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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第8話(中編1)「火のそばの三人、最初の夜」

 モロー邸へ入った3人の女は、それぞれ違う役目を持っていた。メアリーは台所と鍵を預かり、エレノアは帳簿と支出を見て、ルイーザは社交と投資家の筋を読む。だが、3人とも直樹の屋敷へ、ただ働くためだけに来たわけではなかった。人は食べ、眠り、湯を浴び、誰かのぬくもりを欲しがる。若い直樹も、3人の女たちも同じである。中編1では、3人が夕食前の台所で本心を出し合い、年齢順に直樹の寝室へ入ることを決める。最初の夜は、34歳のエレノアが引き受ける。

 その日の夕方、モロー邸の台所には、人の暮らす匂いが戻っていた。


 古いかまどに火が入り、黒ずんだ鍋の底を赤い炎が包んでいる。塩漬け肉と玉ねぎを煮る匂いが湯気に混じり、冷えきっていた台所を少しずつ温めていた。外ではロンドンの霧が窓ガラスに貼りつき、馬車の音が濡れた石畳の上で鈍く響いている。


 メアリーは袖を肘までまくり、荒れた手で鍋をかき回していた。


 さっきまで腰に巻かれていた縄の感触が、まだ皮膚の奥に残っている。夫の怒鳴り声。人垣の笑い声。直樹が縄を解き、地面へ落とした時の音。思い出すたびに腹の底が熱くなった。


 だが、今の彼女の手にあるのは縄ではない。


 屋敷の鍵であり、台所の火であり、男と女が同じ食卓につくためのスープだった。


 食堂では、エレノアが帳面を3冊開いていた。


 屋敷の支出。工房の支出。直樹個人の支出。彼女は表紙に日付を書き、現金300ポンドのうち、日々の支払いにいくら置くかを考えていた。長い結婚生活の中で、彼女は夫の借金と帳簿ばかり見てきた。ホイットビーは、彼女の持参金を「夫婦の金」と呼び、失ったあとで「運が悪かった」と言った。


 その声を思い出すと、ペンを握る指に力が入った。


 応接室では、ルイーザが燭台の位置を直していた。


 椅子の向き、カーテンの開き、客が最初に見る場所。そういうものを彼女はよく知っている。父の家で、銀行家、議員、貴族の次男、慈善事業の婦人たちを見て育った。金を出す前に名誉を欲しがる男。扇の動きだけで噂を漏らす女。笑いながら相手の値踏みをする客。ルイーザはそういう場で、長く飾り物として立たされてきた。


 もう飾り物に戻る気はなかった。


 3人は別々の場所で手を動かしていたが、考えていることは同じだった。


 直樹である。


 若い異国人。ロンドンではまだ何者でもない。だが、イタリア王の前で光を灯し、ロンドンへ来るなり屋敷と工房を押さえ、3人の女を同じ日に古い男たちから引き離した。メアリーの縄をほどいた手。エレノアの夫に書面を突きつけた声。ルイーザの夫に約束を飲ませた目。荒っぽくはないのに、欲しいものをはっきり取る強さがあった。


 メアリーは鍋の火を弱め、食堂のエレノアへ目をやった。


「帳面ばかり見ていると、今夜の顔まで帳面みたいになるよ」


 エレノアはペンを止めた。


「今夜の顔とは、どういう意味ですか」


「分からないふりをするんじゃないよ。あんた、賢いんだろう」


 応接室から、ルイーザが扇を閉じる音がした。


「メアリーは、もうそこまで言うつもりなのね」


「言わない方がおかしいだろう。あたしたちは、同じ日にこの家へ入った。台所だの帳面だの応接室だの、役目は違う。でも、本当はみんな分かっている。あの人のそばにいたいんだ」


