第5話(前編1)――「90億円の短期、160億円の長期」
1986年9月19日金曜日午前9時、直樹は品川の早乙女不動産会議室で、杉浦から250億円分の都内投資案件について説明を受ける。資金は短期転売枠90億円と、長期保有枠160億円の2本に分ける。短期転売枠は、1か月から3か月で最低3倍、うまく行けば5倍を狙う高速の土地取引である。一方、長期保有枠は賃料を取りながら持ち続ける物件群であり、その中に高輪の商業ビルと、1階に入る貴金属店「銀鈴堂」があった。直樹は、その店を見た瞬間、美奈子を夜の世界から引き離す道を思いつく。
(1986年9月19日金曜日午前9時、東京・品川、早乙女不動産)
直樹は朝から品川の会議室にいた。
昨日、杉浦から大枠の説明は受けている。直樹の資金から250億円を都内の土地と建物へ入れる。その方針に変わりはない。
ただし、今日は大枠ではなく、具体的な物件を決める日だった。
机の上には、地図、登記資料、売主の事情、賃料表、建物写真、金融機関の担保評価、改修費の見積りが並んでいた。杉浦はすでに要点を整理している。小沼も隣に座り、法的に危ない物件がないかを確認していた。
「まず、250億円を2つに分けます」
杉浦は、最初の一覧を直樹の前に置いた。
「短期転売枠が90億円。長期保有枠が160億円です」
直樹は一覧を見た。
「説明してください」
「短期転売枠の90億円は、品川駅東口の倉庫跡、高輪の社宅跡、田町駅近くの駐車場、五反田駅前の古い雑居ビル、大井町駅近くの駐車場です。どれも売主が急いでいます。相続、会社整理、借入金の返済、後継者不在、銀行からの返済圧力が理由です。こちらが現金で即決すれば、相場よりかなり安く買えます」
「短期というのは、どのくらいですか」
「1か月から3か月です。それ以上は短期とは見ません。買って寝かせるのではなく、出口を持ったまま押さえます」
「出口とは」
「すでにその周辺を欲しがっている相手です。開発会社、証券会社系の不動産部門、ホテル会社、流通会社、建設会社です。相手は自分で地上げを始めると時間がかかる。こちらが先に押さえて、まとまった形で渡せば、相手は時間を買うことになります」
直樹は、地図に落とされた赤い印を見た。
品川駅東口の倉庫跡は、物流会社と大手食品会社が見ている。高輪の社宅跡は、ホテル会社が欲しがっている。田町駅近くの駐車場は、証券会社系の不動産部門が探っている。五反田駅前の古い雑居ビルは、駅前再開発の種地として複数の業者が目を付けていた。大井町駅近くの駐車場は、流通会社が配送拠点の候補として見ている。
まだ表には出ていない。
だが、欲しがる者はもういる。
1986年の東京では、それだけで値段が跳ねる。土地の値段は、今の利用価値だけでは決まらない。次に誰が欲しがるか、誰が先に押さえるか、その焦りが値段を押し上げていた。
「利益は」
直樹が聞いた。
「最低でも3倍です。買値の3倍で出口を作れない物は、短期枠には入れません。うまく行けば5倍まで見ます」
杉浦は、別紙を出した。
「品川駅東口の倉庫跡は24億円で押さえ、80億円前後で流通系へ渡す見込みです。高輪の社宅跡は18億円で押さえ、60億円前後を見ます。田町駅近くの駐車場は16億円で押さえ、50億円以上。五反田駅前の古い雑居ビルは22億円で押さえ、90億円から100億円まで狙えます。大井町駅近くの駐車場は10億円で押さえ、35億円から40億円を見ます」
「かなり強い数字ですね」
「はい。普通の時代なら無理です。ですが、今の東京では、相手が欲しい場所をこちらが先に押さえれば、値段は相場ではなく、相手の焦りで決まります」
直樹は頷いた。
「それでいいです。短期枠は、1か月から3か月で抜く金です。最低3倍、うまく行けば5倍を狙う。ただし、急ぐからといって見るところを飛ばしてはいけません」
「分かっています」
杉浦は答えた。
「公図、登記、抵当、差押え、借地、賃借人、道路、水道、排水、建築制限は先に確認します。境界が荒れている物、通行や掘削で揉める物、反社会的な筋が絡む物は外します」
小沼も続けた。
「契約書も、売買対象の地番、建物、付属設備、占有者、引渡し時期を明確にします。短期で大きく抜く時ほど、書類を甘くすると後で刺されます」
「お願いします」
直樹は言った。
「短期で3倍、5倍を狙うからこそ、危ない物を混ぜない。出口が見えている物だけを買う。さらに上がりそうだからといって、深追いもしない。1か月から3か月で抜ける物は抜く。それが短期枠です」
「はい」
「この90億円は、土地を持つための金ではありません。相手が欲しがる前に押さえ、相手が焦っている間に渡す金です」
杉浦は、短期転売枠の欄に赤線を引いた。
「短期転売枠90億円。保有期間は1か月から3か月。最低3倍、好条件なら5倍。出口のない物は買わない。この条件で進めます」
「それでお願いします」
直樹は答えた。
杉浦は、次の資料を開いた。
「次に、長期保有枠160億円です。こちらは賃料を取りながら持ち続ける物件です。短期のように急いで売りません」
「長く持つ理由は」
「場所です。今は古く見える建物でも、場所がよければ、賃料を取りながら値上がりを待てます。建物を直し、入居者を整え、焦らず持てば、売る必要がありません」
杉浦は長期保有枠の一覧を示した。
「高輪宝栄ビルに20億円。五反田の店舗付きビルに25億円。田町の小型オフィスビルに20億円。浜松町の店舗兼事務所ビルに18億円。品川の小型マンション2棟に22億円。大崎の工場跡と事務棟に30億円。芝浦の倉庫に25億円。合計160億円です」
