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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第5話(前編2)――「銀鈴堂の店長」

投資会議を終えた直樹は、高輪宝栄ビルの1階にある貴金属店「銀鈴堂」を、美奈子の新しい仕事場にすると決める。午前10時15分、直樹は五反田のピンサロへ電話を入れ、美奈子を昼食に呼び出す。夜の店ではなく、昼の高輪で会い、貴金属店の店長を任せたいと告げるためである。美奈子は驚きながらも大喜びで引き受け、その場でピンサロとベル・ローズ五反田へ退職を伝える。午後、直樹と美奈子は銀鈴堂へ行き、店主と従業員に会う。直樹は従業員を残し、店をそのまま引き継ぐ方針を示す。同時に、直樹は持ち歩きやすく、小さく分けられる貴金属を現金で買い揃える。一方、ベル・ローズ五反田では、美奈子の離脱によって田口と店長が慌てていた。京浜土地建物㈱の宮下徹は、まだ自分が危ない線へ引き込まれ始めていることに気づいていなかった。

 (1986年9月19日金曜日午前10時15分、東京・品川、早乙女不動産)


 直樹は会議室を出ると、すぐに五反田のピンサロへ電話を入れた。


 店はまだ本格的に動く時間ではない。受付の男が電話に出た。


「はい」


「美奈子さんに伝えてください。直樹です。昼に会いたい。店ではありません。仕事の話です」


「仕事の話?」


「高輪で昼食を取りながら話します。来られるなら、午前11時30分に高輪の白樺亭で待っています」


 受付の男は、奥へ確認しに行った。


 しばらくして、美奈子が電話に出た。


「直樹くん?」


「はい」


「昼に会いたいって、どういうこと」


「夜の話ではありません。昼の仕事の話です」


「昼の仕事?」


「会えば分かります。無理なら別の日にします」


「行く」


 美奈子は即答した。


「11時30分、白樺亭ね」


「はい」


「ちゃんとした服で行った方がいい?」


「美奈子さんの好きな服でいいです。ただ、店へも行きます」


「分かった。少し綺麗にして行く」


 電話は切れた。


 美奈子は来る。


 なら、今日で夜の店から引き離す。


 直樹はそう決めて、受話器から手を離した。


 ◇ ◇ ◇


 午前11時30分、高輪の白樺亭は昼前の客で半分ほど埋まっていた。


 古い洋食屋である。入口のガラスには白いレースのカーテンがかかり、木の椅子はよく磨かれている。厨房からはバターの匂い、焼いた肉の匂い、スープの湯気が流れていた。客は近所の会社員、年配の夫婦、買い物帰りの女たちで、夜の店の空気はどこにもなかった。


 美奈子は5分遅れて来た。


 昼の光で見る美奈子は、夜の赤い照明の中とは違って見えた。派手な化粧は抑え、髪もきちんとまとめている。体の大きさや存在感は隠せないが、そのぶん歩く姿に力があった。薄い色のブラウスに、膝下のスカートを合わせていた。


