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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第6話(中編1)――「成城の金庫」

五反田と高輪を同時に狙われ、直樹はフランス女が逃げるだけの相手ではないことを知る。美奈子と真紀は殺され、里佳だけが偶然生き残った。残る敵は、フランス女と手下二人である。直樹は成城の家へ戻る。そこには、杉山亜希子が改良した3つのリモコンが金庫にしまわれている。追い詰められたフランス女が次に狙うとすれば、金でも書類でもなく、その道具である。

 (1986年9月20日土曜日午前、東京・高輪宝栄ビル前)


 高輪宝栄ビルの前には、まだ水の匂いが残っていた。


 消防車がまいた水は、歩道の端で灰と混じり、黒い筋になって流れていた。銀鈴堂の看板は煤で汚れ、金文字の上に細かな灰が貼りついている。5階の窓は黒く抜けていた。そこが、美奈子の部屋だった。


 直樹は歩道に立ち、しばらくその窓を見上げていた。


 昨日、美奈子はあの部屋で笑っていた。


 夜の店を辞め、銀鈴堂の店長になる。昼の光の中で働く。宝石を扱う店に立つ。そう言って、照れたように笑っていた。真紀も、そこへ祝いに来たのだろう。里佳の話では、3人は乾杯していたという。


 その部屋が、黒く焼けていた。


 美奈子も真紀も、もう戻らない。


 直樹は、足元に落ちていた小さなガラス片を見た。水に濡れた破片が、朝の光を受けて鈍く光っている。美奈子がこれから立つはずだった店の前で、こんな物だけが残っていた。


 怒りは、声にならなかった。


 叫べば楽になるかもしれない。誰かを殴れば、体だけは少し動くだろう。だが、それでは足りない。フランス女は、そういう怒りを待っている。怒った男が前だけを見て走れば、横から刺せる。家を燃やし、女を殺し、次にこちらを焦らせる。それが相手のやり方だった。


 直樹は顔を上げた。


 成城だ。


 あの女が次に来るとすれば、成城の家である。


 金ではない。書類でもない。リモコンだ。


 直樹はバイクへ戻った。


 エンジンをかけると、排気の匂いが煙の臭いと混じった。ヘルメットの内側に、まだ高輪の焦げた臭いが残っている。直樹は振り返らなかった。


 バイクは高輪を離れ、朝の東京を走った。


 通勤の車が増え始めている。タクシー、配送車、会社員を乗せた乗用車。信号で止まるたび、直樹の手はアクセルにかかったまま固くなった。焦ってはいけない。だが、遅れてもいけない。


 五反田で眠っていた部屋は爆破された。


 高輪では、美奈子と真紀が死んだ。


 フランス女は、直樹が生きていると知れば、次に必ず道具を取りに来る。過去へ逃げる道を手に入れれば、日本の警察も、直樹の追跡も、すべて振り切れると思うはずだった。


 成城の住宅街に入るころ、空は白く明るくなっていた。


 高輪の煙が嘘のように、生垣の葉は濡れて光っていた。庭木の青い匂い、どこかの家から漂う朝食の匂い、遠くで鳴く犬の声。静かな町だった。だが、直樹には、その静けさが薄い紙のように頼りなく感じられた。


 直樹は門の脇にバイクを止めた。


 ヘルメットを外し、玄関へ向かった。鍵を開ける手に煤が残っている。扉を開けると、家の中はひんやりしていた。磨かれた床に朝の光が細く入り、廊下の奥で柱時計が時を刻んでいた。


 台所の方から、家政婦が顔を出した。


「直樹様。お戻りでございましたか」


「奥の書斎へ行きます。しばらく誰も通さないでください」


「はい。お茶をお持ちしましょうか」


「いりません」


 直樹の声が硬かったのだろう。家政婦はそれ以上聞かなかった。廊下の奥の客間には、理恵が来ていた。直樹はそちらへ顔を向けず、奥の書斎へ向かった。今は話をしている時間がなかった。


