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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第7話(後編2)――「蓄音機の約束、海を渡る朝」

 ナポリ王宮の夜を白熱灯で明るくした直樹は、イタリア王からナオキ・モローとモロー電光工房の技術を正式に認められる。王宮での成功により、直樹の名はイタリアだけでなく、英国王家の賓客にも届いた。一方、ベッラヴィスタ家は南米の将来性を見て、一家でアルゼンチンへ移る決意を固める。直樹はカルロッタとともに新しい港と商売を作る道を選び、彼女へ求婚する。だがカルロッタは、直樹を愛しているからこそ、彼が本当に進むべき道を選ばせようとする。

 ナポリ王宮の白熱灯は、翌朝には町中の噂になっていた。


 王宮の広間が、蝋燭でも油でもない小さなガラスの灯りで明るくなった。イタリア王が、その光をナオキ・モローとモロー電光工房の技術として認めた。ポルティチのベッラヴィスタ家が、その最初の出資者だ。新聞は朝から走り、役所の廊下でも、港の酒場でも、教会の前でも、人々は白熱灯の話をしていた。


 ベッラヴィスタ家の屋敷にも、朝から使者が相次いだ。


 ナポリ港の役人、鉄道関係者、劇場主、軍の補給担当、商人、新聞記者。門番は何度も名を聞き、テレーザは使用人たちに、誰を通し、誰を待たせ、誰を帰すかを細かく命じた。ドメニコは書斎で何通もの手紙を読み、机の上には新しい依頼と相談が積み上がっていった。


 直樹は、その騒ぎを静かに見ていた。


 王に認められたことは大きい。モロー電光工房の名は、もうポルティチの港だけに留まらない。だが、注文が来れば来るほど、直樹の心は別の場所へ引かれていった。


 王宮で英国王家の賓客に言われた言葉である。


 イングランドには、鉄も、機械も、蒸気も、電信も、職人もいる。


 その言葉は、直樹の頭から離れなかった。


 午後、ドメニコは家族を食堂へ集めた。


 イザベッラ、カルロッタ、マルコ、そして古くから家に仕えるテレーザもいた。直樹は客人ではなく、モロー電光工房の社長として席に着いた。


 ドメニコは、ワインを1口飲んでから話し始めた。


「王宮の件で、ベッラヴィスタ家の名は大きくなった。だが、私はナポリだけを見ているつもりはない」


 食堂が静かになった。


「ポルティチもナポリも古い港だ。商売はある。船もある。だが、古い家、古い利権、古い役人も多い。ここで光を売るだけなら、我々はすぐ周りに囲まれる」


 ドメニコは、直樹を見た。


「ナオキの光は、古い町より、新しい港に向いている。まだ作りかけの港、伸びていく国、これから鉄道と倉庫と街路を作る土地だ」


 カルロッタは静かに言った。


「アルゼンチンですわね」


「そうだ」


 ドメニコはうなずいた。


「ブエノスアイレス、ロサリオ、ラプラタ川の港。あの国には土地があり、牛があり、穀物があり、これから移民も増える。必要になるのは船、倉庫、灯り、鉄道、銀行、保険、そして信用だ。ベッラヴィスタ家は、南米へ行く」


 イザベッラが息を呑んだ。


 マルコは驚いた顔で父を見た。


「父上、本気ですか」


「本気だ。ナポリに残って、古い港の中で順番を待つより、アルゼンチンで新しい港を作る。ベッラヴィスタ家は一家で移る。準備に時間はかかるが、方針は決めた」


 食堂に、重い沈黙が落ちた。


 火山灰の降るポルティチを捨てる話ではない。家の根を引き抜き、海の向こうへ移す話である。だが、ドメニコの声には迷いがなかった。彼は王宮の白熱灯を見て、直樹の技術が古い港を明るくするだけのものではないと悟ったのだ。


 ドメニコは直樹を見た。


「ナオキ。お前も来い」


 直樹は黙っていた。


「モロー電光工房を、アルゼンチンで大きくする。港を照らす。倉庫を照らす。鉄道駅を照らす。街路を照らす。ベッラヴィスタ家は船と資本と信用を出す。お前は技術と名を出す。南米なら、我々は最初から町を作れる」