 メアリーの言葉は乱暴だったが、逃げはなかった。


 エレノアは、左手の結婚指輪を見た。ホイットビーの妻であった名残である。愛情はもうない。夫婦としての温度もない。ただ、指に残った輪だけが、過ぎた時間を示していた。


「私は、まず仕事をしに来ました」


「それだけなら、夫の家に残っていてもよかったはずだよ。商家の帳簿なら、どこにでもある。だけど、あんたはここへ来た。若い男の屋敷へ、夜を越すつもりで来たんだ」


 エレノアは答えなかった。


 その沈黙が、返事になっていた。


 ルイーザが食堂へ入ってきた。淡い青のドレスの裾が床に触れ、布がかすかに鳴った。彼女は入口に立ったまま、2人を見た。


「私も仕事だけなら来ていません。父の家へ戻れば、部屋も食事もあります。湯も暖炉も、召使いもいる。でも、そこへ戻れば、私はまた誰かの娘で、誰かの妻で、誰かの飾りになるだけです。私は、モローさんの横で働きたい。いいえ、働くだけでは足りません」


 メアリーは口元だけで笑った。


「やっと本音が出たね」


 エレノアは帳面を閉じた。紙の間からインクの匂いが上がった。


「では、はっきりさせましょう。私たちは全員、モローさんの妻候補としてここへ入りました。女中でも、事務員でも、客でもありません。寝室のことを曖昧にしておけば、いずれ必ず揉めます」


「揉める前に決めるのかい」


「はい。順番を決めます」


 ルイーザは食堂の椅子に腰を下ろした。


「身分順なら私が先かもしれません。火と鍵ならメアリー。帳簿と金ならエレノア。美しさで決めるなら、話し合いでは済まないわね」


 メアリーが鼻で笑った。


「あんた、自分が勝つと思っている顔だね」


「負けるつもりはありません」


 ルイーザは涼しい顔で答えた。


 エレノアは、2人を見た。


「だから、年齢順にします。私が34歳、メアリーが30歳、ルイーザが28歳。これなら誰の誇りも傷つけません。若さで競えば、私は不利です。身分で競えば、メアリーが傷つきます。働きで競えば、毎日勝ち負けを考えることになります。年齢だけは変えられません」


 メアリーは鍋の蓋を置いた。


「エレノア、あんたが最初に行きたいだけじゃないのかい」


 問いは鋭かった。


 エレノアは目をそらさなかった。


「それもあります」


 台所の火がはぜた。


 メアリーは少し驚いた顔をした。ルイーザも扇を止めた。


「私は34歳です。もう娘ではありません。夫の家で、妻の名だけを持って暮らしてきました。女として見られず、金の帳面だけを見せられ、持参金の残りを気にするだけの日々でした。ですから、最初に行くのは怖い。けれど、行きたいのです。自分で決めた夜を、これ以上先へ延ばしたくありません」


 その声には、かすかな震えがあった。


 メアリーは黙った。自分は殴る男から逃げてきた。だが、エレノアは別の冷たい部屋から出てきたのだ。殴られない代わりに、見られない。触れられない代わりに、少しずつ女であることを乾かされる。そういう苦しさもあるのだと、メアリーは初めて理解した。


 ルイーザも、からかう表情を消した。


「あなたが最初でいいわ。あなたが行けば、この家の夜が荒れずに始まる気がします」


「私も、それでいい」


 メアリーは言った。


「ただし、決めるのは順番だけだよ。あの人が私たちを望まないなんて心配は要らない。20歳の健康な男が、同じ屋敷に入った3人の女から誘われて、何も感じないわけがない。昼から、あの人の目は何度も動いていたよ」


 ルイーザは笑った。


「見ていたのね」


「台所を任される女は、男の皿だけじゃなく、目の動きも見るんだよ」


 メアリーは湯気の向こうで声を落とした。


「問題は、あの人じゃない。私たちの方だ。先に寝室へ入った女は、勝った顔をしない。残った女は、すねて意地悪をしない。あの人を楽しませる前に、女同士で家を嫌な場所にしない。それだけでいい」


