第6話(後編3)――「白い錠剤、父の礼」
ポルティチ近くのベッラヴィスタ家の館は、噴火の臨時救護所になっていた。そこでは末息子マルコが、高熱に苦しんでいる。傷は腫れ、医者も命を救う手を失いかけている。直樹は1986年で処方されていた抗生物質を出す。1872年の医者には正体が分からない薬である。それでも父ドメニコは、息子を救うために直樹へ託す。
水が用意された。
エレナがマルコの上体を抱き起こした。弟の寝間着は汗で背中へ貼りつき、首筋から熱い匂いが立っていた。エレナの丸みのある腕が、マルコの肩と背中をしっかり支える。泣き言を言う顔ではなかった。弟の肌の熱を受け、唇を強く結んでいた。
直樹は白い錠剤を一つ、マルコの口へ入れた。
水を少しずつ飲ませる。
マルコはむせた。喉が拒むように動き、水が唇の端からこぼれた。エレナが布で顎を拭いた。
「大丈夫。飲んで。父さんが見ているわ」
エレナは声を抑えて言った。
もう一度、少しだけ水を含ませる。今度は、喉が弱々しく動いた。
錠剤は飲み込まれた。
直樹は、残りの薬をすぐ薬袋へ戻した。
医者はマルコの脈を取り、額に手を置いた。薬を飲ませたからといって、すぐ熱が下がるわけではない。部屋にいる者たちは、それを分かって待った。
外では、ヴェスヴィオの響きがまだ続いていた。
遠くから、地面の下を押すような音がする。窓の隙間から灰が入り、床の上へ薄く積もった。燭台の火は小さく揺れ、人の影を壁へ伸ばす。酢の匂い、血の匂い、汗の匂い、灰の匂いが寝室にこもっていた。
直樹も手当てを受けた。
右手の布を外すと、掌の皮が裂け、ところどころ赤い肉が見えていた。医者はその傷を見て、眉を寄せた。洗面器の水で灰と血を流す。水が傷へ触れた瞬間、直樹の指がわずかに曲がった。
消毒の液がかけられる。
痛みが掌から腕へ上がった。直樹は奥歯を噛んだ。息は乱れたが、声は出さなかった。
イザベッラが、その横顔を見ていた。
黒いドレスの胸元を片手で押さえ、もう片方の手にはロザリオを握っている。大柄で豊かな体つきのため、立っているだけで部屋の中に存在感があった。その時の彼女は、女主人として湯や布の用意を命じながらも、痛みに耐える直樹の頬、灰で荒れた唇、血のにじむ包帯へ目を向けていた。
目が合うと、イザベッラは小さく頷いた。
それは、マルコを救おうとしている男への女主人としての礼だった。
カルロッタは医者の手元を見ていた。
薬袋の扱い、直樹が薬を一つずつ出したこと、医者にすべてを渡さなかったことを見ていた。彼女は不快そうな顔をしなかった。大柄な体で椅子のそばに立ち、厚い胸の前に帳簿を抱えたまま、必要なことを考えていた。
「次に飲ませるのは、いつですか」
ヴィットリオが訳した。
直樹は腕時計を見た。
「数時間後です。熱と呼吸を見ます。水を少しずつ飲ませてください。吐いたら知らせてください」
ヴィットリオが訳すと、カルロッタは頷き、帳簿の余白に時刻を書いた。商売の数字を書く手で、今は弟の命をつなぐ時間を書いていた。
エレナは、弟のそばに戻っていた。
彼女はマルコの額を拭きながら、直樹の右手から血がにじむのを見ると、すぐテレーザへ言った。
「この人の包帯も替えて。灰が入っているわ」
テレーザはすぐに清潔な布を持ってきた。腰の鍵束を鳴らして歩き、直樹の前へ立つ。がっしりした腕で包帯の端を押さえ、医者の邪魔にならない位置へ布を置いた。
「鞄は椅子の横へ置いてください。包帯を巻く時、足元にあると邪魔になります」
ヴィットリオが訳した。
直樹は頷き、鞄を椅子の横へ置いた。
テレーザは清潔な布を医者の手元へ置き、使用人に新しい水を持って来るよう命じた。
包帯が巻かれた。
右手、左肘、膝、胸元の浅い切り傷。どれも灰と石で汚れていた。上着は裂け、シャツには血と煤が残っている。直樹は椅子に座ったまま、手当てが終わるとすぐマルコの呼吸を見た。
息はまだ荒い。
額も熱い。
イザベッラは、女主人として寝室に残った。ロザリオを握り、時々、唇だけを動かす。湯が冷めれば替えさせ、汚れた布がたまればテレーザへ目で知らせた。