「直樹くん」


 美奈子は席へ来ると、照れたように笑った。


「こういう店で会うと、変な感じだね」


「夜の店より、こっちの方が似合います」


「またそういうことを言う」


「本当です」


 美奈子は向かいに座った。


 店員が水を置き、メニューを渡した。美奈子はメニューを開いたが、すぐ直樹を見た。


「昼の仕事の話って、何」


「その前に食べましょう。腹が空いたまま大事な話をすると、変な返事になります」


「私、変な返事する女に見える?」


「勢いで返事する女には見えます」


「当たってるから腹立つ」


 美奈子は笑った。


 2人はハンバーグとビーフシチューを頼んだ。


 料理が来るまでの間、直樹は高輪宝栄ビルの写真をテーブルに置いた。美奈子はそれを見て、眉を寄せた。


「ビル?」


「高輪の商業ビルです。今日、買います」


「買いますって、普通に言うね」


「買います」


「それで、私に何の関係があるの」


 直樹は、次に銀鈴堂の写真を出した。


 小さな貴金属店だった。入口にはガラスケースがあり、奥に修理台が見える。古い看板には、銀鈴堂と書かれていた。


「このビルの1階にある貴金属店です。店主が高齢で、引退を考えています。従業員は3人残ります。固定客もあります」


 美奈子は写真を見つめた。


「綺麗な店」


「この店を、美奈子さんに任せます」


 美奈子は、最初は意味が分からない顔をした。


「任せるって」


「店長です」


「私が?」


「はい」


「貴金属店の店長?」


「はい」


 美奈子は笑いかけた。


 冗談だと思った顔だった。


 だが、直樹が笑っていないのを見て、笑いが消えた。


「本気?」


「本気です」


「私、宝石なんて売ったことないよ」


「従業員が残ります。販売の人、事務の人、修理と加工を見る人。商品知識は覚えればいい。美奈子さんに任せたいのは、店の空気と客の扱いです」


「客の扱いなら、まあ、少しはできるけど」


「少しではありません。あなたは、人を見ています。相手が何を見せたがっているか、どこで気分がよくなるか、どこから先を嫌がるかを読む。高い物を売る店には、それが要ります」


 美奈子は黙った。


 料理が運ばれてきた。


 白い皿の上で、ハンバーグにソースがかかり、湯気が立っている。美奈子はフォークを持ったが、すぐには食べなかった。


「でも、私、夜の店の女だよ」


「だから、昼の店に移ってください」


「ピンサロも、電話も?」


「辞めてください」


 美奈子は、直樹を見た。


「直樹くん、それ、私を囲うってこと?」


「違います」


「違うの?」


「美奈子さんを、店長にします。給料を出します。店の売上が上がれば歩合も出します。住む場所が必要なら用意します。けれど、私の言うことを何でも聞けという話ではありません」


「じゃあ、何でそこまでしてくれるの」


 直樹は、美奈子の目を見た。


「辞めてほしいからです」


「どうして」


「危ないからです」


 美奈子は目を伏せた。


 その言葉に、心当たりがない顔ではなかった。


「ベル・ローズのこと?」


「それもあります」


「私、そんなに深くは知らないよ」


「知らないから安全とは限りません。少し知っているだけでも、危ない時があります」


 美奈子は、フォークを皿の横に置いた。


「直樹くん、私を助けようとしてる?」


「はい」


「はっきり言うね」


「曖昧に言う話ではありません」


 美奈子は黙った。


 昼の店のざわめきが、2人の間を通った。隣の席では会社員がランチの値段を話している。厨房では皿が重なる音がした。窓の外ではタクシーが止まり、白いシャツの男が降りた。


