第5話(中編2)――「高輪五階、美奈子の部屋」
買い物を終えた直樹と美奈子は、高輪宝栄ビルへ戻る。直樹はビル5階の空室を美奈子の住まいと決め、家具、寝具、食器、食品、日用品を運び込ませる。美奈子は、銀鈴堂の上に自分の部屋を持つことになる。夜の店へ戻らず、明日の朝には階下の銀鈴堂へ降りていく。その事実が、美奈子の胸にゆっくり染み込んでいく。直樹はその夜、美奈子と同じ部屋に泊まる。
(1986年9月19日金曜日夕方、東京・高輪宝栄ビル)
タクシーが高輪宝栄ビルの前に止まった時、空はすでに夕方の色になっていた。
1階の銀鈴堂には、まだ明かりがついていた。川島晴江と小野寺美智子が、明日の準備をしているらしい。奥では森口源三が、修理台の前で何かを片づけていた。
美奈子は車を降り、看板を見上げた。
「銀鈴堂」
声に出すだけで、嬉しそうだった。
「明日、ここへ来るんだね」
「ここへ降りてきます」
「降りてくる?」
「あなたの部屋は上です」
美奈子は、はっとした顔で直樹を見た。
「本当に、このビルの中なの?」
「はい」
ビルの入口には、杉浦と小沼が待っていた。
杉浦は書類を持ち、小沼は鍵束を持っている。2人とも、今日一日でいくつもの手続きを片づけた顔だった。
「5階を開けています」
杉浦が言った。
「家具と寝具は、先に入れ始めています。水回りは最低限ですが、今夜泊まるだけなら使えます。浴室はありませんので、しばらくは近くの銭湯かホテルを使う形になります」
「構いません」
直樹は答えた。
美奈子は小さく手を上げた。
「あの、本当に私が使っていいんですか」
杉浦は穏やかに答えた。
「直樹さんのご指示です。銀鈴堂の店長さんが上に住んでくだされば、店としても安心です」
「店長さん……」
美奈子は、その言葉を小さく繰り返した。
エレベーターは古かった。
扉が閉まると、機械の音が小さく響いた。美奈子は階数表示を見上げ、五階に近づく数字を黙って追っていた。
扉が開くと、廊下には新しい荷物の匂いがしていた。
5階の空室は、もともと小さな事務所として使われていた部屋である。表の通りに面した広い部屋と、奥の小部屋、給湯室、洗面台がある。床は古いが、掃除は済んでいた。窓からは高輪の通りが見え、下を歩く人の流れも見えた。
美奈子は入口で立ち止まった。
「ここが、私の部屋?」
「はい」
「広い」
「事務所だったので、少し広めです」
「私、一人でこんなところ使っていいの?」
「使ってください」
美奈子は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
窓際まで歩き、外を見下ろした。
下には銀鈴堂がある。
その上に、自分の部屋がある。
美奈子は窓ガラスに手を当てた。
「五反田へ戻らなくていいんだ」
「戻らなくていい」
その言葉で、美奈子の肩から力が抜けた。
◇ ◇ ◇
部屋には業者が出入りしていた。
新しいベッドが奥の小部屋へ運び込まれ、白いマットレスが置かれた。厚い布団、毛布、枕、シーツ。表の部屋には、ソファ、低いテーブル、食器棚、小さな冷蔵庫、電気ポット、鏡台、照明が入った。
窓には仮のカーテンが吊られた。まだ寸法はぴったりではないが、夜を過ごすには十分だった。
美奈子は部屋の真ん中で、ただ見ていた。
「こんなに早く揃うの?」
杉浦が答えた。
「昼のうちに手配しました」
美奈子は直樹を見た。
「いつの間に?」
「銀鈴堂で手続きをしている間です」
「私、全然気づかなかった」
「気づかれないようにしました」
「ずるい」
「今日は、ずるくても構いません」
小沼は苦笑しながら、書類をしまった。
「住居として使う部分の整理は、明日以降に正式に進めます。水回りと消防の確認も必要です。今夜は仮の使用です」
「お願いします」
直樹は答えた。
部屋には、百貨店から届いた箱も入り始めた。
紺のワンピース。グレーのスーツ。白いブラウス。ベージュのスカート。濃い緑のジャケット。黒のワンピース。薄手のコート。部屋着。下着。ストッキング。靴。鞄。化粧品。