カルロッタは帳簿を開いたまま、館に運び込まれる負傷者と必要な物を確認していた。灰で汚れたスカートの裾を気にする様子はない。誰を食堂へ入れるか、どの船員の家族へ水を配るか、倉庫の布をどれだけ出すかを決めていた。
エレナは何度もマルコの汗を拭いた。水を飲ませ、枕の高さを変え、寝間着を直す。その手つきは姉として慣れたものだった。夫のパオロは入口と奥の部屋を行き来し、人の流れを整えた。
ドメニコは息子のそばに座った。
船会社の当主としての顔は、そこにはなかった。年を取った父親として、ただ息子の顔を見ていた。
夜が深くなった。
火山の灰で、外は早く暗くなった。窓の外に街灯は少ない。館の中だけが、燭台とランプの明かりで黄ばんで見えた。部屋の隅では、召使いが水を替え、汚れた布を運び出している。
夜半を過ぎても、マルコの熱は高かった。
額に触れた医者は、顔をしかめた。直樹は腕時計を見た。黒い灰が文字盤の端へ入り込んでいる。針の位置を確かめ、次の薬を出す時間を待った。
水を用意させる。
エレナが再び弟を抱き起こした。マルコが飲み込めるのを確かめてから、直樹は二つ目を飲ませた。今度は先ほどより喉の通りがよかった。
エレナが胸元で十字を切った。
直樹は薬袋をしまった。
夜は、なかなか明けなかった。
屋敷の中では、誰も眠らなかった。外から馬車の車輪の音が聞こえるたび、また負傷者が運び込まれた。玄関では男たちが人を呼び、奥では布と水を求める声が続いた。煙で喉をやられた者の咳が、廊下に響いた。
直樹は椅子に座ったまま、目を閉じなかった。
右手の包帯は熱を持っている。肩は重く、頭は灰を吸いすぎたせいで鈍く痛んだ。唇は乾いていた。マルコの呼吸が変わる瞬間を見落としたくなかった。
テレーザが、水の入った杯を持ってきた。
杯を机に置かず、直樹の手へ直接渡した。大きな手だった。台所で鍋を持ち、洗濯物を絞り、鍵束を持って屋敷を歩いてきた手である。
「飲んでください。顔色が悪いです。あなたも手当てを受けたばかりです」
ヴィットリオが訳した。
直樹は礼を言い、杯を受け取った。
水はぬるかった。直樹は乾いた喉を湿らせるように、少しずつ飲んだ。
イザベッラは、その様子を見ていた。直樹が杯を持つ左手、包帯を巻いた右手、疲れの出た顔へ視線が動く。誰かに気づかれそうになると、彼女はマルコへ顔を向けた。
カルロッタは帳簿を閉じ、直樹のそばへ来た。
「次の薬まで、まだ時間がありますね」
ヴィットリオが訳した。
「あります」
直樹は答えた。
「少しでも座って休んでください。眠れないなら、せめて背を預けてください。あなたが倒れたら、薬のことを聞ける人がいなくなります」
カルロッタの言葉は強かったが、無茶な警戒ではなかった。必要なことを言っているだけだった。
直樹は少しだけ椅子へ深く座り直した。
「分かりました。呼吸が荒くなったら、すぐ起こしてください」
ヴィットリオが訳した。
カルロッタは頷いた。
エレナは、弟の汗を拭く手を止めずに、直樹を見た。
「あなたも眠った方がいいわ」
ヴィットリオが訳す前に、直樹は意味を察した。
「まだ起きています」
エレナは困ったように眉を寄せた。
世話をする女の顔だった。彼女は直樹の右手を見て、次に顔を見た。血と灰で汚れていても、目だけは落ち着いている。その落ち着きが、彼女をかえって不安にさせていた。
「頑固な人ね」
エレナはイタリア語で言った。
ヴィットリオは訳さなかった。
夜明け前、医者が顔を上げた。
マルコの呼吸が、先ほどまでより深くなっている。浅く速かった息が、ゆっくり胸を上下させるようになった。額の汗も変わっていた。熱に浮かされたべたついた汗ではなく、体が熱を外へ出す汗だった。
医者はマルコの脈を取った。
何度も確かめた。
それから、ドメニコを見た。
部屋の者たちが、医者の口元を見た。
医者は低い声で告げた。
ヴィットリオが直樹へ訳した。
「熱が下がってきた」
イザベッラの手の中で、ロザリオが小さく鳴った。
エレナは口元を押さえた。カルロッタは椅子の背を握ったが、すぐ手を離し、姿勢を戻した。パオロは壁際で大きく息を吐き、ヴィットリオは天井を見上げたまま動かなかった。テレーザは洗面器を持ったまま立ち止まり、それから静かに水を替えに行った。
