第4話(後編2)――「250億円の行き先、美奈子への道」
1986年9月18日木曜日午前9時30分、直樹は品川の早乙女不動産へ入る。直樹個人の300億円のうち、50億円を流動資金として残し、残り250億円を都内不動産へ入れる方針は決まっていた。ただし、この日はまだ候補地の大枠を確認する段階であり、具体的な物件の決定は翌日に回す。直樹は、尚人と順子が1986年側から消えた事実を受け、自分も時代を越えて飛ばされる危険を考え始める。夜には五反田で美奈子と再び会い、彼女への気持ちを深める。その一方で、ベル・ローズ五反田の周辺では、京浜土地建物㈱の名が聞こえ始める。
(1986年9月18日木曜日午前9時30分、東京・品川、早乙女不動産)
直樹は、朝のうちに品川の早乙女不動産へ入った。
美奈子に会うのは夜である。午後7時に五反田の店へ入ればいい。まだ時間は十分にあった。
会議室には、杉浦が先に来ていた。
机の上には、都内の土地と建物の候補をまとめた資料が並んでいた。品川、高輪、田町、五反田、大崎、芝浦、浜松町。赤い印が打たれた地図には、古いビル、倉庫跡、駐車場、社宅跡、小さな事務所ビルが散らばっていた。
直樹は椅子に座った。
「昨日の話を、もう一度整理してください」
杉浦は資料を前へ出した。
「直樹さん個人の300億円のうち、50億円は直樹さんの個人資金として残します。残り250億円を、不動産へ入れます」
「今日は、物件を決める日ではないですね」
「はい。今日は候補地の大枠を見ていただく日です。明日の午前までに、短期で抜く物件と、長期で持つ物件を分けた一覧を作ります」
直樹は頷いた。
「続けてください」
杉浦は地図の品川、高輪、田町のあたりを指した。
「まず、品川、高輪、田町です。駅に近い古いビル、社宅跡、倉庫跡、駐車場が中心です。今すぐ派手に見える物件ではありませんが、場所が強い。相続、会社整理、借入金の返済で売り急ぐ所有者が出ています」
「ここは、短期にも長期にもなりますね」
「そうです。駅に近い土地や社宅跡は、出口を持てば短期転売に使えます。一方で、通り沿いの商業ビルや賃料のある建物は、直して持ち続ける価値があります」
杉浦は次に、五反田と大崎を示した。
「五反田、大崎は、雑居ビル、店舗付きビル、古いマンション、工場跡が候補です。五反田は、今後こちらが調べる場所にも近い。ただし、表向きはあくまで投資です。賃料が取れる物、または周辺が動き出した時に価値が上がる物を見ます」
「五反田は、目立ちすぎないようにしてください」
「承知しています。直樹さんが動いていることを、余計な相手に見せる必要はありません」
杉浦は、芝浦と浜松町へ地図をずらした。
「芝浦、浜松町、湾岸寄りは、倉庫、事務所、作業場、駐車場が中心です。今の見た目は地味ですが、将来の土地として意味があります。ここは、すぐに全部を買うのではなく、条件のよい物が出た時に押さえる形でよいと思います」
「分かりました」
直樹は、地図を見ながら考えた。
250億円は、ひとつの土地へ入れるには大きすぎる。だが、東京の要所に分ければ、動かし方はいくらでもある。短期で売る土地、長く持つビル、賃料を取る建物、将来の再開発を待つ場所。それぞれ性格が違う。
「杉浦さん」
「はい」
「明日の資料では、250億円を二つに分けてください」
「二つ、ですか」
「はい。短期で抜く金と、長期で持つ金です。短期は、出口が見えている物だけにする。1か月から3か月で抜ける物です。長期は、賃料を取りながら持てる物にする。建物を直して、長く使う物です」
杉浦は、すぐにメモを取った。
「短期転売枠と、長期保有枠ですね」
「そうです。割合は、明日詰めてください。短期に入れすぎれば危ない。長期に寄せすぎれば、金の回りが遅くなる。両方必要です」
「分かりました」
「それと、短期で大きく抜けそうに見えても、境界、登記、抵当、借地、占有者、反社会的な筋が絡む物は外してください。早く儲かる話ほど、後で刺されやすい」
「小沼先生にも確認してもらいます」
「お願いします」
杉浦は別の資料を開いた。
「高輪には、古い商業ビルもいくつかあります。駅から近く、1階に店舗が入っている物件です。売主が高齢で、相続対策や借入金の整理を考えている例があります」
直樹は資料を見た。
写真はまだ粗い。外観だけで、店の中までは分からない。古い看板、くすんだ外壁、通り沿いの入口。だが、場所は悪くなかった。