 直樹は奥の書斎へ入った。


 部屋には、本棚の匂いと、古い紙の匂いがあった。厚いカーテンの隙間から朝の光が入り、机の角だけを白く照らしている。壁際に金庫があった。黒い鉄の扉は、部屋の中で一番冷たい物に見えた。


 直樹は番号を合わせ、鍵を差し込んだ。


 金具が重く動く音がした。


 扉を開ける。


 中には、改造済みのリモコンが3つ並んでいた。


 直樹はそれを見た瞬間、少しだけ息を吐いた。まだある。奪われていない。だが、それは安全を意味しなかった。むしろ、相手がこれから来る理由が、まだここに残っているということだった。


 直樹は1つずつ手に取った。


 重さを確かめる。表面の傷を確かめる。杉山亜希子が手を入れた部分は、外から見ても分からない。だが、以前のような危うさは消えている。点検口を通らず、送り手が巻き込まれない形になっている。


 直樹は3つを机に並べた。


 その時だった。


 廊下の向こうで、床板が鳴った。


 家政婦の足音ではなかった。


 成城の家で暮らす者は、廊下をあんなふうには歩かない。硬い靴底が、磨いた板を踏む音だった。ひとつではない。複数の足音である。


 直樹はリモコンを机の上に置いたまま、書斎の入口へ目を向けた。


 廊下から家政婦の声がした。


「お待ちください。奥へはお通しできません」


 次の瞬間、短い悲鳴が聞こえた。


 直樹は机の前を離れた。


 だが、遅かった。


 書斎の襖が開いた。


 最初に入ってきたのは、フランス女だった。


 黒い上着に、薄い手袋。髪は後ろでまとめている。顔立ちは整っていたが、そこに柔らかさはなかった。目だけが、冷えた刃物のように細く光っていた。


 後ろに男が二人いた。


 一人は肩の厚い大柄な男である。もう一人は細身で、目の動きが速い。二人とも土足のまま廊下に立っていた。大柄な男の腕には、家政婦が捕まっている。口を押さえられ、目を見開いていた。


 フランス女は、机の上のリモコンを見た。


 表情はほとんど変わらなかった。


 だが、視線だけがはっきり動いた。


「そこにあったのね」


 直樹は机と女の間に立った。


「五反田と高輪をやったのは、お前だな」


「あなたが生きていたからよ」


「美奈子さんと真紀さんは関係ない」


「あなたの近くにいたわ」


 フランス女は、何のためらいもなく言った。


「それだけで十分でしょう」


 直樹の中で、何かが音を立てずに切れた。


 だが、足は動かさなかった。動けば家政婦が傷つく。大柄な男はそれを分かっている。家政婦の肩を押さえる手に、さらに力を入れた。


 家政婦が顔をゆがめた。


「動かないで」


 フランス女が言った。


「あなたが近づけば、その女が先に痛い目を見るわ」


「人を盾にしないと入って来られないのか」


「勝つためなら、何でも使うわ」


 直樹は相手の位置を見た。


 フランス女は机まで三歩。リモコンまでは四歩。大柄な男は廊下寄り。細身の男は書斎の中へ半歩入っている。家政婦は大柄な男の腕の中にいる。


 机の上には、リモコンが3つ。


 床には何もない。


 武器になりそうなものは、机の上の文鎮、本棚の重い本、椅子だけである。


 細身の男が、ゆっくり横へ動いた。


 直樹の視線を分けるための動きだった。直樹はそれを見た。見たが、すぐには反応しなかった。反応すれば、フランス女が机へ行く。


 大柄な男が家政婦を前へ出す。


 フランス女が一歩、机へ近づいた。


 直樹はそこで動いた。


 まず、机の上の文鎮を取った。


 狙ったのはフランス女ではない。大柄な男の手元だった。直樹の投げた文鎮が、男の手首に当たった。鈍い音がして、男の握りがゆるむ。


 家政婦が身をよじった。


「走れ」


 直樹が叫んだ。


 家政婦は男の腕から抜け、廊下へ転がるように逃げた。


 細身の男が、その背中を追おうとした。


 直樹は横から入った。肩で男の胸を押し、体ごと本棚へぶつける。本が数冊、床へ落ちた。男の息が詰まり、膝が折れる。


 大柄な男が直樹へ向かってきた。


 直樹は椅子を蹴った。椅子の脚が男の膝に当たり、男の体勢が崩れる。直樹はその腰へ飛び込み、両腕で押した。大柄な男は踏ん張ったが、板の床で靴底が滑った。二人は廊下の方へ倒れ込んだ。