 エレノアは頷いた。


「私たちは全員、直樹さんを望んでいます。直樹さんも、私たちを女として見るでしょう。だからこそ、順番を決めるのです」


 ルイーザは扇を膝に置いた。


「私は嫉妬するわ。今夜あなたが2階へ上がれば、落ち着かないと思います。でも、それであなたを責めるつもりはありません」


「私もだよ」


 メアリーは鍋をかき回した。


「明日は自分の番だと分かっていても、今夜あんたが先に抱かれると思えば、胸がざわつく。けれど、我慢大会をする気はない。苦労して前の夫から離れたんだ。若い男の腕の中でまで、女が黙って耐える必要はないよ。楽しむ時は楽しむ。相手も楽しませる。それでいい」


 エレノアは頬を赤くしたが、否定しなかった。


「私も、今夜は帳簿係としてではなく、女として行きます」


 ルイーザは立ち上がった。


「では、食堂を整えます。モローさんに話すなら、夕食のあとがいいわ」


 メアリーは鍋に蓋をした。


「まず食べさせよう。腹を空かせた若い男に寝室の話をしたら、返事の前に目が変わるよ」


 エレノアは閉じた帳面に手を置いた。


「では、夕食のあとで伝えます。今夜は私が参ります、と」


 ◇ ◇ ◇


 夕食は、豪華ではなかった。


 塩漬け肉と玉ねぎのスープ、焼き直したパン、茹でたじゃがいも、濃い紅茶。だが、冷えた屋敷で食べるには十分だった。食堂には暖炉の火が入り、皿の縁に光が揺れている。台所からはメアリーの足音がし、食堂の机にはエレノアの帳面が置かれ、ルイーザは直樹の正面ではなく少し斜めの席に腰を下ろした。


 直樹は食堂へ入ると、3人の変化にすぐ気づいた。


 昼間とは違う。3人とも働く女の顔をしているが、それだけではなかった。メアリーは髪を結い直し、襟元を整えていた。エレノアは灰色のドレスの胸元をきちんと留め、昼よりも唇の色がはっきり見えた。ルイーザは薄い香りをまとい、燭台の光を受ける位置に座っている。


 直樹は一瞬、食事の匂いより先に、3人の女の気配を感じた。


 20歳の体は正直だった。


 ロンドンへ来てから、直樹は屋敷、工房、資金、職人のことばかり考えていた。だが、目の前にいる3人は、ただの協力者ではない。自分の屋敷に入り、自分の食卓に座り、この夜を一緒に越そうとしている女たちだった。


「もう夕食ができたのですか」


 直樹が言うと、メアリーはスープを置きながら答えた。


「この家の最初の夕食です。少しくらいは形をつけないとね」


「ありがとうございます」


 直樹は席についた。


 食事が始まると、屋敷と工房の話が出た。メアリーは朝の湯と洗濯場の不足を言い、エレノアは現金を手元に置く額を提案し、ルイーザは応接室の暗さを指摘した。どれも必要な話だった。人は食べなければ働けない。眠る部屋がなければ疲れが取れない。湯がなければ体も気持ちも荒れる。工房を動かすには、暮らしを整える必要があった。


 食事が半ばを過ぎたころ、エレノアがカップを置いた。


「モローさん。今夜のことを申し上げます」


 直樹は彼女を見た。


「はい」


 エレノアは、メアリーとルイーザへ一度視線を送った。2人は頷いた。


「私たち3人は、あなたの屋敷へ妻候補として入りました。役目はあります。けれど、それだけではありません。私たちは順番に、あなたと同衾します。順番は年齢順です。今夜は私。明日はメアリー。その次がルイーザです」


 食堂の空気が変わった。


 暖炉の火がはぜ、窓の外で馬車が通り過ぎた。直樹は手にしていたパンを皿に戻し、3人を順に見た。


 驚きはした。


 だが、不快ではなかった。


 胸の奥で、男としての喜びがはっきり立ち上がった。若い自分が、3人の女から望まれている。それも、隠れてではなく、食卓で正面から告げられている。直樹はその重さと、嬉しさを同時に受け止めた。


