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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第7話(中編2)――「ポルティチの夜、王の招待状」

 モロー電光工房の名で、直樹はポルティチの港に白い光を灯す。油でも蝋燭でもない電気の光は、夜の倉庫、岸壁、海面を昼のように照らし、町の人々と新聞記者を驚かせる。光は見世物ではなく、港を動かす新しい商売だった。その夜、直樹はカルロッタに、自分にとって彼女は事業ではなく、欲しい女性だと告げる。カルロッタは既婚の身であることを承知の上で、自分の意思で直樹の恋人になる道を選び、その夜、2人は結ばれる。

 公開の日は、噴火から数日後の曇った夜になった。


 昼のうちから、町には噂が流れていた。


 ベッラヴィスタ家の港で新しい灯りが見られる。油を使わない光だ。蝋燭より明るいらしい。ヴェスヴィオの火を閉じ込めたのだという者もいれば、東洋の若者が雷を瓶に入れたのだという者もいた。教会の前では年寄りたちが眉をひそめ、子どもたちは港へ行きたがった。


 夜になると、ポルティチの港には人が集まった。


 ベッラヴィスタ家の男たちは、岸壁の手前に木の柵を置き、見物人を下がらせた。船員たちは太い綱を張り、町の警備の者も数人立った。灰はまだ石畳の隙間に残り、歩くたびに白く舞った。海からは冷たい風が上がり、女たちはショールを強く握った。


 港の灯りは、いつもなら頼りなかった。


 油のランプがいくつか、倉庫の扉と船着き場に揺れているだけである。風が吹けば火は傾き、ガラスは煤で曇る。岸壁の端は暗く、荷物の影と人の影が混ざっていた。夜の港では、足を踏み外す者もいる。油をこぼして火が回ることもある。夜は、人を飲み込むものだった。


 その夜、倉庫の前には小さな台が置かれた。


 ドメニコが、町の役人、新聞記者、商人、船主たちの前に立った。だが、彼は長く話さなかった。


「今夜お見せするのは、ナオキ・モロー氏が作った電気光です。ベッラヴィスタ家は、モロー電光工房の最初の出資者として、港と機械と人手を用意しました。工房の社長は、ナオキ・モロー氏です。私どもは、その事業に資本と信用を出し、正当な配当を受ける立場であります」


 その言葉に、新聞記者がすばやく紙に書きつけた。


 ナオキ・モロー。

 モロー電光工房。

 社長。

 ベッラヴィスタ家は出資者。


 直樹は黙って聞いていた。


 大事なのは、そこだった。ベッラヴィスタ家の見世物ではない。ベッラヴィスタ家に雇われた技師でもない。モロー電光工房の社長、ナオキ・モローが、ポルティチの夜に光を灯すのである。


 直樹は蒸気機関の男へ合図した。


「ゆっくり回してください」


 男が弁を開いた。


 蒸気が白く吹き、鉄の車輪がゆっくり動き出した。ベルトが回り、軸が唸る。倉庫の中で、重い機械音が響いた。見物人たちは、何が起こるのか分からず、息を詰めた。


 最初の灯りは、倉庫の入口に置かれた。


 真鍮の支柱に支えられた2本の炭素棒。その背後には磨いた反射板がある。直樹は炭素棒の距離を確かめ、銅線の接点を押さえた。小さな火花が散った。


 ぱち、と音がした。


 次の瞬間、白い光が生まれた。


 倉庫の入口が、昼のように浮かび上がった。


 見物人の間から、低い声が広がった。叫びではない。息を呑んだ音が、波のように人の列を走ったのである。


 2つ目の灯りが、岸壁の柱の上でついた。


 白い光は、海の黒い水に道を作った。波の表面が銀色に光り、係留された船の舷側がくっきり見えた。濡れた縄、木箱の文字、石畳の割れ目、男たちの顔。すべてが夜から引き出された。


