第5話(後編3)――「金鉱の泥、潮路の自白」
直樹は、尾形芳江と矢部辰夫を1986年の横須賀から、1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊へ直送する。そこは、かつて黒岩辰夫が送り込まれた場所である。黒岩はもはや五反田の顔役ではない。泥にまみれ、縄で縛られ、金鉱を掘る奴隷になっていた。直樹は、芳江と矢部に黒岩の姿を見せる。逃げ場も言い訳もない異国の金鉱で、2人は倉田開発㈱の1億円詐欺、京浜土地建物㈱の50億円詐欺、そして先生と呼ばれる羽鳥修一の名を白状していく。
熱い空気が、肺に入った。
湿った横須賀の夜ではない。
むっとする暑さと、土と草と腐った木の匂いが押し寄せてきた。虫の音は大きく、遠くで鳥の声もした。地面はぬかるみ、靴の裏に泥がまとわりつく。
直樹、芳江、気を失った矢部の3人は、森の端に出ていた。
少し先に、土を掘り返した場所が見える。浅い穴がいくつもあり、泥にまみれた男たちが石を砕き、川の水で砂を洗っていた。金を探しているのである。
火の明かりが揺れていた。
粗い布を着た男たちが、刃物や棒を持って歩いている。言葉は分からない。だが、命令と怒声だけは分かる。逆らえば殴られる場所である。
芳江は、その場で膝を折りそうになった。
「何よ、ここ……」
声が震えていた。
潮路の女将として客を見ていた顔は、もうなかった。自分の店でも、横須賀の裏道でもない。看板も電話も常連もいない。ここでは、芳江の愛想も、矢部の名簿も、先生の肩書きも何の役にも立たない。
矢部がうめいた。
気が戻りかけている。
直樹は矢部の襟をつかみ、森の影へ引き起こした。矢部は目を開けた。最初は、自分がどこにいるのか分からない顔だった。横須賀の路地ではない。潮路の裏でもない。見たことのない熱い空気、泥の穴、知らない男たち、刃物、火の明かり。
そして、矢部は黒岩を見た。
泥の穴のそばに、黒岩辰夫がいた。
かつて五反田で大きな顔をしていた男は、見る影もなかった。服は泥にまみれ、髪は乱れ、顔には疲れと飢えが張りついている。手首には粗い縄があり、肌には擦れた傷があった。彼は石を砕く男たちの列に混じり、腰を曲げて泥を掘っていた。
金を貸し、女を縛り、部屋と借金で人を動かしてきた男は、今度は自分が金鉱を掘る側に落とされていた。
黒岩興業もない。
銀行もない。
登記簿も電話もない。
怒鳴って動かせる手下もいない。
黒岩辰夫は、金鉱掘りの奴隷になっていた。
矢部の顔から血の気が引いた。
「黒岩……さん?」
黒岩も、その声に反応した。
泥の中で顔を上げる。目が直樹を見つけた瞬間、黒岩の表情が歪んだ。
「お前……」
黒岩はそれだけ言った。
すぐに近くの男が棒で黒岩の背中を叩いた。黒岩は息を詰まらせ、また石へ向き直った。ここでは、日本語の怒鳴り声など何の力もなかった。
芳江は両手で口を押さえた。
「嘘でしょう。あの黒岩さんが……」
「ここでは、黒岩さんもただの奴隷です」
直樹は言った。
「あなたたちも、残れば同じになります」
矢部は震え始めた。
「戻せ。戻してくれ。ここはどこだ。私は何もしていない」
「倉田佑馬さんを知っていますね」
「知らない」
直樹は芳江へ目を向けた。
「芳江さんは」
「知らないわ。店に来た客の名前なんて、いちいち覚えていない」
直樹は、芳江の布袋から抜いた手帳を開いた。
「倉田。京浜。白金。羽鳥。分け前の数字。これでも知らないと言いますか」
芳江の唇が震えた。
矢部が芳江を睨んだ。
「お前、そんなものを残していたのか」
その言葉で、直樹は2人の関係を完全に見た。
