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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第5話(後編2)――「さざなみの隣、潮路の2人」

倉田佑馬の死後、理恵は父の手帳に残された名前を直樹へ伝える。潮路、尾形芳江、矢部、名簿屋、先生、京浜、宮下、白金。直樹は、横須賀のスナック「さざなみ」に以前入ったことがある。隣の居酒屋や夜の人間関係なら、涼子ママが知っている可能性が高い。理恵と達也には動くなと命じ、直樹は1人で横須賀へ向かう。涼子ママへの聞き込みで、居酒屋「潮路」の女将が尾形芳江であり、名簿屋の矢部辰夫がその内縁の夫であることを知る。直樹は何食わぬ顔で潮路へ入り、中華そばを頼み、常連客との世間話から矢部本人を見つける。そして閉店後、芳江と矢部の2人をまとめて押さえる。

 (1986年9月20日土曜日午後7時過ぎ、横須賀・倉田家)


 理恵は受話器を握っていた。


 父の部屋には、警察が出入りした跡がまだ残っている。机の上には、契約書、振込控え、土地の図面、名刺、喫茶店の領収書、横須賀の居酒屋「潮路」のマッチ、そして父の手帳から写した名前が並んでいた。


 潮路。


 尾形芳江。


 矢部。


 名簿屋。


 先生。


 京浜。


 宮下。


 白金。


 倉田開発㈱。


 どの言葉も、まだ1本の線にはなっていない。だが、倉田佑馬がただ1件の土地詐欺に遭っただけではないことは、理恵にも分かっていた。京浜土地建物㈱の名前が出ている。宮下という男の名もある。白金という地名もある。


 警察には警察の仕事がある。


 しかし、こちらにも、こちらの動き方がある。


 理恵は早乙女側の連絡先へ電話をかけた。


 呼び出し音が続き、直樹が出た。


「直樹さん、理恵です」


「はい。どうしました」


 理恵は言葉に詰まった。


 父が死んだ。


 それを口に出せば、本当に父が戻らないと認めることになる。だが、黙っている時間はなかった。


「父が亡くなりました」


 受話器の向こうで、直樹の息が止まった。


「佑馬さんが」


「はい」


「何がありました」


「倉田開発㈱の資本金1億円を、土地購入代金に流用していました。売主も書類も偽物でした。父は、尚人さんのお金を失ったと思い詰めて……」


 そこまで言って、理恵は声を整えた。


 泣くのはあとでいい。


 今は、知らせるべきことを知らせる。


「父の手帳に、いくつか名前が残っています。潮路、尾形芳江、矢部、名簿屋、先生、京浜、宮下、白金。京浜土地建物㈱の50億円の件と、父の1億円の件がつながっているかもしれません」


 直樹はすぐに返事をしなかった。


 考えているのが分かった。


「潮路というのは、横須賀の店ですか」


「はい。居酒屋だと思います。マッチが残っていました」


「尾形芳江は」


「女将の名前らしいです。まだ確認はしていません」


「矢部は」


「手帳には、名簿屋、とあります」


 直樹はそこで言った。


「理恵さんと達也さんは、その店へ行かないでください」


「行くつもりはありません」


「相手に気づかせるだけです」


「はい。だから、直樹さんに連絡しました」


「正解です」


 理恵は少しだけ息を吐いた。


 その言葉で、張り詰めていたものがわずかにゆるんだ。


 直樹は続けた。


「横須賀のスナック『さざなみ』へは、以前行ったことがあります。涼子ママという人がいます。隣の店や、その周辺の人間関係を知っている可能性があります。尾形芳江さんを知っているか、涼子ママにそれとなく聞いてみます」


「お願いします。ただ、父の名前は出さないでください」


「出しません。倉田家が動いていることも言いません。僕は、前に来た若い客として入ります」


「直樹さん、1人で行くんですか」


「1人で行きます。人数を増やすと目立ちます」


 理恵は受話器を握る手に力を入れた。


「危ないことはしないでください」


「危ない相手なら、こちらも手を選びます」


「それが心配です」


「大丈夫です。理恵さんは、父上の手帳と書類を守ってください。原本は警察の確認が終わったら、弁護士か小沼さんに預ける。写しを取れるなら取る。誰が見ても、いつ、何が、どこから出たか分かるようにしてください」