 3つ目、4つ目。


 ベッラヴィスタ家の倉庫前から船着き場まで、白い光が順に灯っていく。


 ポルティチの港が、夜の中で輝き始めた。


 油の黄色い灯りではない。揺れない白い光である。風が吹いても消えない。ガラスに煤もつかない。光は強く、冷たく、町の人々が知っている夜の色を変えてしまった。


 子どもが柵の向こうで叫んだ。


「昼だ!」


 その声に、周りの大人たちが笑った。だが、その笑いには震えが混じっていた。誰もが同じことを感じていた。夜の港に、小さな昼が降りてきたのだ。


 教会の神父は、胸の前で十字を切った。


 新聞記者は、紙に何かを書こうとして手を止めた。何を書けばよいか、すぐには分からなかった。役人は口を開けたまま、岸壁の端まで照らされた様子を見ている。商人たちは、驚きのあとで、すぐに計算する顔になった。


 夜でも荷物が読める。


 夜でも船が入れる。


 夜でも倉庫で数を数えられる。


 夜でも港が動く。


 それはただの見世物ではなかった。金になる光だった。


 カルロッタは、人々の顔を見ていた。


 驚く者。祈る者。怖がる者。欲しがる者。すべて、彼女の予想通りだった。


 だが、直樹は人々の驚きに酔っていなかった。


 彼は光の揺れ、炭素棒の減り方、蒸気機関の回転、ベルトの滑りを見ていた。どの灯りが先に弱るか。どこで接点が熱を持つか。どの支柱が震えるか。すでに次の改良を考えている顔だった。


 カルロッタは、その横顔を見て、胸の奥が強く動いた。


 この男は、父のものではない。ベッラヴィスタ家のものでもない。自分が帳簿で管理する事業の部品でもない。


 自分が望むなら、自分から彼の胸へ飛び込むしかない男だった。


「ナオキさん」


 カルロッタは小声で呼んだ。


「はい」


「ポルティチの夜が、あなたのものになりましたわ」


 直樹は、光から目を離さずに答えた。


「まだです。今夜は始まりです」


「始まり?」


「ええ。港だけでは足りません。倉庫、造船所、劇場、王宮前の広場。夜に人が集まる場所は、全部変えられます」


 カルロッタは息を呑んだ。


「そこまでお考えでしたの?」


「考えます。だから、今夜の光をベッラヴィスタ家のものにはしませんでした」


 カルロッタは直樹を見た。


「では、わたくしは?」


 直樹は、そこで初めて彼女を見た。


「あなたは、事業ではありません」


 カルロッタの唇が、ほんの少し開いた。


 周りには人がいる。港の光が白く輝き、見物人のざわめきが続いている。その中で、直樹の言葉だけが、はっきり彼女に届いた。


「では、何ですの?」


「私が欲しい女性です」


 カルロッタは目を伏せた。


 白い光のせいで、頬の色まで隠せなかった。


 その夜、見物人たちはなかなか港を離れなかった。


 白い光が消されると、あたりは急に暗くなった。普通の油灯が戻っただけなのに、町の夜が貧しく見えた。見物人たちは口々に話しながら帰っていった。子どもは何度も振り返り、男たちは酒場へ急ぎ、女たちはショールを握りながら「本当に昼のようだった」と繰り返した。


 新聞記者は、ドメニコではなく直樹へ近づいた。


「モロー氏。これはナポリで騒ぎになります」


 直樹は答えた。


「騒ぎでは困ります。事業として見てください」


「事業ですか」


「夜の港を安全にする光です。倉庫の火事を減らし、荷物の読み違いを減らし、船の出入りを助ける。見世物ではありません。モロー電光工房は、最初に灯りを置いて終わる工房ではありません。設置し、管理し、その場所の夜を変える工房です」


