第6話(前編1)――「五反田の先生」
1986年9月20日深夜、直樹は横須賀の居酒屋「潮路」から、芳江の手帳、矢部の住所録、羽鳥修一の連絡先、京浜土地建物㈱と白金台に関わる封筒を回収した。倉田佑馬を死へ追い込んだ詐欺の線は、潮路から五反田へ伸びていた。直樹は尚人が持っていた五反田の遊興ビルへ入り、証拠を整理する。羽鳥が使う事務所は、そこから徒歩5分ほどの雑居ビルにあった。朝を待てば、相手は逃げる。直樹はその夜のうちに、羽鳥、田口、店長の3人を押さえに向かう。
(1986年9月20日土曜日深夜、神奈川県横須賀市・居酒屋「潮路」裏口)
直樹が潮路の裏口に鍵をかけた時、横須賀の夜は雨上がりの匂いを残していた。
鞄の中には、芳江の手帳、矢部の住所録、羽鳥修一の連絡先、京浜土地建物㈱と白金台の封筒が入っている。倉田佑馬を死へ追い込んだ線は、ようやく形を持った。
直樹は表通りへ出ると、停めていたバイクに戻った。次に追う羽鳥は、五反田に近い場所で動いている。ならば、尚人が持っていた五反田の遊興ビルへ入るのが早い。
夜道を走りながら、直樹は段取りを決めた。
羽鳥は午前中に見つける。五反田の小さな事務所を押さえる。捕まえた後は、黒岩、芳江、矢部のいる場所へ放り込む。そこで仲間同士、好きなだけ言い訳をすればいい。
五反田に着くと、直樹はビルの裏口から管理人を呼んだ。
「今夜、上の部屋を使う。尚人さんが寝泊まりしていた部屋があるはずだ。布団と湯を用意してくれ」
管理人は驚いたが、余計なことは聞かなかった。
部屋の窓からは、五反田のネオンが滲んで見えた。直樹は証拠の封筒を机に並べた。残るのは羽鳥、田口、店長、そして大ボスのフランス女だった。
◇ ◇ ◇
直樹は机に並べた封筒とメモを、もう一度順に確かめた。
芳江の手帳、矢部の住所録、羽鳥修一の連絡先。そこに書かれていた住所を、五反田の地図へ重ねる。線を引いてみるまでもなかった。羽鳥が使っている事務所は、この遊興ビルから歩いて5分ほどの場所にある。表向きは小さな会社の一室である。だが、潮路、黒岩、芳江、矢部へ続いた糸は、そこへ向かっていた。
窓の外では、五反田のネオンが雨上がりの舗道に滲んでいた。下の店から、酒と煙草と安い香水の匂いが階段を伝って上がってくる。遠くでタクシーのドアが閉まり、酔った男の笑い声が夜気にほどけた。
直樹は時計を見た。
朝まで待つ気はなかった。
待てば相手が動く。潮路に電話がつながらないと分かれば、羽鳥も田口も店長も、逃げるか、誰かに連絡を取る。今なら、まだ慌てている。電話の前にいる可能性が高い。
直樹は封筒を鞄に戻し、上着を羽織った。管理人には何も言わず、裏口から外へ出た。雨はやんでいたが、路面はまだ濡れている。靴底がアスファルトを踏むたび、薄い水が音を立てた。五反田の夜は眠っていない。焼鳥の煙、古いビルの湿った壁の匂い、排気ガス、酒場から漏れる熱気が混じり、空気そのものが少し重かった。
雑居ビルは、細い通りの奥にあった。
入口の蛍光灯は片方が切れかけ、白い光が震えている。壁には古いテナント看板が並び、剥がれた文字の跡が灰色に残っていた。直樹は中へ入り、エレベーターを見た。夜間停止の札が掛かっている。
階段を使った。
コンクリートの階段は湿っていた。手すりは冷たく、古い埃が指先にざらついた。下の階からは、まだ営業しているスナックの笑い声と、調子の外れた歌が聞こえてくる。2階、3階、4階と上がるにつれ、その音は壁の中へ沈み、代わりに蛍光灯の低い唸りと、自分の足音だけが耳に残った。
