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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第6話(前編2)――「燃えた朝、残った声」

羽鳥、田口、店長を消した直樹は、五反田の遊興ビルへ戻り、短い眠りに落ちる。だが、追い詰められた大ボスのフランス女は、逃げるのではなく反撃に出た。まだ残っていた二人の手下に命じ、直樹がいる五反田の遊興ビルと、美奈子が暮らす高輪宝栄ビルの部屋を同時に狙わせたのである。直樹は胸騒ぎで目を覚まし、間一髪で外へ出る。だが、高輪では、美奈子の銀鈴堂店長就任を祝っていたピンサロ時代の同僚たちが、思いがけない惨事に巻き込まれる。

 直樹は朝まで眠るつもりだった。


 五反田の遊興ビルの部屋は古く、布団には干したばかりの匂いと、防虫剤の匂いが混じっていた。下の階からは、夜の店の名残のような低い音楽がまだ少しだけ響いていた。遠くで車が通るたび、窓ガラスがかすかに鳴った。


 直樹は一度、深く眠りかけた。


 羽鳥、田口、店長はもういない。黒岩、芳江、矢部と同じ場所へ送り込んだ。あとは大ボスのフランス女を探すだけである。そう考えたところで、意識が沈んだ。


 だが、眠りは長く続かなかった。


 胸の奥に、固い石を押し込まれたような重さが来た。息が詰まり、直樹は目を開けた。部屋は暗い。窓の外では、五反田の灯が薄く残っている。時計を見ると、夜明けにはまだ早かった。


 音はしていない。


 誰かが階段を上がる足音もない。廊下で人が話す声もない。ただ、建物全体が妙に静かだった。酒の匂い、煙草の匂い、古い畳の匂い。その全部が急に濃くなり、鼻の奥にまとわりついた。


 直樹は布団から起き上がった。


 理由は分からなかった。


 だが、体がここにいるなと言っていた。


 直樹は鞄をつかんだ。上着を羽織り、靴を履く。湯の入ったポットも、机に置いたままの書類も、そのままにした。廊下へ出ると、古い板張りが足の下で小さく鳴った。階段の方へ向かう途中、背中に冷たいものが走った。


 管理人室の前を通る。


 中から寝息が聞こえた。直樹は一瞬だけ足を止めた。起こすかどうか迷った。しかし、胸の重さは次の瞬間まで待つなと訴えていた。


 直樹は非常階段へ向かった。


 鉄の扉を押すと、夜明け前の空気が顔に当たった。雨上がりの湿り気がまだ残っている。コンクリートの階段は冷たく、手すりには水滴がついていた。直樹は足音を殺さず、早足で下りた。


 ビルの外へ出た時だった。


 背後で、世界が裂けた。


 最初に来たのは光だった。白く、黄色く、目を刺すような光がビルの窓から噴き出した。次に音が来た。腹の底を殴るような重い音である。直樹の体は前へ押し出され、濡れた舗道に膝をついた。


 熱が遅れて襲ってきた。


 背中に熱風が当たり、首筋が焼けるように痛んだ。ガラスの破片が雨のように降った。看板が揺れ、電線が震え、どこかの店のシャッターが金属音を立てた。夜明け前の五反田に、女の悲鳴と男の怒鳴り声が一斉に上がった。


 直樹は振り返った。


 さっきまで自分が寝ていた部屋のあたりから、黒い煙が噴き出していた。窓枠は歪み、カーテンの切れ端が火をつけたまま外へ垂れている。建物の壁には黒い煤が広がり、焦げた木と畳と電線の臭いが、湿った朝の空気へ流れ込んできた。


 直樹の耳はしばらく音を失った。


 口の中に、粉っぽい味があった。砂か、灰か、割れた壁の粉か分からない。舌にざらつきが残った。


 自分を狙った爆発である。


 誰がやったかは、考えるまでもなかった。


 フランス女である。


 羽鳥たちが戻らない。潮路も黒岩も消えた。証拠が抜かれた。そう知った女が、逃げるより先にこちらを潰しに来たのだ。


 直樹は煙に向かって一歩踏み出しかけた。


 その時、胸の重さがまた来た。


 今度は五反田ではなかった。


 高輪。


 美奈子。


 直樹の喉が固まった。


 美奈子の部屋は、高輪宝栄ビルの5階にある。1階には銀鈴堂がある。昨日、美奈子はそこを自分の新しい場所として受け取った。夜の店を出て、昼の店の店長として生きる入口を得たばかりだった。


