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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第8話(前編2)――「三人の妻候補、モロー邸に入る」

 ロンドンで屋敷と工房を押さえた直樹に、ハリントンはもう1つの問題を示す。屋敷を動かすだけなら、家政婦や女中を雇えば済む。だが直樹には、台所と鍵を任せられる女、帳簿と支出を見られる女、社交界と投資家を見分けられる女が必要だった。イングランドには、夫婦関係が壊れていても簡単に別れられない現実がある。直樹は、貧民街、商家、上流に近い家から、それぞれ事情を抱えた3人の女性を妻候補として迎え入れる。

 その日の夕方、ハリントンは屋敷の応接室で、少し言いにくそうに話を切り出した。


「モロー氏。屋敷を動かすだけなら、家政婦、料理女、女中を口入れ屋から入れれば済みます。ですが、あなたの場合、それだけでは足りないように思います」


 直樹は書斎机の上に広げたロンドンの地図から顔を上げた。


「どういう意味ですか」


「あなたは工房を作り、職人を雇い、英国の商人や役人とも話をしなければならない。屋敷の中を整える女だけでなく、帳簿を読み、人を見分け、客を迎え、時にはあなたに意見を言える女が必要です」


「それは家政婦ではないですね」


「はい。家政婦ではありません」


 ハリントンは少し間を置いた。


「この国では、夫婦が壊れていても、簡単には別れられません。金持ちは弁護士を使い、別居契約を結びます。貧しい者は、市場や酒場で妻を売るという粗野な慣習に頼ることがあります。もちろん、法律上の制度ではありません。まともな者は眉をひそめます。けれど、夫も妻も別れたがっている場合、その場の人々に向かって、夫が妻への権利を放棄する儀式として使われることがあります」


 直樹は黙って聞いていた。


「女を物として売る話に見えますね」


「見えます。実際、ひどい話もあります。ですが、全部がそうではありません。暴力を振るう夫から逃げたい女もいれば、愛情のない結婚を終わらせたい夫婦もいます。貧民街だけではなく、表向きは上品な家にも、夫婦としてはもう終わっている者たちがいるのです」


「そういう女性を、私に紹介できるのですか」


「できます。ただし、ただの女中としてではありません。あなたが望むなら、屋敷に迎え入れる女性としてです。正式な英国法上の妻ではありませんが、ロンドンでのあなたの暮らしを支える現地の伴侶、あるいは妻候補として扱うことはできます」


 直樹は窓の外を見た。


 霧の向こうに、煙突がいくつも立っている。ナポリとは違う黒い町だった。この町で工房を作るには、機械と金だけでは足りない。人を見る目、台所を握る手、客を迎える作法、帳簿と契約に強い頭が必要だった。


「3人、探してください」


 ハリントンは目を上げた。


「家政婦を3人、ではありませんね」


「違います。妻候補として3人です。ただし、無理に寝室へ入れるつもりはありません。私が女を買うわけではない。夫と縁を切りたい女、こちらへ来る意思のある女、屋敷と工房の役に立つ女を迎えます。互いにその気になれば男女として近づくこともあるでしょう。ですが、それは本人の意思です」


「若いあなたが、いきなり3人ですか」


「若いからです。正式な妻を1人決めるには早すぎる。私はこの国に来たばかりです。けれど、1人で屋敷も工房も社交も動かすのは無理です。ならば、最初から力のある女を迎えます」


 ハリントンは、しばらく直樹を見ていた。


「分かりました。階層の違う3人を当たりましょう。貧しいが家を動かせる女。一般の商家出で帳簿と交渉に強い女。上流に近く、社交界と資金筋を知る女。この3人なら、あなたの役に立つはずです」


「お願いします」


「ただし、すべて本人の同意を確認します。夫側にも、今後その女性へ権利を主張しないことを証人の前で言わせます。金は払いますが、あなたが買うのは女の体ではありません。古い夫婦関係を切るための手切れです」