5階へ通じる鉄のドアの前で、直樹は足を止めた。
中から声が聞こえる。
直樹はドアノブをそっと回した。鍵は掛かっていない。ドアを少しだけ開けると、細い通路に黄色い光が漏れていた。5階には小さな部屋が5つほど並んでいる。どのドアも暗い。だが、一番奥の部屋だけ明かりがついていた。
直樹は音を立てずに進んだ。
床の長尺シートは古く、ところどころ浮いている。靴底が吸いつくように鳴った。奥の部屋のドアへ近づくと、中の声がはっきりした。電話をしている男の声である。声は上ずっていたが、相手に対して強く出ている様子はない。むしろ、叱責を受けながら必死に弁明しているようだった。
「申し訳ありません。潮路には、さっきから何度も電話を入れております。しかし、誰も出ません。芳江も矢部も戻っておりません。黒岩とも連絡が取れないままです」
受話器の向こうから、女の声がかすかに漏れた。
低い声だった。怒鳴ってはいない。だが、言葉を短く切るような冷たさがあった。
「言い訳は聞きたくないわ。あなたは、何をしていたの」
羽鳥は、受話器を握る手に力を入れた。
「はい。おっしゃる通りです。こちらの確認が遅れました。ただ、潮路と黒岩の両方が同時に消えるとなると、偶然ではありません。こちらでも、何か起きたと見ております」
「何か、では困るのよ。芳江の手帳は。矢部の住所録は。黒岩が持っていたものは。そこからこちらへ線が伸びたら、あなたでは止められないでしょう」
「承知しております。すぐに人を出します。潮路の店内を確認させ、残っている物があれば回収します。田口を向かわせます。店長にも動かせます」
部屋の中で、別の男が小声で言った。
「先生、俺が行くんですか」
「田口、黙っていろ。今は電話中だ」
羽鳥は声を荒げたが、それは電話の相手に向けたものではなかった。すぐに口調を戻した。
「失礼しました。はい。田口はここにおります。店長も一緒です。すぐに動かせます」
受話器の向こうの女が、短く何かを言った。
羽鳥の返事が、さらに硬くなった。
「はい。分かっております。証拠になるものは残しません。もし潮路側が抜かれていた場合は、田口と店長を切ります。必要なら、私も身を隠します」
さらに別の声が低く続いた。
「先生、早く動いた方がいいんじゃないですか。黒岩さんも連絡が取れません。潮路もこの時間で誰も出ないなら、もう誰かに入られています」
羽鳥、田口、店長。
3人がそろっていた。
直樹は一度だけ息を吸った。古いビルの埃と煙草の匂いが鼻の奥へ入った。次の瞬間、体が先に動いた。
ドアは大きな音を立てて内側へ開いた。
部屋の中にいた3人が、同時にこちらを見た。机の上には電話、灰皿、書類、飲みかけの缶コーヒーが散らばっている。蛍光灯の光は強すぎ、男たちの顔色を青白く見せていた。
「誰だ」
羽鳥が言いかけた。
直樹は答えなかった。
狭い事務所の床を一気に詰め、最初に立ち上がりかけた男を倒した。椅子が後ろへ跳ね、机の角に当たって金属音を立てた。次の男が腕を上げたが、直樹は肩からぶつかり、壁際へ押し込んだ。蛍光灯が揺れ、天井の埃が白く落ちた。最後の男は電話機を握ったまま固まっていた。直樹が踏み込むと、受話器が床へ落ち、相手の声だけが細く漏れた。
「もしもし。どうしたの。もしもし」
返事をする者はいなかった。
部屋の中には、倒れた椅子、こぼれたコーヒー、煙草の灰、男たちの荒い息だけが残った。直樹は3人の顔を順に見た。年齢、体つき、声の調子。手帳と住所録で見た名前が、ようやく目の前の人間になった。
