第8話(前編1)――「ロンドンの霧、3200ポンド」
1872年5月13日月曜日、直樹はロンドン・チャリング・クロス駅に到着する。ナポリ王宮で白熱灯を献上し、モロー電光工房の技術をイタリア王に認められた直樹は、英国側の招きに応じてイングランドへ渡った。手元には現金300ポンド、信用状と為替手形2900ポンド、そしてまだ換金していない貴金属、宝石、医薬品、携帯品が残っている。カルロッタの声を刻んだ蓄音機の円筒も、革鞄の奥に入っていた。前編1では、直樹がロンドンの黒い空気を吸い、屋敷と工房を押さえ、工員を育てる方針を決める。
(1872年5月13日月曜日午前10時、ロンドン・チャリング・クロス駅)
列車が止まると、窓の外に白い煙が流れた。
蒸気の匂いに、石炭の煤と濡れた鉄の匂いが混じっている。ナポリの潮と火山灰とは違う匂いだった。空は低く、駅の屋根の下には薄い霧が残り、ガラス越しの光は灰色に沈んでいた。
直樹は革鞄を手に、客車から降りた。
足元の石床は濡れていた。人の靴音、荷車の車輪、駅員の笛、馬車を呼ぶ声、英語の早口な会話が一度に耳へ入る。ポルティチの港とも、ナポリ王宮とも違う。ここは工業の国の首都だった。
直樹の所持金は、すでにポンドに替えてあった。
現金で持っているのは300ポンド。残りの2900ポンドは、ベッラヴィスタ家と英国側の銀行を通した信用状と為替手形である。合わせて3200ポンド。ナポリ王宮からの報奨金、白熱灯の設置管理契約の前受金、ポルティチ港での実演後に入った申込金を整理し、ベッラヴィスタ家への出資分と職人代、材料代を差し引いた後、直樹がイングランドへ持ち出せる自由資金だった。
大金である。
だが、ロンドンで工房を借り、職人を雇い、機械と材料を買えば、すぐに減る。直樹はそのことを分かっていた。だから、時間移動で持ち込んだ貴金属や宝石、医薬品、その他の品は、まだ売らずに残してある。革鞄の底には、青い石のついたピン、小さな金具、残りの宝石、応急用の薬、包帯、消毒薬、細かな携帯品が、布に分けて入れてあった。
それらは金でもあり、命綱でもあった。
そして鞄の一番奥には、円筒が1本入っている。
カルロッタの声を刻んだ蓄音機の円筒である。
直樹は駅の柱の陰で一度立ち止まり、革鞄の留め金を確かめた。中身をここで出すつもりはない。ただ、失っていないことを指先で確かめたかった。
「ナオキ・モロー氏でいらっしゃいますか」
英語が聞こえた。
直樹が顔を上げると、黒い外套を着た男が立っていた。年は40前後。背は高く、手袋をはめ、帽子のつばを少し上げている。後ろには若い従者が1人、荷物を受け取るために控えていた。
男は丁寧に名乗った。
「エドワード・ハリントンです。王宮でお会いした方々の紹介を受け、あなたを迎えに参りました。ロンドン滞在中の宿と、最初の面会の手配を任されています」
直樹は握手に応じた。
「ナオキ・モローです。迎えに来ていただき、ありがとうございます」
ハリントンは直樹の鞄へ視線を移した。
「お荷物はそれだけですか」
「はい。大事なものは、だいたいこの中にあります」
「では、馬車へ。まず宿へご案内します。その後、工房と職人の話に移りましょう。あなたが欲しいのは、観光案内ではなく、作業場だと聞いております」
直樹は小さくうなずいた。
「その通りです。ロンドンへ来たのは、景色を見るためではありません。作らなければならないものがあります」
ハリントンは、その返事を聞いて微かに笑った。
「それなら、あなたに見せるべき場所は決まっています」
駅の外へ出ると、霧の中に馬車が並んでいた。濡れた石畳を車輪が鳴らし、馬の背から湯気が上がっている。遠くには煙突がいくつも見え、空へ黒い煙を吐いていた。
直樹は馬車へ乗る前に、一度だけ駅の屋根を振り返った。
ナポリの光と、カルロッタの声を残して、ここまで来た。
次に必要なのは、光でも声でもない。
帰る道を作るための、本当の工業力だった。
◇ ◇ ◇
馬車は駅前の混雑を抜け、濡れた石畳の道へ入った。
ロンドンの町は、ナポリより暗かった。太陽が出ていないわけではない。だが、空気そのものが煤を含み、建物の壁も橋の欄干も、長い年月の石炭煙で黒ずんでいる。通りには馬車、荷車、職人、新聞売り、女中、工場帰りの若い女、顔を汚した少年たちが混じっていた。
直樹は窓から外を見た。
ここには人が多い。
そして、使われずに沈んでいる人間も多い。
ハリントンが向かいの席で言った。
「モロー氏。あなたはまず、工房をお探しだと伺っています」
「はい。電気、ガラス、金属加工、時計部品、薬品を扱える場所が必要です。できれば住まいも近くに欲しい」
「住まいと工房を分けますか」
「分けます。ただし、馬車で遠すぎるのは困ります」
「分かりました。候補は2つあります。1つは表通りに近い小さな建物。もう1つは少し古い屋敷ですが、裏に作業棟と馬車小屋があります。後者なら、住まい、倉庫、試作工房をまとめられます」
「後者を見たい」
ハリントンは少し笑った。
「そうおっしゃると思いました」
馬車は橋を渡り、さらに西へ進んだ。
