第4話(中編2)――「外から鳴る電話」
葉山と三崎を確認した翌日、ミン・ハは三崎の工場へ入り、リエンは直樹と五反田へ向かう。ベル・ローズ五反田は、女が店内で客を待つ店ではない。男性客が店内で電話を待ち、外からかかる電話を早取りで受けるテレフォンクラブである。サクラ役の女は、最初の説明を受けるために店へ入るだけで、その後は外から電話をかける。直樹は、五反田のピンサロで知り合った真紀から、美奈子という女がベル・ローズ五反田に深入りしていると聞いていた。リエンはその入口へ入る。
(1986年9月17日水曜日、東京・五反田)
翌朝、ミン・ハは三崎の工場へ入った。
アン、フイ、ミーリン、タイン、マイも一緒だった。洗浄用の流し、作業台、瓶詰めの器具、乾燥棚、冷蔵庫、箱詰めの台が並んでいる。前日に見た設備が、今日は実際の仕事場になった。
ミン・ハは、作業を始める前に全員の手を見た。爪、傷、手袋、床の水気、包丁の位置、箱の置き場所。日本語はまだ十分ではない。だが、現場を見る目はあった。
工場の中では、ミン・ハが人を動かす。
そのころ、リエンは直樹と五反田へ向かっていた。
ベル・ローズ五反田は、昼の光の中では目立たない店だった。入口のガラスには前夜の指跡が残り、看板はまだ眠っている。通りには配送車の音と、定食屋から流れる焼き魚の匂いが混じっていた。
直樹は店の少し手前で足を止めた。
「私はここで待ちます。リエンさんは、仕事を探している女として入ってください」
「分かりました」
「聞かれたことだけ答えてください。無理に探らなくていいです」
リエンは直樹を見た。
「分かりました」
「危ないと思ったら、すぐ出てください。雇われなくても構いません」
リエンは小さく頷いた。
リエンは扉を押した。
受付にいたのは田口だった。髪をきれいに流し、笑顔だけは明るい。だが、目は客を見る目ではなかった。入ってきた女が金になるか、使えるかを測る目である。
「いらっしゃい。お客さん?」
リエンは、少したどたどしい日本語で答えた。
「仕事、探しています。電話の仕事、できますか」
田口はリエンの顔、服、手元を順に見た。
「外国の人?」
「ベトナムです」
「日本語は?」
「少し。男の人と話す。聞く。笑う。できます」
田口は、口元だけで笑った。
「ちょっと待って」
田口は奥へ入った。
リエンは、そのあいだ店内を見た。
女が客を迎える場所ではない。壁に沿って小さな仕切りがあり、その中に電話機が置かれていた。椅子の背には煙草の匂いが染みている。受話器のコードは少しよれていた。灰皿は洗ってあるが、底には焦げた跡が残っている。
男たちは夜になると、この電話の前で待つのだろう。
女は外から電話をかける。鳴った電話を早く取った男だけが話せる。出遅れた男は、次の電話を待つ。
店の中は昼なのに、夜の湿りを抜ききっていなかった。
しばらくして、店長が出てきた。
40代半ばの男だった。腹は出ていないが、顔の肉は少し緩み、目の奥だけが冷えている。女を雇うというより、使える道具を選ぶ顔だった。
「ベトナムの人か」
「はい」
「うちは、女が店に出る店じゃない。外から電話をかける仕事だ。分かるか」
「外から、電話します」
「そう。男はここで電話を待っている。電話が鳴る。早く取った男が、女と話す。話が続いた時間で手当を出す」
リエンは少し遅れて頷いた。
「長く話す。お金、出ます」
「そういうことだ」
店長は田口へ目をやった。
田口が、補うように言った。
「ただ話すだけじゃない。いい客を拾えたら別に出る。金を持っていそうな男、会社をやっている男、土地とか投資とか、そういう話をしたがる男だ」
店長が続けた。
「無理に聞き出すな。男にしゃべらせろ。名前、仕事、会社。そこまで聞ければ十分だ。土地の話や金の話が出たら、あとで報告する」
リエンは、分かりすぎない顔を作った。
「男の人、しゃべる。私、聞きます」
「それでいい」
田口が笑った。
「外国の女は珍しいからな。客が面白がるかもしれない」
店長はリエンを見た。