 カルロッタは、父の言葉を聞きながら直樹を見ていた。


 直樹の顔に、迷いが出ていた。


 それは、金に迷う顔ではなかった。名誉に迷う顔でもない。もっと深い場所で、2つの道を見比べている顔だった。


 ドメニコは続けた。


「英国王家の者が、お前をイングランドへ誘ったことは知っている。工業の国だ。たしかに魅力はある。だが、あそこへ行けば、お前は大勢の技師と工場主の中に入る。アルゼンチンなら違う。お前は最初から、新しい港を作る側に立てる」


 直樹は、ようやく口を開いた。


「少し、考えさせてください」


「よい」


 ドメニコは短く答えた。


「ただし、早く決めろ。商売の風は、待ってくれない」


 その夜、直樹はカルロッタと庭へ出た。


 灰はまだ石畳の溝に残っていたが、夜空は少し澄んでいた。葡萄棚の向こうに、ヴェスヴィオの黒い稜線が見える。噴火の夜に比べれば、山は静かだった。だが、直樹にはあの赤い火口がまだ目に残っていた。


 カルロッタは、真珠のブローチをつけていた。


 直樹が贈り、胸元へ留めたものだった。彼女はその上に薄いショールをかけていたが、白い真珠は夜の中でも微かに光っていた。


「父上の話を、どう思われました?」


 カルロッタが聞いた。


「魅力があります」


「それだけですの?」


「大きな話です。アルゼンチンで港を作る。倉庫を作る。灯りを入れる。鉄道駅も街も照らす。モロー電光工房を育てるには、悪くありません」


「悪くない、ではなく、あなたは心を動かされていましたわ」


 直樹は、少し黙った。


「ええ。動かされました」


 カルロッタは歩みを止めた。


「では、イングランドには行かないのですか」


 直樹は彼女を見た。


 庭の奥から、噴水の水音がかすかに聞こえた。屋敷の窓には、まだ油灯が揺れている。王宮を白熱灯で照らしたあとでも、ベッラヴィスタ家の夜はまだ古い灯りの中にあった。


「カルロッタさん」


「はい」


「私は、あなたとアルゼンチンへ行きたい」


 カルロッタの目が揺れた。


 直樹は続けた。


「ベッラヴィスタ家と、新しい港を作る。モロー電光工房を大きくする。あなたと一緒に、海の向こうで新しい商売を始める。その道を選びたいと思っています」


「本当に?」


「本当です」


 直樹は、カルロッタの前に立った。


「カルロッタさん。私と結婚してください」


 カルロッタは、すぐには答えなかった。


 風が葡萄棚を揺らした。


 遠くで馬が鼻を鳴らし、屋敷の中から使用人の足音がかすかに聞こえた。カルロッタは直樹を見つめたまま、長い間、声を出さなかった。


「ナオキさん」


 ようやく彼女は言った。


「わたくしは、あなたを愛しています」


「はい」


「昨夜あなたを選んだことを、後悔していません。王宮であなたが光を献上した時、わたくしは誇らしかった。あなたの隣に立てるなら、どこへでも行きたいと思いました」


「では」


「だからこそ、結婚はできません」


 直樹の顔から、表情が消えた。


 カルロッタは、胸元のブローチに指を添えた。


「あなたは今、わたくしを選ぼうとしてくださっている。アルゼンチンで港を作り、商売を作り、わたくしと生きる道を選ぼうとしてくださっている。それは、女としてはこの上なく嬉しいことです」


「なら、なぜ」


「あなたの目を見たからです」


 カルロッタの声は震えていなかった。


「王宮で、英国の方がイングランドの話をした時、あなたの目は変わりました。白熱灯でも、港でも、わたくしでもないものを見ていました。あなたは、まだ作らなければならないものを持っているのでしょう」


 直樹は言葉を失った。


 カルロッタは、ゆっくりと続けた。


「わたくしには、それが何かは分かりません。あなたが何を失い、何を取り戻そうとしているのかも、全部は分かりません。けれど、あなたには、どうしても行かなければならない場所がある。それだけは分かります」