「こういう物は、長期ですね」
「はい。短期で売るより、ビルごと買って、テナントを整え、賃料を取りながら持つ方がよいと思います」
「明日、詳しく見せてください」
「承知しました」
この時点で、直樹はまだ銀鈴堂の名を知らなかった。
高輪の商業ビルの1階に、貴金属店があることも、そこに美奈子の新しい道があることも、まだ知らない。
ただ、長期で持てる建物の中に、昼の商売を置ける場所があるかもしれない。
そこまでは感じていた。
会議は午前10時過ぎに終わった。
杉浦は資料をまとめた。
「明日の午前9時までに、短期転売枠と長期保有枠に分けた一覧を作ります。具体的な取得額、売主の事情、出口候補、賃料、改修費も入れます」
「お願いします」
杉浦が会議室を出ると、直樹は一人になった。
机の上には、まだ地図が残っている。
赤い印のついた東京。
金で買える土地。
金で買える建物。
金で動く人間。
1986年の東京では、金は強い。
だが、尚人と順子は、その1986年から消えた。
もし自分も同じように飛ばされたらどうなるのか。
財布に1万円札が何枚あっても、時代が変われば使えない。昭和六十一年の硬貨を持って、終戦直後の東京へ落ちれば、それは金ではなく、説明できない証拠になる。さらに古い時代へ飛ばされれば、紙幣はただの印刷物である。
直樹は、地図の横に白いメモ用紙を置いた。
まず、紙幣に頼らないこと。
次に、鞄ひとつに頼らないこと。
そして、ひとつの高価な品に頼らないこと。
直樹は、鉛筆を取った。
金。
小粒のダイヤ。
真珠。
珊瑚。
薬。
針と糸。
小さな刃物。
火を起こす道具。
方位磁石。
これらは、まだ買っていない。
必要なのは、小さく分けて、持ち歩ける物である。
金なら、指輪、短い鎖、小さな飾り、薄い金片がよい。小粒のダイヤなら、ひとつにまとめず、いくつかに分ける。真珠や珊瑚は、女物の飾りとしても通る。薬と道具は、鞄だけではなく、上着や靴やベルトにも分ける。
直樹は、メモを畳んだ。
直樹はメモを上着の内ポケットへ入れた。
買うのは、明日以降でいい。
場合によっては、明日の物件調査の中で、使える店が見つかるかもしれない。
午前中の仕事は、そこで切った。
◇ ◇ ◇
午後は、直樹は品川で資料を読み直した。
杉浦から出された候補地の地図を、もう一度見る。品川、高輪、田町。五反田、大崎。芝浦、浜松町。どの場所も、ただの点ではない。駅、道、古い建物、持ち主の事情、借りている者、欲しがる者。その全部が絡んでいる。
尚人がいれば、もっと大きく見ただろう。
この土地は、今買うべきか。
この持ち主は、どこまで困っているか。
ここを買うと、誰が焦るか。
直樹は、尚人ならどう見るかを考えながら、資料に印を付けた。
だが、今は自分が見るしかない。
午後5時を過ぎると、直樹は品川を出た。
五反田へ向かうには、まだ少し早い。腹が空いたまま美奈子に会うのはよくない。彼女は勘がいい。疲れた顔や焦った顔を見せれば、すぐに気づく。
直樹は、五反田へ向かう途中で古い洋食屋に入った。
表のガラスには、白い字でランチと書かれていた。夕方も開いているらしく、仕事帰りの男がビールを飲んでいる。厨房からは、バターと煮込みソースの匂いが流れていた。
直樹はカウンターに座り、ビーフシチューとライスを頼んだ。
肉はよく煮込まれていた。スプーンで押すと崩れ、濃いソースが皿の底に広がった。じゃがいもと人参に湯気があり、腹に温かいものが入ると、体の奥のこわばりが少し抜けた。
今日決めたことは、二つである。
250億円は、明日、短期と長期に分けて具体化する。
紙幣だけでは生きられない場合に備え、持ち歩ける資産と道具を整える。
そして、夜には美奈子に会う。
午後6時40分、直樹は店を出た。
五反田の夜は、すでに動き始めていた。駅前には会社帰りの人が流れ、居酒屋の暖簾が揺れている。路地に入ると、赤い看板と青い看板が重なり、酒、煙草、香水、揚げ物の匂いが混じっていた。
直樹は、昨日と同じ遊興ビルへ向かった。
午後7時少し前だった。
階段を下りると、店の音が聞こえた。受付の男の声、奥の笑い声、低く流れる音楽。消毒液、煙草、化粧品、古いソファの布の匂いが混じっている。
受付の男は、直樹を見るとすぐに思い出した顔をした。
「いらっしゃいませ。ご指名は」
「美奈子さんをお願いします」
「美奈子ですね。昨日の方ですよね」
「はい」
受付の男は、奥へ声をかけた。
「美奈子さん、指名です」
