第7話(前編1)――「灰の朝、身分の紙」
ヴェスヴィオの噴火から一夜が明けても、ポルティチの町には火山灰が降り続いていた。直樹はベッラヴィスタ家の客室で手当てを受け、テレーザの食事でようやく体を落ち着かせる。だが、1872年のイタリアで生きるには、傷を治すだけでは足りない。身分を示す紙、信用できる紹介者、そして手元の金をリラに替える道が必要だった。直樹はドメニコに、ナオキ・モローという名でベッラヴィスタ家の客人として保証してほしいと頼む。
翌朝、ポルティチの空は白く濁っていた。
窓の外では、火山灰がまだ細かく降っている。庭の石像、葡萄棚、井戸の縁、馬車の轍まで、薄い灰をかぶっていた。遠くでヴェスヴィオが低く鳴るたび、窓ガラスがかすかに震えた。朝であるのに、客室の中は夕方のように暗かった。
直樹は客室の椅子に座っていた。
右手には包帯が巻かれ、胸と膝にも手当ての布が当てられている。部屋には陶器の水差し、洗面器、麻布、燭台が置かれていた。燭台の火はまだ消されていない。灰で外が暗いためである。電灯はなく、電話もない。聞こえるのは、遠い火山の響きと、屋敷の廊下を歩く靴音だけだった。
扉が静かに叩かれた。
「入りますね」
テレーザが入ってきた。
黒い服の裾には、白い灰が少しついている。腰の鍵束が、歩くたびに小さく鳴った。手には湯を入れた器と、薬草の匂いがする布を持っていた。
テレーザは直樹の前に腰を下ろし、短いフランス語で言った。
「手を見せてください」
直樹は右手を差し出した。
テレーザは包帯をゆっくりほどいた。布の内側には乾いた血がついていた。傷口の周りには、まだ灰が少し残っている。布が肌から離れる時、直樹の指がわずかに動いた。
「痛みますか」
「少しだけです」
テレーザは直樹の顔を見た。
「少しだけなら、よかったです。けれど、無理はしないでください」
声はやわらかかった。
テレーザは湯で湿らせた布を傷の周りへ当てた。手は大きく、指も太い。台所で鍋を持ち、倉庫の鍵を握り、使用人たちを動かしてきた手である。だが、傷に触れる時だけは、力が静かに抜けた。
直樹は黙っていた。
薬草と石鹸と灰の匂いが、近い距離で混じっていた。テレーザは包帯を替えるため、直樹の手首を自分の膝の上へそっと置いた。手当てをする者と、手当てを受ける者の距離だった。だが、ただの事務的な距離ではなかった。
直樹が一瞬だけ目を上げると、テレーザもこちらを見た。
テレーザは小さく笑った。
「もう少しで終わります。きれいに巻いておきますから、安心してください」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。マルコ様を助けてくださった方です。できることはします」
テレーザは包帯を巻き直した。結び目はしっかりしていたが、きつすぎなかった。
「今日は、なるべく体を休めてください。お顔の色がまだよくありません」
「ドメニコさんに話があります」
「はい。伺っています。その前に、少し召し上がってください。温かいものを入れた方が、声も出ます」
テレーザは小机に食事を置いた。
皿には、豆と短いパスタの入った熱いスープがあった。鶏の出汁に、オリーブ油が薄く浮いている。硬いパン、黒いオリーブ、白いチーズ、塩漬けの小魚も添えられていた。小皿には、トマトを煮詰めた赤いソースがある。にんにくと油の匂いが、灰っぽい部屋の空気を少し変えた。
直樹は左手でスプーンを持った。
スープは熱く、塩気が強かった。柔らかく煮えた豆と短いパスタが、灰で荒れた喉をゆっくり通っていく。硬いパンを浸すと、汁を吸って食べやすくなった。オリーブの苦みと小魚の塩気が、口に残っていた灰の味を消した。
「うまい」
直樹が言うと、テレーザの顔が少し明るくなった。
「よかった。ポルティチはナポリのすぐそばです。台所の者たちは、食べ物を褒められると1日機嫌がよくなります」
直樹はもう1口食べた。
日本の味ではない。だが、体が欲しがる味だった。火山の斜面で灰を吸い、血を流し、喉を焼いた体に、温かいスープが戻っていく。直樹はしばらく黙って食べた。
食事が終わるころ、ドメニコ・ベッラヴィスタが客室へ来た。
黒い上着には灰がつき、白い口ひげにも疲れが残っている。だが、背は曲がっていなかった。港の船会社を長く率いてきた男の立ち方だった。
ドメニコは椅子に座り、直樹を見た。
「マルコは夜を越えました」