「分かりました」


「達也さんにも伝えてください。怒って動くな、と」


「もう伝えています」


「なら大丈夫です」


 直樹はそこで、少し声を変えた。


「佑馬さんの件は、こちらで追います」


 理恵は目を閉じた。


「お願いします」


 電話を切ると、理恵はしばらく受話器を見ていた。


 達也が廊下から顔を出した。


「直樹さん、何て」


「私たちは動くなって」


「やっぱりか」


「さざなみの涼子ママに、尾形芳江さんのことを聞いてみるって。直樹さんが1人で行く」


 達也は唇を噛んだ。


「俺も行きたい」


「駄目」


「分かってるよ」


 達也は壁にもたれた。


「分かってるけど、腹が立つ」


「私もよ」


 理恵は、父の手帳から写した名前を見た。


「だから今は、直樹さんに任せる」


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後8時40分、横須賀中央・スナック「さざなみ」)


 直樹は1人で「さざなみ」の扉を開けた。


 前に来た時と同じ、少し古い木の扉である。中からは、焼酎と煙草と香水の匂いが流れてきた。カラオケの音はまだ入っていない。常連が2人、カウンターの端に座り、テレビの野球中継を見ていた。


 涼子ママは、カウンターの中にいた。


 40代半ばほどの女である。髪をきれいにまとめ、淡い色のブラウスに黒いスカートを合わせている。客を迎える笑顔は柔らかいが、目はよく動く。入口に入ってきた男が金を持っているか、荒れる客か、誰かの使いか、そういうことをすばやく見る目だった。