「私は、あなたを捨てたいわけではありません」


「分かっています」


 カルロッタは、かすかに笑った。


「だから、わたくしから離れるのです」


 直樹は、すぐに返事ができなかった。


「あなたがアルゼンチンを選べば、父は喜びます。ベッラヴィスタ家は強くなります。わたくしも、あなたのそばにいられるかもしれません。けれど、いつかあなたは思うはずです。あの時、イングランドへ行っていれば、あの工場を見ていれば、あの職人に会っていれば、自分が探していたものに近づけたのではないか、と」


「そんなことは」


「言わないでくださいませ」


 カルロッタは静かに遮った。


「あなたは優しいから、今はわたくしを選ぶと言ってくださる。でも、わたくしは、あなたの優しさだけで選ばれる女にはなりたくありません。あなたの道を狭くする女にも、なりたくありません」


 直樹は、カルロッタの手を取った。


「私は、あなたを愛しています」


「ええ」


「一緒に来てほしい」


「行けません」


 カルロッタは首を振った。


「わたくしはベッラヴィスタ家の娘です。父がアルゼンチンへ行くなら、家族としてついていきます。夫のことも、家の名も、世間の目もあります。あなたと正面から結ばれるには、あまりに多くの壁があります。ですが、それ以上に大きいのは、あなたの道です」


「カルロッタさん」


「ナオキさん。あなたはイングランドへ行ってください」


 その言葉は、直樹の胸を深く刺した。


「わたくしを愛しているなら、イングランドへ行ってください。あなたが本当に作らなければならないものは、アルゼンチンの港ではまだ届かないのでしょう。王宮で英国の方が工場や職人の話をした時、あなたの目は、わたくしでも、港でも、商売でもないものを見ていました。わたくしには、それが何なのかまでは分かりません。けれど、あなたがそこへ行かなければ、いつか必ず後悔することだけは分かります」


 直樹は目を閉じた。


 カルロッタは、核心に触れていた。


 彼女は直樹の秘密を知らない。時代を越えたことも、失った道具のことも、戻るための手段を探していることも知らない。だが、恋人として直樹を見ていたからこそ、彼の迷いの形だけは見抜いていた。


 直樹は、静かに息を吐いた。


「分かりました」


 カルロッタの手が、わずかに震えた。


「怒らないのですか」


「怒れません。あなたは、私のために言ってくれている」


「泣きたいくらい、あなたを引き止めたいですわ」


「私も、行きたくない」


「それでも、行ってください」


 直樹はカルロッタを抱きしめた。


 カルロッタは、今度はすぐに腕を回した。庭の夜気は冷たかったが、2人の間だけは熱が残っていた。葡萄棚の向こうで、ヴェスヴィオが黒く沈んでいる。2人が出会うきっかけとなった山は、何も言わずにそこにあった。


 しばらくして、直樹は言った。


「約束が残っています」


「約束?」


「あなたには、最初に見せると言いました」


「白熱灯は、見せていただきましたわ」


「次の事業です」


 カルロッタは顔を上げた。


「次の事業?」


「光の次は、声です」


 直樹はカルロッタを屋敷の裏手の作業部屋へ案内した。


 そこには、王宮へ持っていかなかった部品や工具がまだ残っていた。ガラスの破片、銅線、真鍮の輪、木の台、細い針、円筒、薄い金属の膜。王宮の白熱灯を作る合間に、直樹が少しずつ組んでいたものだった。