 家政婦は廊下の壁に手をつき、息を荒くしていた。


「物置のロープを」


 直樹は床の上から言った。


「早く」


 家政婦は震えながらも、廊下を走った。


 フランス女は、机へ向かった。


 直樹は起き上がろうとした。だが、大柄な男が足にしがみついた。細身の男も床で身を起こしている。


 フランス女の手が、机の上のリモコンへ伸びた。


 直樹は足を振りほどき、大柄な男の胸へ膝を入れた。男がうめく。直樹はその腕を後ろへ回し、床に押さえ込んだ。そこへ家政婦がロープを持って戻ってきた。


「手首を縛ってください。きつく」


「はい」


 家政婦の指は震えていた。


 しかし、縛り始めると力が入った。庭仕事で使う太いロープだった。大柄な男の手首を後ろで縛り、次に細身の男へ移る。


 その間も、フランス女はリモコンから目を離さなかった。


 直樹は立ち上がった。


 フランス女は小さなナイフを抜いた。


 刃が朝の光を受け、白く光った。見せるための持ち方ではない。刺すために握っている。


「下がりなさい」


 フランス女が言った。


「それは置け」


「嫌よ」


 フランス女の手には、リモコンがあった。


 直樹は踏み込もうとした。


 その瞬間、フランス女が先に動いた。ナイフの切っ先が直樹の胸へ来る。直樹は体をひねった。刃は上着を裂いた。布の切れる音が、やけにはっきり聞こえた。胸の皮膚に熱い痛みが走ったが、深くは入っていない。


 直樹は床を蹴って距離を取った。


 フランス女は追ってきた。


 背後では、家政婦が細身の男を縛っている。大柄な男は床でうなっている。書斎は、落ちた本、倒れた椅子、乱れたロープでめちゃくちゃになっていた。


 直樹は呼吸を整えた。


 フランス女は冷静だった。


 その冷静さが危なかった。怒鳴らない。取り乱さない。目的は直樹を殺すことではない。リモコンを持って逃げることだ。直樹が少しでも遅れれば、女は消える。


 廊下の奥で、別の足音がした。


 直樹は一瞬、耳を疑った。


 軽い足音だった。


 次に、女の声がした。


「直樹さん」


 倉田理恵だった。


 理恵は廊下から書斎へ飛び込んできた。顔は青ざめている。だが、足は止まらなかった。状況をすべて理解しているわけではない。それでも、フランス女の手にナイフがあり、直樹が追い詰められていることだけは分かったのだろう。


 理恵は、フランス女の腕へ体ごとぶつかった。


 小柄な体だった。


 しかし、迷いがなかった。


 フランス女の肩がずれた。ナイフの切っ先が直樹から外れる。理恵はその手首にしがみつき、必死に振った。ナイフが床へ落ちた。金属音が書斎に響き、刃は机の脚に当たって止まった。


「今です」


 理恵が叫んだ。


 直樹は床を蹴った。


 フランス女が理恵を突き飛ばす。


 理恵は壁に肩をぶつけ、息を詰まらせた。だが、倒れなかった。


 直樹は理恵の横を抜け、フランス女の腕へ手を伸ばした。フランス女はリモコンを握り直した。表示が光った。

中編1では、直樹が高輪宝栄ビルの惨事を見届けたあと、成城の家へ戻る。誰かに説明したり、相談したりする場面は入れず、行動だけで進めた。成城の金庫には、杉山亜希子が改良した3つのリモコンが残っている。そこへフランス女と手下二人が押し入り、家政婦を人質にしてリモコンを奪おうとする。直樹は手下二人を押さえようとするが、フランス女はリモコンを手にし、ナイフで直樹を追い詰める。そこへ倉田理恵が飛び込み、フランス女の腕に体当たりしてナイフを落とす。

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