「あら」


 涼子は直樹を見て、すぐに笑った。


「前にも来た学生さんじゃない」


「こんばんは」


「帝都工業大学の子だったわよね」


「はい。覚えてくれていたんですね」


「若い子が1人で来るのは珍しいもの。座って」


 直樹はカウンターに座った。


 前回と同じように、あまり慣れていない若い客の顔を作った。背筋を伸ばしすぎず、店の空気に少し戸惑っているように見せる。手元の動きも急がない。


「今日は何にする?」


「前と同じでお願いします」


「角ね」


 涼子は氷を入れ、水割りを作った。


 グラスが置かれた。


「最近、来なかったじゃない」


「少し忙しくて」


「学生さんも大変ね」


「そうでもないです」


 直樹は笑った。


 すぐに本題へ入らない。


 涼子は、このあたりの夜を知っている女である。急に名前を出せば、その名前が目的だと分かる。まずは世間話をし、横須賀の店の話へ流す必要があった。


 常連の1人がテレビを見ながら言った。


「また巨人が負けてるよ」


 涼子が笑った。


「お客さん、それ毎日言ってない?」


「毎日負けてる気がするんだよ」


 店に小さな笑いが起きた。


 直樹も笑った。


 その流れに乗るように、彼は言った。


「このあたり、飲み屋が多いですね。前に来た時も思いました」


「横須賀中央だからね。駅から流れてくる人も多いし、昔からの常連もいるし」


「隣も居酒屋ですよね」


「ああ、潮路ね」


 涼子は何気なく言った。


 直樹はグラスを持ったまま、表情を変えなかった。


「潮路っていうんですか」


「そう。魚と煮込みの店。遅い時間に中華そばも出すのよ。飲んだ後に食べる人が多いの」


「女将さんが1人でやっているんですか」


「尾形芳江さんね。料理は板場の人もいるけど、店を回しているのは芳江さんよ」


 出た。


 直樹は、心の中でその名を受け取った。


 尾形芳江。


 理恵の写した名前と一致した。


 直樹は、まだ踏み込まない。


「隣同士だと、店の人同士も仲がいいんですか」


「悪くはないわよ。でも、あっちはあっち、うちはうち。芳江さんは人当たりがいいけど、身内の話はあまりしない人ね」


「亭主さんはいるんですか」


 涼子は少しだけ笑った。


「籍は入れてないんじゃないかしら。でも、亭主みたいな人はいるわね」


「へえ」


「矢部さんっていう男。矢部辰夫。芳江さんの内縁の夫みたいなものよ」


 常連の1人が横から口を挟んだ。


「あいつは亭主っていうより、裏の金勘定だろ」


 涼子が睨んだ。


「余計なことを言わないの」


「だってそうだろ。地主だの、相続だの、古い名簿だの、そういう話ばかりしてるじゃないか」


 直樹は、グラスを口に運んだ。


 ここで目を輝かせてはいけない。


 ただの若い客として、少し退屈そうに聞く。


「不動産の人なんですか」


 涼子は肩をすくめた。


「表では、そう名乗ったり、そうじゃなかったり。昔からの地主の名前を知っているとか、相続人の住所を知っているとか、そんな話をしているのは聞いたことがあるわ」


 常連が笑った。


「名簿屋だよ、あれは」


 涼子はまた睨んだ。


「だから、余計なことを言わないの」


「怖いねえ、ママは」


 常連は酒を飲んだ。


 直樹は、ようやく小さく笑った。


「隣の居酒屋、入っても大丈夫ですかね」


「普通の店よ。お腹が空いているなら、中華そばでも食べてくればいいじゃない」


「このあと行ってみます」


「学生さんが1人で?」


「飲んだ後の中華そば、ちょっと食べてみたくて」


 涼子は笑った。


「あんた、変におじさんくさいわね」


「よく言われます」


 直樹は、そこで話を切った。


 それ以上、尾形芳江や矢部辰夫の名を追わない。聞きすぎれば、涼子の目が変わる。必要なことは分かった。


 居酒屋「潮路」の女将は尾形芳江。


 名簿屋の矢部辰夫は、芳江の内縁の夫。


 次は、本人たちを見る。


 直樹はグラスを空け、勘定を払った。


「もう帰るの?」


 涼子が聞いた。


「隣で中華そばを食べてから帰ります」


「若いのに、はしごするのね」


「少しだけです」


「変な客に絡まれないようにしなさいよ」


「はい」


 直樹は店を出た。


 扉が閉まる直前、涼子の目が少しだけ細くなった。


 何かを感じたのかもしれない。


 だが、直樹は振り返らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 居酒屋「潮路」は、さざなみの隣にあった。


 紺色の暖簾に、白く潮路と染め抜かれている。雨はもう弱くなっていたが、通りの路面には水が残り、看板の明かりが揺れていた。店の前には、魚の入っていた木箱が積まれ、濡れた縄の匂いがした。


 直樹は、何食わぬ顔で暖簾をくぐった。


 店内は混んでいた。


 カウンターは半分ほど埋まり、奥の小座敷にも客がいる。焼き魚の匂い、煮込みの甘辛い匂い、湯気、煙草、雨に濡れた上着の匂いが混じっていた。壁には魚拓と横須賀港の写真が貼られている。


 カウンターの中に、40代半ばの女がいた。


 髪を後ろでまとめ、白い割烹着を着ている。目元は笑っているが、客を見る目は油断していない。


 尾形芳江。


 直樹はそう判断した。


「いらっしゃい」


 芳江が言った。


「1人?」


「はい」


「カウンターでいい?」


「お願いします」


 直樹は、カウンターの端ではなく、真ん中に近い席へ座った。周囲の会話が聞こえる位置である。隣には、50代前半の男が座っていた。古い上着を着て、鞄を足元に置いている。酒はあまり減っていない。店の客というより、店の中にいること自体が用事のような男だった。


 直樹は、その男を1度だけ見た。


 目が合わないようにした。


 芳江が聞いた。


「何にする?」


「中華そばをお願いします」


「酒は?」


「今日はいいです。隣で少し飲んだので」


「ああ、さざなみさん?」


「はい」


「涼子さんのところね」


 芳江は、自然に返した。


 直樹も自然に頷いた。


「学生さん?」


「はい。帝都工業大学です」


「若いのに、こんな時間に1人で中華そばかい」


「たまに食べたくなります」


「変わってるね」


 芳江はそう言いながら、奥へ注文を通した。


 直樹は水を飲み、店内を見た。


 常連客が多い。初めて来た客に、全員が少しだけ目を向けるが、すぐに自分の酒へ戻る。こういう店では、目立たないことが大事である。若い客として、少し浮く。だが、浮きすぎない。さざなみから流れてきた学生という顔なら、ちょうどいい。