 夜の店ではない。


 電話の向こうでもない。


 昼の高輪で、普通の人間のように食事をしている。


 美奈子は写真をもう一度見た。


 銀鈴堂。


 貴金属店。


 店長。


「私、やる」


 美奈子は言った。


 迷いはなかった。


「やらせて。私、やってみたい」


「では、今日から準備します」


「今日から?」


「はい」


「早すぎるよ」


「早い方がいいです」


 美奈子は、そこで笑った。


 目が潤んでいた。


「私、貴金属店の店長になるんだ」


「なります」


「夜の女じゃなくて?」


「昼の店の店長です」


 美奈子は、ハンバーグを一口食べた。


 しばらく噛んでから、急に笑った。


「味、分かんない」


「落ち着いてください」


「無理。だって、貴金属店だよ。宝石だよ。私が店長だよ。直樹くん、馬鹿じゃないの」


「そうかもしれません」


「でも、嬉しい」


 美奈子は、今度ははっきり言った。


「すごく嬉しい」


 ◇ ◇ ◇


 食後、美奈子は店の公衆電話を借りた。


 まず、ピンサロへ電話した。


「美奈子です。今日で辞めます」


 受話器の向こうで、受付の男が何か言った。


 美奈子は眉を寄せた。


「急なのは分かってる。でも、もう決めたの。昼の仕事が決まったの。貴金属店の店長を任されたから」


 向こうの声が大きくなった。


「嘘じゃないよ。店は高輪。ちゃんとした店。だから、もう出ない」


 直樹は少し離れた場所で待っていた。


 美奈子は受話器を持つ手に力を入れた。


「真紀ちゃんには、あとで私から電話する。店には迷惑をかけるけど、もう戻らない。ごめんね」


 電話を切ると、美奈子は深く息を吐いた。


「怒ってた」


「当然でしょう」


「でも、いい」


 次に、美奈子はベル・ローズ五反田へかけた。


 田口が出たらしい。


「田口さん? 美奈子です。電話の仕事、今日で辞めます」


 受話器の向こうで、田口の口調が変わった。直樹にも、相手が慌てていることは分かった。


 美奈子は顔をしかめた。


「急にって言われても、急に決まったの。昼の仕事。貴金属店の店長」


 田口が何かをまくしたてた。


「京浜の人? 知らないよ。もう私は電話しない。誰か別の人に頼んで」


 美奈子の表情が硬くなった。


「店長に代わる? いいよ」


 美奈子は受話器を持ったまま、しばらく待った。


「お世話になりました。でも、辞めます。もう決めました」


 店長が何か言った。


「困るのは分かります。でも、私の人生まで店の都合で決めないで」


 美奈子はそう言って、受話器を置いた。


 指が震えていた。


 直樹は近づいた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫」


 美奈子は強がるように笑った。


「田口さん、慌ててた。店長は怒ってた。でも、言った。もう辞めるって」


「よく言いました」


「褒めないで。泣きそうになる」


 美奈子は目元を指で押さえた。


「貴金属店の店長なんだから、泣いたら駄目だね」


「泣いても構いません」


「やめて。直樹くんが優しいと、本当に泣く」


 直樹は、それ以上言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 午後1時過ぎ、直樹と美奈子は高輪宝栄ビルへ向かった。


 通り沿いのビルは、写真で見たより古かった。外壁の一部は色が薄れ、入口の金属枠にも細かな傷がある。だが、立地は悪くない。人通りがあり、近くには住宅、会社、医院、小さな飲食店が並んでいる。昼の客が歩く場所だった。


 1階の銀鈴堂には、ガラスケースが並んでいた。


 金の指輪、真珠のネックレス、珊瑚の帯留め、古いデザインのブローチ、小粒のダイヤを使った指輪、腕時計、修理待ちの品。照明は明るすぎず、品物は丁寧に置かれていた。


 店主の川島宗一は、奥から出てきた。


 痩せた老人だった。背筋は曲がっていないが、顔には疲れがあった。隣には販売担当の川島晴江、事務の小野寺美智子、奥には森口源三が立っていた。3人とも、直樹と美奈子を緊張した顔で見ている。


 杉浦もすでに来ていた。


「こちらが、新しい所有者になる予定の直樹さんです」


 杉浦が紹介した。


 直樹は頭を下げた。


「店を残すつもりです。従業員の方にも、できれば残っていただきたい」


 川島宗一の目が動いた。


「店を、残してくださるのですか」


「はい。店名も残します。銀鈴堂のままでいい」


 川島晴江が息を吐いた。


 直樹は美奈子を見た。


「こちらが、店長を任せる美奈子さんです」


 美奈子は背筋を伸ばした。


 夜の店で見せる笑顔ではなかった。緊張している。だが、逃げてはいない。


「美奈子です。宝石のことは、これから覚えます。皆さんに教えていただきたいです。お客様を大事にする店にしたいと思っています」


 森口源三が、奥から顔を上げた。


「品物の扱いは、急には覚えられませんよ」


「はい」


 美奈子はすぐに答えた。


「だから、急に分かったふりはしません。分からないことは聞きます」


 森口は頷いた。


 川島晴江は美奈子をじっと見ていた。


 派手な女ではないか。


 大丈夫なのか。


 そういう不安が顔に出ていた。


 美奈子もそれに気づいた。


「私、前の仕事は胸を張って言えるものではありません。でも、客の顔を見ることだけは、ずっとやってきました。ここでは、それを昼の仕事で使いたいんです」


 店内が静まった。


 小野寺美智子が最初に口を開いた。


「お客様の顔を見るのは、大事です」


 川島晴江も、遅れて頷いた。


「商品知識は、覚える気があるなら教えます」


「お願いします」


 美奈子は頭を下げた。


 その頭の下げ方は、夜の店で客にするものとは違っていた。


 直樹は川島宗一へ向き直った。


「この店にある、持ち歩きやすい貴金属を買います」


「持ち歩きやすい物、ですか」


「はい。小粒のダイヤを使った指輪。裸石の小粒ダイヤ。金の指輪。細い金鎖。金のブレスレット。真珠のネックレス。真珠の粒物。珊瑚の帯留めとブローチ。古いデザインで構いません。大きく目立つ物より、小さく分けられる物を出してください」


 川島宗一は、すぐに森口源三へ目を向けた。


「森口さん、奥の小箱も出してください。金と石の小さい物を中心に」


「分かりました」


 森口は奥へ入り、鍵のかかった引き出しを開けた。川島晴江もガラスケースの下から小箱を取り出した。黒いベルベットの上に、金の指輪、細い金鎖、真珠、珊瑚、小粒のダイヤを使った指輪が並んだ。大きな宝石はない。だが、数がある。身につけても目立ちにくく、分けて持てる品だった。


