第6話(後編1)――「枝をつかんだ右手」
直樹とフランス女は、1872年4月26日、イタリア王国ナポリ近郊、ヴェスヴィオ火山北西斜面の上空へ転移した。地上へ降りるはずだった座標は、直樹が飛びついた衝撃で狂っていた。二人の下には、噴火中の火山がある。赤い溶岩、黒い岩肌、硫黄の臭い、灰の混じった熱風。リモコンを持つフランス女はなおも逃げようとするが、直樹は彼女を離さない。二人はもつれ合ったまま、火山の斜面へ落ちていく。
落下の途中で、直樹は空と地面の区別を失いかけた。
灰が目に入り、風が耳を裂いた。硫黄の臭いが喉を焼き、息を吸うたびに胸の奥がざらついた。フランス女は叫んでいた。だが、その声は風に砕かれ、すぐに聞こえなくなった。
下では、ヴェスヴィオ火山の斜面が赤く光っていた。
黒い岩肌に、溶岩の筋が走っている。ゆっくり流れているように見えたが、近づくにつれて、その熱が顔を刺した。山肌の裂け目から白い煙が吹き上がり、灰色の空へ横向きに流れていく。火山の腹の底からは、低い唸りが続いていた。
直樹はフランス女の体を離さなかった。
女の右手にはリモコンがある。ここで離せば、女は落ちる。だが、リモコンも一緒に落ちる。もしどこかの岩場へ落ちて生き残れば、また逃げるかもしれない。もし途中で操作できれば、別の時代へ消えるかもしれない。
逃がせない。
それだけが、直樹の頭に残っていた。
次の瞬間、二人の体は黒い斜面へ叩きつけられた。
地面に落ちたというより、熱い石の壁にぶつかったようだった。背中、肩、膝、肘。どこから当たったのか分からない。全身に衝撃が走り、息が一気に抜けた。口の中へ灰と血の味が広がる。
それでも、落下は終わらなかった。
斜面が急だった。
二人は岩にぶつかりながら滑り落ちた。服が裂け、手のひらの皮が削れ、靴底が石をこすった。直樹は右手で岩をつかもうとしたが、熱くて握れない。小石が指の間を抜け、爪が割れそうになった。
フランス女は、直樹の左腕の先で暴れていた。
彼女はまだリモコンを握っている。手袋は破れ、指の間に灰が入り込んでいた。さっきまで成城の書斎で冷たい顔をしていた女は、今は必死に直樹の腕を振りほどこうとしていた。
「離しなさい」
ようやく声が聞こえた。
「離して」
直樹は答えなかった。
答える余裕がなかった。
下に、溶岩の流れが見えた。
赤い。
ただ赤いだけではない。黒い膜の下から、どろりとした火が覗き、ところどころで黄色く光っている。流れの縁では、岩が焼け、白い煙が上がっていた。そこへ落ちれば、助からない。
直樹は歯を食いしばった。
このまま滑れば、二人とも溶岩へ落ちる。
岩肌は熱く、手をかける場所がない。足を踏ん張ろうとしても、灰と小石が崩れていく。体は止まらない。フランス女の重さも加わり、直樹の左腕は千切れそうだった。
その時だった。
右手に、何かが当たった。
硬い。
岩ではない。
直樹は考える前に、それをつかんだ。
太い枝だった。
崖の途中から、焼け残った大きな木が斜めに生えていた。幹は黒く煤け、葉の多くは灰をかぶっていたが、根は岩の割れ目に食い込んでいる。枝は直樹の右手の中で大きくしなり、嫌な音を立てた。
体が止まった。
止まった瞬間、肩に激痛が走った。
右腕が抜けるかと思った。左腕にはフランス女の重みがぶら下がっている。直樹の体は崖の途中で宙に浮き、右手一本で枝を握っていた。左手はフランス女の右手首をつかんでいる。
すぐ下では、溶岩が流れていた。
熱が顔をなぶる。髪の先が焦げるような臭いがした。靴底からも嫌な臭いが上がっている。灰はまだ降っている。風が吹くたび、枝が揺れた。
直樹は息を吐いた。
生きている。
まだ落ちていない。
右手に枝。
左手にフランス女。
フランス女は、直樹の左手にぶら下がっていた。
彼女の足元には何もない。崖の下には赤い溶岩がある。リモコンは彼女の手の中にある。だが、そのリモコンを操作する余裕はない。少しでも直樹の手が離れれば、そのまま下へ落ちる。
この瞬間、生きるか死ぬかを決めているのは、フランス女ではなかった。
直樹だった。
フランス女も、それを理解した。
顔が白くなっていた。灰で汚れた頬に、汗が筋を作っている。目は大きく開き、唇は震えていた。成城で家政婦を人質に取った時の冷たさはない。五反田と高輪を焼かせた女の余裕もない。
ただ、落ちたくない女の顔だった。
直樹は、枝を握る右手に力を込めた。
皮がむけ、血が滲んでいる。枝の表面は熱く、ざらついていた。腕の筋肉が震える。長くは持たない。
それでも、直樹は声を荒げなかった。
穏やかに聞いた。
「助けてほしいか」
フランス女は、息を詰まらせた。
「当たり前でしょう」
「なら、答えろ」
「引き上げて。先に引き上げて」
「答えろ」
直樹の声は低かった。
風の音の中でも、はっきり届いた。
「尚人さんをどこへやった」
フランス女は直樹を見上げた。
目に、まだ計算が残っていた。恐怖の中でも、この女は取引を考えている。答えれば助かるのか。黙れば引き上げてもらえるのか。嘘をつけるのか。どこまで話せばいいのか。
直樹は、その目を見ていた。
右手の枝が、ぎしりと鳴った。