 隣の男は、何も話さなかった。


 直樹は中華そばを待ちながら、右隣の常連に声をかけた。


「ここの中華そば、評判いいんですか」


 常連は、赤ら顔の中年男だった。


「飲んだ後にちょうどいいんだよ。魚の後でも入る味だ」


「よく来るんですか」


「週に3回は来てるな。家より落ち着く」


 芳江が向こうから言った。


「そんなこと言って、奥さんに怒られるよ」


「もう怒る元気もないよ」


 店に笑いが起きた。


 直樹も笑った。


 常連は、直樹を見て言った。


「兄ちゃん、さざなみから来たのか」


「はい」


「涼子ママに捕まらなかったか」


「今日は大丈夫でした」


「涼子は若い男に優しいからな」


 芳江が鼻で笑った。


「お客さん、よその店の悪口は駄目だよ」


「悪口じゃない。褒めてるんだ」


 常連は酒を飲み、直樹の左隣の男を顎で示した。


「それに比べて、こっちの亭主は無愛想だ」


 直樹は、初めて隣の男を見る形を取った。


「亭主さんですか」


「女将の亭主だよ。籍は知らんが、亭主みたいな顔して座ってる」


 芳江がすぐに言った。


「余計なことを言わないの」


 左隣の男は、苦笑もしなかった。


 酒をひと口飲み、常連を横目で見ただけである。


 常連は気にせず続けた。


「矢部さんは、無愛想だけど顔は広いんだよ。地主だの、相続だの、古い家だの、そういう話になると急に口が動く」


 芳江の目が少し動いた。


「お客さん、酔いすぎ」


「酔ってないよ」


 直樹は、そこで中華そばに目を向けた。


 どんぶりが置かれた。


 醤油の香りが立つ。薄いチャーシュー、メンマ、ねぎ、海苔。特別な味ではない。だが、飲んだ後にはよく合いそうな中華そばだった。


 直樹は、箸を取った。


「いただきます」


 矢部は、隣で黙って酒を飲んでいる。


 直樹は急がず、中華そばを食べた。


 芳江は時々、矢部へ目を向けていた。夫婦の視線ではない。合図を送る者の目だった。矢部はほとんど反応しない。だが、芳江が何を気にしているかは分かっているようだった。


 直樹は何も聞かなかった。


 名前は分かった。


 顔も見た。


 芳江と矢部の距離も見た。


 あとは、外で拾えばいい。


 ◇ ◇ ◇


 直樹は中華そばを食べ終えても、すぐには店を出なかった。


 勘定を払い、少しだけ水を飲み、常連の話に合わせた。帝都工業大学の学生として、試験がどうだ、横須賀は面白い、五反田は怖い、そんな話をした。


 矢部は途中で1度、店の奥へ入った。


 芳江も続いて奥へ行った。


 戻ってきた時、2人の顔には何も出ていなかった。だが、直樹はその動きだけで足りると思った。


 閉店が近づくと、客は少しずつ減っていった。


 常連の中年男は、最後に直樹の肩を叩いた。


「兄ちゃん、若いうちから飲みすぎるなよ」


「はい」


「また中華そば食いに来い」


「そうします」


 芳江は暖簾を半分下ろした。


「今日はもう終わりだよ」


 直樹は、最後の客の1人として店を出た。


 店の外に出ると、雨は上がっていた。路面は濡れ、街灯の光が薄く反射している。さざなみの看板も消えかけていた。通りには、酔った客の声が遠くに残るだけである。


 直樹は、すぐには歩き出さなかった。


 近くの自動販売機の前で缶コーヒーを買い、飲むふりをした。視線は店の裏口へ向けない。向ければ、待っていることが分かる。


 しばらくして、潮路の裏口が開いた。


 先に矢部辰夫が出てきた。


 古いレインコートを着て、帽子を深くかぶっている。片手に鞄を持っていた。店の前へは出ず、裏の細い道を選ぶ。慣れた道である。


 その後ろから、芳江が出てきた。


 白い割烹着は脱いでいた。濃い色の上着を羽織り、手には小さな布袋を持っている。店の女将が帰るだけに見える。だが、閉店後の女将にしては足取りが早い。矢部の半歩後ろを歩き、時々、周囲へ目を配っていた。