「3人で決めたのですね」


「決めました」


 エレノアが答えた。


 メアリーは、頬を赤くしながらも視線を外さなかった。


「隠れて抜け駆けする方が嫌です。あたしたちは、あなたに抱かれたい。けれど、取り合って家を壊すつもりはありません」


 ルイーザも静かに言った。


「年齢順なら受け入れられます。エレノアが最初なら、私たちも納得できます」


 直樹は息を吐いた。


「正直に言います。嬉しいです。あなたたちに望まれて、男として嬉しくないわけがありません。私も20歳です。仕事だけで体ができているわけではありません。あなたたちを見て、何も感じない男ではありません」


 メアリーは満足そうに口の端を上げた。


「それを聞けて安心したよ。若い男が変に澄ました顔をすると、逆に信用できないからね」


 ルイーザは扇で口元を隠した。


「モローさんは、思ったより正直な方ですね」


「隠しても仕方がありません」


 直樹はエレノアを見た。


「今夜、あなたが来てくれるなら、私は受けます。堅苦しい儀式にするつもりはありません。食事を楽しむように、湯で体を温めるように、眠りで疲れを取るように、互いに楽しめる夜にしたい」


 エレノアの目が揺れた。


「それなら、私も行きやすいです」


 直樹は3人を見た。


「嫉妬はあるでしょう。私も、誰かが悲しい顔をすれば気になります。けれど、隠して腐らせるのはやめましょう。私はこの国で工房を作ります。食卓も寝室も台所も、荒れた場所にしたくありません」


 メアリーが頷いた。


「分かっています。楽しむ時は楽しむ。腹が立つ時は言う。そういう家の方が長持ちします」


 ルイーザも言った。


「私も、嫉妬しないとは言いません。でも、嫉妬のせいで自分の席を失うほど愚かではありません」


 エレノアは、直樹をまっすぐ見た。


「では、今夜、私が参ります。帳簿係ではなく、エレノアとして」


 直樹は頷いた。


「待っています」


 その返事で十分だった。


 食堂の空気は、さっきまでと違っていた。食事の匂い、暖炉の熱、女たちの香り、直樹の若い体の熱。それらが混じり、この古い屋敷に初めて夜の色が差し始めていた。


 ◇ ◇ ◇


 夕食が終わると、屋敷の中の音が変わった。


 メアリーは台所で湯を沸かした。鍋から湯気が立ち、洗面器の縁を曇らせる。彼女は清潔な布を選び、石鹸を小皿に置いた。手つきはいつも通りだったが、胸の奥は落ち着いていなかった。


 明日は自分の番だ。


 そう思うと、腹の底から熱が上がってくる。殴る男の隣で体を固くしていた夜とは違う。自分で歩いていく寝室がある。自分が望み、相手も望む夜がある。怖さはある。だが、それ以上に待ち遠しかった。


 ルイーザは2階へ上がり、直樹の寝室を整えた。


 窓のカーテンを引き、燭台を2つ置き、暖炉に薪を足す。ベッドの毛布を広げ、椅子を少し離れたところへ置いた。女が緊張した時、腰を下ろせる場所が必要だった。男が急ぎすぎた時、女が笑って待たせる余地も必要だった。ルイーザはそういう細かいことを知っている。


 最後に、枕元へ水だけを入れた花瓶を置いた。花はない。ガラスの器が、燭の光を受けて淡く揺れた。


 廊下でエレノアと会うと、ルイーザは足を止めた。


「部屋は整えました」


「ありがとう」


「怖い?」


「怖いわ。でも、それだけではありません」


「楽しみでもある?」


 エレノアは少し迷い、それから頷いた。


「ええ。楽しみでもあります」


 ルイーザは安心したように笑った。


「それでいいわ。怖いだけの顔で行かれると、こちらまで息が詰まります。きちんと行って、きちんと楽しんできてください。戻る時は、少し乱れているくらいでいいわ」


 エレノアは思わず笑った。肩の力が抜けた。


 自分の部屋へ戻ると、彼女はランプを机に置いた。鞄を開け、結婚指輪に触れる。指から抜こうとすると、少し引っかかった。長くはめていたせいで、皮膚に跡が残っている。彼女は息を吐き、もう一度力を入れた。


