第6話(中編2)――「ヴェスヴィオの空」
理恵の体当たりで、直樹はフランス女のナイフを避けることができた。家政婦は手下二人をロープで縛り、電話へ走る。だが、フランス女はすでにリモコンを握っていた。彼女が選んだ逃走先は、1872年4月26日、イタリア王国ナポリ近郊、ヴェスヴィオ火山北西斜面である。直樹はその転移を止めるため、フランス女へ体ごと飛びつく。二人の体がぶつかった衝撃で、行き先の高さが狂い、地上ではなく火山の上空へ転移する。
フランス女は、リモコンを握っていた。
直樹はその手元を見た。
表示には、すでに行き先が出ている。
1872年4月26日。
イタリア王国。
ナポリ近郊。
ヴェスヴィオ火山北西斜面。
直樹は息をのんだ。
過去のイタリアへ逃げる気だ。
この女は、日本の警察から逃げるだけではない。時代そのものを変えて、自分の痕跡を消すつもりだった。リモコンを持ったまま過去へ行けば、名前も身分も捨てられる。別の時代へ移ることもできる。金や宝石を集めることも、別の土地で別の顔を作ることもできる。
逃がせば、終わらない。
直樹は走った。
フランス女の背中へ飛びつく。片腕を胴に回し、もう片方の手でリモコンを握った腕を押さえた。フランス女の体が前へつんのめる。香水の匂いが直樹の鼻を刺した。汗と焦りの匂いも混じっていた。
「離しなさい」
「離すわけがない」
フランス女は肘で直樹の顔を打とうとした。直樹は顎を引き、腕に力を込めた。女の体は細く見えたが、力は弱くなかった。必死に暴れ、リモコンを持つ手を振りほどこうとする。
床では、縛られた手下二人が身をよじっていた。
家政婦は廊下の電話へ走っていた。黒電話の受話器を取る音がする。番号を回す音が、赤い光の中で妙に遠く聞こえた。
理恵は机に手をつき、立ち上がろうとしていた。
直樹は、フランス女の手首をさらに強く押さえた。
その瞬間、二人の体が机の角にぶつかった。
フランス女の手が跳ねた。
リモコンの表示が乱れた。
場所の文字が揺れ、数字が細かく走った。直樹には全部を読む余裕はなかった。ただ、高さを示す欄が一瞬おかしな値を示したことだけは見えた。
まずい。
そう思った時には、フランス女の指が最後の決定に触れていた。
書斎の床が消えた。
理恵の顔が遠ざかった。家政婦が黒電話の受話器を握ったまま、こちらを向いている。口が動いているが、声は聞こえない。手下二人は床の上で目を見開いていた。
次の瞬間、成城の家は消えた。
◇ ◇ ◇
最初に来たのは、風だった。
横殴りの風が、直樹の顔を叩いた。息を吸おうとして、喉が焼けるように痛んだ。空気の中に、硫黄の臭いがあった。腐った卵に似た臭いに、焦げた石と熱い金属のような匂いが混じっている。
直樹は反射的に目を細めた。
灰が飛んでいた。
細かな灰が、砂のように頬を打つ。口の中へ入り、舌に苦い粉が残った。鼻の奥が痛い。喉も痛い。耳元では、ごうごうと風が鳴っていた。
そして、足の下に床がなかった。
直樹はフランス女を抱えたまま、空中にいた。
下に、火山があった。
黒い斜面が大きく広がり、その裂け目から赤い火が走っている。溶岩だった。赤く光る筋が山肌を下り、白い煙が幾筋も立ち上がる。黒煙はまっすぐには上がらず、風に押されて横へ流れていた。
噴火している。
ヴェスヴィオ火山だった。
フランス女が叫んだ。
その声は風に裂かれ、すぐに灰の中へ消えた。さっきまで成城の書斎で冷たい顔をしていた女から、初めて余裕が消えていた。髪は乱れ、頬には灰が貼りついている。目だけが大きく開き、下の火口を見ていた。
直樹は、その体を離さなかった。
離せば、フランス女はリモコンを持ったまま落ちる。あるいは、最後の瞬間にまた逃げるかもしれない。直樹は片腕で女の胴を締め、もう片方の手でリモコンを持つ手首を押さえ込んだ。
下から熱い風が吹き上がった。
服の裾が乱れ、灰が目に入る。直樹は歯を食いしばった。火山の音が腹の底に響いた。ごう、という低い音のあと、どこかで破裂音がした。赤い火の粒が、黒い煙の中へ舞い上がる。
地面は遠い。
しかし、確実に近づいていた。
直樹とフランス女は、落ちている。
フランス女はリモコンを動かそうとした。
直樹はその手首をねじった。
「やめろ」
「離して」
「逃がさない」
風の音で、言葉はほとんど消えた。それでも、フランス女には伝わった。彼女は直樹を振りほどこうとした。直樹の手の甲に爪が食い込む。痛みが走る。血がにじんだ。だが、直樹は離さなかった。
赤い溶岩が、下で揺れていた。
山肌には黒い岩がむき出しになり、ところどころに火の筋が走っている。煙は厚く、視界を奪う。空は昼のはずなのに、灰で暗かった。太陽の光は薄く濁り、灰色の雲の向こうでぼんやりしている。
直樹は、表示に見えた文字を思い出していた。
1872年4月26日。
イタリア王国。
ナポリ近郊。
ヴェスヴィオ火山北西斜面。
地上へ出るはずだったのだ。
フランス女は、噴火の混乱に紛れて姿を消すつもりだった。過去のイタリアに降り立ち、リモコンを持って別の場所へ移るつもりだったのだろう。
だが、直樹が体ごと飛びついた。
机にぶつかり、手元が狂った。
高さがずれた。
二人は、火山の斜面ではなく、その上空へ放り出された。
直樹の耳に、成城の家の音はもう残っていなかった。
理恵の声も、家政婦の電話の声も、手下二人の呻きもない。
あるのは、風と灰と、火山のうなりだけだった。
フランス女は、なおもリモコンを動かそうとする。
直樹は腕に力を込めた。
落下の感覚が強くなった。胃が浮き、視界が揺れる。下の赤い火が、少しずつ大きく見える。
ヴェスヴィオ火山の上空で、直樹とフランス女はもつれ合ったまま落ちていった。
中編2では、フランス女が成城の金庫からリモコンを奪い、1872年4月26日のイタリア王国ナポリ近郊、ヴェスヴィオ火山北西斜面へ逃げようとする。直樹は逃がさないために体ごと飛びつき、フランス女の腕を押さえる。その衝撃でリモコンの座標が狂い、二人は地上ではなく噴火中のヴェスヴィオ火山の上空へ転移する。東京の書斎で始まった対決は、灰と硫黄の臭いが満ちる火山の空へ移った。




