第7話(前編2)――「金細工師と青い石」
ドメニコの手配により、ナポリの金細工師ジュゼッペ・ヴァレンティがベッラヴィスタ家を訪れる。直樹は手持ちの金貨と宝石をリラに替えようとするが、噴火後の混乱を理由に安く買いたたかれる恐れがあった。そこで同席したカルロッタが、金細工師の値踏みを正面から押し返す。直樹は410リラを得るだけでなく、カルロッタという頼もしい案内役と、2人の距離を近づける小さな真珠のブローチを手にする。
午後になると、灰は少し弱まった。
ポルティチの町は、まだ白く汚れていた。屋根瓦、石畳、馬車の幌、通りの聖母像の肩まで、薄い火山灰をかぶっている。通りを行く馬車の車輪は、乾いた灰を踏んで鈍く鳴った。港の方からは、荷を運ぶ男たちの声と、馬の鼻息と、遠くの鐘の音が聞こえていた。
直樹は、客室から小さな応接室へ移された。
右手には包帯が残っているが、朝よりは指が動く。胸と膝の傷も浅い。歩くと少し痛むが、若い体は戻り始めていた。長く寝ているより、椅子に座って人と話す方が楽だった。
応接室には、厚い布を掛けた丸卓が置かれていた。
窓の外は灰で白い。だが、室内には燭台とランプが灯され、暗さはやわらいでいた。壁にはナポリ湾を描いた絵が掛かり、棚には磁器の壺と銀の杯が並んでいる。古い木の床は磨かれ、歩くたびに低く鳴った。
そこへ、カルロッタが入ってきた。
36歳の長女である。背が高く、父ドメニコに似たはっきりした顔立ちをしていた。派手に飾る女性ではない。だが、黒いドレスの胸元には灰色のレースがあり、髪はきちんと後ろでまとめられていた。手には帳簿と小さな鍵束を持っている。館の金と物を預かる、落ち着いた家の娘の姿だった。
「父から聞きましたわ。今日は、わたくしも同席いたしますね。金細工師とのお話は、こちらで確かめますので、ご安心くださいませ」
カルロッタはフランス語で言った。
「この町では、よそからいらした方が宝石をお売りになると、値を低く見られることがございます。父のお客様に、そのような思いはさせられませんもの」
「助かります。私はこの町の相場を知りません」
「ええ。ですから、今日はわたくしにお任せくださいな。ただし、最後にお決めになるのは、もちろんナオキさんですわ」
カルロッタはそう言って、柔らかく笑った。
まもなく、金細工師が来た。
年は50前後で、小柄な男だった。灰を払った黒い外套を脱ぎ、革の鞄を卓の横へ置く。鞄の中には、秤、分銅、拡大鏡、小さな鑢、黒い石板、紙包みが整然と入っていた。男の指先は細く、爪の周りに黒い粉が入り込んでいた。金や銀を日々扱う手である。
カルロッタが男を紹介した。
「ジュゼッペ・ヴァレンティです。ナポリの金細工師で、父とは長い付き合いですわ」
ジュゼッペは直樹へ礼をした。
「ベッラヴィスタ様のお客様と伺っております」
その言葉だけで、扱いが変わるのが直樹にも分かった。
直樹は懐から小さな革袋を出した。中から金貨を数枚、そして小粒の宝石を包んだ布を出す。
布の上には、小さな指輪、細い鎖、青い石のついたピン、真珠をあしらった小さな飾り、金の留め具が並んだ。
ジュゼッペの目が変わった。
職人の目である。
彼はまず金貨を見た。秤に載せ、重さを量り、縁を確かめる。次に宝石を手に取り、窓際の光とランプの光で見比べた。小さな拡大鏡を片目に当て、青い石をじっと見る。
「よい石でございます」
ジュゼッペは言った。
カルロッタは静かに聞いた。
「お値段を伺ってもよろしいかしら」
ジュゼッペは少し考えた。
「石は良いですね。ただ、今は噴火の後でございます。町の金は救護と修理へ回っております。すぐに高く買える者は少ないですよ」
カルロッタは、ジュゼッペの顔を見た。
「それは町の事情だわ。石そのものの値とは、少し別のお話ではなくて?」
ジュゼッペは軽く咳をした。
「もちろんでございます、奥様」
「では、品を1つずつ見てくださいな」
直樹は、2人のやり取りを黙って見ていた。
カルロッタは帳簿の端に指を置いたまま、ジュゼッペを見ていた。
「町の事情ではなく、この品の値を聞かせてくださいませ」