 記者は慌てて書き留めた。


 ドメニコは、それを少し離れて見ていた。


 直樹がもう、ただの客人ではないことを理解した顔だった。若い。異国人。身分はベッラヴィスタ家の紹介状で支えられている。だが、技術の前では、その若さも異国の出自も欠点にならなかった。むしろ、謎と魅力になっていた。


 カルロッタは、記者の質問が続く前に割って入った。


「今夜はここまでにしてくださいませ。モロー氏には装置の整理も、明日以降の準備もございます。詳しい話は、日を改めて文書でお伝えいたします」


 記者は名残惜しそうだったが、引き下がった。


 直樹はカルロッタを見た。


「助かりました」


「ベッラヴィスタ家の出資を守るためですわ」


「それだけですか」


 カルロッタは周りを見た。


 倉庫の裏手には、人の目が少ない場所がある。荷車の陰、積まれた空樽、海からの風を避ける石壁。その奥へ、カルロッタは静かに歩き出した。


「少しだけですわ」


 直樹は、黙って後を追った。


 倉庫の裏は、表の騒ぎが遠く聞こえる場所だった。海の匂いが濃く、石壁には灰と潮が張りついている。遠くでは、まだ見物人の声がしている。だがここには、2人の足音だけがあった。


 カルロッタは振り返った。


「先ほどの言葉、もう1度おっしゃって」


「どの言葉ですか」


「分かっていらっしゃるでしょう」


 直樹は近づいた。


「あなたは、事業ではありません」


「その次ですわ」


 直樹は、カルロッタの目を見た。


「私が欲しい女性です」


 カルロッタは目を閉じた。


 直樹は、彼女の肩に手を置いた。カルロッタは逃げなかった。だが、すぐに受け入れることもしなかった。彼女は既婚の婦人である。父の家の娘であり、家の名を背負う女でもある。その事実は、消えるものではなかった。


「ナオキさん」


「はい」


「わたくしには夫がいます」


「知っています」


「この町では、女の噂は男の噂よりずっと重く扱われます」


「それも分かっています」


「それでも、わたくしにその言葉をおっしゃるの?」


「言います」


 カルロッタは目を開けた。


「なぜですの?」


「あなたが欲しいからです。あなたが既婚か未婚かで、私の気持ちは変わりません。けれど、あなたが嫌なら、私はここで引きます」


 カルロッタは、息を止めた。


 直樹の声は、強かった。だが、無理に奪う声ではなかった。選べと言っている。自分の意思で来るなら受け止める。来ないなら、ここで止まる。そういう声だった。


 カルロッタは、胸元のブローチに指を添えた。


 昨日までなら、父の客人から受けた礼の品にすぎなかった。だが今は違う。直樹が自分の胸に留めた、最初の印だった。


「もし、断ると言ったら?」


「あなたを困らせることはしません」


「わたくしが、あなたの仕事から離れると言ったら?」


「仕事では無理に引き止めません。ただ、寂しくはなります」


 カルロッタは小さく笑った。


「ずるい言い方ですわね」


「正直に言いました」


「もっと悪いですわ」


 カルロッタは、少しだけ目を伏せた。


 表では、まだ人々が白い光の話をしている。新聞記者は見出しを考え、商人たちは金の匂いを嗅ぎ、ドメニコは役人と話している。その裏で、彼女は人生の線を越えるかどうかを考えていた。