ドメニコは立ち上がった。
マルコの頬には、まだ赤みが残っている。傷も治っていない。だが、死へ向かっていた熱が、初めて戻る方向へ動いた。それは、部屋にいた者全員に分かった。
マルコのまぶたが震えた。
薄く目が開く。
唇が動いた。
「父さん……」
かすれた声だった。
確かに父を呼んだ。
その一言で、イザベッラの肩が大きく揺れた。それでも彼女は膝を落とさず、ベッドの柱に手を添えて立っていた。エレナは弟の手を握り直し、頬を濡らした。カルロッタは顔を背けたが、すぐ戻した。次に水を飲ませる準備をするためだった。ヴィットリオは窓際へ行き、灰で汚れた窓の外を見た。パオロは片手で目元を押さえた。
ドメニコは、息子の手を握った。
大きな手だった。
船、港、契約、金、怒号、荒波。そのすべてを握ってきた手が、今は息子の指を包んでいた。マルコの手はまだ熱かった。だが、指先にわずかな力が戻っていた。
しばらくして、ドメニコは直樹の前へ来た。
直樹は立ち上がろうとした。肩が痛み、動きが遅れた。ドメニコは片手を上げ、座ったままでよいと示した。
それから、深く頭を下げた。
62歳の当主が、灰と血で汚れた日本人の前に頭を下げた。
イザベッラも立ち上がり、直樹へ向き直った。涙で目は濡れていたが、姿勢は崩れていない。豊かな黒いドレスの胸元でロザリオが光った。カルロッタ、エレナ、ヴィットリオ、パオロも並んだ。テレーザは一歩後ろに控えていた。
ヴィットリオが訳した。
「父は言っています。あなたは、マルコの命の恩人だ。この家はその恩を忘れない。ベッラヴィスタの名にかけて、あなたを助ける、と」
直樹は包帯を巻いた右手を見た。
灰と血で汚れた服。裂けた上着。痛む肩。鞄の中には、まだ薬、金、小粒の宝石、方位磁石、火を起こす道具、針と糸がある。リモコンは失った。戻る道はない。
だが、直樹はもう火山の斜面に一人でいるわけではなかった。
直樹はドメニコを見た。
「しばらく、ここに置いてください。言葉も土地も分かりません。身を整える時間が必要です」
英語で言った。
ヴィットリオが訳した。
ドメニコは、すぐに頷いた。
迷いのない返事だった。
カルロッタが、そこで初めて口を開いた。
「客室を一つ空けます。薬を使う時間は私が帳簿に書きます。水と食事も用意します。必要なものがあれば、ヴィットリオに言ってください」
ヴィットリオが訳した。
直樹はカルロッタへ頭を下げた。
そこに疑いや敵意はなかった。家を動かす長女が、必要な手順を決めた。
イザベッラは、直樹の包帯を巻いた手元を見ていた。夫の前で視線を長く留めることはしなかったが、手当てを受けた男が無理をしていることは分かっていた。
「先に温かいものを飲ませて。灰を吸っているわ」
イザベッラが言った。
テレーザは頷いた。
「部屋を用意します。静かに休める部屋を。鞄も置けるようにしておきます」
ヴィットリオが訳した。
直樹はテレーザを見た。
玄関で直樹を椅子へ座らせた女中頭が、今は休む場所を整えようとしていた。
エレナは、マルコのそばから直樹へ小さく頷いた。世話をする女の顔であり、末弟の命を救われた姉の顔でもあった。
外では、まだヴェスヴィオが鳴っている。
窓の外の空は灰色で、朝日も弱かった。庭の葉には白い灰が積もり、噴火の夜がまだ完全には終わっていないことを示している。
寝室の中では、マルコの呼吸が続いていた。まだ弱いが、胸は先ほどより深く上下している。医者もエレナも、その変化を見逃さなかった。
ドメニコは直樹の前に立ち、もう一度、胸に手を当てた。
それは、息子を救われた父親の礼だった。
後編3では、直樹が抗生物質を使い、マルコの命をつなぐ。1872年の医者には薬の正体は分からないが、マルコの高熱は夜明け前に下がり始める。ベッラヴィスタ家は、直樹を怪しい客としてではなく、救助された負傷者であり、マルコを救った恩人として受け入れる。カルロッタは、薬の時間、水、客室、必要な物を実務として整える。テレーザも、休める部屋を用意する。直樹は、ポルティチで船会社ベッラヴィスタ家という大きな後ろ盾を得る。