矢部は情報を渡す男。
芳江は店で客を拾い、金の流れを押さえる女。
どちらか片方の犯行ではない。
2人で動いていた。
直樹は、2人を泥の上に座らせた。
「白状してください。倉田開発㈱の1億円、京浜土地建物㈱の50億円、白金台、宮下、羽鳥。すべてです」
芳江は目をそらした。
「話したら、戻してくれるの」
「戻すとは言っていません」
「ふざけないで」
「ふざけているのは、あなたたちです。倉田佑馬さんは死にました」
芳江は黙った。
直樹は続けた。
「あなたたちは、金を奪っただけではない。人を死なせた。会社を壊した。家族を壊した。それでもまだ、ただの居酒屋の女将だと言いますか」
芳江は、初めて直樹を正面から見た。
「騙された方が悪いのよ」
その言葉を聞いた瞬間、直樹の目が冷えた。
矢部が慌てて言った。
「芳江、黙れ」
だが、もう遅かった。
直樹は淡々と言った。
「では、ここで騙されてください。ここで黒岩さんと共に金を掘ればいい」
芳江の顔が一気に崩れた。
「待って。話す。話すから」
矢部も頷いた。
「話す。だから戻してくれ」
「最初からです」
直樹は言った。
◇ ◇ ◇
最初に口を開いたのは矢部だった。
「私は名簿を渡しただけだ」
「誰に」
「羽鳥だ。羽鳥修一。みんな先生と呼んでいた。登記と司法書士の筋に顔がある。表では法律事務所の周辺に出入りしている。だが、本物の資格者ではない。資格者の名を借りて書類を作る」
「名簿とは何ですか」
「地主、相続人、老人施設に入った所有者、連絡の薄い親族、古い借地人、税金に困っている家、そういう情報だ。全部を売ったわけじゃない。必要なところだけ出した」
「倉田佑馬さんの件は」
矢部は芳江を見た。
芳江は顔を伏せたままだった。
直樹は言った。
「芳江さん。あなたが話してください」
芳江は唇を噛んだ。
「佑馬さんは、何度か潮路に来た。最初は1人で飲んでいただけよ。横須賀で会社を作ったとか、社長になったとか、そういう話を常連にしていた」
「あなたが聞き出したんですね」
「聞き出したんじゃない。男は、褒めれば勝手に話すのよ」
芳江の声には、まだ居酒屋の女将としての癖が残っていた。だが、その癖はもう武器にならない。泥の匂いと金鉱の怒声の前では、安い言い訳にしか聞こえなかった。
「倉田開発㈱の資本金が尚人さんの出資だったことは」
「知っていたわ。佑馬さんが話した。尚人さんに任された会社だって。自分も役に立てるところを見せたいって」
直樹は目を細めた。
「それを利用した」
「私は話を聞いただけよ」
矢部が割り込んだ。
「違う。芳江が羽鳥へ知らせた。倉田開発の社長が、次の土地を自分で決めたがっている。尚人がいない今なら動く、と」
芳江が矢部を睨んだ。
「何を言ってるの」
「お前も同じだろうが。俺だけに押しつけるな」
2人の声が荒くなった。
直樹は静かに言った。
「続けてください」
矢部は息を飲んだ。
「羽鳥が、横須賀駅近くの土地話を作った。所有者は老人施設にいた。売る意思はなかった。だが、名簿と古い書類があれば、偽の代理人を立てられる」
「名簿はあなたが出した」
「そうだ。施設の場所、親族の住所、昔の権利関係を出した。印鑑証明と権利証の偽造は羽鳥の筋だ」
「芳江さんの役割は」
芳江は答えなかった。
直樹はリモコンへ手を伸ばした。
「ここに置いて帰ります」
「待って」
芳江は叫んだ。
「私は、佑馬さんを店でつないだ。羽鳥の人間を、偶然来た客のように隣へ座らせた。土地の話を自然に聞かせた。佑馬さんが乗ってきたら、次の店へ回した」
「どこです」
「喫茶店。あとは羽鳥の人間がやった」
