業棟で長く立つことになるでしょう」


 卵、厚く切ったベーコン、牛肉と腎臓の煮込み、黒パン、バター、濃い紅茶。朝の食卓にしては量が多い。直樹は皿を見て、少し目を丸くした。


「朝から、ずいぶん多いですね」


「足りなくなるよりはよろしいと思います」


 メアリーは丁寧に答えた。言葉は控えめだったが、皿の量にはまったく遠慮がなかった。


 ルイーザが紅茶を注ぎながら、静かに笑った。


「メアリーは、昨夜からモローさんの食事の量を考えていました。工房を動かす主人が空腹では、屋敷全体が困りますもの」


「その通りです」


 メアリーは直樹に向けて頭を下げた。


「昼は工房、夜は屋敷です。薄い粥だけでは、お体がもちません」


 直樹は苦笑し、素直にフォークを取った。


 エレノアは椅子に座り、机の上に置かれた見積書を引き寄せた。昨夜のことを忘れたわけではない。むしろ、忘れられるはずがなかった。だが、直樹が今日から本格的に工房を動かすなら、自分もぼんやりしてはいられない。


「モローさん、この金属部品の見積もりですが、少し高いように見えます」


 エレノアは紙を指で押さえた。


「そこは削れません。接点が悪いと、光が安定しません。台座も弱いと、何度か使ううちに壊れます」


「紙の上だけでは判断できませんね」


「作業棟で実物を見てください。どこに金をかけるべきか、分かると思います」


「承知しました。今日は工房を見ます」


 エレノアは素直に頷いたが、少し悔しそうでもあった。数字だけなら自分の領分である。だが、電灯の部品となると、まだ直樹の方がよく知っている。そのことを認めるしかなかった。


 食事のあと、ルイーザが直樹の前に立った。


「襟が少し曲がっています」


 ルイーザは直樹の襟元を直し、上着の肩を払った。距離が近い。直樹はその香りに誘われるように、彼女の腰へ手を回した。


 ルイーザは逃げなかった。


 直樹が抱き寄せると、彼女は自分から顔を上げた。口づけは短くはなかった。ルイーザの指が直樹の肩にかかり、整えた顔が少しだけ崩れる。


 エレノアは見積書へ目を落とした。メアリーは皿を下げながら、一度だけ2人を見た。


 ルイーザは直樹の唇から離れると、乱れた襟をもう一度整えた。


「今はここまでです」


「続きは」


 直樹が小さく聞くと、ルイーザは目を伏せて笑った。


「順番があります。今夜はメアリーです」


 その言葉で、食堂の空気が少し変わった。


 メアリーは皿を持つ手に力を入れたが、顔はそらさなかった。エレノアも紙から目を上げた。昨夜を越えた女として、今度はメアリーの番を見届ける側に回っている。


 直樹はメアリーを見た。


 メアリーは頬を赤くしたが、きちんと頭を下げた。


「今夜、私が参ります」


「分かりました」


 直樹は答えた。


 それ以上、誰も言わなかった。言葉を重ねなくても、十分に伝わっていた。今は工房へ行く時間である。


 ◇ ◇ ◇


 作業棟には、朝から職人たちが集まっていた。


 金属工、ガラス工、時計職人、電信に触れたことのある男、見習いの少年、細かい作業を任せる女工たち。まだ誰もモロー電光工房の仕事に慣れていない。台の上には、銅線、ねじ、ガラス片、金具、絶縁に使う材料、番号札が雑然と置かれていた。


 直樹は作業台の前に立った。


「今日から、仕事を分けます。金属工は口金と台座。ガラス工は球と封じ。時計職人は接点とねじ。電信を知る者は配線。女工は細線巻きと検査。少年は番号札と道具運びです。部品を混ぜないこと。寸法をごまかさないこと。分からなければ聞くこと。誰か一人の腕に頼る工房ではなく、同じ品を何度も作れる工房にします」