「店で使う名前は、リナでいい。ベトナムのリナ。今日はここにいる必要はない。今夜、この番号へ外から電話しろ」
田口が小さなメモを渡した。
店長は続けた。
「最初は短くていい。話した男の名前と仕事が取れたら上出来だ。分からないことは、田口へ連絡しろ」
田口が、そこで軽く口を挟んだ。
「美奈子に会えれば早いんだけどな。あの女は、客にしゃべらせるのがうまい」
店長の目がすぐに田口へ向いた。
「余計なことを言うな」
田口は、笑いを引っ込めた。
「すみません」
リエンは、何も知らない顔で頭を下げた。
「分かりました。今夜、電話します」
「遅れるなよ」
「はい」
リエンは店を出た。
外へ出ると、昼の光が目に入った。店の中に残っていた煙草の匂いが、通りの空気で薄まっていく。
直樹は、通りの反対側で待っていた。
リエンはすぐには話さず、角を曲がり、人通りの少ない場所まで歩いた。それから報告した。
「雇われました。店で使う名前は、リナです」
「中はどうでしたか」
「男が店の中で電話を待っています。女は外から電話をかけます。話した時間で手当が出るそうです」
直樹は黙って聞いた。
「それから、金を持っている男、会社をしている男、土地や投資の話をする男を拾えと言われました。名前、仕事、会社を聞けたら報告するそうです」
「それから、田口が言いました。美奈子は客にしゃべらせるのがうまい、と。店長が、すぐに止めました」
直樹は、その名前を聞いて顔をわずかに引き締めた。
真紀の話とつながった。
だが、まだそれだけである。
美奈子が何をしたのか。誰とつながっているのか。どこまで店の中に食い込んでいるのか。直樹にはまだ分からない。
「今夜は、電話だけにしてください」
直樹は言った。
「客と会う約束はしない。無理に深く聞かない。店が何を拾わせようとしているかを見る。それだけでいいです」
「分かりました」
リエンは答えた。
「電話なら、切れます」
「はい。危なくなったら、すぐ切ってください」
リエンは少し笑った。
「男に話させるのは、若い女だけができることではありません」
直樹はその言葉を否定しなかった。
「お願いします」
2人は五反田の通りを離れた。
ベル・ローズ五反田の看板は、昼の光の中でまだ眠っている。だが夜になれば、あの店の中で男たちが電話を待つ。外から女が電話をかける。男は受話器を取り、名前を言い、仕事を話し、金の匂いを少しずつ漏らす。
リエンは、その中へ入る。
店の中ではなく、電話の向こう側から。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、リエンは指定された公衆電話の前に立った。
直樹は少し離れた場所で待っている。電話の中身は聞かない。聞けば、リエンが自然に話せなくなる。必要な報告は、終わってから受ければよかった。
リエンは田口から渡された番号を見た。
ベル・ローズ五反田。
女が外からかけ、男が中で待つ店。
リエンは受話器を取り、10円玉を入れた。硬貨が落ちる音が、小さな箱の中で大きく響いた。
フリーダイヤルなので、入れた10円玉は通話のあとで戻ってくる。
指で番号を押す。
呼び出し音が鳴るやいなや男の声がした。
「もしもし」
リエンは、少しだけ息を吸った。
「あなた出るの速いね」
「常連だからね。君、初めて?」
「うん。少しだけ話したくて」
「名前は?」
「リナって呼んで」
その夜、ベル・ローズ五反田の電話は、いつもと同じように鳴った。
ただ、その1本だけは、直樹たちの調査の入口になっていた。
中編2では、リエンがベル・ローズ五反田へ入り、サクラ役の仕事を得るところまでを描いた。ベル・ローズは、男性客が店内で電話を待ち、外から女性が電話をかけるテレフォンクラブである。リエンは「リナ」という名前を与えられ、今後は外から電話することになる。田口の口から美奈子の名が出るが、店長はすぐに止める。直樹は、美奈子がベル・ローズに深く関わっていることを真紀から聞いているため、その名前を重く受け止める。




