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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第4話(中編1)「葉山の家、三崎の工場」

品川の会議を終えた直樹は、リエン一族7人を連れて葉山と三崎へ向かう。寝具、家具、台所用品、衣類、家電はすでに運び込んであり、その日から泊まれる状態になっていた。葉山はリエンとミン・ハの住まい、三崎港の店舗付き共同住宅はアンたち5人の住まいである。さらに三崎には、南方果物を加工する工場が別に用意されていた。直樹、リエン、ミン・ハは事前に話し合い、ミン・ハを工場の責任者にすることを決めていた。そのため、ベル・ローズ五反田の調査でサクラ役を引き受けるのはリエンとなる。

 品川の会議を終えると、直樹はリエン一族7人を地下駐車場へ連れて行った。


 車ではなかった。


 そこには4台のバイクが並んでいた。直樹が先頭に立ち、リエンとミン・ハがその近くに立つ。アン、フイ、ミーリン、タイン、マイは、ヘルメットを手にして少し戸惑っていた。


「今日は、葉山と三崎を見てもらいます」


 直樹は言った。


「書類で決めたことを、実際の場所で確認します。葉山はリエンさんとミン・ハさんの家です。三崎港の店舗付き共同住宅は、アンさんたち5人の家です。工場はまた別にあります。そこを混ぜないでください」


 ミン・ハが訳すと、アンが頷いた。


「三崎の店は住む場所。工場は働く場所。そういうことですね」


「そうです」


 直樹は答えた。


「店は皆さんが町に馴染むための表の顔です。果物や試作品を少し扱いますが、工場ではありません。本格的な加工、瓶詰め、箱詰め、出荷準備は、三崎の工場で行います」


 8人は4台に分乗した。


 直樹が先頭を走り、リエンを後ろに乗せた。ミン・ハは別のバイクに乗り、アンたちを気にしながら後ろを振り返る。東京の道を抜け、横須賀を過ぎ、海の匂いが混じり始めると、リエンは直樹の背中越しに前を見た。


 風は強かった。


 だが、重苦しい会議室の空気よりは、ずっとましだった。


 葉山の低層テラスハウスに着くと、直樹は門を開けた。


 中には、すでに生活の準備が整っていた。寝具、食器、炊飯器、冷蔵庫、洗濯機、タオル、衣類、冬物の上着、日本語の教本、辞書、ノート。浴室には石鹸と洗面道具が置かれ、台所には米、味噌、卵、野菜、肉、魚、果物が入っていた。


 リエンは部屋を見回した。


「今日から、本当にここで眠れるのですね」


「はい」


 直樹は答えた。


「困るものがあれば、すぐに買い足します。ここは一時的な隠れ場所ではありません。リエンさんとミン・ハさんの生活の場所です」


 ミン・ハは、押し入れを開け、布団を確かめた。台所も見た。冷蔵庫の中まで確認してから、ようやく頷いた。


「これなら、今日から暮らせます」


「よかった」


 直樹は答えた。


 リエンは窓辺に立った。海の気配がある。ホーチミンとは違う湿り方だった。空気に塩が混じり、遠くで車の音がする。


「ミン・ハ」


 リエンは娘を見た。


「あなたは工場を見るのですね」


「はい」


 ミン・ハは答えた。


「直樹さんと話しました。私は三崎の工場を見ます。アンたちと一緒に働く人たちをまとめます」


 直樹も頷いた。


「ミン・ハさんには、工場の責任者になってもらいます。南方果物の扱い、働く人の段取り、衛生、出荷、試作品の管理。日本語はまだ全部できなくても、現場を見る目があります。アンさんたちにも近い。工場にはミン・ハさんが必要です」


 リエンは、そこで直樹を見た。


「だから、ベル・ローズへ行く役は、私なのですね」


 直樹は一瞬、返事を遅らせた。


「無理に頼むつもりはありません」


「いいえ」


 リエンは首を振った。


「私がやります。ミン・ハは工場に必要です。アンたち5人にも、ミン・ハが近くにいた方がいい。なら、私があなたと動きます」


 直樹は、リエンの目を見た。


「危険です。相手は、普通の店の人間だけではないかもしれません」


「分かっています」


「ベル・ローズでは、サクラ役になります。客の反応を見る。店の空気を見る。誰が誰とつながっているのかを見る。深入りはしない。危ないと思ったら、すぐ下がる。それが条件です」


「分かりました」


 リエンは答えた。


「でも、私がやりたいのです。ミン・ハを危ない場所へ出すより、私が出ます」


 ミン・ハが少し口を開きかけたが、何も言わなかった。母の決意を止められないと分かっていた。


 直樹は言った。


「では、リエンさんには私と行動してもらいます。五反田へ行く時も、横須賀へ退避する時も、私が責任を持ちます」


 リエンは小さく笑った。


「責任を持つのは、私も同じです。あなたが無茶をしたら、止めます」


 直樹は苦笑した。


「それは助かります」


 葉山を出るころには、昼を過ぎていた。


 バイクは海沿いの道を走り、三崎港へ向かった。潮の匂いが濃くなり、港の近くに来ると魚の匂い、油の匂い、古い木箱の匂いが混じった。ホーチミンの市場とは違うが、人が働く場所の匂いは、どこか似ていた。