 職人たちは顔を見合わせた。


 古い親方仕事とは違う。だが、直樹の声には迷いがなかった。作業台の上に置かれた部品を指で示しながら、どこを測るか、どこを削ってはいけないかを一つずつ教えていく。


 エレノアは横で見ていた。


 実物を見ると、朝に自分が削ろうとした金属部品の意味が分かった。細い接点がわずかに歪むだけで、光は安定しない。安い部品を使えば、あとで壊れ、交換と苦情でさらに金が出ていく。


「先ほどの見積もりは、そのまま通します」


 エレノアは静かに言った。


「分かりましたか」


「はい。安く見せかけて、あとで高くつくところでした」


 悔しそうではあったが、言い訳はしなかった。直樹は頷き、次の作業台へ移った。


 そのころ、メアリーは昼食の段取りでつまずいていた。


 工員たちにスープを出すつもりで大鍋を用意したが、人数を見誤った。見習いの少年が予想より多く、パンも器も足りない。台所を手伝う女工が、困った顔でメアリーを見た。


「足りません」


「分かっています。パンを薄く切ってください。肉は小さくして鍋へ戻します。湯を足して、塩を少し強く。少年たちには先にパンを渡してください。大人は少し待ってもらいます」


 メアリーは慌てたが、立ち止まらなかった。声は荒くなりかけたが、直樹の屋敷で働く女として、人前で取り乱すわけにはいかない。手を動かしながら、足りない分をどうにか補っていく。


 直樹が様子を見に来ると、メアリーは申し訳なさそうに頭を下げた。


「申し訳ありません、モローさん。人数を少なく見ていました」


「助かっています。明日から増やせばいい」


「はい。明日は多めに作ります。モローさんの分も、別に取っておきます」


「私の分もですか」


「はい。工房で立ちっぱなしなら、なおさらです」


 そう言って、メアリーは直樹の皿に肉を少し多めに入れた。敬意は崩さない。だが、世話を焼く手つきには、すでに妻のような遠慮のなさがあった。


 ルイーザも順調とは言えなかった。


 彼女は午前のうちに、自分の手帳から劇場主、銀行家、ホテル経営者の名前をいくつも抜き出していた。直樹が試作台を見た時点で首を振る。


「まだ呼ぶには早いです」


「光れば、見せられます」


「見せるなら、最初の相手を絞ります。相手が多すぎると、こちらの値打ちが下がります」


 ルイーザは少し不満そうに扇を閉じた。


「では、誰にも見せませんか」


「見せます。ですが、口の軽い客は避けたい。金を持ち、驚きすぎず、噂をこちらに都合よく流せる相手を選んでください」


 ルイーザは黙った。


 それから、手帳の名前を何人も線で消した。


「劇場から一人、銀行筋から一人、ホテルから一人に絞ります」


「それでお願いします」


「急ぎすぎました」


「急ぐのは悪くありません。見せる順番を間違えなければいい」


 ルイーザは小さく笑った。


「では、順番を整えます」


 そう言って手帳を閉じた。直樹と目が合うと、ルイーザはほんの少しだけ指先を伸ばした。直樹はその手を取ったが、抱き寄せる前に、メアリーが工員へ食器を渡す姿が目に入った。


 今夜はメアリーである。


 直樹はルイーザの手を軽く握るだけにした。


「あとで頼みます」


「はい。今は仕事を進めましょう」


 ルイーザは目だけで笑い、応接室へ戻った。


 ◇ ◇ ◇


 午後、最初の試作電灯が組み上がった。


 ガラス球はまだ不揃いで、金具にも荒さがあった。だが、配線は通り、接点も動いた。直樹は発電機を回す男に合図し、作業棟の窓を少し閉めさせた。


 職人たちが黙った。


 細い光が、ガラスの中に生まれた。


 最初は頼りない線だった。だが、すぐに明るさを増し、そのまま消えずに残った。蝋燭とは違う。ガス灯とも違う。煤の匂いも、炎の揺れもない。作業棟の中に、白い光が静かに広がった。