 2人は夫婦のように並ばなかった。


 少し距離を置く。


 しかし、同じ方向へ歩く。


 それが、かえって関係を示していた。


 直樹は、少し遅れて歩き出した。


 距離を取る。


 近づきすぎない。


 足音を合わせない。


 矢部は何度か後ろを見た。芳江も、店を閉めた女とは思えないほど周囲を見ている。2人とも、尾行を気にしている。普通の居酒屋の女将と、その内縁の夫ではない。


 直樹は通りの反対側を歩いたり、閉まった店の軒先で立ち止まったりしながら、2人を見失わない距離を保った。


 2人は大通りを避け、細い路地へ入った。


 街灯が少ない。


 雨に濡れたブロック塀の匂いが立つ。どこかの家の換気扇から、魚を焼いた匂いが流れていた。猫がゴミ袋のそばを横切り、すぐに消えた。


 矢部が、薄暗い路地の前を通りかかった。


 芳江も続く。


 そこは、表通りから死角になっていた。


 直樹はすばやく距離を詰めた。


 矢部が振り返るより早く、直樹は腰からぶつかった。


 タックルだった。


 矢部の体が横へ飛び、濡れた地面に倒れた。鞄が手から離れ、路地の壁に当たって鈍い音を立てた。矢部は息を詰まらせ、声を出す前に直樹の体重を受けた。


 芳江が息を吸った。


 叫びかけた声は、最後まで出なかった。


 直樹は矢部を押さえたまま、芳江へ目を向けた。


「声を出したら、矢部さんをこの場で置いていきます」


 芳江の顔から血の気が引いた。


 直樹は矢部の襟元をつかみ、頭を強く打ちつけないようにしながら、首筋へ打撃を入れた。


 矢部の体から力が抜けた。


 芳江が後ずさった。


「何なの。あなた、何者なの」


「倉田佑馬さんを知っていますね」


 その名を聞いた瞬間、芳江の目が動いた。


 直樹は見逃さなかった。


「知らないとは言わせません」


「私は、ただの居酒屋の女将よ」


「ただの居酒屋の女将は、閉店後に名簿屋と共に裏道を歩きません」


 芳江は唇を噛んだ。


 直樹は、気を失った矢部の鞄を拾い、芳江へ近づいた。


「共に来てもらいます」


「どこへ」


「黒岩辰夫のいる場所です」


 芳江の表情が変わった。


 黒岩の名を知っている顔だった。


 直樹は、矢部の上着の中を素早く調べた。財布、手帳、鍵、名刺入れ、古い住所録。名簿屋らしい持ち物だった。住所録だけを抜き、上着の内側へ入れる。


 次に、芳江の布袋を取った。


 中には、店の売上袋、鍵束、薄い手帳が入っていた。


 直樹は手帳を開いた。


 潮路の売上に混じって、別の数字があった。


 倉田。


 京浜。


 白金。


 羽鳥。


 分け前らしい金額。


 芳江は手帳を奪い返そうとした。


 直樹はその手を押さえた。


「これで足ります」


「返して」


「1495年で説明してください」


 芳江は意味が分からない顔をした。


 直樹は、改良済みの双方向リモコンを取り出した。


 点検口を通らない直送式である。


 目的地は、1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊。黒岩辰夫が金鉱掘りの奴隷にされている場所である。


 直樹は、気を失った矢部の腕をつかみ、もう片方の手で芳江の手首を押さえた。


 芳江がようやく叫ぼうとした。


 その前に、直樹はリモコンを操作した。


 横須賀の薄暗い路地は、一瞬で消えた。

後編2では、理恵が直樹へ連絡し、父の手帳に残された名前を伝える。直樹は1人で横須賀のスナック「さざなみ」へ入り、涼子ママにそれとなく尾形芳江のことを聞く。涼子と常連の話から、隣の居酒屋「潮路」の女将が尾形芳江であり、名簿屋の矢部辰夫がその内縁の夫だと分かる。直樹は何食わぬ顔で潮路へ入り、中華そばを頼み、常連客の世間話から隣に座る男が矢部本人だと知る。閉店後、直樹は芳江と矢部を尾行し、2人が裏道へ入ったところで押さえる。芳江の手帳には、倉田、京浜、白金、羽鳥、分け前らしい金額が残っていた。直樹は2人を、改良済みの直送式リモコンで1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊へ連れて行く。

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