「羽鳥修一」
直樹が言うと、眼鏡の男が唇を震わせた。
「田口」
若い方の男が目をそらした。
「店長」
残った男の顔から血の気が引いた。
3人とも、名前を呼ばれただけで自分の立場を理解した。
直樹は鞄からリモコンを出した。狭い部屋の空気が、一瞬だけ冷えたように感じられた。赤い光が開き、壁も机も蛍光灯も、その色に沈んだ。男たちは声を上げる間もなく、光の向こうへ引きずり込まれた。
次に開けた場所は、黒岩たちのいる場所だった。
空気の温度も匂いも違う。湿った夜の五反田ではない。息を吸うと、土と草と、遠い水の匂いがした。黒岩、芳江、矢部の顔が、暗がりの中でこちらを向いた。そこへ羽鳥、田口、店長の3人が転がされた。
「仲間が増えたぞ」
直樹は低く言った。
羽鳥は最初こそ口を閉ざそうとした。だが、黒岩たちの顔を見て、すぐに強がりを失った。芳江は羽鳥の顔を見た瞬間、目をそらした。矢部は何か言いかけたが、声にならなかった。田口と店長は、互いに責任を押しつけるように、ばらばらに話し始めた。
直樹は必要なことだけを聞いた。
羽鳥が先生と呼ばれていたこと。田口が現場の雑用を動かしていたこと。店長が店を通じて女と客の流れをつないでいたこと。そして、その上にフランス女がいること。
3人は、最後にはそれを認めた。
直樹はそれ以上、相手に時間を使わなかった。
「お前たちは、ここで黒岩たちと相談していろ。誰が悪かったか、朝まででも一生でも話せばいい」
羽鳥が何か叫んだ。
直樹は聞かなかった。
背後の青い光が、まだ消えずに残っている。直樹は鞄を握り直し、光の中へ戻った。
五反田の事務所には、まだ電話の受話器が床に落ちていた。蛍光灯は揺れをおさめ、机の上のコーヒーだけが茶色い筋を作っている。直樹は部屋を見回し、必要な書類だけを拾った。灰皿の煙はすでに消え、焦げた煙草の苦い匂いだけが残っていた。
外へ出ると、5階の通路は静かだった。
階段を下りる。1階に近づくにつれ、また酒場の歌声が戻ってくる。外の空気は冷たく、濡れた舗道にネオンが揺れていた。直樹は来た道を歩いて、尚人の遊興ビルへ戻った。
部屋に入ると、管理人が用意した布団が敷かれていた。湯の入ったポットもある。古い畳には、煙草と防虫剤と人の出入りの匂いが染みついていた。直樹は上着を脱ぎ、鞄を枕元へ置いた。
残る大きな相手は、大ボスのフランス女である。
そこまで考えたところで、体がようやく重さを思い出した。肩に鈍い痛みが残っている。手の甲には擦った跡があった。直樹は湯を飲み、口の中に残っていた埃の味を流した。
窓の外では、五反田の灯がまだ消えていない。
直樹は布団に入った。下の店から低い音楽が漏れていたが、まもなく遠くなった。雨上がりの夜の匂いと、古い畳の匂いに包まれながら、直樹は朝まで眠った。
前編1では、直樹が横須賀の潮路で得た証拠をもとに、五反田の羽鳥事務所へ踏み込む。羽鳥は大ボスのフランス女に電話し、潮路、芳江、矢部、黒岩との連絡が途絶えたことを報告していた。直樹はそこへ踏み込み、羽鳥、田口、店長の3人を制圧する。3人を黒岩たちのいる場所へ送り込み、羽鳥が「先生」と呼ばれていたこと、田口と店長が現場を動かしていたこと、その上にフランス女がいることを認めさせる。直樹は五反田の遊興ビルへ戻り、朝まで眠る。だが、追い詰められたフランス女は、このあと逃げるのではなく、思い切った反撃に出る。