ドメニコはフランス語で話した。港で商売をしてきた者らしく、言葉は完全ではないが、直樹には十分通じた。
「あなたのおかげです」
直樹は頭を下げた。
「私も助けられました。山で拾われなければ、ここにはいませんでした」
「あなたは、しばらくこの家にいなさい。医者も、そうした方がいいと言っています」
「ありがとうございます。そのことで、お願いがあります」
ドメニコは静かにうなずいた。
直樹は懐から小さな革袋を出した。中には金貨数枚と、小粒の宝石が入っている。机の上に置くと、金貨が鈍い音を立てた。
「私は、この国で身分を示す紙を持っていません。横浜から来たナオキ・モローという者として、ベッラヴィスタ家に保護された客人だと保証してほしいのです」
ドメニコは黙って聞いた。
「それから、この金と石を、少しずつリラに替えたい。私1人で町へ行けば、相場も分かりません。あなたの信用を借りたいのです」
ドメニコは革袋をすぐには取らなかった。
まず直樹の顔を見た。それから、机の上の金貨と宝石を見た。
「分かりました」
返事は早かった。
「紹介状を書きます。あなたはベッラヴィスタ家の客人です。港でも、町でも、そう扱わせます。換金は、私の知る金細工師に見せます。まとめて多くは替えません。噂になりますから」
直樹は深く頭を下げた。
「助かります」
「礼は要りません。息子の命より高い金貨はありません」
ドメニコは立ち上がり、机の上の銀の呼び鈴を鳴らした。
澄んだ音が客室に響いた。すぐに若い使用人が来る。ドメニコは命じた。
「書斎に紙を用意しろ。蝋と印章もだ。ベッラヴィスタ家の名で紹介状を書く」
使用人は頭を下げ、廊下へ下がった。
直樹は、そのやり取りを見ていた。
ここは1986年ではない。電話1本で銀行へ連絡する時代ではない。身分は紙に書かれ、蝋で封じられ、家の印章で支えられる。金も、ただ窓口へ持って行けば替わるものではない。誰の紹介で、誰に見せ、どの店で扱わせるかで、価値も安全も変わる時代だった。
ドメニコは直樹へ向き直った。
「今日の午後、金細工師を呼びます。あなたは外へ出ない方がいい。灰も多い。傷も開きます」
「分かりました」
「紹介状は、私が書きます。ナオキ・モロー。横浜から来た若い商人見習い。噴火で負傷し、ベッラヴィスタ家で保護している客人。これでよいですか」
「それでお願いします」
ドメニコは頷いた。
「よろしい。まず体を治しなさい。先のことは、そのあとで考えればいい」
話が終わると、ドメニコは部屋を出た。
廊下には、使用人の足音、負傷者を運ぶ男たちの声、食器の触れる音が混じっていた。屋敷はまだ救護所のままだった。
テレーザは皿を下げに来た。
「お話は済みましたか」
「済みました」
「よかったです。では、少し横になってください。お疲れでしょう」
声は穏やかだった。
直樹は椅子の背にもたれた。
「少し、休みます」
「それがいいです」
テレーザは空になった皿を盆に載せた。それから、直樹の包帯をもう1度見た。
「痛みが強くなったら、呼んでください。水も包帯も、すぐに持ってきます」
「ありがとうございます」
「今は、遠慮しないでください。ここでは、あなたはお客様です。それに、怪我人です」
テレーザはそう言って、少しだけ微笑んだ。
その笑みは、使用人としての礼儀だけではなかった。マルコを救ってくれた若い異国人を、どうにか休ませてやりたいという、素直な気持ちがあった。
直樹も、それを感じた。
「テレーザさん」
「はい」
「スープ、本当においしかったです」
テレーザは盆を持ったまま、嬉しそうに目を細めた。
「それなら、昼にはもう少し食べやすいものを用意します。喉にやさしいものにしましょう」
そう言って、テレーザは部屋を出ていった。腰の鍵束が、廊下の向こうで小さく鳴った。
窓の外では、馬車の車輪が石畳を鳴らしていた。馬の蹄が火山灰を踏み、鈍い音を残して通り過ぎる。灰はまだ降っている。ポルティチの朝は、白く濁ったままだった。
1872年のイタリアで、直樹の身分は、これから1枚の紙に書かれることになった。
前編1では、直樹が1872年のイタリアで生きるための最初の足場を作った。テレーザの手当てと食事によって体を落ち着かせた直樹は、ドメニコに身分の保証と換金の助けを頼む。ベッラヴィスタ家の紹介状は、直樹にとって身分証であり、安全に町で動くための盾になる。ここで直樹は、ただの遭難者から、ナオキ・モローという名を持つ客人へ変わり始めた。




