第5話(後編1)――「五十億の穴、倉田開発の沈黙」
高輪宝栄ビルの5階で美奈子が新しい夜を迎えた翌朝、京浜土地建物㈱では50億円の土地取引が偽売主による詐欺だった疑いが浮かぶ。同じ朝、横須賀では倉田開発㈱の社長・倉田佑馬が亡くなっていた。佑馬は、尚人が出資した会社の資本金1億円を、承認を得ないまま土地購入代金へ流用していた。だが、佑馬は金に困っていたわけではない。町田小山田と相原で成果を上げ、すでに大きな賞与も受け取っていた。問題は貧しさではなく、成功のあとに生まれた過信だった。理恵と達也は父の死に怒るが、犯人へ直接ぶつかれば相手に逃げられる。2人はまず、父が残した書類と記録を守ることを選ぶ。
(1986年9月20日土曜日午前8時30分、東京・品川、京浜土地建物㈱本社)
京浜土地建物㈱の会議室には、朝から重い空気が沈んでいた。
机の上には、売買契約書、委任状、印鑑証明書の写し、権利証の写し、測量図、振込控えが並んでいた。昨日までは大型案件を押さえた証拠だった。だが今朝は違う。そこに置かれた書類の一枚一枚が、会社の腹に開いた穴を示していた。
買ったはずの土地は、港区白金台の旧邸宅跡である。
表通りから少し入った場所にあり、周囲には古い屋敷と低層マンションが混じっている。まとまれば開発価値は高い。地上げ業者、建設会社、金融筋が何年も目をつけていた土地だった。京浜土地建物㈱は、50億円でも安いと判断した。
売主は、登記上の所有者である老女の代理人を名乗る男だった。
老女は体を悪くし、人前には出られない。親族は相続税と借入金の整理を急いでいる。現金で早く決めるなら、相場より安く売る。話はそう作られていた。
京浜土地建物㈱は飛びついた。
そして50億円を動かした。
だが、登記申請の確認に入った司法書士から、朝早く電話が入った。
印鑑証明の番号が合わない。
委任状の筆跡が不自然である。
売主本人とされる老女は、横浜の親族宅で生きており、土地を売る意思など示していない。
さらに、権利証の写しも精巧な偽物である疑いが強かった。
会議室の奥に、宮下徹は座っていた。
顔色は悪かった。昨夜までの得意げな表情は消えている。背広の襟は少し曲がり、指先は落ち着きなく膝を叩いていた。
開発部長の秋山が、書類を机に叩きつけた。
「宮下。お前が持ち込んだ話だな」
宮下は唇を動かした。
「持ち込んだのは私ですが、紹介者がいました。地主筋に顔が利くと言われていて、書類もそろっていました。司法書士の確認も……」
「その司法書士も偽物だったんだよ」
秋山の声が荒くなった。
「本物の司法書士は、そんな取引を知らないと言っている。事務所の印も偽造だ。電話番号も一時的に引かれたものだ。お前は何を確認した」
宮下は答えられなかった。
昨日、ベル・ローズ五反田で土地の話を得意げに語った。自分は大きな案件に関わっている。自分だけが早い情報を掴んだ。そう思い込まされた。
女に褒められた。
店の人間に持ち上げられた。
外で会った男には、「宮下さんのような人でないと、この話は通せない」と言われた。
その時点で、宮下はもう仕掛けの中にいた。
秋山は別の書類を出した。
「紹介者の名は」
「黒沢と名乗っていました。白金周辺の地主筋に顔が利くと」
「本名か」
「分かりません」
「分かりませんで、50億円を動かしたのか」
宮下は顔を伏せた。
会議室にいた役員たちは黙っていた。宮下ひとりの責任にできれば会社は楽である。だが、現実にはそうはいかない。役員も稟議書に判を押している。金融機関にも説明しなければならない。表に出れば、京浜土地建物㈱の信用は大きく傷つく。
総務の男が入ってきた。
「警察へ相談する準備を進めます。ただ、被害届を出せば、社外にも漏れます」
秋山は歯を食いしばった。
「出さなければ、50億円が戻らない」
「戻る見込みは、かなり低いと思われます」
その一言で、会議室は黙った。
50億円。
土地を買ったはずの金が、偽の売主、偽の代理人、偽の司法書士、消えた紹介者の間を抜け、闇へ流れたのである。
宮下は、昨夜の店長の顔を思い出した。
「もっと話が分かる人です。外で会えます」
その言葉が、頭の中でいやに鮮明に戻ってきた。
宮下はようやく気づいた。
自分は女遊びをしたのではない。
会社の金庫へ続く道を、自分の口で外へ教えていたのである。
◇ ◇ ◇
同じころ、横須賀では雨が降り出していた。