 直樹は、ひとつずつ見た。


「この列の金の指輪は全部。細い金鎖も全部。小粒のダイヤの指輪は、台が派手すぎない物を全部。裸石があれば、それも出してください。真珠は粒が揃いすぎていない物でいい。珊瑚は小さな帯留めとブローチを中心にしてください」


 森口は、さらに奥から小さな紙包みを持ってきた。


「裸石の小粒ダイヤは、こちらです。大粒ではありませんが、数はあります」


「全部見せてください」


 直樹は紙包みの中を確認した。小粒の石が白く光っている。ひとつひとつは大きくない。だが、まとめれば十分な価値がある。


「これも買います」


 川島宗一は計算機を叩いた。


「かなりの量になります。小粒ダイヤ、金の指輪、金鎖、真珠、珊瑚を合わせると、在庫価格で1億4,800万円ほどです」


「現金で払います」


 美奈子が横で目を丸くした。


「直樹くん、そんなに買うの」


「必要な買い物です」


 直樹はそれだけ答えた。


 それ以上の説明はしなかった。


「領収書は私の名義で出してください。品目は、金製品、宝石類、真珠、珊瑚で分けてください。持ち帰る物は、すぐに小分けにしてください。袋はひとつにまとめないでください」


 川島宗一は頷いた。


「承知しました」


 森口は、品物を種類ごとに分け始めた。金の指輪は十本ずつ。金鎖は布で包む。小粒ダイヤは紙包みに分ける。真珠と珊瑚は、傷が付かないよう小箱に入れる。


 杉浦は金額を確認し、現金の封筒を机の上に置いた。小沼も遅れて到着し、売買と領収書の処理に穴が出ないよう、店主と話を詰めた。


 川島宗一は、直樹を見た。


「この店を、本当に残すおつもりなのですね」


「残します」


「なら、ありがたい」


 老人の声が震えた。


「私は、店を畳むしかないと思っていました。晴江たちをどうするかも、気になっていた」


「従業員は残します。店を急に変えません。美奈子さんには、まず店長として人と店を見てもらう。商品は皆さんが支えてください」


 川島晴江は、美奈子を見た。


「店長として入られるのでしたら、明日からでもお越しください。午前中は掃除と在庫確認をいたします。午後にはお客様もいらっしゃいますので、店の流れを見ていただけると思います」


 美奈子は、すぐに答えた。


「はい。明日から来ます。分からないことばかりだと思いますが、よろしくお願いします」


「服装は、あまり派手になさらない方が、お客様も安心されると思います」


「分かりました。店に合う服を選びます」


「言葉遣いも、少しずつ店の形に合わせていきましょう。私どももお手伝いします」


「ありがとうございます。教えてください」


 午後3時には、銀鈴堂の引き継ぎの方向は決まった。


 高輪宝栄ビルは直樹が買う。


 銀鈴堂は残す。


 川島宗一は引退する。


 従業員3人は残る。


 美奈子が店長に入る。


 直樹は、小さな革のケースをいくつか受け取った。金の指輪、細い金鎖、小粒のダイヤ、真珠、珊瑚。持ちやすく、分けやすく、必要な時に値が通る品である。


 美奈子は、そのケースを見て言った。


「直樹くん、宝石好きなの?」


「嫌いではありません」


「それだけ買って、嫌いではありませんって言うの」


「使い道があります」


「女に配るの?」


「違います」


「じゃあ何」


「必要な時に使います」


 美奈子は不満そうに口を尖らせた。


「秘密が多いね」


「全部話せる男より、少しはましです」


「そういうところ、ずるい」


 美奈子はそう言ったが、深くは聞かなかった。


 自分にも、今まで話せないことがあったからである。


 ◇ ◇ ◇


 同じころ、ベル・ローズ五反田では、田口が落ち着きをなくしていた。


 昼過ぎに美奈子から電話があり、店長に代わらされたあとも、気分が戻らない。美奈子が辞める。貴金属店の店長になる。そう言われても、田口にはすぐに飲み込めなかった。


 夕方に近づくと、京浜土地建物㈱の男が店に来た。


 宮下徹、38歳。京浜土地建物㈱開発部の係長である。背広はきちんとしているが、目元には夜遊びを覚えた男のゆるみが出ていた。仕事では慎重なつもりでいても、女に褒められると口が軽くなる。自分が大きな仕事に関わっていることを、誰かに聞いてほしくてたまらない男だった。