「金の分け前は」
「私は紹介料だけ」
矢部が鼻で笑った。
「嘘をつくな。倉田の1億から、芳江には200万円が入る約束だった。先に50万円を受け取っている」
芳江は矢部を睨んだ。
「あなたこそ、名簿代で300万円でしょう」
「俺は名簿を出した」
「私は客を出したのよ」
直樹は2人の言い争いを聞きながら、腹の底が冷えていくのを感じていた。
倉田佑馬は、失敗した。
会社の資本金を勝手に動かした。
その責任は消えない。
だが、この2人は、佑馬の過信を見抜き、褒め、近づき、羽鳥へ渡し、会社の金を抜く道へ誘導していた。
居酒屋の笑顔の裏で、人を選んでいたのである。
◇ ◇ ◇
直樹は次に、京浜土地建物㈱の件を聞いた。
「白金台の50億円は」
矢部が答えた。
「宮下という男を、ベル・ローズから外へ出した。あいつは話したがる男だった。大きな仕事に関わっていると見せたがっていた。女に褒められると、会社の内側のことまで喋った」
「ベル・ローズ五反田と潮路は、つながっているんですか」
「直接ではない。だが、羽鳥が両方を使った。横須賀では潮路。五反田ではベル・ローズ。男が口を軽くする場所を使った」
「白金台の名簿は」
「私が出した。所有者の老女、親族、昔の住所、固定資産税の記録。そこから羽鳥が偽の代理人を作った」
「芳江さんは、京浜にも関わったのですか」
芳江はすぐに答えなかった。
矢部が言った。
「白金の件は、芳江は直接は薄い。ただ、分け前が入ることは知っていた。潮路の奥の戸棚に控えがある。羽鳥との連絡先も、金の流れも、芳江は捨てていない」
芳江の顔が歪んだ。
「どうしてそれを言うの」
「ここで黙って死にたくないんだよ」
矢部の声は震えていた。
彼は黒岩の方を見た。
黒岩は泥の穴で、また棒で叩かれていた。石を砕く手が止まっただけで殴られる。かつての顔役は、ここではただの消耗品だった。
その姿が、矢部の心を折っていた。
直樹は言った。
「羽鳥修一は、どこにいますか」
矢部は、古い住所録の一部を思い出すように目を動かした。
「表向きは新橋の雑居ビルに出入りしている。法律事務所の手伝いのような顔をしている。だが、本当の拠点は五反田の小さな事務所だ。ベル・ローズから近い。住所録に書いてある」
「羽鳥は本物の司法書士ではない」
「違う。だが、資格者の印を使える筋がある。金で借りる。酒で借りる。女で借りる。書類の形だけは整える」
「倉田佑馬さんを死なせたことを、羽鳥は知っているか」
芳江が答えた。
「知っているはずよ。私が知らせた」
「何と言ったんですか」
「倉田が死んだ、とだけ」
「羽鳥は何と」
芳江は目を伏せた。
「面倒が減った、と」
直樹は何も言わなかった。
虫の音が、急に大きく聞こえた。
森の奥から湿った風が来る。泥の匂い、汗の匂い、火の煙。1495年の金鉱は、1986年の横須賀の罪を飲み込むように広がっていた。
◇ ◇ ◇
直樹は、2人から聞いたことを頭の中で整理した。
潮路は、紹介場所。
芳江は、客を拾い、金の動きを控える女。
矢部は、名簿屋。
羽鳥修一は、先生と呼ばれる書類の男。
倉田佑馬は、成功後の自信と尚人不在を突かれた。
京浜土地建物㈱の宮下は、ベル・ローズ五反田から引き出された。
白金台の50億円には、矢部の名簿と羽鳥の偽書類が使われた。
潮路の奥の戸棚には、芳江が残した控えがある。
羽鳥の連絡先も、金の流れもある。
足りた。
直樹はリモコンを手にした。
芳江がすがるように言った。
「待って。戻して。私たちは話したでしょう」
「話しましたね」
「なら戻して」
「戻すとは言っていません」
「そんなの卑怯よ」