「それでいいです」


 翌日、直樹とハリントンは、まずサザークの外れへ向かった。


 そこはチャリング・クロス周辺より空気が重かった。工場の煙、湿った煉瓦、川の匂い、古い酒場の臭いが混じっている。路地には靴底の抜けた少年が立ち、女たちは水桶を抱え、男たちは朝から声を荒げていた。


 小さな広場に、人だかりができていた。


 真ん中に、女が1人立っている。年は30歳前後。粗末な外套を着て、髪を布でまとめていた。腰には細い縄が巻かれている。その縄を握っているのは、赤い顔をした男だった。酔っている。


「こいつを引き取る奴はいないか。口は立つし、飯も作る。洗濯もできる。だが、俺にはもう要らん」


 周囲の男たちが笑った。


 女は笑わなかった。


 直樹はハリントンに聞いた。


「あの女性は?」


「メアリー・オルーク。30歳。アイルランド生まれです。夫は日雇いで、酒に弱い。近所の話では、家を支えていたのは彼女の方です。台所、洗濯、掃除、人の使い方は分かっているはずです」


「本人は出たいのですか」


「出たいでしょう。ただ、行く先がありません」


 直樹は人垣を割って前へ出た。


 広場の空気が変わった。黒い外套を着た異国人が、ハリントンを連れて出てきたからである。酔った夫は最初、からかうように笑った。


「何だ、東洋の紳士様か。こいつを買うのか」


 直樹は夫を見ず、メアリーを見た。


「あなたは、この男と別れたいのですか」


 ハリントンが英語で訳した。


 メアリーは直樹を見た。目の下には疲れがあったが、目そのものは死んでいない。


「別れたい。けれど、出て行く場所がない」


「私の屋敷へ来る気はありますか。女中ではありません。屋敷を動かす女として迎えます。最初は家政婦頭の役を頼みます。賃金も出します。部屋と食事も用意します」


 ハリントンが訳すと、周囲がざわついた。


 メアリーは警戒した。


「あなたの妻になるのか」


「いきなり妻にはしません。私はこの国に来たばかりです。ただ、あなたをただの使用人としても扱いません。私の屋敷で暮らし、家を任せます。互いに望めば、男女として近づくことはあるでしょう。望まなければ、それはありません」


 メアリーは黙った。


 粗末な外套の袖口から、荒れた手が見えた。水仕事で皮膚が割れている。だが、背筋は曲がっていなかった。


「殴られないか」


「殴りません」


「酒を飲んで怒鳴る男は嫌です」


「私は酒で人を殴る趣味はありません」


 メアリーは夫を見た。


 夫は金の話を待っている顔だった。


「なら、行きます」


 夫が怒鳴った。


「金はどうした。こいつを連れていくなら金だ」


 ハリントンが小声で言った。


「この場なら1ポンドで十分です」


 直樹は1ポンド金貨を出した。


 夫の目が変わった。


「これは、メアリーへの夫としての権利を放棄するための金です。今後、彼女の賃金、荷物、身体、住まいに口を出さない。そう人前で言うなら渡します」


 ハリントンが訳すと、男は周囲を見た。


 人々が見ている。金貨も見ている。


 男は唾を飲み込んだ。


「いい。メアリーはもう俺の女じゃない。好きにしろ」


「名前を言ってください」


「メアリー・オルークは、もう俺の女じゃない」


 直樹は金貨を渡した。


 そして、メアリーの腰に巻かれた縄を解いた。縄は湿っていて、手触りが悪かった。


「これは要りません」


 直樹は縄を地面へ落とした。


 笑っていた者たちが黙った。


 メアリーは落ちた縄を見たあと、直樹へ静かに頭を下げた。


「台所も洗濯も掃除もできます。人を使うこともできます」


「期待しています。まず屋敷へ行って、体を休めてください。あなたには、この家の火と鍵を任せます」


 メアリーの目が少しだけ変わった。


 女中として拾われたのではない。


 火と鍵を任される。


 その意味を、彼女はすぐに理解した。


 2人目は、シティに近い商家の応接室で会った。


 女の名はエレノア・ホイットビー。34歳。父は金物商で、彼女自身も若い頃から帳簿と仕入れを見ていた。夫は綿布商だったが、投機で失敗し、妻の持参金まで食いつぶした。夫婦の間にはもう愛情はなく、互いに別れたがっていた。ただし、まともな離婚には金も時間もかかりすぎる。