 長い沈黙のあと、カルロッタは顔を上げた。


「わたくしは、あなたの共同経営者にはなりません」


「はい」


「あなたの工房は、あなたのものです。父は出資者として配当を受ける。それでよろしいわ」


「はい」


「けれど、わたくし自身については、別です」


 カルロッタは、直樹の上着に指を添えた。


「わたくしは、あなたの恋人になります」


 直樹は、黙ってカルロッタを見た。


 カルロッタの声は震えていなかった。


「ただし、人前では軽率なことをなさらないで。わたくしには家があります。父もいます。夫もいます。噂に潰されるつもりはありません」


「分かっています」


「それから、わたくしをただの飾りにしないでくださいませ。恋人にするなら、あなたの隣で、あなたが何を作り、どこへ進むのかを見せてください」


「見せます」


「本当に?」


「あなたには、最初に見せます」


 カルロッタは、ゆっくり息を吐いた。


「では、印が必要ですわね」


 直樹は、彼女を抱き寄せた。


 応接室でブローチを留めた時よりも、2人の距離はずっと近かった。


 カルロッタの体が直樹の胸に重なり、ショール越しの温度が伝わる。港の油と潮の匂いの中で、彼女の髪からだけ、石鹸と花の淡い香りがした。直樹は彼女の背に腕を回し、静かに抱きとめた。


 カルロッタは最初だけ息を止めたが、すぐに直樹の胸に手を置いた。


「長くは駄目ですわ」


「分かっています」


「分かっている人の抱き方ではありません」


「では、短くします」


「あなたの短くも信用できませんわ」


 そう言いながら、カルロッタは顔を上げた。


 直樹は、今度は許しを求めなかった。カルロッタも止めなかった。


 唇が重なった。


 港の表では、人々が白い光の話をしている。その裏で、直樹とカルロッタは、誰にも見えない場所で口づけを交わしていた。


 カルロッタは、先に唇を離した。


 だが、すぐには離れなかった。額を直樹の胸に軽く預け、低い声で言った。


「今夜の光は、あなたのものですわ」


「はい」


「でも、その隣で最初に見る女は、わたくしです」


「約束します」


「王宮へ行く時も?」


「もちろんです」


「父上が反対したら?」


「説得します」


「王宮では、わたくしは恋人としてではなく、ベッラヴィスタ家の娘として立ちます。それを忘れないでくださいませ」


「分かっています。人前では、あなたはベッラヴィスタ家の実務を預かる人です。私の隣に立つ理由も、それで通します」


 カルロッタは顔を上げた。


「そういうところは、分かっていらっしゃるのね」


「あなたを困らせるつもりはありません」


「それなら、今のところは信じますわ」


「今のところですか」


「ええ。あなたは調子に乗る方ですもの」


「もう乗っています」


「駄目です」


 その時、表からテレーザの声が聞こえた。


「奥様、どちらにいらっしゃいますか」


 カルロッタはすぐに体を離した。だが、乱れたショールを整えながらも、目は笑っていた。


「戻りますわ」


「また後で」


「今夜はもう駄目です」


「本当に?」


「今、この場所では駄目です」


 カルロッタはそう言って、先に表へ戻った。


 直樹は少し遅れて歩き出した。


 港の白い光は、もう消えている。だが、彼の中では別の熱が残っていた。


 その夜、直樹が屋敷の客室へ戻ったのは遅かった。


 ベッラヴィスタ家の人々は、港から戻ったあとも落ち着かなかった。ドメニコは役人や新聞記者への返事を考え、テレーザは使用人たちに口外しないよう言い聞かせ、イザベッラはマルコの部屋へ行って、港の光の話を聞かせていた。屋敷の廊下には、まだ人の気配が残っていた。


 直樹は客室で手を洗い、港でついた油と灰を落とした。窓の外では、灰を含んだ夜風が庭の葉を揺らしていた。ポルティチの町は、光の余韻を抱えたまま静かになっている。


 しばらくして、扉が静かに叩かれた。


「ナオキさん。起きていらっしゃる?」


 カルロッタの声だった。


 直樹は扉へ向かった。


 扉を開けると、カルロッタが蝋燭を持って立っていた。港で羽織っていたショールは外している。髪は少しだけほどけ、胸元の真珠のブローチが小さな光を受けていた。


「入ってもよろしくて?」


「もちろんです」


 カルロッタは部屋へ入り、扉を内側から静かに閉めた。


 2人は少しの間、言葉を失った。


 昼間なら、ここはただの客室である。だが夜に、既婚の婦人が若い異国人の部屋へ来ている。その事実だけで、空気は変わっていた。廊下の足音は遠く、窓の外には灰を含んだ風の音だけがある。