 カルロッタは机の上の奇妙な器械を見た。


 小さなラッパのような口があり、その奥に薄い膜と針がついている。横には手で回す円筒があった。


「これは何ですの?」


「蓄音機です」


「ちくおんき?」


「声を記録し、あとで同じ声を聞かせる器械です」


 カルロッタは、すぐには意味を理解できなかった。


「声を、紙に書くのですか」


「いいえ。音そのものを刻みます」


「音を刻む?」


「はい」


 直樹は円筒をゆっくり回した。


「ここへ向かって話してください。短い言葉でかまいません」


 カルロッタは、少し不安そうに器械を見た。


「本当に、わたくしの声が残るのですか」


「やってみましょう」


 カルロッタは迷ったあと、ラッパの前に立った。


 直樹は円筒を回し始めた。


「どうぞ」


 カルロッタは、少しだけ息を吸った。


「ナオキさん。わたくしは、あなたを愛しています」


 直樹の手が、一瞬止まりかけた。


 だが、すぐに最後まで円筒を回した。


 作業部屋は静かだった。


 外では、夜風が葡萄棚を揺らしている。屋敷の遠くでテレーザの鍵束が小さく鳴った。直樹は針の位置を戻し、もう1度、円筒を回した。


 最初は、かすれた音がした。


 次に、薄い膜の奥から、人の声が戻ってきた。


「ナオキさん。わたくしは、あなたを愛しています」


 カルロッタは息を呑んだ。


 自分の声だった。


 完全ではない。少し歪み、少し遠い。だが、間違いなく自分の声だった。今、自分が言った言葉が、器械の中から戻ってきたのである。


「聖母様……」


 カルロッタは小さく呟いた。


 彼女は、白熱灯を見た時よりも深く驚いていた。光は目で見える。電気が何かは分からなくても、部屋が明るくなれば受け入れられる。だが、声が戻るというのは違った。人の言葉が、時間を越えてもう1度聞こえる。そこには、ただの便利さではない、不思議な恐ろしさと優しさがあった。


 直樹は、静かに言った。


「これが、次の事業です。光の次は、声を残します。亡くなった人の声、遠く離れた人の言葉、歌、演説、約束。人は、もう1度聞きたい声を、形にして残したくなる」


 カルロッタは、円筒を見つめた。


「あなたは、どこまで行く方なのですか」


「分かりません」


「嘘ですわ。あなたは、もっと先を見ています」


「見ているかもしれません」


 カルロッタは直樹を見た。


「これを、最初にわたくしへ聞かせてくださったのですね」


「約束しましたから」


「わたくしには、最初に見せる。最初に聞かせる。あなたは、本当に困った方ですわ」


 その声は、泣きそうだった。


 直樹は、円筒を外し、布に包んだ。


「これは、あなたに」


「わたくしに?」


「はい。あなたの声です」


 カルロッタは首を振った。


「いいえ。あなたが持っていってください」


「ですが」


「イングランドへ持っていって。わたくしの声が邪魔になるなら、海へ捨ててください。でも、もし苦しい夜があったら、聞いてください。わたくしは、あなたを引き止めません。けれど、あなたを愛したことは消しません」


 直樹は、布に包んだ円筒を握った。


「捨てません」


「では、持っていって」


「分かりました」


 カルロッタは、少しだけ笑った。


「これで昔の約束は守られましたわ。あなたの次の光も、次の声も、わたくしは最初に知ったのですから」


 直樹は、もう1度カルロッタを抱いた。


 その夜、2人は多くを語らなかった。


 別れを選んだあとに、言葉を増やせば増やすほど、決意は崩れそうになる。カルロッタは直樹の胸に額を預け、直樹は彼女の髪を撫でた。作業台の上には、白熱灯の残り部品と、蓄音機の小さな針が置かれていた。


 翌朝、直樹はドメニコにイングランド行きを告げた。


 ドメニコは、長く黙っていた。


「カルロッタと話したのか」


「話しました」


「そうか」


 ドメニコは窓の外を見た。


「私は、お前をアルゼンチンへ連れて行きたかった。お前がいれば、ベッラヴィスタ家は南米で大きくなれる」


「申し訳ありません」


「謝るな。商人は、欲しいものが手に入らないことにも慣れている」


 ドメニコは振り返った。


「ただし、モロー電光工房の名は残す。ベッラヴィスタ家はアルゼンチンへ行き、港を作る。お前がイングランドで何を作ろうと、いつかまた組める日が来るかもしれん」


「はい」


「カルロッタを泣かせたことは、許さん」


 直樹は深く頭を下げた。


「分かっています」


「だが、あの子が選んだのなら、私が止める話ではない」


 ドメニコは机の引き出しから、封書を1通取り出した。


「英国側への紹介状だ。王宮で会った英国の賓客宛てに書いてある。ベッラヴィスタ家は、ナオキ・モローを信用する。モロー電光工房の社長として、王に技術を認められた男だとな」


 直樹は封書を受け取った。


「ありがとうございます」


「礼はいい。イングランドで何かをつかめ。つかめなかったら、アルゼンチンへ来い。港なら用意しておく」


「必ず」


 出発の日、ナポリ港は朝から騒がしかった。


 英国へ向かう船は、石炭の煙を上げていた。甲板では船員が荷を積み、桟橋では旅人と見送りの人々が入り混じっている。海は灰色で、空も薄く曇っていた。だが、遠くの水平線には明るい帯が見えていた。