そのひと言で、ジュゼッペは口を閉じた。灰だの修理だのという話は、もう続けられなかった。
ジュゼッペは、もう1度、金貨と鎖と宝石を見直した。
カルロッタは卓の上の青い石を見てから、直樹の方へ少し身を寄せた。
「ナオキさん、この青い石は、今日はお手元に残した方が良いわ」
声は、ジュゼッペには届かないほど小さかった。
「金貨と細い鎖だけで、当面のお金は賄えるわ。宝石まで急いで売ると、次に売る時、値を下げられやすくなるのよ」
直樹は小さくうなずいた。
「分かりました」
カルロッタは姿勢を戻し、ジュゼッペへ向き直った。
「今日は金貨4枚と、この細い鎖だけにいたします」
ジュゼッペは青い石をもう1度見たが、カルロッタは表情を変えなかった。
「では、その2つで値を出してくださいませ」
ジュゼッペは金貨を1枚ずつ秤に載せた。縁を確かめ、拡大鏡で刻印を見る。次に細い金鎖を黒い石板の上に置き、留め具の細工と重さを調べた。
「金貨4枚で100リラ。鎖は180リラ。合わせて280リラでございます」
カルロッタは、すぐには返事をしなかった。帳簿の端に指を置き、卓の上の金貨と鎖をもう1度見た。
「ジュゼッペ、その値ではお渡しできませんわ」
ジュゼッペは困ったように笑った。
「奥様、町は噴火の後でございます。現金をすぐに用意する者も少なく――」
「それは町の事情ですわ」
カルロッタは静かに遮った。
「父のお客様のお品ですもの。急ぎ売りの値でお渡しするつもりはないの」
ジュゼッペは黙った。
カルロッタは続けた。
「金貨と鎖を合わせて420リラ。それであれば、本日お渡ししてもよろしくてよ」
280リラから420リラである。先ほどの値の1.5倍だった。
直樹は、カルロッタの横顔を見た。柔らかい声で話しているのに、数字は少しも揺れていなかった。
ジュゼッペは金貨をもう1度秤に載せ、鎖の留め具を拡大鏡で見直した。それから、小さく息をついた。
「分かりました。金貨4枚と鎖で420リラ。手数料は10リラいただきます」
「よろしいでしょう」
カルロッタはうなずいた。
「ナオキさん、差し引き410リラです。今日はこれで十分ですわ。青い石を残したまま、服と靴を整えるお金はできます」
直樹はうなずいた。
「それでお願いします」
やがて、卓の上に50リラ紙幣が7枚、10リラ紙幣が4枚、5リラ銀貨が4枚並べられた。合わせて410リラだ。紙幣にはイタリア王国の紋章が印刷され、銀貨は灰の午後の光を受けて鈍く光った。
直樹は、その紙幣と銀貨を見た。
これだけで遠くへ渡れるわけではない。だが、当面の金にはなる。服、靴、帽子、馬車代、町で動くための小さな支払い。その最初の1歩が、この見慣れないリラの紙幣と銀貨から始まる。
ジュゼッペは金貨と鎖を革の鞄にしまい、丁寧に頭を下げた。
「またご用がございましたら、お呼びください」
カルロッタは静かに答えた。
「必要な時は、こちらからお願いすることにいたします。今日はご苦労さまでした」
金細工師が帰ると、応接室には直樹とカルロッタだけが残った。
卓の上には、まだ売らなかった品が残っている。青い石のついたピン、真珠の小さな飾り、細い金の留め具。カルロッタはそれらを布の上へ丁寧に戻した。
「今日は、これでよろしいでしょう」
カルロッタは言った。
「すぐにたくさん売りますと、町で噂になりますわ。けれど、少しずつなら目立ちませんの。父の紹介状ができ、服も整ってから、必要な分だけまた換金なされば良いのよ」
「勉強になります」
「いいえ。知らない町では、急がないことが大切なのよ。急いでいると見られますと、相手は値を下げますから」
カルロッタは、売らなかった品を1つずつ布に包み直した。指輪、青い石のついたピン、金の留め具。最後に真珠の小さな飾りを置くと、直樹の目がそこに止まった。
直樹は、布の上に残った小さな飾りを1つ取った。
それは、真珠を3つ並べた小さなブローチだった。大きな品ではない。だが、金の細工は丁寧で、白い真珠は灰の午後の光の中でやわらかく光っていた。
「カルロッタさん」
「はい」