「早くしろ。枝が折れる」
「答えたら助けてくれるの」
「もう一つ答えたら助けてやる」
「もう一つ?」
「尚人さんの叔父さんのことだ」
フランス女の目が揺れた。
直樹はさらに言った。
「倉田俊介をどこへやった。お前たちのことだ。どこかへ送ったんだろう」
フランス女は黙った。
下から、熱い風が吹き上がった。
灰が二人の顔に叩きつけられる。直樹の右腕が震えた。左手で握っている女の手首が、汗と灰で滑りかける。フランス女は小さく悲鳴を上げ、直樹の手を強く握り返した。
「言え」
直樹は言った。
「嘘をついたら、その場で離す」
「分かった。言うわ」
フランス女は、息を乱しながら答えた。
「尚人は、1946年2月の東京よ」
直樹の目が細くなった。
やはり東京。
尚人と順子が消えた先は、終戦直後の東京だった。
「場所は」
「有楽町の近く。焼け跡よ。あの女と一緒に飛ばした」
直樹は、その言葉を頭に刻んだ。
1946年2月。
東京。
有楽町付近。
尚人さんは生きているかもしれない。
その事実が、熱と灰の中で、一本の杭のように直樹の胸へ刺さった。
だが、まだ終わりではない。
「倉田俊介は」
フランス女は、目をそらした。
「言ったでしょう。もう一つ答えるって」
「答えろ」
「1898年7月」
フランス女は、ようやく言った。
「カナダよ。ユーコン準州。ドーソン・シティの近く」
直樹は息を止めた。
大阪ではなかった。
満州でもない。
北京でもない。
北米の奥地だった。
カナダ北西部、ユーコン。クロンダイク川とユーコン川が合流するあたりに、金を求める人間が集まっている時代である。直樹は細かな地理までは知らなかった。だが、クロンダイク・ゴールドラッシュという言葉は聞いたことがある。金鉱、雪、川、丸太小屋、荒くれ者、山師、犬ぞり、酒場。東京の焼け跡とは、まるで別の世界だった。
「ドーソンのどこだ」
「町の外よ。クロンダイク川沿い。採掘場へ向かう道のそばだったはずよ」
直樹は、枝を握る右手に力を込めた。
熱で乾いた枝が、ぎしりと鳴った。下では溶岩が赤く流れている。フランス女はその音を聞き、顔を引きつらせた。
「そこで降ろした。あとは知らない。本当よ。私はそこまでしか聞いていない」
「なぜ、そんな場所へ送った」
「戻れない場所にしたかったのよ」
フランス女は、息を乱しながら言った。
「日本から遠い。言葉も違う。時代も違う。あの頃のドーソンは、金を求めて集まった男たちであふれていた。町の外へ出れば、川と森と山ばかり。食料も道具もなければ、生きるだけで精いっぱいよ。倉田俊介が誰に助けを求めても、日本の警察には届かない」
直樹は、フランス女を見下ろした。
「死んだことにできると思ったのか」
「そうよ。あんな土地で人間ひとり消えても、誰も日本まで追えない。金を探しに来た男が倒れたのか、川に落ちたのか、森へ入って戻らなかったのか、誰にも分からない。戸籍も、証拠も、遺体も、何も戻ってこない」
直樹の左手に力が入った。
フランス女が痛みに顔をゆがめた。
「痛い」
「美奈子さんも痛かっただろうな」
直樹は静かに言った。
「真紀さんも痛かったはずだ」
「私は答えたわ。助けると言ったでしょう」
「ああ。言った」
直樹は、右手で枝を握り直した。
枝は熱で乾き、表面が少し割れている。右肩は外れそうに痛んでいた。左手には、まだフランス女の手首がある。その手の中には、リモコンが握られている。
直樹は、一瞬だけリモコンを見た。
未練はあった。
あれがあれば、ここから戻れるかもしれない。尚人のいる1946年東京へも、倉田俊介のいる1898年のユーコンへも、道が開くかもしれない。成城の金庫には、まだ二つ残っている。だが、今この場で失うリモコンにも価値はあった。
それでも、直樹は分かっていた。
リモコンを奪おうとして手を伸ばせば、枝はもたない。フランス女が暴れれば、二人とも落ちる。自分が生き残らなければ、得た情報を誰にも伝えられない。尚人も、倉田俊介も救えない。
直樹は、フランス女の目を見た。
女は助かると思っていた。
答えたのだから、取引は成立したと思っている。引き上げられたあとで、また隙を見て逃げればいい。リモコンさえ手にあれば、時代を変えられる。そういう目だった。
その目を見て、直樹の中で最後の迷いが消えた。
「助けると言ったな」
「言ったわ。あなたが」
「俺は、お前を地獄から助けてやるとは言っていない」
フランス女の表情が変わった。
「何を」
直樹は言葉を続けなかった。
左手を開いた。
後編1では、直樹とフランス女がヴェスヴィオ火山の斜面へ落ち、溶岩へ滑り落ちる寸前で直樹が崖の枝をつかむ。直樹は右手で枝を握り、左手でフランス女の手首をつかむ形になる。生死を握られたフランス女は、尚人が1946年2月の東京、有楽町付近にいることを白状する。さらに、倉田俊介は1898年7月のカナダ北西部ユーコン準州、ドーソン・シティ近郊へ送られたと答える。直樹は必要な情報を得ると、リモコンごとフランス女を溶岩へ落とす。フランス女との対決はここで決着するが、直樹自身はまだ火山の崖に取り残されている。