「改修は必要ですね」
「はい。ただし、売るために見栄えだけをよくする改修ではありません。長く持つための修繕です。水回り、電気、耐火、階段、雨漏り、消防関係を先に直します。外壁だけを綺麗にして高く見せるための改修ではありません」
直樹は頷いた。
「それでいいです。長く持つ物件なら、見栄えより先に建物の寿命を延ばしてください。借りる人が安心して入れることが大事です」
「分かっています」
直樹は資料をめくった。
短期転売枠90億円。
長期保有枠160億円。
合計250億円。
金の性格は、はっきり分かれた。
短期は、出口を持って買う。1か月から3か月で抜く。
長期は、場所と賃料を見る。建物を直し、持ち続ける。
その2本でよかった。
「長期保有枠の中で、最初に見たい物件はありますか」
杉浦が聞いた。
「高輪宝栄ビルです」
直樹は答えた。
「こちらです」
杉浦は写真を差し出した。
高輪の通り沿いにある5階建ての商業ビルだった。外壁は古いが、入口の石は悪くない。1階には貴金属店、2階には婦人服の店、3階には時計修理と小さな事務所、4階と5階は貸事務所である。駅から近く、周囲には古い住宅と小さな店が混じっていた。
「ビル名は高輪宝栄ビルです。売主は70代の資産家で、相続対策と借入金の整理のために売りたいそうです。建物は古いですが、場所がよく、1階の貴金属店には固定客があります」
「貴金属店の名前は」
「銀鈴堂です」
杉浦は別紙を出した。
「店主は川島宗一、68歳。体調を崩しており、店を続けるのが難しい。従業員は3人残っています。販売の川島晴江46歳、店主の姪です。事務の小野寺美智子29歳。修理と加工を見られる森口源三58歳。顧客名簿、在庫、什器、金庫、修理台も残っています」
直樹は、その資料を手に取った。
貴金属店。
従業員付き。
昼の仕事。
顧客があり、店構えもある。
美奈子の顔が浮かんだ。
夜の店で男を笑わせ、相手の財布と気分を読む女である。明るく、勘がよく、客の言葉を拾える。高価な品を売る店には、商品知識だけではなく、人を見る力が要る。美奈子にそれがないとは思えなかった。
「このビルは買います」
直樹は言った。
杉浦は顔を上げた。
「長期保有ですね」
「はい。ビルごと買います。1階の銀鈴堂も、できれば店ごと引き取ります。従業員は残してください」
「店主が引退するなら、誰を店長にしますか」
直樹は少しだけ間を置いた。
「こちらで決めます」
杉浦は、それ以上聞かなかった。
「承知しました。銀鈴堂は、店名を残しますか」
「残します。いきなり変えると、固定客が逃げます。店主が退くことは自然に伝えてください。新しい店長が入る。ただし、従業員は残る。修理も続ける。そう説明すればいい」
「分かりました」
「在庫の査定は、森口さんと外部の鑑定を入れてください。宝石や金の値段は、こちらが素人顔で触ると危ない」
「手配します」
杉浦は資料に印を付けた。
「高輪宝栄ビルは、長期保有枠の中核にします。取得額は18億円、改修と店の引き継ぎ費用で2億円を見ます」
「それで進めてください」
直樹は、続けて残りの物件にも目を通した。
短期転売枠90億円。
品川駅東口の倉庫跡に24億円。
高輪の社宅跡に18億円。
田町駅近くの駐車場に16億円。
五反田駅前の古い雑居ビルに22億円。
大井町駅近くの駐車場に10億円。
長期保有枠160億円。
高輪宝栄ビルに20億円。
五反田の店舗付きビルに25億円。
田町の小型オフィスビルに20億円。
浜松町の店舗兼事務所ビルに18億円。
品川の小型マンション2棟に22億円。
大崎の工場跡と事務棟に30億円。
芝浦の倉庫に25億円。
合計250億円。
直樹は、1つずつ確認した。
「短期は、出口が見えている物だけを買う。1か月から3か月で最低3倍、うまく行けば5倍を狙う。ただし深追いしない。長期は、賃料と建物の寿命を見て持つ。この2つを守ってください」
「はい」
「名義は分けてください。ただし、管理は見える形にする。隠すためではなく、危険を分けるためです」
「分かっています」
杉浦は資料をまとめた。
午前10時前だった。
直樹は高輪宝栄ビルの写真だけを手元に残した。
「この銀鈴堂の件ですが、今日中に見られますか」
「午後なら可能です。売主側には、こちらが真剣に検討していると伝えてあります」
「では、昼のあとで行きます」
「店長にする方も一緒ですか」
「はい」
杉浦は、そこで初めて直樹を見た。
「美奈子さんですか」
直樹は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
杉浦は資料を閉じた。
「承知しました。余計なことは聞きません」
「お願いします」
直樹は席を立った。
投資案件は決まった。
短期で抜く金。
長く持つ建物。
その2本は整理できた。
次は、美奈子である。
前編1では、直樹が杉浦から250億円分の都内投資案件について説明を受けた。資金は短期転売枠90億円、長期保有枠160億円に分けた。短期転売枠は、1か月から3か月で最低3倍、うまく行けば5倍を狙う高速の土地取引である。長期保有枠は、賃料と建物の寿命を見て持ち続ける物件群であり、その中に高輪宝栄ビルと1階の貴金属店「銀鈴堂」があった。直樹は、銀鈴堂を見たことで、美奈子を夜の仕事から引き離し、昼の店の店長にする道を見つけた。