 エレノアは、貧民街の女とは違っていた。


 灰色のドレスは古びているが、布は悪くない。髪はきちんとまとめられ、背筋も伸びている。目つきは静かで、机の上の書類を読む目だった。


 夫のホイットビーは、やせた男だった。愛想はあるが、目は落ち着かない。金に困っているのがすぐ分かった。


 ハリントンが事情を説明すると、エレノアは直樹へ向き直った。


「モロー氏。私を女中としてお使いになるのですか」


「いいえ。あなたには、帳簿、仕入れ、職人の支払い、工房の支出を見ていただきたい。必要なら、私の相談役にもなってもらいます」


「相談役?」


「私はロンドンの商慣習を知りません。誰が信用できるか、どの店が品を混ぜるか、どの職人が口だけか。そういうことを見られる人が必要です」


 エレノアは直樹をしばらく見た。


「では、私はあなたの愛人になるのですか」


 言い方は冷静だった。


 直樹も逃げなかった。


「最初からそう決めるつもりはありません。ですが、あなたをただの事務員として迎える気もありません。屋敷で暮らし、工房を支え、互いに望めば、男女として近づくこともある。そういう立場です」


「妻候補、ということですか」


「はい。正式な妻を今すぐ決めるには、私は若すぎます。けれど、ロンドンで私の横に立つ女性は必要です」


 エレノアは小さく息を吐いた。


「正直な方ですね」


「曖昧にすると、後で揉めます」


「その点は同感です」


 夫のホイットビーが口を挟んだ。


「モロー氏。話は分かりましたが、こちらにも生活があります。私としては、妻を手放す以上、相応の金が必要です」


 エレノアの目が冷えた。


「あなたは、もう私の父の金を使い切りました」


「それは夫婦の金だ」


「違います。あなたが失った金です」


 直樹は2人のやり取りを見ていた。


 これは貧民街の妻売りとは違う。互いに別れたがっているが、夫は最後に金を欲しがり、妻は自分の能力を使える場所を欲しがっている。


 直樹はハリントンへ言った。


「書面を作ってください。ホイットビー氏は、エレノア夫人への夫としての請求、住居への立ち入り、賃金や財産への請求を放棄する。今後、彼女はモロー邸に入り、工房の帳簿と相談役を務める。対価は10ポンド」


 ホイットビーの顔が明るくなった。


 エレノアは直樹を見た。


「10ポンドは払いすぎです」


「口止め料も含みます。安く済ませて、あとで屋敷へ来られる方が迷惑です」


「なるほど」


 エレノアは、初めて少し笑った。


「あなたは若いのに、損の種類が分かっているのですね」


「金で消せる面倒なら、最初に消します」


 書面が作られた。


 ホイットビーは金を受け取り、エレノアは自分の小さな鞄だけを持った。別れ際、夫婦は握手もしなかった。


 エレノアは馬車に乗る前、直樹へ言った。


「私は料理も洗濯も得意ではありません」


「あなたに頼む気はありません」


「では、何から始めればよろしいですか」


「明日から、私の3200ポンドの使い道を一緒に見てください。工房、職人、材料、屋敷の支出。無駄があれば止めてください」


「承知しました」


 3人目は、夕方、ケンジントンに近い家で会った。


 ルイーザ・アシュフォード。28歳。裕福な銀行家の娘として育ち、地方貴族の次男と結婚していた。だが、夫はロンドンで遊び歩き、妻を飾り物として扱った。ルイーザ自身は、音楽、フランス語、社交、慈善事業の帳簿、株式の基礎を知っていた。父の家で来客を迎え、男たちの投資話も聞いて育った女である。