 指輪は抜けた。


 その小さな金の輪を見た瞬間、胸の奥に空洞ができた。悲しいのではない。軽くなったのでもない。ただ、長い間そこにあったものが外れたことで、自分の手が急に裸になった気がした。


 エレノアは指輪をハンカチに包み、鞄の底へしまった。


 それから髪をほどいた。櫛を通すたび、結い上げていた昼の自分がほどけていく。灰色のドレスを脱ぎ、白い夜着に袖を通す。胸元の紐を結びながら、鏡の中の自分を見た。


 34歳。


 若い娘ではない。だが、終わった女でもない。


 鏡の中の顔は緊張していた。けれど、目の奥には熱があった。エレノアは燭台を持ち、廊下へ出た。


 モロー邸の廊下は冷えていた。床板が足の下で鳴る。階下ではメアリーが戸締まりをしている音がし、どこかでルイーザが扉を閉めた。2人とも起きている。自分がどの扉の前に立つかを、知っている。


 エレノアは直樹の寝室の前で一度だけ立ち止まった。


 そして、扉を叩いた。


「どうぞ」


 中から直樹の声がした。


 ◇ ◇ ◇


 直樹は寝室で待っていた。


 上着は脱いでいた。シャツの袖口をまくり、暖炉の前で薪を足している。部屋には石炭の匂いと、洗いたてのシーツの乾いた匂いが混じっていた。机の上には書類が残っていたが、エレノアが入ると、直樹はすぐにそれを伏せた。


 仕事の夜ではない。


 その切り替えを、彼も分かっていた。


「寒くありませんか」


 直樹が聞いた。


 エレノアは笑った。


「寒いです。でも、今夜は寒さより、別のものの方が強いです」


 直樹は、はっきり男の顔で応じた。


「私もです」


 その返事に、エレノアの胸が跳ねた。


 直樹は彼女の前へ来た。まず左手を見た。


「指輪を外したのですね」


「はい」


「痛みましたか」


「少しだけ。でも、外す時に痛むくらいでちょうどよかったのかもしれません。何の痛みもなく終わる結婚なら、最初から何もなかったことになってしまいますから」


 直樹は、その言葉を黙って受けた。


 エレノアは一歩近づいた。


「今夜だけは、帳簿の女として扱わないでください」


「分かっています」


「ホイットビー夫人でもなく、事務を任せる相談役でもなく」


 彼女はそこで息を吸った。


「エレノアとして見てください」


 直樹は彼女の名を呼んだ。


「エレノア」


 その声だけで、彼女の胸の奥にあった硬いものが崩れた。直樹が頬に触れる。指先は温かかった。エレノアは目を閉じた。最初の口づけは確かめるように始まった。だが、すぐにそれだけでは足りなくなった。


 エレノアは、思っていたより強く直樹のシャツを握った。


 直樹もそれを受け、彼女を抱き寄せた。若い男の腕は温かく、力があった。エレノアは、その力に包まれた瞬間、自分がここへ来た理由を体で理解した。慰められたいだけではない。守られたいだけでもない。自分もこの男に触れ、楽しみ、楽しませたいのだ。