 カルロッタは、ドメニコと少し離れて立っていた。


 黒いドレスに深い青のショールを重ね、胸元には真珠のブローチがあった。直樹が贈ったものを、彼女は最後の日にもつけていた。


 直樹は革鞄を手にしていた。


 中には紹介状、手元のリラ、いくつかの宝石、白熱灯の記録、そして布に包んだ蓄音機の円筒が入っている。カルロッタの声を刻んだ円筒だった。


「ナオキさん」


 カルロッタが言った。


「はい」


「イングランドでは、無理をなさらないで」


「努力します」


「努力ではなく、約束してくださいませ」


「約束します」


「あなたの約束は、時々大きすぎますわ」


「小さい約束も守ります」


 カルロッタは、少し笑った。


「では、いつかまた、わたくしに新しいものを最初に見せてください」


「必ず」


「その時、わたくしがアルゼンチンにいても?」


「行きます」


「海の向こうですわよ」


「海なら渡れます」


「本当に、困った方ですわ」


 カルロッタは、そう言って手を差し出した。


 直樹はその手を取った。


 本当なら抱きしめたかった。だが、ここは港であり、ドメニコも、テレーザも、船員も、見送りの者たちもいる。カルロッタは既婚の婦人であり、ベッラヴィスタ家の娘だった。2人は、最後まで人前の節度を守った。


 だが、握った手の力だけは、隠せなかった。


「わたくしは、あなたを待つとは言いません」


 カルロッタは静かに言った。


「はい」


「でも、あなたを忘れるとも言いません」


「私も忘れません」


「なら、それで十分ですわ」


 乗船を促す鐘が鳴った。


 直樹は手を離した。


 ドメニコに礼をし、テレーザに礼をし、最後にもう1度カルロッタを見た。カルロッタは泣いていなかった。背筋を伸ばし、真珠のブローチに指を添えていた。


 直樹は船へ乗った。


 甲板へ上がると、桟橋が少し低く見えた。ベッラヴィスタ家の人々が並んでいる。ドメニコは帽子を上げ、テレーザは胸の前で十字を切った。カルロッタは、ただ直樹を見ていた。


 船がゆっくり動き出した。


 桟橋との間に、黒い水の帯ができる。縄が外され、船体が港から離れていく。ナポリの町、王宮、ポルティチへ続く海岸、そして遠くのヴェスヴィオが、少しずつ後ろへ下がっていった。


 直樹は鞄の中へ手を入れた。


 布に包まれた円筒に触れる。


 カルロッタの声が、そこにある。


 ナオキさん。わたくしは、あなたを愛しています。


 直樹は目を閉じた。


 アルゼンチンの港を選ぶ道もあった。カルロッタと生きる道もあった。だが、彼女自身が、その道を閉じた。直樹が本当に作らなければならないものを作るために。


 船はナポリ湾を出ていった。


 海の向こうには、イングランドがある。


 鉄と蒸気と電信と職人の国である。


 そして、そのさらに先には、直樹がどうしても取り戻さなければならない道があった。


 直樹は、最後に1度だけ振り返った。


 桟橋の上で、カルロッタはまだ立っていた。遠くなっても、胸元の真珠が朝の光を受け、小さく白く光っているように見えた。


 直樹は帽子を上げた。


 カルロッタも、静かに手を上げた。


 それが、ポルティチで結ばれた2人の別れだった。


 白熱灯の光と、蓄音機に刻まれた声を残して、直樹はイングランドへ向かった。

 後編2では、ベッラヴィスタ家がアルゼンチンへ移る方針を決め、直樹も一度はカルロッタとともに新しい港と商売を作る道を選ぶ。直樹はカルロッタに求婚するが、カルロッタは直樹を愛しているからこそ、彼が本来進むべきイングランド行きを選ばせる。別れの前に、直樹は次の事業となる蓄音機をカルロッタに聞かせ、彼女に最初に見せるという約束を守った。カルロッタの声を胸に、直樹は英国王家の招請に応じ、自分が本当に作らなければならないものを求めて海を渡る。第7話は、直樹がイタリアで名と光と恋を得ながらも、さらに遠い目的へ進むところで幕を閉じる。

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