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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第5話(中編1)――「昼の服、鞄の底の道具」

銀鈴堂で金、ダイヤ、真珠、珊瑚を買い揃えた直樹は、さらに医者にかかり、抗生物質を処方してもらう。続いて薬局で消毒薬、包帯、救急箱を揃え、針と糸、小さな刃物、火を起こす道具、方位磁石なども買い足す。同時に、美奈子を銀鈴堂の店長として人前に立たせるため、仕事用の服、靴、鞄、化粧品、時計、装飾品を買い整える。美奈子にとって、それは夜の店を離れ、昼の世界へ移るための最初の支度であった。

 (1986年9月19日金曜日午後4時過ぎ、東京・高輪)


 直樹と美奈子は、銀鈴堂を出て高輪の通りを歩いていた。


 夕方の光が、店の看板や古いビルの窓に残っていた。会社帰りには少し早く、通りには買い物帰りの女や、書類鞄を持った男たちが歩いている。五反田の夜とは違った。声を張る客引きも、酔った男の笑い声もない。


 美奈子は一度だけ振り返った。


 銀鈴堂の看板が、夕方の光の中に静かに立っている。その下に、明日から自分が立つ。美奈子は胸元に手を当て、小さく息を吸った。


「直樹くん、明日からの服がない」


「今から揃えます」


「うん」


 直樹はタクシーを止めた。


「日本橋へ行きます」


 美奈子は銀鈴堂をもう一度見てから、車に乗った。


 ◇ ◇ ◇


 日本橋の百貨店は、夕方前でも客が多かった。


 入口には化粧品の匂いが漂い、磨かれた床に照明が映っていた。婦人服売場では、店員が客の体つきや歩き方を見ながら、服を選んでいる。


 直樹は店員に声をかけた。


「こちらの方が、貴金属店の店長になります。年配のお客様にも安心してもらえる服を揃えてください。仕事用を中心に、外出用と普段着もお願いします」


 店員は美奈子を見た。


 派手かどうかを見る目ではなかった。肩幅、腰の位置、顔映り、似合う色を見ていた。


「承知いたしました。落ち着いた色で、質のよいものをお選びします。地味にするのではなく、品よく見えるようにいたしましょう」


 美奈子は小さく頷いた。


 最初に選ばれたのは、紺のワンピースだった。襟元は詰まりすぎず、袖は肘の少し下まである。派手ではないが、生地に厚みがあり、体の線をきれいに整えて見せる服だった。


 次に、白いブラウス、薄いベージュのスカート、濃い緑のジャケット、グレーのスーツ、黒のワンピース、柔らかい色のカーディガンが並んだ。


 美奈子は試着室へ入った。


 しばらくして、紺のワンピース姿で出てきた。


 夜の店の美奈子ではなかった。


 派手な照明も、作った笑いもない。だが、顔立ちの明るさと体の存在感は隠れない。布が落ち着いた分、美奈子自身が前に出た。


 美奈子は鏡の前に立った。


「これで、店に出られる?」


「出られます」


 直樹は答えた。


「それを仕事用にしてください。ほかも一式、お願いします」


 店員も頷いた。


「よくお似合いです。こちらの色なら、真珠も金も映えます。お客様の前に立っても、強すぎず、弱くも見えません」


 美奈子は鏡の中の自分を見ていた。


 仕事用のスーツとワンピースが数着。白と淡い色のブラウス。季節に合わせた薄手のコート。店へ出る時のカーディガン。外出用のワンピース。部屋で着る柔らかい服。下着とストッキングも揃えた。


 次は靴だった。


 黒の低いヒール。濃い茶のパンプス。雨の日にも履ける革靴。店で長く立っても疲れにくい靴。外出用の華やかな靴。


 美奈子は黒のパンプスを履いて、売場の通路をゆっくり歩いた。足を止め、つま先を少し動かした。


「痛くない」


 店員が答えた。


「店に長く立たれるなら、これくらいの高さがよろしいと思います。見た目だけで選ぶと、夕方にはつらくなります」


 直樹は頷いた。


「それを二足。色違いも。外出用は別に選んでください」


 靴の次は鞄だった。


 店へ持って行く黒の革鞄。領収書や印鑑を入れられる少し大きめの鞄。外出用の小さなバッグ。財布。名刺入れ。化粧ポーチ。


 さらに化粧品売場へ移った。


 店員は、美奈子の顔立ちに合わせて、昼の店に合う化粧品を選んだ。化粧水、乳液、口紅、ファンデーション、眉墨、髪を整える道具。香水は強すぎないものにした。貴金属店で品物を見せる時、香りが先に立ちすぎるのはよくないという説明を、美奈子は鏡を見ながら聞いていた。