直樹は、初めて少しだけ笑った。
「卑怯ですか」
芳江は言葉を詰まらせた。
「売る気のない土地を売ったことにして、会社の金を奪った人たちが、卑怯と言いますか」
「私は人を殺していない」
「佑馬さんは死にました」
「勝手に死んだのよ」
その言葉で、直樹の顔から笑みが消えた。
矢部が叫んだ。
「芳江、黙れ!」
だが、芳江はもう止まらなかった。恐怖で理性が崩れ、自分を守るための言葉を吐き続けた。
「だってそうじゃない。あの人が勝手に会社の金を使ったのよ。私たちは話を持っていっただけ。判を押したのは本人でしょう。金を出したのも本人でしょう」
直樹は静かに言った。
「その通りです。佑馬さんにも責任はある」
芳江が少し顔を上げた。
「だったら」
「だからといって、あなたの罪は消えません」
直樹は、芳江の手帳を掲げた。
「あなたは、相手が弱いところを見て、金を抜く側へ渡した。矢部さんは名簿を出し、羽鳥は書類を作り、宮下さんはベル・ローズで口を滑らされた。あなたたちは、酒と女と土地話で人を釣る仕組みを作っていた」
矢部はもう何も言わなかった。
芳江も黙った。
遠くで黒岩が、泥の中へ膝をついた。すぐに怒声が飛び、また立たされる。あれが、この場に残った者の末路だった。
直樹は言った。
「黒岩さんと同じ場所で、よく考えてください」
芳江の顔が青ざめた。
「嫌。お願い。戻して。潮路の戸棚には全部ある。羽鳥の番号も、分け前の控えも、倉田の件の金も、白金の件の金も、全部ある。だから戻して」
「それは1986年で確認します」
「私がいないと、場所が分からないわ」
「奥の戸棚ですね。もう聞きました」
芳江は息を飲んだ。
矢部が地面に手をついた。
「頼む。戻してくれ。俺は何でも話す。羽鳥の居場所も、仲間の名前も、まだ話していないことがある」
「ここで黒岩さんに話してください」
「黒岩に?」
「ええ。同じ仲間でしょう」
直樹はリモコンを操作した。
芳江が叫んだ。
「待って! 待ちなさい!」
矢部も叫んだ。
「直樹! 戻せ! 戻してくれ!」
泥の穴の方で、黒岩が顔を上げた。
彼の目に、芳江と矢部の姿が映った。次の瞬間、黒岩の顔に、壊れたような笑みが浮かんだ。
「お前らも来たのか」
その声が聞こえたところで、直樹は帰還操作を入れた。
熱気、泥、火の明かり、虫の音、2人の叫び、黒岩の笑いが、一瞬で遠のいた。
◇ ◇ ◇
直樹は、横須賀の薄暗い路地に戻った。
雨はやんでいた。
表通りの看板の明かりが遠くに見える。路地には、矢部が落とした鞄の跡と、芳江の布袋からこぼれた小さな紙片だけが残っていた。芳江と矢部の姿はない。2人は、1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊の金鉱に置いてきた。
直樹は、まず足元に落ちていた鞄と布袋を拾った。
矢部の鞄には、財布、名刺入れ、古い住所録、数枚の書類が入っていた。住所録には、地主、相続人、老人施設、借地人、金融業者、不動産会社、司法書士事務所らしい名前が並んでいる。横須賀だけではない。白金台周辺の住所もあった。宮下徹の名前もある。京浜土地建物㈱の電話番号もある。
羽鳥修一。
その名前も、何度か出ていた。
次に、芳江の布袋を調べた。
店の売上袋、鍵束、薄い手帳が入っていた。鍵束には、表入口、裏口、厨房、奥の戸棚らしい小さな鍵がまとめられている。直樹は、それを握った。
薄い手帳を開く。
潮路の売上に混じって、別の数字がある。
倉田。
京浜。
白金。
羽鳥。
分け前。
紹介料。
日付。
小さな字で、潮路奥戸棚、とも書かれていた。