 直樹は通りへ飛び出した。


 タクシーを探す時間も惜しかった。停めていたバイクへ走る。濡れた道で足が滑り、手の甲を壁にぶつけた。痛みはあったが、構っていられない。


 エンジンがかかった。


 直樹は高輪へ向かった。


 夜明け前の東京は、まだ完全には起きていなかった。だが、五反田の一角だけは火と煙でざわめいていた。後ろでサイレンの音が鳴り始める。直樹はそれを背中で聞きながら、濡れた道路を走った。


 風が顔に当たる。


 煙の臭いが鼻から抜けない。さっきの爆発の熱が、まだ背中に貼りついている。指は冷えているのに、掌の中だけ汗ばんでいた。


 高輪へ近づくにつれ、空の色が少し明るくなった。


 直樹は、どうか何も起きていないでくれと考えた。そんな都合のよい願いを、今さら信じてはいなかった。それでも考えずにはいられなかった。


 だが、高輪宝栄ビルの近くへ入った時、その願いは砕けた。


 通りの先に煙が見えた。


 五反田よりも細いが、確かに黒い煙だった。人が集まっている。パジャマ姿の住人、新聞配達の少年、近所の店の者、通行人。誰もが上を見上げている。女の泣き声が聞こえた。焦げた木の臭いに、布と化粧品が焼けたような甘く嫌な臭いが混じっていた。


 高輪宝栄ビルの5階だった。


 美奈子の部屋の窓は、黒く抜けていた。


 直樹はバイクを止め、走った。


 1階の銀鈴堂の前には、割れたガラスが散っていた。シャッターの一部が歪み、看板には煤がついている。店そのものは燃え尽きてはいない。だが、上から落ちた破片が歩道に散らばり、真珠色の小さな飾り板が黒い水に濡れていた。


「美奈子さん」


 直樹は声を出した。


 その声は、自分でも驚くほどかすれていた。


 階段へ向かおうとした時、奥から女がよろめくように出てきた。


 直樹は、その女を知らなかった。


 髪は乱れ、顔には煤がついている。薄い上着を羽織っただけで、足元は裸足に近い。右手には、火の消えた煙草が挟まれていた。指が震えていて、煙草の先の灰が落ちた。


 女は直樹の顔を見た。


 怯えた目だった。だが、すぐに何かを思い出したように、息を詰めた。


「あなた……直樹さんですか」


 直樹は一瞬、答えられなかった。


「そうです。あなたは」


「里佳です。美奈子と真紀と、同じ店で働いていました。美奈子から、あなたのことを聞いていました。夜の店を辞めさせてくれて、銀鈴堂の店長にしてくれる人だって……」


 里佳はそこまで言い、唇を震わせた。


「美奈子が……真紀が……」


 声が途切れた。


 直樹は里佳の肩を支えた。面識はない。だが、今ここで倒れさせるわけにはいかなかった。


「里佳さん、どこにいたんですか」


「廊下です。煙草を吸いに、廊下へ出ていました。部屋の中が暑くて、少しだけ外に出たんです。本当に少しだけ。美奈子が、戻ったらもう一度乾杯しようって笑っていました。真紀が、明日から店長なんだから、顔をむくませるなってからかって……」


 里佳は息を吸った。


 吸った息が震え、吐く時に泣き声へ変わった。


「その時、音がしたんです。部屋の中が光って、ドアがこっちへ飛んで、体が壁にぶつかりました。耳が何も聞こえなくなって……戻ろうとしたけど、熱くて、煙がすごくて、入れませんでした」


 直樹は階段を見た。


 上から煙が下りてくる。火は完全には収まっていない。住人らしい男たちが、濡れた布を口に当てて階段を上がろうとしている。誰かが「危ない、下がれ」と叫んだ。消防のサイレンが近づいている。