 直樹は言った。


「来てくださるとは思いませんでした」


「わたくしも、来るつもりで部屋を出たわけではありませんわ」


 カルロッタは蝋燭を机に置いた。


「けれど、港であなたに言った言葉を、明日まで宙に浮かせておきたくなかったのです。恋人になると言った以上、曖昧なまま眠るのは嫌でした」


 直樹はカルロッタを見た。


「後悔していませんか」


「していたら、ここへは来ません」


 カルロッタは静かに答えた。


「ただ、怖くないわけではありません。夫がいることも、父がいることも、この町の噂が恐ろしいことも、全部分かっています。けれど、今夜あなたを選ばなければ、わたくしは明日からずっと、自分に嘘をついて生きることになると思いました」


 直樹は近づいた。


「カルロッタさん」


「はい」


「あなたを大事にします」


「そう言うだけなら、どの殿方でもできますわ」


「では、行動で示します」


「今夜から?」


「今夜から」


 カルロッタは、胸元のブローチに触れた。


「では、これを外してくださいな。あなたが留めたものですもの」


 直樹はうなずき、彼女の前へ立った。


 昼間、応接室でそうした時より、距離はずっと近かった。直樹はレースを押さえ、小さな金具を外した。真珠のブローチを机の上に置くと、カルロッタは少し息を吐いた。


「不思議ですわね。小さな飾りを外しただけなのに、もう戻れないところまで来た気がします」


「戻りたいですか」


「いいえ」


 カルロッタは、直樹の上着に手をかけた。


「戻りたくないから、ここへ来ました」


 直樹は彼女を抱き寄せた。


 港の裏で交わした抱擁よりも、ゆっくりだった。急ぐ必要はなかった。カルロッタは最初だけ肩に力を入れたが、直樹が強く奪おうとしないことを知ると、少しずつ体を預けた。


 唇が重なった。


 今度は、誰かに呼ばれて離れる心配はなかった。


 カルロッタの指が直樹の襟をつかみ、すぐに緩んだ。直樹は彼女の背に手を回し、蝋燭の火が揺れ、壁に2人の影が重なった。


「ナオキさん」


「はい」


「今夜のことは、わたくしの意思です。あなたに流されたのではありません」


「分かっています」


「分かってください。わたくしは、あなたの光に驚いたから来たのではありません。あなたが父にも、町にも、王にも、自分のものを渡さない男だと分かったから来たのです」


 直樹は、その言葉を聞いてから、もう1度彼女を抱いた。


 カルロッタは目を閉じた。


 それ以上、2人は長い説明を必要としなかった。


 直樹は彼女を寝台の方へ導いた。カルロッタは途中で1度だけ立ち止まり、扉の方を見た。廊下は静かだった。彼女は自分で蝋燭を1本だけ残し、他の灯りを消した。


 部屋は暗くなった。


 窓の外には、灰で濁ったポルティチの夜があった。遠くで港の鐘が鳴り、ヴェスヴィオが低く唸った。だが、客室の中では、港の騒ぎも、王宮の噂も、ドメニコの咳払いも遠くなっていった。


 カルロッタは直樹の名を小さく呼び、直樹はその声に答えた。


 その夜、2人は恋人として結ばれた。


 夜が深くなる頃、カルロッタは直樹の腕の中で息を整えていた。


 髪はほどけ、頬にはまだ熱が残っている。けれど、表情は落ち着いていた。彼女は後悔している女の顔ではなかった。むしろ、長い間、自分でも知らずに閉じ込めていた扉を、自分の手で開けた女の顔だった。