「この色でいい?」


 美奈子は落ち着いた色の口紅を手に取った。


「はい」


 直樹は短く答えた。


 美奈子はその口紅を店員へ渡した。


 百貨店を出る前に、直樹は配送先を告げた。


「高輪宝栄ビルの5階へ届けてください。今日中に届く物は今日。残りは明日で構いません」


 美奈子の手が、買ったばかりの小さなハンドバッグを握った。


「5階?」


「あなたの部屋です。あとで見せます」


「うん」


 美奈子はそれだけ言い、バッグを胸の前へ寄せた。


 ◇ ◇ ◇


 百貨店を出た後、直樹は薬局へ行く前に、小さな医院へ入った。


 通りに面した古いビルの2階に、「外科・内科」と書かれた看板が出ていた。階段は狭く、手すりには手垢の黒い跡が残っている。待合室には木の長椅子があり、壁には健康診断と予防接種の紙が貼られていた。


 美奈子は長椅子に座り、買ったばかりの鞄を膝に置いた。


 直樹は受付で名前を書き、診察室へ入った。


 医者は50代半ばの男だった。白衣の袖口に少しインクの跡があり、机の上にはカルテと万年筆が置かれていた。


「今日はどうしましたか」


「古い建物や現場へ入ることが多くなります。釘や瓦で手を切ることもあるので、救急用の薬を用意しておきたいのです。すぐ医者にかかれない場所へ行くこともあります」


 医者は直樹の手を見た。擦り傷がいくつか残っている。手の甲には、まだ赤い跡があった。


「建物関係ですか」


「はい」


「傷を放っておくと化膿します。消毒と包帯で済む時もありますが、赤く腫れて熱を持つようなら危ない」


「その時の備えが欲しいのです」


 医者はカルテに書き込んだ。


「抗生物質を出しておきます。ただし、むやみに飲むものではありません。傷が赤く広がる、膿む、熱が出る。そういう時は、本来なら医者に診せるのが先です。すぐ診せられない時だけ使ってください」


「分かりました」


「胃を荒らすこともあります。合わないと思ったら飲むのをやめる。用法は薬袋に書いておきます」


「お願いします」


 医者は奥へ声をかけた。


 しばらくして、薬袋が出てきた。抗生物質の錠剤、胃薬、解熱鎮痛剤である。薬袋には、飲む回数と注意が書かれていた。


 医者は続けた。


「救急箱を作るなら、消毒薬、ガーゼ、包帯、三角巾、ピンセットも入れておくといい。傷は最初の手当てで変わります」


「これから揃えます」


 直樹は会計を済ませ、診察室を出た。


 美奈子は立ち上がった。


「終わった?」


「はい。次は薬局です」


 2人は医院を出た。


 近くの薬局で、直樹は消毒薬、ガーゼ、包帯、絆創膏、三角巾、脱脂綿、体温計、はさみ、ピンセット、胃腸薬、下痢止め、解熱鎮痛剤、風邪薬、ビタミン剤、傷薬、携帯用の救急箱を選んだ。