 直樹は里佳を近くの壁際へ座らせた。


「ここにいてください。動かないで」


「だめです。もう無理です。あの部屋には入れません。美奈子も、真紀も……」


 里佳は直樹の袖をつかんだ。


 直樹はその手を外せなかった。


 その時、上から男が降りてきた。顔を黒くし、咳き込んでいる。水をかぶった上着から煙が上がっていた。


「中はだめだ。奥の部屋は崩れている。女が2人いるが、もう動いていない」


 その言葉が、直樹の耳に入った。


 動いていない。


 美奈子と真紀。


 昨日まで笑っていた女たちだった。


 美奈子は銀鈴堂の店長になると決まって、子どものように喜んでいた。夜の店を辞め、昼の店へ移る。真珠のネックレスを首に当て、鏡の前で照れたように笑った。


 真紀も、美奈子を祝うために来ていたのだろう。ピンサロ時代の同僚として、昨日まで同じ空気を吸っていた女たちである。里佳もそこにいた。3人で朝まで祝っていた。酒の匂い、化粧品の匂い、笑い声、女同士の軽口。部屋には、そういうものが残っていたはずである。


 それが、今は煙と焦げた臭いに変わっていた。


 直樹は階段を上がった。


 誰かが止めた。


「危ない。入るな」


 直樹は振りほどかなかった。ただ、黙って階段を上がった。壁は熱を持ち、手すりは煤で黒い。足元にはガラス片、木片、化粧品の瓶の破片、濡れた布が落ちていた。水が階段を流れ、黒い筋を作っている。煙が目にしみた。喉の奥が焼けるように痛い。


 5階の廊下は、別の場所になっていた。


 昨日、美奈子が暮らし始めたばかりの階である。まだ新しい生活の匂いがあった場所だった。新しい寝具、買ったばかりの食器、化粧品、服、靴、鞄。銀鈴堂の店長としての明日を支えるものが、そこにそろっていた。


 だが、今は違う。


 壁紙はめくれ、天井は黒く煤け、廊下の床には水と灰が広がっていた。ドアは枠ごと歪み、部屋の奥は煙でよく見えない。割れたガラスが、消防の光を受けて小さく光っていた。


 直樹は入口の前で立ち止まった。


 中へ入ることはできなかった。


 熱と煙が残っているだけではない。そこへ一歩入れば、自分の中の何かが戻らなくなると分かった。


 部屋の奥に、倒れた家具の影があった。テーブルの脚、割れた皿、倒れた椅子。床には、祝いのために開けたらしい瓶が転がっていた。ラベルは煤で読めない。グラスの破片が水に濡れ、薄い光を返している。


 美奈子。


 真紀。


 直樹は声を出さなかった。


 出せば、叫びになる。


 後ろから消防の男が来て、直樹を押し戻した。


「下がってください。危険です」


 直樹は抵抗しなかった。


 階段を下りる時、足音が遠く聞こえた。自分の足で歩いているのに、自分の体ではないようだった。


 外へ出ると、朝が来ていた。


 空は薄く白み始めている。高輪の通りには、煙と水と人の声が混じっていた。消防車の赤い光が、濡れた路面に映っている。銀鈴堂の看板は煤で汚れ、昨日までのきれいな金文字がくすんで見えた。


 里佳は歩道に座り込んでいた。


 肩に誰かの上着をかけられている。顔は濡れていた。涙なのか、煙で出た水なのか分からない。指には、まだ消えた煙草が挟まれていた。


 直樹は里佳の前にしゃがんだ。


「里佳さん」


 里佳はゆっくり顔を上げた。


「私だけ、外にいたんです。ほんの少し、煙草を吸いに出ただけなんです。美奈子が、戻ったら乾杯し直そうって言っていました。真紀が、もう寝ろって笑っていました。私は、すぐ戻るつもりだったんです」


「分かりました」


「分かってないです。私だけ助かったんです。美奈子も真紀も中にいたのに、私だけ廊下に出ていたんです」


 里佳の声が崩れた。


 直樹は、その言葉を否定しなかった。今ここで「そんなことはない」と言っても、里佳の耳には届かない。助かった者は、助かったことを責める。死んだ者は、もう何も言えない。