通りの角には、仕事を待つ男たちが立っていた。誰もが帽子をかぶり、上着の襟を立てている。だが、その足元は貧しい。靴底が薄く、ズボンの裾は泥を吸っている。少年が新聞を掲げて走り、女が小さな子どもを抱えて、パン屋の前に立っていた。
直樹は言った。
「工員は集められますか」
「職人なら紹介できます。ですが、腕の良い者はすでに雇われています」
「腕が完成していなくてもいい。手先が器用で、覚える気があり、嘘をつかない者が欲しい。貧しい職人、工場を追われた者、女工、孤児、移民でもかまいません。賃金は相場より高く出します。その代わり、時間を守らせ、技術を覚えさせます」
ハリントンは直樹を見た。
「女も雇うのですか」
「必要なら雇います。ガラスの細工、線を巻く作業、部品の検査、記録係。力だけが仕事ではありません」
「ロンドンでは、女を安く使う工場も多い」
「安く使いたいのではありません。使える人間に育てたいのです」
ハリントンは、その言葉を聞いて姿勢を少し正した。
「なるほど。あなたは人を集めるのではなく、工房を作るつもりなのですね」
「はい。金で機械は買えます。けれど、技術を覚える人間を作らなければ、工房は続きません」
馬車はやがて、黒い鉄柵の前で止まった。
古い煉瓦造りの邸宅だった。大きすぎる屋敷ではない。だが、正面の階段、地下へ降りる入口、裏手へ回る通路があり、奥には馬車小屋と作業棟らしい建物が見える。壁は煤で黒ずみ、窓枠には古さがあったが、建物そのものはまだ使えた。
ハリントンは言った。
「前の持ち主は商人でした。家族が地方へ移り、今は空いています。表は住まいに、裏の作業棟は工房にできます。家賃は安くありませんが、あなたの資金なら問題ありません」
直樹は門の前でしばらく屋敷を見た。
ここなら使える。
住まい、工房、倉庫、実験室。人を雇うなら、寝泊まりできる部屋も要る。女中や料理人も必要になる。ロンドンで工房を作るなら、作業場だけを借りても足りなかった。
「ここを押さえます」
「まだ中をご覧になっていません」
「中がひどければ直せばいい。大事なのは場所と裏の作業棟です」
「即断ですね」
「ロンドンで迷っている時間はありません」
ハリントンはうなずいた。
「では、家主側と話を進めます」
屋敷の中は、冷えていた。
玄関広間には古い絨毯が敷かれ、壁には絵の跡だけが四角く残っている。家具は一部運び出されていたが、食堂、書斎、応接室、寝室、使用人部屋は残っていた。台所には大きなかまどがあり、地下には石炭置き場がある。裏の作業棟は、以前は馬具や荷物の修理に使われていたらしく、床が広く、天井も高かった。
直樹は作業棟を見て、すぐに決めた。
「ここに作業台を並べる。奥は金属加工。手前は組み立て。窓際は検査。薬品は地下ではなく、換気できる別室に置きます」
ハリントンは手帳に書き込んだ。
「職人は何人必要ですか」
「最初は20人。金属工が4人、ガラス工が3人、時計職人か細工師が2人、電信に触れたことのある者が2人、読み書きと帳簿のできる者が2人。残りは見習いでいい。若い女工と少年も入れます」
「孤児もですか」
「はい。ただし、子どもを夜まで働かせる気はありません。昼は作業、夕方は読み書きと計算を教えます」
ハリントンは驚いた顔をした。
「工房で学校をなさるのですか」
「教えなければ、同じ失敗を何度もします。読み書きができない者に細かな部品の番号を扱わせるなら、先に字を教える方が安くつきます」
「合理的ですね」
「人を安く使い捨てる方が、結局は高くつきます」
その日の午後、ハリントンは人集めの者を呼んだ。
集まったのは、職人を紹介する仲介人、女中の口入れ屋、救貧院に顔の利く男、アイルランド系移民の世話をしている司祭の使い、そして古い工場からあぶれた女工を知る婦人だった。
直樹は応接室で、条件をはっきり告げた。
「モロー電光工房で働く者には、相場より高い賃金を払います。住み込みの者には食事と寝る場所を出します。ただし、酒に溺れる者、盗む者、仕事を覚える気のない者は置きません。読み書きのできない者には教えます。子どもは長時間働かせません。女も、男と同じ仕事ができるなら賃金を分けません」
仲介人たちは顔を見合わせた。
条件が良すぎるのだ。
その代わり、直樹の目は甘くなかった。
「私は慈善をするために来たのではありません。工房を作るために来ました。食べるために働く者は歓迎します。技術を覚えて、自分の値段を上げたい者も歓迎します。だが、ただ楽をしたい者は要りません」
ハリントンは黙って聞いていた。
この若い異国人は、金をばらまくつもりではない。人を拾うが、甘やかすつもりもない。ロンドンの貧しい者たちを材料にするのではなく、工房の柱にしようとしている。
前編1では、直樹がロンドンに到着し、モロー電光工房のイングランド支部を作るための最初の足場を固める。3200ポンドの資金は大金だが、工房、職人、機械、材料をそろえればすぐに減る。直樹は古い邸宅と裏手の作業棟を押さえ、金属工、ガラス工、時計職人、電信を知る者、女工、孤児、移民まで含めて、人を使い捨てず育てる工房を作ると決める。ロンドンで必要なのは観光ではなく、帰る道を作るための工業力だった。