美奈子は箱を一つずつ開けた。
どれも自分の物である。
その当たり前のことが、すぐには信じられない顔だった。
「私、急に荷物持ちになったね」
「暮らすには荷物が要ります」
「そうだけど、今までの私の荷物って、もっと少なかったよ」
「これから増えます」
「いいのかな」
「いいんです」
直樹は、銀鈴堂から持ってきた装飾品の箱も出した。
真珠のネックレス。
小粒ダイヤの指輪。
細い金のブレスレット。
落ち着いた金のイヤリング。
上品な腕時計。
珊瑚の小さなブローチ。
美奈子は、真珠のネックレスを手に取った。
「これ、私がつけてもいいの?」
「美奈子さんの物です」
「店の商品じゃなくて?」
「違います」
「こんなの、持ったことない」
美奈子は鏡台の前に立ち、真珠を胸元に当てた。
昼に買った紺のワンピースによく合った。夜の店で客の目を引くための飾りではない。人前で信頼されるための装飾だった。
「私、ちゃんとして見える?」
「見えます」
「銀鈴堂の店長に見える?」
「見えます」
「本当に?」
「はい」
美奈子は鏡の中の自分を見たまま、目元を押さえた。
「駄目だ。今日は何回も泣きそうになる」
「泣いていいです」
「そう言われると、本当に泣くって言ったでしょ」
美奈子は笑いながら、涙をこぼした。
直樹はハンカチを渡した。
美奈子はそれを受け取り、目元を拭いた。
「私、こんな日が来ると思わなかった」
「明日から忙しくなります」
「うん」
「晴江さんたちから商品を教わる。森口さんから修理の流れを教わる。小野寺さんから帳簿と顧客の扱いを教わる。最初は覚えることばかりです」
「分かってる」
「店長だから、偉そうにする必要はありません。知らないことは聞けばいい」
「うん。今日、森口さんにもそう言った」
「それでいいです」
美奈子は真珠を外さず、ソファに座った。
「直樹くん」
「はい」
「今日だけは、私を幸せな気分のままにして」
「そのつもりです」
「明日から大変でもいい。覚えることが多くてもいい。怒られてもいい。でも、今日だけは、私、銀鈴堂の店長になったんだって思って眠りたい」
「そうしてください」
直樹は窓際へ行き、カーテンを閉めた。
外の光が消え、部屋の照明がやわらかく広がった。
◇ ◇ ◇
午後7時過ぎ、部屋はどうにか住める形になった。
食器棚には茶碗、皿、湯呑み、箸、スプーン、ナイフ、フォークが入った。冷蔵庫には水、牛乳、果物、卵、ハム、ヨーグルトが入った。棚には缶詰、紅茶、コーヒー、砂糖、塩、乾麺が置かれた。
洗面台の横には、歯ブラシ、タオル、石鹸、シャンプー、化粧品が並んだ。薬箱は店用と住居用に分け、住居用は棚の上に置いた。
針と糸、はさみ、小さなナイフ、方位磁石、ライター、マッチは、直樹が革の小袋に分けた。金やダイヤとは別にしておく。ひとつにまとめれば失くした時に困る。いくつかに分ければ、使える場面が増える。
美奈子はそれを見ていた。
「直樹くん、そういうところ、細かいね」
「細かい方が助かる時があります」
「私にも一つ持たせたもんね」
「はい」
「なくさないよ」
美奈子は、自分の鞄を開けた。
底には、さっき直樹から渡された小袋が入っている。針、糸、安全ピン、絆創膏、消毒薬、小さなはさみ、方位磁石。宝石ではない。だが、美奈子にはその袋が妙に心強く思えた。
「何だか、お嫁入りの準備みたい」
美奈子が言った。
直樹は手を止めた。
「嫌ですか」
「嫌じゃない」
美奈子は視線をそらした。
「全然、嫌じゃない」
部屋の中に、少しの沈黙が落ちた。
外では車の音が流れている。ビルの下では、銀鈴堂のシャッターが閉まる音がした。昼の店は眠り、上の部屋には灯りがついている。
夕食は、近くの料理屋から取った。
うなぎ、吸い物、煮物、漬物、果物である。美奈子は最初、遠慮していたが、直樹が箸を取ると、ようやく食べ始めた。
「美味しい」
「よかった」
「昼のハンバーグ、味が分からなかったから」