奥から、すぐに返事があった。
「直樹くん?」
直樹は少し笑った。
受付の男も笑った。
「名前、覚えられてますね」
奥から美奈子が出てきた。
昨日と同じ明るい顔だった。だが、直樹を見た瞬間だけ、店の女としての笑顔とは少し違う表情になった。目元が緩み、口元に照れが出た。
「本当に来た」
「来ました」
「昨日、約束したもんね」
「はい」
「真面目だねえ」
美奈子は笑ったが、声は昨日より柔らかかった。
直樹は受付に料金を払った。
美奈子は直樹の手を取り、奥の部屋へ歩いていった。昨日より迷いがない。途中で振り返り、少しだけ笑った。
「今日は、昨日より広い部屋でいいでしょ」
「はい」
「昨日の部屋、狭かったもんね」
「そうですね」
「言い方が真面目すぎる」
美奈子は笑い、部屋のカーテンを閉めた。
部屋には赤い照明が落ちていた。壁際に長いソファがあり、低いテーブルには灰皿とティッシュ箱が置かれている。換気扇が小さく回り、外の音は少し遠くなった。
美奈子はソファに腰を下ろした。
「今日は何を聞きに来たの」
軽い言い方だった。
だが、目は直樹を見ていた。昨日話したことを、直樹がどう受け止めたのかを確かめようとしている。
直樹は、すぐに答えた。
「今日は、美奈子さんに会いに来ました」
美奈子は、すぐには返事をしなかった。
からかう言葉を探したのだろう。だが、うまく出てこなかったらしい。少し目をそらし、照れた顔になった。
「そういうこと、さらっと言うんだ」
「本当ですから」
「昨日、私が少し話したから、続きを聞きたいのかと思った」
「それも気になります。でも、今夜はそれを聞きに来たわけではありません」
「じゃあ、本当に会いに来たの」
「はい。昨日帰ってから、また会いたいと思いました」
美奈子は、笑おうとして失敗した。
普段なら、客の口説き文句など聞き慣れている。かわすのも、乗るふりをするのも得意なはずだった。だが、直樹の言葉には、店の中で女を持ち上げる軽さがなかった。
「困るなあ」
美奈子は言った。
「そういうの、私、弱いかもしれない」
「困りますか」
「困るよ。仕事がやりにくくなる」
「では、今日は仕事の顔を少し休ませてください」
「お客さんがそれ言うの?」
「はい」
美奈子は、とうとう笑った。
だが、その笑いは昨日のように場を動かすためのものではなかった。気持ちを隠しきれずに出た笑いだった。
「直樹くん、ずるい」
「昨日も言われました」
「今日も言う」
美奈子は立ち上がり、直樹の上着を受け取った。手つきは慣れている。だが、襟元に触れる指先は昨日よりゆっくりだった。客を急がせる動きではない。確かめるような動きだった。
直樹は、美奈子の肩に手を置いた。
昨日の続きではある。
だが、同じではない。
昨日は、美奈子の余裕を崩した。今日は、最初から美奈子の方が身を寄せてきている。
直樹は美奈子を抱き寄せた。
美奈子は、少し息を吐いた。
「昨日より、優しいね」
「昨日も、優しくしたつもりです」
「途中から全然優しくなかった」
「嫌でしたか」
「嫌だったら、今日この部屋に連れてこない」
美奈子は、直樹の胸に額を当てた。
「今日はね、私、最初から変なんだよ。仕事の顔を作る前に、直樹くんが来ちゃった」
「来ない方がよかったですか」
「馬鹿。来てほしかったから、困ってるの」
直樹は、美奈子の顔を上げさせた。
美奈子は目をそらさなかった。
直樹は唇を重ねた。
最初は浅く、次は少し長く。美奈子はすぐに応えた。腕を直樹の首に回し、体を預けてくる。昨日より早く、昨日より素直だった。客を導く女ではなく、自分から近づいてくる女になっていた。
直樹は急がなかった。
美奈子の髪に触れ、頬に触れ、肩を抱いた。美奈子は目を閉じ、直樹のシャツを握った。店の外の笑い声や受付の声は、壁の向こうで遠くなっていた。
「今日は、何も聞かないの」
美奈子が尋ねた。
「聞きません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、私だけ見て」
「見ています」
美奈子は、そこで笑った。
その笑いは、すぐに小さな吐息へ変わった。
直樹は、美奈子の手を握った。
美奈子も握り返した。
昨日より、言葉は少なかった。
その分、触れる時間が長くなった。美奈子は、店の女として相手を楽しませるのではなく、自分の気持ちを隠しきれないまま直樹に寄り添っていた。直樹も、それを受け止めた。