 直樹が唇を離すと、エレノアは言った。


「もう一度」


 直樹は何も言わず、もう一度口づけた。


 今度は長かった。エレノアの息が乱れ、直樹の手が背中に回る。夜着の紐に触れたところで、彼は彼女の顔を見た。


 エレノアは先に言った。


「ほどいてください」


 声は震えていたが、迷いはなかった。


 紐がほどけ、夜着が肩から落ちた。冷たい空気が肌に触れ、エレノアは息を吸った。直樹は毛布を取ろうとしたが、彼女はその手を止めた。


「今は、隠さないでください」


 直樹の視線が彼女を受け止めた。


 肌だけを見ているのではなかった。顔を見て、肩を見て、また目に戻ってくる。そのたび、エレノアは恥ずかしさと嬉しさで胸がつまった。


「そんなふうに見られると、泣きそうになります」


「嫌ですか」


「嫌ではありません。だから困るのです」


 直樹は笑い、彼女を抱いた。


 肌が触れた瞬間、エレノアの体から力が抜けた。冷えた部屋の中で、直樹の体温だけがはっきりしていた。彼の手は背中、肩、髪へと移り、彼女の緊張をほどいていく。だが、ただ慎重なだけではなかった。若い男らしい熱もあり、エレノアはその熱に触れるたび、自分の中の眠っていたものが起きるのを感じた。


「あなたは、思ったより欲張りですね」


「我慢していたつもりです」


「我慢しすぎると、女は不安になります」


「では、もう少し正直にします」


「その方がいいです」


 エレノアはそう言って、自分から直樹の首に腕を回した。


 ベッドへ移ると、シーツはまだ冷たかった。だが、2人が入ると、その冷たさはすぐに消えた。エレノアは最初、長い習慣で体を固くした。夫婦であったはずの時間が、かえって彼女の体を不器用にしていた。直樹はそれに気づいたが、そこで止まりすぎなかった。止まりすぎれば、彼女の方が考え込んでしまう。彼は抱きしめ、口づけ、時に笑わせながら、夜の中へ連れていった。


「怖いですか」


「怖いわ。でも、怖いまま楽しみたいのです。怖くなくなるまで待っていたら、私はまた帳面の後ろへ隠れてしまいます」


「では、隠れないでください」


「あなたも、遠慮しすぎないでください」


 直樹は笑った。


「分かりました」


 そこから先、言葉は減った。


 直樹の唇が髪に触れ、額に触れ、頬から首筋へ移る。エレノアの呼吸が乱れる。彼女は声を抑えようとしたが、直樹の手が背中を引き寄せるたび、息がこぼれた。直樹はその声を嫌がらなかった。むしろ、その声に応えるように、口づけを深くした。


 エレノアの手が直樹のシャツを探り、自分から布を押し上げた。


「私だけでは嫌です」


 直樹はすぐにシャツを脱いだ。肌が触れ合うと、エレノアは息をのんだ。男の体の温かさと重みが近くにある。そのことが怖く、同時に嬉しかった。


 若い体の熱は隠しようがなかった。エレノアは、その熱を受け止めながら、自分もまた直樹の背に指を這わせた。楽しませてもらうだけではない。自分もこの男を楽しませたい。そう思うと、恥ずかしさより先に、胸の奥が甘く熱くなった。


「ナオキ」


 初めて、彼女はそう呼んだ。


 直樹は動きを止めた。


「今、何と」


「ナオキ。今夜は、そう呼ばせてください」


「今夜だけでなくてもいい」


 その返事で、エレノアの目に涙が浮かんだ。


「では、ナオキ」


 彼女はもう一度呼び、直樹を抱き寄せた。


 2人が結ばれた時、エレノアは声を殺しきれず、息を震わせた。痛みはあった。だが、それ以上に、長く閉じていた体の奥へ温かいものが戻ってくる感覚があった。彼女は直樹の背中に腕を回し、逃げずに受け止めた。


 暖炉の火が低く燃え、窓の外では霧が濃くなっていた。馬車の音も遠くなり、屋敷は静かだった。その静けさの中で、エレノアは何度も直樹の名を呼んだ。途切れながら、確かめるように。


 直樹はそのたびに、彼女の髪や頬に口づけた。


 夜が深くなるころ、2人は同じシーツの中で横になっていた。エレノアの髪はほどけ、枕の上に広がっている。体は疲れていたが、心は妙に明るかった。シーツはもう冷たくない。暖炉の火は弱くなっているのに、彼女の肌にはまだ熱が残っていた。