 彼女は貧しくなかった。


 むしろ、今の直樹よりロンドンの上品な家をよく知っていた。


 夫のアシュフォードは、整った顔の男だった。だが、目に誠実さがなかった。妻への愛情もない。ただ、妻の実家との関係と、体面だけを気にしている。


 ルイーザは淡い青のドレスを着ていた。宝石は控えめだが、姿勢、言葉、指先の動きまで教育が行き届いている。


 彼女は直樹を見て、最初に言った。


「モロー氏。私は貧しい女ではありません。ですから、生活のためだけにあなたの屋敷へ行くわけではありません」


「では、何を望みますか」


「退屈で、侮られる妻の席から出たいのです。夫は私を必要としていません。私も夫を必要としていません。けれど、社交の場では夫婦として並ばなければならない。それが嫌になりました」


 アシュフォードは不快そうに顔を動かした。


「ルイーザ、言葉を選べ」


「今さら選ぶ言葉などありません」


 ルイーザは夫を見ずに続けた。


「あなたは、イタリア王に白熱灯を見せた方だと聞きました。英国でも工房を作るそうですね」


「はい」


「なら、私にも役目があります。あなたはロンドンの職人や工場主とは話せるでしょう。けれど、貴族、銀行家、投資家の妻たち、慈善団体の婦人たち、劇場の後援者たちとは、まだ話せないはずです。そこへ入るには、案内役が要ります」


「あなたが、それをできるのですか」


「できます。少なくとも、あなたがだまされて笑いものにされる前に、誰が危険かを教えることはできます」


 直樹はルイーザを見た。


 家政婦でも帳簿係でもない。社交の女である。だが、ただ飾るだけの女ではない。上の階層の空気を読み、誰が金を持ち、誰が名誉を欲し、誰が新しい発明に飛びつくかを見分けられる。


「私の屋敷へ来れば、あなたは噂になります」


「今でも十分噂です」


「私は若い異国人です」


「だから面白いのです」


 ルイーザは静かに笑った。


「ただし、私はあなたに買われるつもりはありません。夫との縁を切るための形は必要でしょう。けれど、私はあなたの所有物にはなりません」


「もちろんです」


「では、私の条件を申し上げます。私には自分の部屋と、小さな応接室が必要です。あなたの客を迎える時、私が使います。私の父の家との連絡も続けます。あなたの工房に投資家を呼ぶなら、相手を選ばせてください」


「受けます」


 アシュフォードが口を開いた。


「私はどうなる」


 ルイーザは冷たく言った。


「あなたには、自由が戻ります。あなたが欲しがっていた自由です」


 アシュフォードは直樹を見た。


「この話を公にする気はない。だが、私にも体面がある」


 ハリントンが低く言った。


「体面には金がかかります」


 直樹は短く聞いた。


「いくらですか」


 アシュフォードは少し迷い、答えた。


「50ポンド」


 エレノアなら高すぎると言っただろう。だが、ルイーザは止めなかった。これは女の値段ではない。上流の男に黙らせるための金、スキャンダルを小さくするための金、今後の面倒を消すための金だった。


 直樹は言った。


「払います。その代わり、書面を作ります。あなたはルイーザ夫人の住まい、交友、財産、行動に口を出さない。モロー邸への出入りも、本人の許可がない限り認めない。彼女を侮辱する噂を流せば、この書面を持ってあなたの家と銀行筋へ話をします」


 アシュフォードの顔がこわばった。


「脅すのか」


「約束を守るなら、何も起きません」


 ルイーザは直樹を見た。


「思ったより、穏やかではない方ですね」


「穏やかにしているだけです」


「よろしいと思います」


 書面が整えられた。


 アシュフォードは50ポンドを受け取り、ルイーザは自分の宝石箱と数冊の手帳を持って出た。荷物は少ない。だが、彼女が持ち出した手帳の価値は、下手な宝石より高いかもしれなかった。そこには、家名、招待日、寄付金、劇場の後援者、銀行家の妻たちの名前が書かれている。