「これは、受け取ってください」
カルロッタはすぐには手を出さなかった。
「わたくしに、ですの?」
「今日の礼です。あなたがいなければ、私は相場も分からないまま売っていました」
「父のお客様を助けるのは、この家の務めですわ」
「それでも、私から礼をしたいのです。親愛の印として受け取ってください。特別な意味を押しつけるつもりはありません。ただ、感謝しています」
カルロッタは直樹を見た。
彼女は既婚の婦人である。贈り物は、受け取り方を間違えれば噂になる。だが、ここは屋敷の応接室であり、品は小さなブローチだった。指輪でも恋文でもない。直樹の言い方にも、妙な軽さはなかった。
カルロッタは少しだけ表情をやわらげた。
「では、ありがたく頂戴するわ。父のお客様からのお礼として、大切にいたしますね」
そう言って、ブローチを受け取った。
カルロッタは胸元にすぐ留めることはしなかった。手のひらの上で真珠を見つめ、次に直樹へ目を戻した。
「ありがとうございます、ナオキさん」
カルロッタは静かに言った。
直樹は少し考え、手を差し出した。
「よろしければ、私に留めさせてください」
カルロッタは一瞬だけ目を細めた。
既婚の婦人の胸元に、若い男が手を伸ばす。軽い仕草では済まない。だが、ここは父の屋敷の応接室であり、贈り物は父の客人からの礼だった。直樹の声は真剣だった。礼を述べるだけではない。カルロッタという女性に、真正面から好意を示そうとしている響きがあった。
カルロッタは小さくうなずいた。
「ええ。お願いしてもよろしくてよ」
直樹はブローチを受け取った。
カルロッタは胸元の灰色のレースを指で少し整えた。直樹は左手で布を押さえ、右手の包帯に気をつけながら、真珠のブローチをそっと留めた。金具が小さく鳴った。
白い真珠が、黒いドレスの上で静かに光った。
直樹は1歩下がった。
「よく似合います」
カルロッタは目を伏せ、胸元のブローチに指を添えた。
「まあ。そう言っていただけると、嬉しいですわ」
それから顔を上げ、少しだけ笑った。
「大切にいたしますね、ナオキさん」
「こちらこそ。受け取っていただけて、嬉しいです」
窓の外で、馬車の車輪が石畳を鳴らした。灰を払う箒の音が、庭の方から聞こえる。遠くの港では、船の鐘が1つ鳴った。
カルロッタはリラ紙幣と銀貨を小さな革袋に入れ、直樹の前へ置いた。
「これで410リラですわ。服と靴を整え、しばらく町で過ごすには足りるわ」
直樹は革袋を受け取った。
「助かります」
「でも、遠い国へ渡るには足りませんわね。船賃、港での手続き、旅の服、予備のお金が必要だわ」
カルロッタは、布の上に残した青い石へ目を向けた。
「その時は、別の品を換金したら良いわ。今日はまず、目立たない額にしておくのがよろしくてよ」
「分かりました。急ぎすぎないようにします」
「ええ。その方が安心だわ」
カルロッタは帳簿を閉じた。
「それから、明日か明後日には仕立屋を呼ぶわ。その服では、港でも町でも人目を引くわ」
直樹は自分の服を見た。
火山灰と血で汚れ、裂けた上着は応急で直されている。たしかに、これでは町へ出られない。
「お願いします」
「まずは服、それから靴。帽子も必要だわ。ポルティチで帽子なしの若い方が歩いていらしたら、誰でも振り向いてしまうわ」
カルロッタは、少しおかしそうに笑った。
「目立たないための支度も、大事な支度ですわ」
直樹も、つられて少し笑った。
1872年のイタリアで生きるには、金だけでは足りない。身分の紙、紹介者、服、靴、帽子、そして町の目を知る者が必要だった。
この日、直樹はその1つを得た。
カルロッタという、ベッラヴィスタ家の頼もしい案内役である。
前編2では、直樹の持ち物がリラへ替わり、1872年の町で動くための金ができた。金細工師ジュゼッペは噴火後の混乱を理由に安く買おうとするが、カルロッタが交渉を支え、直樹は410リラを得る。さらに直樹は、礼として真珠のブローチをカルロッタに贈り、自分の手で胸元へ留める。ここで2人の間には、まだ表には出せないが、はっきりとした好意の線が生まれた。