「明け方までには戻らなければなりませんわ」


「分かっています」


「でも、今だけは……」


 カルロッタは言葉を止めた。


 直樹が続きを急がせることはなかった。


 カルロッタは、しばらくしてから静かに言った。


「今だけは、あなたのそばにいます」


 直樹は彼女を抱き直した。


「これからも、あなたを隣に置きます」


「約束ですわよ」


「約束します」


 カルロッタは目を閉じた。


 その夜、白い電気の光でポルティチの港を輝かせた直樹は、同じ夜にカルロッタを恋人として得た。


 噂は、その翌日にはナポリへ届いた。


 港の酒場で語られ、新聞社の机で見出しになり、役所の廊下で繰り返され、やがて王宮関係者の耳にも入った。ポルティチの港に、油を使わない白い光が灯った。ベッラヴィスタ海運の倉庫が、夜に昼のように輝いた。東洋から来た若い技師ナオキ・モローが、その光を作った。


 新聞の見出しは、カルロッタの予想より派手だった。


 モロー電光工房、ポルティチの夜を変える。

 ベッラヴィスタ家、若き技師に出資。

 火ではない光、灰の町を照らす。


 そのさらに翌朝、ドメニコは食堂で新聞を広げ、口ひげの下で唸った。


「ずいぶん大きく出たな」


 直樹は落ち着いていた。


「名が出たなら、利用しましょう」


「利用する?」


「はい。見出しが出た以上、こちらから条件を整えます。見たい者には、勝手に見せません。申し込みを取る。港、倉庫、劇場、工場、役所。用途ごとに値段を変える。灯りを置くだけでなく、設置と管理を含めた仕事にします」


 ドメニコは新聞を下ろした。


「光を売るだけではないのか」


「はい。夜を動かす仕事として売ります。港なら安全と荷役の効率を、劇場なら夜の客入りを、工場なら夜間作業を、役所なら町の威信を売ります。光そのものより、光で何ができるかを売る方が大きくなります」


 カルロッタは、小さくうなずいた。


「その方がよろしいですわ。父上、出資者としても、その方が利益は長く続きます。灯りを1度置いて終わりにするより、管理の仕事を持ち続ける方が、港が増えるほど配当も増えます」


 ドメニコは、2人を見比べた。


「もう話ができているようだな」


「昨夜、少し」


 直樹が言うと、カルロッタはカップを置く手を止めた。


「ナオキさん」


「はい」


「余計なことはおっしゃらないで」


「事業の話です」


「本当に?」


 ドメニコが咳払いをした。


「私は聞かない方がよさそうだな」


 そこへ、使用人が入ってきた。


「旦那様。ナポリ県庁から使者が来ています」


「またか」


「いえ、今回は県庁だけではございません。王室の印がございます」


 食堂の空気が変わった。


 ドメニコは椅子から立ち上がった。カルロッタも新聞を置いた。直樹は、手にしていたカップを静かに受け皿へ戻した。


 しばらくして、書斎へ通された使者が、厚い封筒を差し出した。


 封蝋には、王室の紋章が押されていた。紙は上等で、表書きにはドメニコ・ベッラヴィスタの名と、ナオキ・モローの名が並んでいる。


 ドメニコは封を切り、文面を読んだ。


 読み進めるうちに、口ひげの下の表情が硬くなった。最後まで読み終えると、彼は深く息を吐いた。


「国王陛下が、ナポリ王宮でナオキに会いたいそうだ」


 部屋にいた者たちは、すぐには声を出さなかった。


 イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。


 その名は、この時代のイタリアそのものに近かった。統一されたばかりの王国にとって、王はただの遠い飾りではない。旧王国の記憶が残るナポリで、国王の名は重かった。ブルボン王家の王宮を知る町で、サヴォイア家の王の招待状が届く。その意味を、ドメニコもカルロッタもよく分かっていた。