 夕方、3人の女は直樹の屋敷へ入った。


 玄関広間には、まだ十分な家具がなかった。暖炉には火が入ったばかりで、部屋の隅には冷気が残っている。台所も掃除が必要で、作業棟にはまだ作業台も並んでいない。


 だが、その日から屋敷の中の空気は変わった。


 メアリーは台所へ行き、かまどと食料庫を確かめた。


「まず火と湯です。人が増えるなら、朝の湯を切らしてはいけません。洗濯場も見ます」


 エレノアは食堂の机を借り、紙とペンを置いた。


「屋敷の支出、工房の支出、個人の支出を分けます。混ぜると、あとで必ず分からなくなります。モローさん、現金300ポンドのうち、日々の支払いに使う額を決めてください。大口は信用状と手形から出します」


 ルイーザは応接室に立ち、窓の位置と客の動線を見た。


「この部屋は暗すぎます。投資家を迎えるなら、昼の光が入る部屋を使った方がいいわ。あなたの発明は光でしょう。暗い部屋で金の話をすると、相手は不安になります」


 直樹は3人を見た。


 貧しいアイルランド女。


 商家出の帳簿に強い女。


 上流の空気を知る富裕層の女。


 誰も、ただの使用人ではなかった。


 ハリントンは直樹の横に立ち、低く言った。


「モロー氏。あなたは本当に、女中を雇ったのではありませんね」


「はい」


「では、何を迎えたのですか」


「この町で生きるための3つの目と、3つの手です」


 ハリントンは、少しだけ笑った。


「そして、3人の妻候補ですか」


 直樹は否定しなかった。


「今すぐ正式な妻を決める気はありません。ですが、この国にいる間、私のそばに立つ女性たちです。現地妻と言われるなら、それでも構いません。ただし、本人たちが望む限りです」


 その言葉は、3人にも聞こえていた。


 メアリーは台所の入口で腕を組んだ。


「私は、まずこの家を人が住める家にします。その先のことは、それからです」


 エレノアは帳簿から目を上げた。


「私は、あなたのお金が無駄に消えないようにします。男女の話は、帳簿が整ってから考えます」


 ルイーザは扇を閉じ、静かに言った。


「私は、あなたがロンドンで笑われないようにします。あなたが本当に面白い男かどうかは、そのあと見ます」


 直樹は思わず笑った。


「分かりました。順番に頼みます」


 その夜、モロー邸に初めて、きちんとした火が入った。


 メアリーの指示で台所が動き、湯が沸き、薄いスープとパンが用意された。エレノアは支出用の帳面を3冊に分け、最初のページに日付を書いた。ルイーザは応接室の椅子を動かし、明日来るかもしれない客を迎える形に直した。


 直樹は書斎に入り、革鞄を机の上に置いた。


 現金300ポンド。信用状と為替手形2900ポンド。残りの宝石と貴金属。医薬品。携帯品。カルロッタの声を刻んだ円筒。


 そして今日、ロンドンで得たもの。


 屋敷を動かすメアリー。


 工房の金を守るエレノア。


 社交と投資家を見分けるルイーザ。


 直樹は窓の外を見た。


 霧の向こうで、工場の煙突が黒く立っている。


 この国で、直樹はまだ若い異国人にすぎない。だが、もう1人ではなかった。屋敷には火が入り、台所には人が立ち、帳簿には最初の数字が置かれ、応接室には客を迎える形ができた。


 モロー電光工房のイングランド支部は、まだ看板もない。


 しかし、その夜、ロンドンの古い屋敷の中で、直樹を支える3人の女が、それぞれの場所に立ち始めていた。

 前編2では、直樹がロンドンで3人の妻候補を迎える。アイルランド生まれのメアリーは、台所と鍵を預かり、屋敷を動かす女となる。商家出のエレノアは、帳簿、仕入れ、支払いを見て、直樹の3200ポンドが無駄に消えないよう支える。銀行家の娘で上流の空気を知るルイーザは、社交界、投資家、慈善団体の婦人たちへ通じる案内役となる。直樹は女中を雇ったのではない。ロンドンで生きるための3つの目と3つの手を、モロー邸へ迎えたのである。

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