 宮下は受付で田口に言った。


「今日は、美奈子さんから電話は入りますか」


 田口は一瞬、言葉に詰まった。


「今日は、まだ分かりません」


「昨日は、いいところで切れたんですよ。土地の話に興味があるって言うから」


「そうでしたか」


「女の人には難しい話ですけどね。大きな仕事なんです。うちの会社でも、今かなり動いている案件で」


 宮下は得意そうに笑った。


 田口は、その笑いを見て、奥へ目をやった。


 美奈子は辞めた。


 だが、この男はもう温まっている。


 店長が奥から出てきた。


「田口」


「はい」


「先生に連絡しろ。宮下さんは、もう外で会わせる」


 宮下は、先生という言葉には気づかなかった。受話器の音と、店内の笑い声に紛れていたからである。


 店長は宮下へ向き直り、作った笑顔を浮かべた。


「宮下さん。今日は少し、別の形でよろしいですか。あなたの土地の話に興味を持っている人がいます」


「美奈子さんですか」


「美奈子ではありません。もっと話が分かる人です。外で会えます」


「外で?」


「ええ。ここでは、周りの耳があります。大きな仕事の話でしょう」


 宮下は、少し迷った。


 だが、自分の仕事を大きな仕事と言われたことで、顔つきが変わった。


「分かる人なら、話してもいいです」


「では、少しお待ちください」


 田口は奥へ走った。


 ベル・ローズの電話は、いつものように鳴っていた。男たちは受話器を取り合い、女の声を待っている。その騒がしさの下で、別の線が動き始めていた。


 京浜土地建物㈱の男。


 土地の話。


 美奈子の離脱。


 外の人間。


 それぞれは、まだ一つの事件には見えない。


 だが、線はすでに同じ場所へ向かっていた。


 ◇ ◇ ◇


 午後4時過ぎ、直樹は美奈子を銀鈴堂から外へ連れ出した。


 通りには夕方の光が落ち始めていた。美奈子は店の入口を振り返り、看板を見上げた。


「銀鈴堂」


 美奈子は声に出した。


「私、本当にここで働くんだね」


「はい」


「明日、朝から来る」


「無理をしないでください」


「無理じゃない。行きたいの」


 美奈子は、直樹を見た。


「ありがとう」


 直樹は答えなかった。


 礼を言われるには、まだ早いと思った。


 美奈子を夜の店から引き離した。


 ピンサロにも、ベル・ローズにも辞めると伝えた。


 貴金属店の店長という昼の場所も用意した。


 必要な貴金属も買い揃えた。


 それでも、これで安全になったとは言えなかった。


 直樹は、高輪の通りを歩きながら、革のケースの重みを上着の内側に感じていた。


 金。


 ダイヤ。


 真珠。


 珊瑚。


 持ち歩ける貴金属は、一通り揃った。


 だが、心の中に残るざらつきは消えなかった。


 美奈子は嬉しそうに歩いている。


 その横顔を見ていると、直樹は救われたような気がした。夜の赤い照明の中ではなく、昼の通りで、美奈子が自分の店の話をしている。それだけで、昨日までとは違う。


 しかし、ベル・ローズ五反田の奥で何が動いているのかは、まだ見えなかった。


 京浜土地建物。


 土地の話。


 外の人間。


 先生。


 直樹が拾っているのは、断片だけである。


 その断片が、どれほど大きな穴へつながっているのか、直樹にはまだ分からなかった。

前編2では、直樹が美奈子を高輪の洋食屋へ呼び出し、貴金属店「銀鈴堂」の店長を任せると告げた。美奈子は驚きながらも大喜びで引き受け、その場でピンサロとベル・ローズ五反田へ辞めると電話する。午後、直樹と美奈子は銀鈴堂へ行き、店主の川島宗一、販売担当の川島晴江、事務の小野寺美智子、修理と加工を担当する森口源三と会う。直樹は店を残し、従業員3人も残し、美奈子を店長として入れる方針を示す。同時に、直樹は金、ダイヤ、真珠、珊瑚など、持ち歩きやすく小さく分けられる貴金属類を現金で購入した。一方、ベル・ローズ五反田では、美奈子の離脱によって田口と店長が慌て、京浜土地建物㈱の宮下徹を外の人間へつなごうと動き始める。直樹は断片を拾っているが、京浜土地建物㈱を狙う大掛かりな土地詐欺の全体像まではまだ見えていない。

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