 直樹はただ、里佳の肩に手を置いた。


「あなたは生きていてください。美奈子さんと真紀さんが最後に何を話していたかを、知っている人が必要です」


 里佳は泣きながら首を振った。


「美奈子、本当に嬉しそうでした。店長になるって。もう夜の店に戻らなくていいって。私たちで乾杯したんです。真紀が、あんたに昼の顔なんかできるのかってからかって、美奈子が、できるわよ、私は宝石より光る女になるんだからって……」


 里佳はそこまで言い、両手で顔を覆った。


 直樹は立ち上がった。


 胸の奥にあった石は、もう消えていた。


 代わりに、冷たい鉄のようなものが残っていた。怒りである。だが、熱く燃え上がる怒りではなかった。声を荒げる怒りでもない。静かで、重く、折れない怒りだった。


 フランス女は、逃げるために爆破したのではない。


 直樹を殺し、美奈子を消し、証拠を消し、周囲の人間に恐怖を植えつけるためにやった。五反田の部屋を狙い、高輪の部屋を狙った。直樹がどこにいるか、美奈子がどこに移ったかを、まだ残っている手下に調べさせたのだ。


 手下は二人残っている。


 羽鳥たちを失っても、フランス女の手は完全には切れていなかった。


 直樹は高輪宝栄ビルを見上げた。


 煙はまだ出ている。5階の窓は黒く、朝の光の中で穴のように見えた。昨日、美奈子の明日の入口になった部屋が、今は焼けた口を開けている。


 直樹は拳を握った。


 爪が掌に食い込んだ。痛みははっきりしていた。その痛みで、自分がまだここに立っていることが分かった。


「フランス女」


 直樹は低く言った。


 誰に聞かせる声でもなかった。


「お前だけは、許さない」


 遠くでまたサイレンが鳴った。


 五反田の方角からも、まだ煙が上がっているはずだった。直樹の部屋も燃えた。書類もいくつか失われたかもしれない。だが、直樹は生きている。鞄も手元にある。リモコンも失っていない。


 そして、里佳が生きている。


 直樹とは初対面でも、美奈子と真紀の最後の時間を知る者が、1人生き残った。


 直樹は里佳へ向き直った。


「里佳さん。病院へ行ってください。煙を吸っています。ここで無理をすると倒れます」


「私は……どうしたらいいんですか」


「まず手当てを受けてください。そのあと、安全な場所へ移します。あなたが狙われる可能性があります」


 里佳は目を見開いた。


「私もですか」


「美奈子さんと真紀さんと一緒にいた。美奈子さんから俺の話も聞いていた。向こうがそれを知れば、あなたも放っておかないかもしれません」


 里佳は唇を震わせた。


「美奈子と真紀は」


 直樹はすぐには答えられなかった。


 言葉を選ぶ必要があった。


「俺が責任を持ちます。二人をこのままにはしません」


 里佳はまた泣いた。


 直樹は、燃えた5階をもう一度見た。


 朝の光が少しずつ強くなっていた。だが、その光は何も救っていなかった。濡れた舗道、割れたガラス、煤けた看板、泣き崩れる里佳、上を見上げて黙る人々。すべてが朝の中へはっきり出てきた。


 直樹は覚えた。


 美奈子の笑顔。


 真紀のからかう声。


 里佳の震える手。


 焦げた布の匂い。


 煙で痛む喉。


 ガラスを踏む音。


 銀鈴堂の煤けた看板。


 この朝のすべてを、直樹は忘れないと決めた。


 フランス女への追跡は、ここから別の意味を持った。


 証拠を追うだけではない。


 土地詐欺の線を断つだけでもない。


 奪われたものに、答えを返すための追跡になった。

前編2では、羽鳥たちを失ったフランス女が、残る手下二人を使って直樹と美奈子を同時に狙う。直樹は胸騒ぎで目を覚まし、五反田の遊興ビルから外へ出た直後に爆発を逃れる。しかし、高輪宝栄ビルでは、美奈子、真紀、里佳の3人が銀鈴堂店長就任を祝って朝まで飲んでいた。3人はピンサロ時代の同僚であり、里佳は直樹と面識がない。ただし、美奈子から直樹の話を聞いていた。里佳だけは部屋の外で煙草を吸っていたため助かるが、美奈子と真紀は命を落とす。直樹は現場の惨状を見て、フランス女への復讐を固く誓う。

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