倉田佑馬は、自宅兼事務所の二階で亡くなっていた。
事務所の看板には、まだ新しい字で「倉田開発㈱」と書かれていた。尚人が、2026年のホーチミンから倉田佑馬とその家族を1986年の横須賀へ招いたあと、佑馬に任せるために作らせた会社である。
資本金は1億円。
全額、尚人が出した。
佑馬は、その倉田開発㈱の社長になった。
佑馬は、金に困っていたわけではない。
町田小山田と相原の物件では、佑馬は実務を担い、十分な成果を上げていた。尚人から大きな賞与も受け取っている。理恵と達也も早乙女土地売買㈱で働き、給料も賞与も得ていた。倉田家の暮らしは、1986年の横須賀ではむしろ恵まれていた。
それでも、倉田開発㈱の口座から1億円が消えていた。
会社の資本金である。
佑馬個人の金ではない。
土地購入代金として、前日の午後に送金されていた。
契約書には、横須賀市内の駅近くにある土地の売買と書かれていた。古い所有者が体を悪くし、相続人が現金を急いでいる。道路が広がれば値が跳ねる。今なら1億円で押さえられる。そういう説明が添えられていた。
だが、売主は本物ではなかった。
権利証は偽物だった。
印鑑証明も偽物だった。
所有者本人は老人施設に入っており、土地を売る意思などなかった。
仲介者は消えた。
紹介者も消えた。
倉田開発㈱の資本金1億円も消えた。
佑馬は、尚人の承認を得ていなかった。
杉浦にも確認させていない。
小沼にも書類を見せていない。
理恵と達也にも相談していない。
町田小山田と相原で成果を上げたあとだった。佑馬は、自分の判断でも一件を通せると思ったのだろう。尚人が姿を消し、順子もいない。倉田開発㈱の社長として、自分が会社を動かさなければならない。そう思い詰めていたのかもしれない。
だが、その自信を、地面師たちは待っていた。
警察官が来た時、机の上には土地の図面、契約書、会社の通帳、印鑑、そして短い書き置きが残っていた。
書き置きには、言い訳はなかった。
尚人さんの金を失いました。
会社を壊しました。
理恵、達也、すまない。
それだけだった。
理恵は、警察官の背中越しに父の机を見ていた。
泣き声は出なかった。
涙も出なかった。
母の順子は、尚人とともに姿を消したままである。2人がどこへ行ったのか、誰にも説明できない。そこへ父の死である。
達也は廊下で壁を殴った。
「ふざけるな」
誰へ向けた言葉なのか、理恵にも分からなかった。
詐欺師へか。
父へか。
尚人を待つしかできない自分たちへか。
達也の拳から血がにじんだ。理恵はそれを見ても、すぐには止められなかった。
警察官が振り返った。
「ご家族の方は、少し下でお待ちください」
理恵は首を横に振った。
「父の机を見せてください」
「今は現場確認中です」
「分かっています。触りません。見せてください」
「捜査に必要なものは、こちらで確認します」
「父は、倉田開発㈱の会社資金を動かしています。私と弟は、会社側の人間でもあります。何が残っているのか、確認させてください」
警察官は理恵を見た。
理恵は引かなかった。
泣き崩れる娘の顔ではなかった。父を亡くした顔でありながら、会社の損害を見ている顔でもあった。警察官は少し迷い、机の前に立つ場所だけを空けた。
「手を触れないでください」
「分かっています」
理恵は机の上を見た。
契約書。
振込控え。
相手の名刺。
土地の図面。
喫茶店の領収書。
居酒屋のマッチ。
公衆電話の番号らしい走り書き。
どれも、いまはまだ意味がばらばらだった。
達也も横に立った。
「姉さん、こいつらのところへ行こう」
理恵はすぐに首を振った。
「行かない」
「何でだよ」
「今、行ったら相手に分かる。父さんの子どもが気づいたって、向こうに知らせるだけよ」
「でも、じっとしていろっていうのか」
「じっとはしない。けれど、怒鳴り込まない」
理恵は机の上の名刺を見た。
名刺には、横須賀の小さな不動産仲介業者らしい名前があった。だが、住所は貸事務所の一室で、電話番号は手書きで訂正されている。もう使えない番号かもしれない。
達也は歯を食いしばった。
「父さんを騙した奴らだぞ」
「だからこそ、逃がしちゃ駄目なの」
理恵は、言い聞かせるように言った。
「相手は土地詐欺をやる人間よ。偽の売主を立てて、偽の書類を作って、1億円を消す人間。私たちが顔を出して『父を騙しただろう』なんて言ったら、その場で全部消える。電話番号も、部屋も、紹介者も、女将も、全部なくなる」