 処方された薬も受け取った。


 薬剤師は、品の量を見て言った。


「店用と住居用で分けた方がよろしいですね。携帯用もお作りできます」


「そうしてください」


 直樹は答えた。


 店用、住居用、携帯用。


 消毒薬と包帯はそれぞれに分けた。ガーゼと絆創膏も同じように分ける。体温計、はさみ、ピンセットは救急箱へ入れる。携帯用には、必要な分だけを小さくまとめさせた。


 抗生物質の薬袋は、ほかの薬と混ぜなかった。


 直樹は薬袋を薄い布袋に入れ、鞄の内側へしまった。すぐ取り出せるが、外からは見えない場所である。


 美奈子は紙袋を両手で持ち、包装が終わるのを待っていた。


 ◇ ◇ ◇


 薬局を出ると、次に文具と手芸用品を扱う店へ入った。


 直樹は、針、丈夫な糸、裁ちばさみ、小さな糸切りばさみ、安全ピン、ボタン、布テープ、細い紐、革紐、メジャー、折りたためる布袋、油紙、薄い布の包みを選んだ。


 針は小さなケースに分けた。糸は黒、白、茶を揃えた。布テープは幅の違うものを数種類選び、細い紐と革紐は巻いた状態で受け取った。油紙と薄い布の包みは、薬や小物を分けるために使える。


 美奈子は、針の入った小さなケースを見ていた。


「これも持つの?」


「はい。鞄に入れておいてください」


「分かった」


 次に、刃物を扱う売場へ行った。


 大きな刃物ではない。折りたたみ式の小さなナイフ、鉛筆を削る程度の小刀、爪切り、缶切り、栓抜き、小型のはさみである。さらに、金属製の小さな鏡、携帯用の方位磁石、笛、丈夫なマッチ、ライター、雨に濡れにくい袋も選んだ。


 直樹は品物を机の上に並べ、用途ごとに分けた。


 店用。住居用。携帯用。


 店用には、救急箱、裁縫道具、はさみ、紐、布テープを入れる。住居用には、薬と包帯、針と糸、マッチ、ライター、雨除けの袋を入れる。携帯用には、小さなナイフ、絆創膏、ガーゼ、消毒薬の小瓶、細い紐、針、糸、安全ピン、方位磁石、笛、金属鏡を入れた。


 美奈子の鞄に入れる小さな袋も作った。


 中には、針、糸、安全ピン、絆創膏、消毒薬の小瓶、小さなはさみ、方位磁石を入れた。


「これは、美奈子さんが持っていてください」


 直樹は小袋を渡した。


 美奈子はそれを受け取り、鞄の底へ入れた。


「なくさないようにする」


「お願いします」


 直樹は残りの品を自分の鞄へ入れた。


 鞄の底には、金や小粒の石とは別に、油紙で包んだ道具が並ぶ。薬は薬で分け、刃物は刃物で分け、火を起こす道具は湿気を避ける袋へ入れる。小さな物ほど、必要な時に見つからなければ意味がない。


 支払いを済ませるころ、外の光は傾いていた。


 通りの窓に夕方の色が映り、車の音が少しずつ増えていた。美奈子は新しい鞄を持ち、百貨店に入る前より背筋を伸ばして歩いていた。服の包み、化粧品、薬、道具。今日買った物は多い。だが、その一つ一つが、明日からの場所につながっていた。


 直樹はタクシーを止めた。


「高輪へ戻ります」


「部屋を見に行くの?」


「はい」


 美奈子は頷いて車に乗った。


 膝の上には、新しい鞄がある。その底には、小さな道具の袋が入っていた。


 高輪宝栄ビルへ向かう車の窓に、夕方の東京が流れていった。店の灯りが一つずつつき始め、歩道を行く人の影が長く伸びている。


 美奈子の一日は、まだ終わっていなかった。

中編1では、直樹が美奈子を日本橋の百貨店へ連れて行き、銀鈴堂の店長として人前に立つための服、靴、鞄、化粧品を揃えた。美奈子は紺のワンピースを着て、自分が昼の店に立つ姿を初めて形として見る。また直樹は、医者にかかって抗生物質を処方してもらい、薬局で消毒薬、包帯、救急箱を揃えた。さらに針と糸、小さな刃物、火を起こす道具、方位磁石なども買い足した。金や宝石とは別に、怪我や移動に備える品である。美奈子の鞄にも、針、糸、絆創膏、消毒薬、小さなはさみ、方位磁石を入れた小袋を持たせた。次の中編2では、高輪宝栄ビル5階の空室を美奈子の住まいとして整え、彼女が五反田へ戻らず、新しい部屋で夜を迎える。

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