直樹は手帳を閉じた。
ここで考えている時間はない。
芳江と矢部が戻らないことに、誰かが気づく前に動く必要があった。証拠が店の奥に残っているなら、今夜のうちに押さえるしかない。
直樹は、さざなみの前を通り過ぎた。
看板の明かりは消えていた。潮路の暖簾も下りている。表通りには人影が少ない。雨上がりの路面に、看板の赤い光が薄く残っていた。
直樹は潮路の裏へ回った。
裏口は、さっき芳江と矢部が出てきた扉である。直樹は鍵束から合いそうな鍵を選び、音を立てないように差し込んだ。
1本目は合わなかった。
2本目も違った。
3本目で、鍵が奥まで入った。
直樹はゆっくり回した。
小さな音がして、鍵が開いた。
直樹は扉を細く開け、店内へ入った。
中には、閉店後の匂いが残っていた。焼き魚、煮込み、醤油、煙草、酒、湿った床の匂いである。客の声はもうない。カウンターの椅子は片づけられ、暖簾は内側に畳まれていた。
直樹は足音を殺して奥へ進んだ。
厨房を抜けると、小さな事務部屋があった。帳簿机、古い電話、茶箪笥、金庫、壁に掛かった暦。芳江が店の売上をつける場所だろう。
手帳にあった「奥戸棚」は、その部屋の右奥にあった。
背の低い木の戸棚である。外から見れば、店の伝票や古い酒の帳面を入れているだけに見える。だが、扉には小さな錠がついていた。
直樹は鍵束を見た。
小さな鍵が2本ある。
1本目を差し込むと、途中で止まった。
2本目が入った。
直樹は息を止め、ゆっくり回した。
錠が外れた。
戸棚の中には、古い伝票束と酒屋の請求書が置かれていた。だが、それだけではない。奥板の前に、薄い木箱がはめ込まれていた。手前の伝票をどけなければ見えない位置である。
直樹は木箱を引き出した。
中には、封筒がいくつも入っていた。
封筒には、芳江の字で見出しが書かれている。
倉田。
京浜。
白金。
宮下。
羽鳥。
矢部名簿。
分配。
連絡先。
直樹は、まず「倉田」と書かれた封筒を開いた。
中には、倉田佑馬の来店日、同席した客の名前、横須賀駅近くの土地話へ誘導した日、喫茶店の領収書の写し、紹介料の受け取り控えが入っていた。倉田開発㈱、1億円、送金日、羽鳥、矢部、芳江の分け前まで書かれている。
次に「京浜」の封筒を開いた。
宮下徹の名前があった。ベル・ローズ五反田から外へ出した日、外で会った相手、白金台の土地話、社内稟議を聞き出した内容、50億円の送金予定日が書かれていた。
「白金」の封筒には、土地所有者の老女、親族の住所、老人施設、固定資産税の記録、偽代理人の名、偽司法書士の連絡先が入っていた。
「羽鳥」の封筒には、羽鳥修一の連絡先があった。
新橋の雑居ビル。
五反田の小さな事務所。
使い分けている電話番号。
会う時の喫茶店。
偽書類に使った印影の控え。
関係する資格者らしい名前。
「分配」の封筒には、金の流れが書かれていた。
倉田の件。
京浜の件。
白金台の件。
羽鳥の取り分。
矢部の名簿代。
芳江の紹介料。
ベル・ローズ側へ流した金。
まだ受け取っていない金。
直樹は、封筒を全部取り出した。
木箱も空にした。
さらに戸棚の底を指で探ると、底板の端が少し浮いた。直樹は小刀を差し込み、底板を上げた。
下から、薄い紙包みが出てきた。
中には、写真が入っていた。
倉田佑馬が潮路のカウンターに座っている写真。
宮下徹がベル・ローズの外で男と会っている写真。
白金台の偽代理人らしい男の写真。
羽鳥修一らしい男の写真。
証拠として使えるかどうかは分からない。だが、相手を追うには十分だった。
直樹は、写真も回収した。
机の引き出しも調べた。