「私は、女だったのですね」


 エレノアがぽつりと言った。


 直樹は彼女の髪を撫でた。


「今さらですか」


「今さらです。妻だったのに、長い間、それを忘れていました。夫の帳簿を見て、借金を数えて、失った金を数えて、自分が何者なのか分からなくなっていたのです」


「今は分かりますか」


「少しだけ」


 エレノアは直樹の胸に指を置いた。


「私は、あなたの帳簿を見る女です。工房の支出を止める女です。けれど、それだけではありません。今夜から、私はあなたの女です」


 直樹は静かに答えた。


「はい」


「メアリーとルイーザにも、同じ席を渡します。嫉妬はします。でも、私は最初に来た女として、2人を押しのけることはしません」


「私も、3人を比べて傷つけるようなことはしたくありません」


 エレノアは少し笑った。


「比べること自体は、するでしょう。料理も寝台も女も、違いはあります。ただ、それを愚かに口にしなければいいのです」


 直樹は苦笑した。


「肝に銘じます」


「それから、明日あなたが無駄な支払いをしようとしたら、私は止めます。今夜のことがあっても、帳簿では甘くしません」


「それでこそ、エレノアです」


「ええ。けれど、今夜はもう少しだけ、帳簿係ではなくしておいてください」


 直樹は彼女を抱き寄せた。


 エレノアは目を閉じた。指輪を外した左手が、直樹の背中に回る。そこにもう古い夫の名はなかった。ホイットビー夫人という名は書類の上に残るとしても、今夜の彼女はその名の中にはいなかった。


 彼女は、モロー邸で最初に直樹の寝室へ入った女になった。


 ◇ ◇ ◇


 階下では、メアリーが台所の火を落としていた。


 湯の残りを捨て、鍋を伏せ、戸締まりを確かめる。2階から声はほとんど聞こえない。それでも、屋敷の空気で分かった。今夜、この家の何かが変わったのだ。


 メアリーは、かまどの前で立ち止まった。


「明日は、あたしか」


 口に出すと、胸が熱くなった。


 怖い。だが、嫌ではない。夫に引きずられるのではなく、自分の足で階段を上がる。縄ではなく、自分の意志で男の寝室へ行く。しかも、相手は自分を縄から解いた若い男である。そう思うだけで、メアリーの中に長く眠っていたものが目を覚まし始めていた。


 応接室では、ルイーザが1人で椅子に座っていた。


 手帳を開いてはいるが、何も書いていない。ペン先は乾き、インクの黒い点だけが紙に残っている。彼女は2階の方を見上げ、かすかに笑った。


「エレノア、今ごろ泣いているかしら。それとも、笑っているかしら」


 どちらでもいいと思った。


 ただの帳簿係として2階へ上がった女が、女として戻ってくるなら、それはルイーザにとっても悪い知らせではない。自分の番はメアリーの次である。待たされる時間が、少し悔しく、少し甘かった。


 モロー邸の外では、ロンドンの霧が深くなっていた。


 作業棟にはまだ作業台もない。工房の看板もない。職人も集まっていない。だが、屋敷の中では、すでに別の仕事が始まっていた。


 台所の火を守るメアリー。


 金を守るエレノア。


 社交の扉を開くルイーザ。


 そして、その3人が同じ男のそばに立つための、最初の夜。


 直樹も3人の女も、当たり前の欲を隠して生きるつもりはなかった。楽しむ時は楽しむ。相手も楽しませる。嫉妬すれば言葉にし、仕事は仕事として守る。


 モロー電光工房のロンドンでの足場は、機械の音より先に、食卓の温かさと、台所の湯気と、2階の寝室のぬくもりから固まり始めていた。

 中編1では、モロー邸へ入った3人の妻候補が、自分たちの役目だけでなく、直樹のそばに立つ女としての立場を話し合う。3人は直樹を望むことを隠さず、直樹もまた20歳の若い男として、3人に望まれることを素直に喜ぶ。順番は年齢順となり、最初は34歳のエレノアが引き受ける。彼女は古い結婚指輪を外し、帳簿係でもホイットビー夫人でもなく、ひとりの女として直樹の寝室へ入る。メアリーとルイーザも、その夜を意識しながら、自分たちの番を待ち始める。

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