 見習いの少年が、小さく言った。


「火じゃないのに、明るい」


 誰も笑わなかった。


 ハリントンは、光を見たまま言った。


「これは売れます。ロンドンの夜を変えます」


 ルイーザの目も変わっていた。


「劇場は欲しがります。ホテルも銀行も。貴族の屋敷なら、晩餐の話題になります」


 エレノアはすぐに紙を開いた。


「電球だけを売ってはいけません。設置費、発電機、配線、点検、交換部品、操作係の教育まで含めます。売り切りにすれば、次の収入がありません」


 直樹は頷いた。


「その形でいきます。設置契約を作りましょう」


「はい。今夜、草案を作ります」


 エレノアはそう答えた。だが、すぐに直樹の顔を見て眉を寄せた。


「モローさん、少し顔色が落ちています」


 メアリーも作業棟の入口から光を見ていたが、その言葉に頷いた。


「夕食は早めにお出しします」


「今日は食べています」


「それでも足りません。今夜は長くなりますから」


 メアリーはそこだけ少し声を低くした。


 エレノアは紙へ目を落とし、ルイーザは扇で口元を隠した。直樹は返す言葉を失い、光るガラス球へ視線を戻した。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、食堂には朝よりさらに力のある料理が並んだ。


 牛肉の煮込み、卵、牡蠣、焼いた腎臓、黒パン、バター、濃い紅茶。メアリーは皿を置くたび、直樹の顔色を確かめていた。


「モローさん、まず温かいうちに召し上がってください」


「これは、かなり多いですね」


「今日はよく働かれました。お体を戻していただかないと困ります」


 メアリーは丁寧に言った。だが、皿の量は容赦がない。


 エレノアは食費の欄を見て眉を寄せた。


「食費は予定より増えています」


「申し訳ありません。ですが、ここは削れません」


 メアリーは直樹の前では言葉を整えていたが、譲る気はなかった。


「工房で倒れられては、もっと高くつきます」


 ルイーザが紅茶を注ぎながら言った。


「顔色も大事です。疲れた発明家を投資家の前に出すわけにはいきません」


 エレノアはしばらく黙り、紙に数字を書き直した。余計な項目名はつけなかった。ただ、食費の予定額を少し増やした。


「分かりました。ただし、無駄は見ます」


「お願いします」


 メアリーは素直に頭を下げた。


 食卓の空気は明るかった。だが、嫉妬が消えたわけではない。


 エレノアは昨夜の女として、少し落ち着いた顔をしていた。だが、今夜はメアリーの番である。直樹がメアリーの皿を受け取って礼を言うだけで、エレノアの指が紙の上で止まった。


 メアリーも平気ではなかった。


 直樹がエレノアに「今日は助かりました」と声をかけると、メアリーは皿を置く手に少しだけ力を入れた。音は大きくなかったが、ルイーザは気づいた。


「メアリー、少し力が入りましたね」


「熱い皿でしたので」


 メアリーは澄ました顔で答えた。


 直樹が笑うと、メアリーは少し赤くなり、直樹の皿へ肉を足した。


「笑う前に、召し上がってください」


 ルイーザは2人を見ながら扇を動かしていた。自分の番はメアリーの次である。余裕があるふりをしているが、落ち着いているわけではない。直樹がその顔を見て、食卓の下でルイーザの手に触れた。


 ルイーザは一瞬だけ息を止めたが、手を引かなかった。指を絡め返し、そのまま紅茶を飲んだ。けれど、それ以上は求めなかった。


 今夜はメアリーの番である。


 食事が終わるころ、直樹は椅子に深く座った。


 昼は工房で職人に指示を出し、午後は試作電灯を灯し、夜は3人の女に囲まれている。疲れていないはずがない。だが、空っぽの疲れではなかった。体の芯に熱が残り、目の前には食事と女たちの声がある。