「いつですか」


 カルロッタが聞いた。


「3日後。ナポリ王宮。ナオキ・モローに、昨夜の電気光について説明を求めたい、とある。私にも同席を許す、と」


 ドメニコは手紙を机へ置いた。


「許す、か。王の言葉だな」


 直樹は手紙を見た。


 王からの招待。実際には命令に近い。断ることは簡単ではない。だが、王宮へただ呼ばれて説明するだけでは足りない。港の光は人々を驚かせたが、王宮ではさらに強い形が必要だった。王がその場で価値を認め、モロー電光工房の名を記録するほどのものを見せなければならない。


 直樹は、静かに言った。


「行きます。ただし、見せるものをこちらで整えます」


 ドメニコが目を上げた。


「王宮へ何を持っていく」


「港の光ではありません。王宮の部屋にふさわしい、もっと静かな光を作ります。陛下に献上できる形にして持っていきます」


 カルロッタは直樹を見た。


「献上ですの?」


「はい。王に認めていただくには、ただ見せるだけでは足りません。陛下に受け取っていただき、そのうえで、ナオキ・モローとモロー電光工房の技術として認めていただきます」


 ドメニコは腕を組んだ。


「王に光を渡し、同時にお前の名を認めさせるのか」


「そうです」


「大きく出たな」


「王宮へ呼ばれた以上、小さく出る方が失礼です」


 ドメニコは低く笑った。


「なるほど。お前らしい」


 直樹は続けた。


「もう1つ、お願いがあります。カルロッタさんを同席させてください」


 部屋が静かになった。


「私は光の仕組みを説明できます。ですが、工房の出資、帳簿、王宮へ持ち込む品、今後の設置費用、ベッラヴィスタ家との関係については、カルロッタさんの説明が必要です。彼女はベッラヴィスタ家の実務を見ています。王宮で聞かれるのは、技術だけではないはずです」


 ドメニコは娘を見た。


 カルロッタは背筋を伸ばしていた。


「カルロッタ、お前は行けるか」


「はい、父上。ベッラヴィスタ家の娘として、そして出資側の帳簿を見る者として参ります」


「テレーザも連れて行く。王宮では、形が大事だ」


「承知しましたわ」


 直樹はカルロッタを見た。


「ありがとうございます」


「礼は、王宮で成功してからにしてくださいませ」


 ドメニコは直樹へ向き直った。


「よし。王宮へ行く。だが、その前に支度だ。ナオキ、お前は礼儀も覚えろ。王の前で港の男のように話すわけにはいかん」


「分かりました」


「カルロッタ、お前が教えろ」


「はい、父上」


 カルロッタは答えたあと、少しだけ直樹を見た。


「厳しくいたしますわよ」


「望むところです」


「本当に調子に乗る方ですわ」


 だが、その声にはもう怒りはなかった。


 書斎の外では、また馬車が門の前に止まった。新しい客か、新聞か、役所の者か。誰であれ、もうベッラヴィスタ家の扉を叩く者は途切れないだろう。


 ポルティチの夜は、白い火を見た。


 次にその火を見るのは、ナポリ王宮である。


 だが、その火はもう、ベッラヴィスタ家のものではなかった。


 モロー電光工房の名で灯り、直樹が社長として条件を決め、ベッラヴィスタ家は最初の出資者として配当を受ける。


 そしてカルロッタは、共同経営者ではなく、ベッラヴィスタ家の娘として王宮に立ち、直樹が選んだ恋人として、その光を最初に見届けることになった。

 中編2では、ポルティチの港に白い電気の光が灯り、モロー電光工房の名が一夜で広がった。直樹は社長として人前に立ち、ベッラヴィスタ家を出資者の立場に収める。カルロッタは仕事ではなく、自分自身の意思で直樹の恋人になることを選び、その夜、直樹と結ばれた。噂がナポリへ届いた後、王宮から招待状が届く。直樹は王宮でただ説明するのではなく、王に献上できる新しい光を作り、ナオキ・モローとモロー電光工房の技術として認めさせようとする。ポルティチの夜に灯った白い火は、ついに王宮へ向かう。

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