 三崎港の店舗付き共同住宅は、通りに面した2階建てだった。


 1階は小さな店にできる。棚、台、冷蔵ケース、簡単な作業台が置かれている。奥には台所と風呂、洗濯機があった。2階には部屋が並び、すでに布団、衣類、日用品が運び込まれていた。


 直樹は5人に言った。


「ここは工場ではありません。ここは、皆さんの家です。1階で果物や試作品を少し扱いますが、大量加工はしません。町の人に顔を覚えてもらう場所です」


 アンは部屋を見て、台所へ行き、窓を開けた。


「ここなら、暮らせます」


 フイは冷蔵ケースを見た。


「店としても、小さく始められますね」


「そうです」


 直樹は答えた。


「無理に大きく見せる必要はありません。最初は、南方果物を少し置く。試作品を少し出す。近所の人と話す。町に馴染むことが先です」


 マイは2階の部屋で、布団を見ていた。


「今日、ここで眠っていいのですね」


「はい」


 直樹は答えた。


「今日からここで眠れます。食材もあります。足りないものは、夕方までに買い足します」


 5人の表情が、そこで少しだけほぐれた。


 最後に、直樹は一族全員を三崎の工場へ連れて行った。


 工場は店舗付き住宅から少し離れた場所にあった。海に近く、トラックが入りやすい。中には、洗浄用の流し、作業台、瓶詰め用の器具、乾燥棚、冷蔵庫、箱詰めの台、出荷用の空き箱が並んでいた。まだ大きな音はしていない。だが、翌日から人が入れば、すぐに動かせる状態だった。


 直樹は、ミン・ハに鍵を渡した。


「ここを任せます」


 ミン・ハは鍵を受け取った。


「私が責任者ですね」


「はい。アンさんたち5人は、あなたを中心に動きます。私は金と外の調整をします。工場の中は、ミン・ハさんの目で見てください」


 ミン・ハは工場の中を歩いた。


 流しを見て、床を見て、冷蔵庫の扉を開け、作業台の高さを確かめる。アンとフイも後ろからついて回った。ミーリンは棚を見て、タインとマイは箱詰め用の台に手を置いた。


「明日からなら、動かせます」


 ミン・ハは言った。


「最初は、洗浄、皮むき、切り分け、瓶詰め、乾燥、箱詰めを分けます。日本語の伝票は、まだ私だけでは難しいです。そこは手伝ってください」


「分かりました」


 直樹は答えた。


「事務は杉浦さんのところから人を出します。現場の手順は、ミン・ハさんが決めてください」


 リエンは、その様子を少し離れて見ていた。


 娘は工場の中で生きる顔をしていた。手順を考え、人を見て、道具を見る。その目には迷いが少ない。


 なら、自分の役目は別でいい。


 リエンは直樹の横に立った。


「ミン・ハは、ここに置いた方がいいですね」


「はい」


 直樹は言った。


「工場には、ミン・ハさんが必要です」


「では、私はあなたと行きます」


 リエンは改めて言った。


 その言葉は、仕事の話だった。


 だが、それだけではなかった。


 リエンは、直樹の横顔を見た。


 危険な場所へ出るのは、自分でよい。ミン・ハは工場に必要であり、アンたち5人にも近くにいてやらなければならない。そう考えれば、自分が直樹と五反田へ行くのは当然だった。


 それでも、理由はそれだけではなかった。


 直樹は、金の話を隠さなかった。住む場所も、逃げる道も、帰る権利も、先に示した。危険な時は逃げろとも言った。人を使う側の男でありながら、人を道具として扱わない。


 リエンは、そこに安心していた。


 そして、その安心が少しずつ別のものへ変わり始めていることにも、薄く気づいていた。


 直樹のそばに立つと、胸の奥が落ち着く。だが同時に、落ち着かなくもなる。娘を守るためだと自分に言い聞かせても、直樹がこちらを向くと、言葉を選ぶ時間が少しだけ長くなった。


 リエンは、その気持ちに名前を付けなかった。


 今はまだ、付けてはいけないと思った。


 工場の奥で、ミン・ハがアンたちに作業台の使い方を説明していた。直樹はそれを見て、ようやく少し安心した顔をした。


「明日から、ここを動かします」


 直樹は言った。


「今日は、葉山と三崎に泊まってください。夜は無理に働かなくていい。新しい場所に体を慣らすのが先です」


 リエンは答えた。


「分かりました。ですが、私たちはもう逃げません」


 直樹はリエンを見た。


「逃げる時は逃げてください」


 リエンは少し笑った。


「それは約束します」


 9月16日の午後、リエン一族7人の暮らす場所と働く場所は決まった。


 葉山には、リエンとミン・ハの家。


 三崎港には、アンたち5人の住まいと小さな店。


 三崎の工場には、翌日から動く仕事場。


 そして直樹の隣には、ベル・ローズ五反田へ向かうリエンが立つことになった。

中編1では、直樹がリエン一族7人を連れて葉山と三崎を回った。葉山の低層テラスハウスはリエンとミン・ハの住まい、三崎港の店舗付き共同住宅はアンたち5人の住まいと小さな販売拠点である。三崎の工場は別にあり、南方果物の加工、瓶詰め、乾燥、箱詰め、出荷準備を行う場所として示した。直樹、リエン、ミン・ハは事前に話し合い、ミン・ハを工場責任者とした。そのため、ベル・ローズ五反田のサクラ役はリエンが引き受ける。リエンは娘を守るためにその役を選んだが、同時に、直樹のそばにいたい気持ちも芽生え始めていた。

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