「今は分かりますか」
「うん。今は分かる」
美奈子は少しずつ食べた。
食べながら、何度も部屋を見た。
「ここで朝起きて、下へ降りたら銀鈴堂なんだよね」
「はい」
「変な感じ」
「変な感じでいいんです。昨日までの場所と違うから、そう感じるだけです」
美奈子は箸を止め、部屋を見回した。
「そっか。違う場所なんだね」
「はい。明日の朝、美奈子さんはここから銀鈴堂へ降ります」
「私、朝ちゃんと起きられるかな」
「起きるでしょう」
「どうして分かるの」
「行きたいと言っていたからです」
美奈子は箸を止め、笑った。
「そうだね。私、明日、行きたい」
◇ ◇ ◇
夜が深くなると、高輪の通りは静かになった。
部屋には新しい布団の匂いと、家具の木の匂いが残っていた。まだ生活の匂いではない。今日作られたばかりの部屋の匂いである。
美奈子は洗面台で化粧を落とした。
鏡の前に立つ背中は、昼間より少し疲れていた。だが、顔は明るかった。化粧を落としたあとでも、表情に力がある。夜の店で見せる笑顔ではなく、自分の明日を持った女の顔だった。
直樹は窓の鍵を確認し、買った物を棚へしまった。
美奈子は奥の部屋から顔を出した。
「直樹くん」
「はい」
「まだ片づけてるの?」
「もう終わります」
「今日は、もういいよ」
美奈子は、そう言って直樹のそばへ来た。
真珠のネックレスは外していた。昼に買った柔らかい部屋着を着ている。派手ではない。だが、よく似合っていた。
「私、今日のこと、たぶん一生忘れない」
「忘れなくていいです」
「うん。忘れない」
美奈子は直樹の手を取った。
「ねえ、明日の朝、私、本当に銀鈴堂へ降りるんだよね」
「降ります」
「晴江さんたちに、おはようございますって言うんだよね」
「はい」
「店長として」
「店長として」
美奈子は目を閉じ、息を吐いた。
「幸せだね」
その言葉は、大きな声ではなかった。
けれど、部屋の中にまっすぐ落ちた。
直樹は美奈子の手を握り返した。
今日一日で、すべてが片づいたわけではない。京浜土地建物の線も、ベル・ローズの奥にいる人間も、まだ見えていない。高輪宝栄ビルの手続きも、銀鈴堂の引き継ぎも、明日から本格的に始まる。
だが、今夜だけは別だった。
美奈子は夜の店へ戻らなかった。
五反田の電話にも戻らなかった。
高輪のビルの上に、自分の服と靴と鞄があり、下には明日から働く店がある。銀鈴堂の看板が、彼女の明日の入口になった。
「直樹くん」
「はい」
「今日は帰るの?」
「帰りません」
美奈子は顔を上げた。
「ここにいるの?」
「はい」
「泊まるの?」
「美奈子さんが嫌でなければ」
美奈子は、少しだけ笑った。
「嫌なわけないじゃない」
その答えには、迷いがなかった。
直樹と美奈子は、奥の部屋へ入った。
新しい寝具はまだ硬かった。シーツには糊の匂いが残っている。窓の外では車が一台通り過ぎ、遠くで電車の音がした。
美奈子は直樹の腕に寄り、目を閉じた。
「直樹くん」
「はい」
「今夜は、幸せなまま眠らせて」
「はい」
美奈子は安心したように息をついた。
やがて、部屋の明かりが消えた。
高輪宝栄ビルの5階に、まだ生活の浅い部屋がひとつできた。下には銀鈴堂があり、奥の棚には薬と道具があり、鞄の底には針と糸が入った小袋がある。
金と宝石だけでは足りなかった物も、この夜までに揃った。
そして美奈子は、夜の女としてではなく、銀鈴堂の店長として迎える朝を待ちながら、直樹の隣で眠った。
中編2では、直樹が高輪宝栄ビル5階の空室を美奈子の住まいに決め、家具、寝具、食器、食品、日用品をその日のうちに入れた。銀鈴堂からは真珠のネックレス、小粒ダイヤの指輪、金のブレスレット、腕時計なども選び、美奈子を店長として人前に立てる姿に整えた。薬箱や小道具も店用、住居用、携帯用に分けた。美奈子は五反田へ戻らず、銀鈴堂の上に自分の部屋を持つ。夜、直樹はその部屋に泊まり、美奈子は翌朝から銀鈴堂の店長として働くことを胸に、幸せな気分のまま眠りにつく。