 メアリーは湯を用意して戻ってきた。


「モローさん、湯を用意しました」


「今日は本当に働きました」


「存じています。ですから、湯をお使いください」


 メアリーは直樹の前に立った。


「今夜は私が参ります。疲れたままでは、お体に障ります」


 直樹はメアリーを見上げた。


「よく見ていますね」


「台所を預かる者は、主人の腹と顔色を見ます」


 メアリーはそう言い、直樹へ手を差し出した。


 直樹は立ち上がると、そのままメアリーの腰を抱いた。メアリーは一瞬驚いたが、すぐに受け入れた。直樹が口づけると、彼女は正面から応じた。エレノアの時のような静けさはない。ルイーザのような上品な間合いもない。メアリーは両手で直樹の背をつかみ、少し乱暴なくらいに抱き返した。


 やがて、メアリーは息を整え、直樹から少しだけ離れた。


「湯が冷めます」


「はい」


 直樹が答えると、メアリーは小さく笑った。


「では、参りましょう」


 メアリーは直樹を連れて食堂を出た。


 ◇ ◇ ◇


 2階の廊下は冷えていた。


 メアリーは直樹の少し前を歩いた。いつもなら台所で鍋を動かす時のように、迷わず大股で歩く。だが、この時だけは違った。足は前に出ているのに、肩に力が入っている。


 直樹はその背中を見て、声をかけた。


「怖いですか」


 メアリーは足を止めずに答えた。


「怖くないと言えば、嘘になります」


「無理はしなくていい」


 メアリーは振り返った。


「無理をしているのではありません。自分で行くのです。そこを間違えないでください」


 その言葉に、直樹は黙って頷いた。


 寝室には、すでに火が入っていた。ルイーザが昼のうちに部屋を整え、エレノアが水差しと布を用意していた。メアリーはそれを見て、少し笑った。


「あの2人も、よく見ていますね」


「あなたのために整えたのでしょう」


「分かっています。だから余計に、しっかりしないといけません」


 メアリーは手袋を外し、椅子の背に置いた。荒れた手が見える。水仕事で皮膚が固くなり、ところどころ赤くなっている。直樹はその手を取った。


「この手で、今日一日、屋敷と工房を支えてくれました」


「きれいな手ではありません」


「働く手です」


 メアリーは目を伏せた。


「そう言われると、困ります」


「嫌でしたか」


「嫌ではありません。そんなふうに見られたことが、あまりなかっただけです」


 直樹はその手に口づけた。


 メアリーの肩が震えた。


 広場で縄を巻かれていた時、彼女は人の目にさらされていた。笑われ、値踏みされ、要るか要らないかを言われていた。だが今、自分の手を取る直樹の目は、あの時の人垣とは違っていた。


 メアリーは一歩近づいた。


「私は、エレノアのように静かにできません」


「そのままでいい」


「ルイーザのように上品にもできません」


「それも分かっています」


「では、私は私のままで行きます」


「来てください」


 直樹がそう言うと、メアリーは自分から腕を回した。


 口づけは深くなった。メアリーは最初から逃げなかった。むしろ、昼の間ずっと抑えていたものを返すように、直樹の背を強くつかんだ。直樹もその力を受け止めた。鍋を持ち、薪を運び、階段を上り下りする女の体には、しっかりした熱があった。


 メアリーは息を乱しながらも、笑った。


「若いですね、モローさん」


「隠せません」


「隠さなくて結構です。今夜は、私が受けに来たのですから」


 その言葉で、直樹の目が変わった。


 メアリーは少しだけ息をのんだが、下がらなかった。さっき自分で言った通り、これは連れてこられた夜ではない。自分で来た夜である。かつての夫の怒鳴り声も、酒の臭いも、腰の縄も、ここにはない。