上の段には、普通の店の伝票が入っていた。酒屋、魚屋、米屋、ガス、水道。下の段には、封筒が1つ隠されていた。中身は現金だった。帯封のない札束である。手帳の金額と照らせば、倉田の件で先に芳江へ渡された50万円だろう。
直樹は現金も取った。
金そのものより、金の出所を示す証拠だった。
最後に、電話台の横を見た。
そこに、小さな電話番号のメモが挟まっていた。
羽鳥。
黒沢。
ベル。
京浜。
宮下。
番号の横には、丸や三角の印がついていた。連絡の優先順位か、危険度かもしれない。
直樹はそれも外した。
証拠は、まとめて鞄へ入れた。
ただし、全部を1つにまとめることはしなかった。矢部の住所録は上着の内側へ入れる。芳江の手帳は別の内ポケットへ入れる。封筒と写真と金は鞄へ入れる。電話番号のメモは財布の中へ入れる。
万が一、どれかを失っても、全部を失わないためである。
直樹は戸棚を閉めた。
鍵をかけた。
机の引き出しも戻した。
店内に争った跡はない。奥の戸棚から何かが抜かれたことも、すぐには分からない。芳江が戻らなければ、誰も奥の控えを確認できない。矢部も戻らない。今夜のうちなら、羽鳥に連絡が行く前に先回りできる。
直樹は裏口へ戻った。
外へ出る前に、もう1度だけ店内を見た。
つい数時間前まで、ここでは客が中華そばを食べ、酒を飲み、常連がくだらない話をしていた。表から見れば、ただの居酒屋だった。
だが奥の戸棚には、人を選び、金を抜き、会社を壊し、命まで奪うための記録が隠されていた。
直樹は裏口を出た。
鍵をかけた。
鍵束は持っていくことにした。
芳江がいない以上、潮路はしばらく開かない。警察が入る時にも、この鍵は役に立つ。鍵を店内へ戻す理由はなかった。
直樹は表通りへ出た。
横須賀の夜は、何もなかった顔をしていた。
だが、直樹の手には、名簿屋の住所録、潮路の女将の手帳、奥の戸棚から取り出した封筒、写真、分配控え、連絡先、現金50万円、そして店の鍵束があった。
倉田佑馬を死へ追い込んだ線。
京浜土地建物㈱から50億円を抜いた線。
尾形芳江。
矢部辰夫。
羽鳥修一。
ベル・ローズ五反田。
宮下徹。
白金台。
それらは、ようやく同じ輪の中へ入った。
直樹は濡れた路地を歩きながら、理恵へどう伝えるかを考えた。
芳江と矢部を捕まえたとは言えない。
1495年の金鉱に置いてきたとも言えない。
だが、証拠は押さえたと言える。
尾形芳江と矢部辰夫は、2人とも共犯である。
潮路は、ただの居酒屋ではなかった。
客を見て、金を持つ男を選び、羽鳥へ渡す入口だった。
奥の戸棚に残っていた記録が、それを示していた。
次に動くべき相手は、先生と呼ばれる羽鳥修一だった。
後編3では、直樹が尾形芳江と矢部辰夫を1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊へ直送する。そこでは黒岩辰夫が、泥にまみれ、縄で縛られ、金鉱掘りの奴隷にされていた。黒岩の姿を見せられた芳江と矢部は、逃げ場を失い、倉田開発㈱の1億円詐欺、京浜土地建物㈱の50億円詐欺、白金台の偽売主、宮下をベル・ローズ五反田から引き出した件、先生こと羽鳥修一の名を白状する。芳江はただの居酒屋の女将ではなく、潮路を紹介場所として使い、客を見極め、金の流れを控えていた共犯だった。矢部は名簿屋として、地主、相続人、老人施設の所有者、親族の住所などを羽鳥へ渡していた。直樹は2人を金鉱に置き去りにし、住所録と手帳だけでなく、潮路の奥の戸棚から証拠一式を回収した。これにより、潮路、ベル・ローズ五反田、京浜土地建物㈱、白金台、羽鳥修一が1本の線でつながった。