達也は言葉を詰まらせた。
理恵の目は、机の上から離れなかった。
「まず残すの。父さんが残したものを、警察に渡す前に、何があるか覚える。写せるものは写す。番号、店名、名前、日付、金額、会った場所。全部、順番に並べる」
「警察に任せればいいだろ」
「任せる。でも、警察だけに任せない」
理恵は、そこでようやく達也を見た。
「母さんのことも、まだ分かっていない。尚人さんもいない。直樹さん側にも知らせなきゃいけない。小沼さんにも見てもらう。警察の邪魔はしない。でも、私たちが何も知らないままにはしない」
達也は拳を下ろした。
理恵は警察官へ向き直った。
「父の手帳はありますか」
「確認中です」
「会社の業務手帳です。個人的な日記ではありません。倉田開発㈱の取引先や予定が書かれているはずです」
警察官は別の警察官へ合図した。
しばらくして、茶色の革表紙の手帳が机の端へ置かれた。理恵は手を伸ばしかけたが、途中で止めた。警察官に見せるように言った。
「開いてもらえますか。最後の一週間の予定を見たいんです」
警察官が手帳を開いた。
9月17日。
潮路。
芳江。
矢部。
9月18日。
横須賀駅近土地。
先生確認。
京浜、宮下。
9月19日。
契約。
送金。
午後4時、白金。
理恵は息をのんだ。
京浜。
宮下。
白金。
父の1億円の土地詐欺と、京浜土地建物㈱の50億円の案件が、同じ手帳の中に並んでいた。
達也も見ていた。
「京浜って、京浜土地建物のことか」
「たぶん」
「宮下って、誰だ」
「まだ分からない。でも、会社名と人名がある。これだけで動いちゃ駄目」
「潮路は?」
「店の名前だと思う」
理恵は、机の上のマッチを見た。
横須賀の居酒屋「潮路」。
裏には、女将の名らしい文字があった。
尾形芳江。
さらに、手帳には矢部という名前もある。
名簿屋。
その横に、小さく丸がつけられていた。
古い地主の名前。
老人施設に入った所有者。
相続人の住所。
そうした情報を渡す者がいなければ、地面師は動けない。理恵は不動産会社で働き始めてから、そこだけは分かるようになっていた。土地詐欺は、偽の役者だけで成立しない。最初に、本物に近い情報が要る。
達也が言った。
「潮路へ行けば、何か分かるかもしれない」
「今は行かない」
「またそれかよ」
「行くなら、客として行く。父さんの名前は出さない。こちらが何を知っているかも見せない。今日はまだ駄目」
理恵は、父の机の上をもう一度見た。
「まず小沼さんへ連絡する。手帳の原本は、警察の確認が終わったら弁護士に預ける。私たちは内容を整理する。潮路、尾形芳江、矢部、先生、京浜、宮下、白金。これを一本の線にする」
「父さんの仇を取るんじゃないのか」
「取るわよ」
理恵の声は震えていた。
だが、崩れてはいなかった。
「だから、今は黙るの。犯人に、私たちが気づいたと知らせない。それが最初の仕事よ」
達也は何も言えなかった。
外では雨が強くなっていた。
横須賀の通りに、車の水はねの音が響いている。二階の部屋には、父の死の気配と、湿った紙の匂いと、警察官の靴音があった。
理恵は、その中で立っていた。
母は消えた。
父は死んだ。
尚人も順子もいない。
それでも、理恵はここで泣き崩れるわけにはいかなかった。
机の上に残された名前を、ひとつずつ拾う。
手帳の予定を、日付順に並べる。
会社口座の送金記録を押さえる。
相手がどこで父に近づき、どこで京浜土地建物㈱へつながったのかを調べる。
それが、理恵と達也の始めるべき捜査だった。
地面師たちは、京浜土地建物㈱から50億円を奪い、倉田開発㈱から尚人の出した1億円を奪った。
そして、倉田佑馬を死へ追い込んだ。
理恵と達也は、父の死の前で初めて、怒りを隠すことを覚えた。
後編1では、京浜土地建物㈱の50億円詐欺が発覚する一方、横須賀では倉田佑馬が、倉田開発㈱の資本金1億円を流用して地面師に騙され、命を絶つ。佑馬は金に困っていたのではなく、町田小山田と相原で成果を上げたあと、自分の判断を信じすぎた。理恵と達也は怒りに任せて犯人側へ向かわない。父の机に残された契約書、振込控え、手帳、マッチ、名前、日付を押さえ、まず証拠を守ることを選ぶ。潮路、尾形芳江、矢部、先生、京浜、宮下、白金という言葉が出るが、2人はまだ相手に接触しない。父の仇を取るために、最初に必要なのは、相手に気づかれずに線をつなぐことである。