 あるのは、直樹の腕と、暖炉の火と、自分の中に戻ってきた女としての熱だった。


 その夜、メアリーは真正面から直樹を受け止めた。


 エレノアの夜が、長く閉じていた心をほどく夜だったとすれば、メアリーの夜は、縛られていた体を自分のものとして取り戻す夜だった。彼女は何度も直樹の名を呼び、時には笑い、時には声を抑えきれず、最後には直樹の肩へすがった。


 直樹も遠慮しすぎなかった。


 メアリーが望んでいることを、彼は分かっていた。大切にされたい。だが、壊れ物のように扱われたいわけではない。女として強く求められたい。その思いを受け、直樹は若い体の熱を彼女へ向けた。


 夜が深くなるころ、メアリーは直樹の腕の中で息を整えていた。


「大丈夫ですか」


 直樹が聞くと、メアリーは目を閉じたまま答えた。


「大丈夫ではありません」


「すみません」


「謝らないでください。嫌な意味ではありません」


 メアリーは小さく笑った。


「明日の朝、まともに歩けるか分かりません。でも、それでいいです。縄で引かれた女ではなく、自分で来た女として、こうなったのですから」


 直樹は黙って彼女を抱き寄せた。


 メアリーは直樹の胸に頬を寄せた。


「モローさん」


「はい」


「明日からも、朝食はきちんと召し上がってください」


 直樹は思わず笑った。


「この状況でも、食事の話ですか」


「台所を預かった女ですから」


 メアリーはそう言って、少しだけ目を開けた。


「でも、今夜は台所の女だけではありませんでした」


「はい」


「あなたの女でもありました」


「もちろんです」


 その返事を聞くと、メアリーは安心したように目を閉じた。


 ◇ ◇ ◇


 階下では、エレノアが帳面を閉じた。


 もう数字は読めなかった。食堂に残る肉と紅茶の匂い、階段の上へ消えた2人の気配、暖炉の火の音。そのすべてが、昨夜とは違う形で胸に触れてくる。


「胸が痛みますね」


 ルイーザが静かに言った。


 エレノアは苦笑した。


「ええ。けれど、嫌な痛みではありません」


「明日は私です」


「分かっています」


「嫉妬しますか」


「します」


 エレノアは隠さなかった。


「でも、あなたを責めるつもりはありません。私も昨夜、同じ階段を上がりました。メアリーも今夜、自分の足で上がりました。明日は、あなたの番です」


 ルイーザは扇を閉じた。


「待つのは、思ったより落ち着かないものですね」


「ええ。ですが、順番を決めておいてよかった。決めていなければ、今ごろ私たちはもっと嫌な顔をしていたと思います」


 2人はしばらく黙っていた。


 モロー邸の外では、ロンドンの霧が深くなっていた。作業棟には、午後に灯した電灯の余熱がまだ残っている。食堂には、肉と紅茶と女たちの笑いの匂いが残っている。


 直樹は昼に工房で光を作り、夜に屋敷で女たちの熱を受ける。休む暇は少ない。だが、今の直樹にとって、それは苦ではなかった。


 メアリー、エレノア、ルイーザもまた、それぞれに失敗し、嫉妬し、笑いながら、少しずつ直樹を自分たちの男として見始めていた。


 モロー電光工房の最初の光は、まだ作業棟の中だけのものだった。


 だが、その光で金を稼ぐ道は見えた。


 そしてモロー邸の夜は、年齢順に、確かに進み始めていた。

 中編2では、モロー電光工房が初めて電灯の試作に成功する。直樹は職人たちに分業を教え、電灯を単品で売るのではなく、設置、点検、交換部品、操作係の教育まで含めた契約で稼ぐ方針を固める。メアリー、エレノア、ルイーザもそれぞれ失敗しながら、台所、支出管理、社交の役目を覚えていく。夜には、年齢順で二番目となるメアリーが直樹の寝室へ入り、縄で引かれた過去ではなく、自分で選んだ女として直樹に抱かれる。工房の光と屋敷の夜は、どちらも直樹を中心に動き始めた。

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