しばらくして、美奈子はソファに座り直し、乱れた髪を指で直した。
「直樹くん」
「はい」
「今日は、ずっと優しいね」
「嫌ですか」
「嫌なわけないでしょ」
美奈子は、直樹の指を握った。
「こういうの、困る」
「また困らせましたか」
「うん」
美奈子は、少し黙った。
それから、直樹の肩に頭を預けた。
「でも、来てくれて嬉しかった」
「僕もです」
「本当?」
「本当です」
店の中では、別の女の笑い声が遠くから聞こえた。受付で客と男が何か話している。カーテンの外では、いつもの夜が続いている。
だが、この部屋の中だけは、美奈子が作った店の時間ではなかった。
直樹は、何も聞かなかった。
美奈子も、ベル・ローズの話をしなかった。
それでよかった。
やがて、美奈子は体を起こした。
「明日も会える?」
直樹は少し考えた。
明日の午前には、杉浦から250億円の具体案を聞く。午後も動くことになるかもしれない。夜に必ず来るとは言えなかった。
「昼までに連絡します」
「店に?」
「はい。会える時間を伝えます」
「夜じゃなくてもいいよ」
美奈子は少し照れたように言った。
「昼でも、会えるなら」
「分かりました」
「約束ね。連絡して」
「約束します」
美奈子は安心したように笑った。
終わりの時間が近づくと、美奈子は直樹の上着を渡した。客に服を返す動きではあったが、指先は名残を惜しむようにゆっくりだった。
カーテンを開けると、店の音が戻ってきた。受付の声、階段の足音、女たちの笑い声、男たちの低い話し声。美奈子は、また店の女の顔を作った。
だが、作り切れていない。
目元に、まだ柔らかさが残っていた。
直樹は受付へ向かい、料金を払った。余計なことは言わなかった。美奈子も、ベル・ローズの話はしなかった。
ピンサロの階段を上がると、五反田の夜の空気が流れ込んできた。通りには客引きの声が飛び、居酒屋から笑い声が漏れている。車のライトが路面に伸びていた。
直樹は、そのまま帰らなかった。
少し歩き、ベル・ローズ五反田のある通りへ回った。店に入るつもりはない。美奈子に会った後で、すぐベル・ローズへ踏み込めば、動きがあからさますぎる。ただ、夜の入口だけは見ておきたかった。
ベル・ローズの看板は、昼に見るより目立っていた。薄暗い通りの中で、赤い光だけが浮いている。入口の近くでは、男が数人、煙草を吸いながら順番を待っていた。店の中からは、電話のベルと、男たちの笑い声が漏れている。
直樹は、通りの反対側を歩いた。
その時、ベル・ローズの入口脇で、田口が店の奥から出てきた。周囲を軽く見てから、入口の内側へ顔を戻し、店長らしい男に話しかけた。
「店長、京浜土地建物の宮下って男、また来るそうです。前に美奈子と話した男です」
店長の声が返った。
「社名を外で出すな。土地の話をするなら、次は中だけで済ませるな。美奈子につながせて、様子を見ろ」
「分かりました」
「明日来たら、すぐ知らせろ。先生にも話を通す」
「はい」
田口は、あわてて店の奥へ戻った。
直樹は足を止めなかった。
聞こえたことに気づいた顔もしなかった。そのまま通りを抜け、角を曲がった。背中の方で、ベル・ローズの電話がまた鳴っていた。
京浜土地建物。
宮下。
前に美奈子と話した男。
土地の話。
先生。
直樹は、その言葉だけを頭に残した。
今夜、無理に追う必要はない。
美奈子に近づきすぎれば、彼女を巻き込む。ベル・ローズへ踏み込みすぎれば、こちらの動きが見える。
明日の昼までに、美奈子へ連絡する。
それでいい。
直樹は五反田の通りを離れた。
美奈子への気持ちは、もうただの好奇心ではなくなっている。
同時に、京浜土地建物㈱の名は、五反田の夜の奥で動き始めていた。
第4話後編2では、直樹が杉浦から250億円の都内不動産投資について大枠の説明を受ける。まだ具体的な物件は決めず、翌日に短期転売枠と長期保有枠へ分けて詰めることにする。直樹は、尚人と順子が1986年側から消えた事実を受け、自分も時代を越えて飛ばされる可能性を考え始める。ただし、この時点では金や宝石を買わず、紙幣に頼らない備えが必要だと整理するに留める。夜、直樹は五反田で美奈子に会い、話を聞くためではなく会いたかったのだと伝える。美奈子もそれを受け入れ、2人の距離はさらに縮まる。帰り道、直樹はベル・ローズ五反田の入口近くで、京浜土地建物㈱の宮下という男の名を聞く。美奈子への好意と、京浜土地建物㈱をめぐる土地の話が、同じ夜の中で動き始める。




