第4話(前編2)――「残す権利と7人の扱い」
食品流通網の売却で、分配原資1,000億円は確定した。早乙女側は700億円、直樹は300億円を受け取る。前編2では、まず直樹と杉浦の2人だけで資金の扱いを決める。直樹は、自分の取り分300億円のうち50億円を流動資金として残し、250億円を都内の土地と建物への投資に回すよう杉浦に指示する。その後、杉浦は退席し、リエン一族7人が会議室へ入る。直樹は、売ったのは今回作った南方果物の食品流通網だけであり、尚人が元から所有していた物件群は手つかずで残ることを説明する。さらに住居、給料、危険手当、退避先、帰還権を、直樹自身の言葉で伝えていく。
前編1の会議が終わった後、会議室には直樹と杉浦だけが残った。
銀行員、司法書士、税理士、小沼は、決済書類の確認を終えて別室へ移っていた。リエン一族7人は、別室で待っている。これから決めるのは、早乙女側の資産と直樹個人の取り分の扱いである。これは、まず専門家を交えて処理し、その後は直樹と杉浦だけで詰めるべき話だった。
長い机の上には、決済後の残高表が置かれている。
分配原資1,000億円。
早乙女側700億円。
直樹個人300億円。
数字はすでに確定していた。
杉浦は、残高表を直樹の前へ置いた。
「まず、早乙女側700億円は、尚人さんの資産管理口座に入れます。こちらは直樹さんが代理人として管理する形です」
「それでお願いします」
直樹は答えた。
「尚人さんの金と、私の金は絶対に混ぜないでください」
「分かっています。口座も会計処理も分けます」
「尚人さんの既存物件も、今後勝手に売りません。必要な管理費や修繕費は出しますが、処分は別です」
杉浦は頷いた。
「秋谷、横須賀、五反田、葉山、三崎港、その他の尚人さん所有物件は、売却対象外として残します。今回売ったのは、300億円の投資枠で買い集め、整備した南方果物の食品流通網だけです」
「そこを曖昧にしないでください」
「はい。書類にも分けて残します」
直樹は、次に自分の分配金の欄を見た。
「私の300億円についても、ここで決めます」
「お願いします」
「50億円を流動資金として残します。普通預金、短期の定期、すぐ現金化できる形です」
杉浦は金額を書き込んだ。
「50億円を流動資金ですね」
「はい。調査費、移動費、弁護士、医師、協力者への支払い、緊急時の支出は、そこから出します」
「承知しました」
「残る250億円は、都内の土地と建物に入れます」
杉浦は顔を上げた。
「投資対象は、都心部でよろしいですか」
「はい。品川、五反田、大崎、高輪、田町、芝浦、浜松町。このあたりを中心にしてください。駅に近い土地、古い建物付きの土地、再開発の余地がある土地、賃貸収入が取れる建物です」
「短期で売れる物と、長く持つ物を分けますか」
「分けます。短期で利益が出る物は売って構いません。長く持って家賃を取れる物は持ちます。値上がりだけでなく、毎月の賃貸料も見てください」
「分かりました」
「ただし、高値づかみはしないでください。金があるから買うのではありません。場所と収益が合う物だけを買います」
杉浦は、資料に線を引いた。
「直樹さん個人の300億円のうち、50億円を流動資金、250億円を都内の土地と建物への投資に回す。尚人さんの既存物件とは分ける。名義、口座、会計処理も分ける。この内容で進めます」
「それでお願いします」
直樹は頷いた。
「無駄遣いはしません。金は持っているだけでは目減りします。土地と建物に替えておく。必要な分だけ、いつでも動かせる形で残す。それで十分です」
「すぐに候補を集めます」
「お願いします」
杉浦は書類をまとめた。
この場で決めるべきことは終わった。
早乙女側700億円は、尚人の資産として管理する。
直樹個人300億円は、50億円を流動資金、250億円を都内不動産投資に回す。
尚人の既存物件は売らない。
食品流通網だけを売った。
そこを分けておけば、後で金の筋が濁らない。
杉浦は立ち上がった。
「では、私はこれで失礼します。リエンさんたちへの説明は、直樹さんからされますか」
「はい。私が話します」
「分かりました。必要な書面は、後でこちらで整えます」
「お願いします」
杉浦は会議室を出た。
扉が閉まると、部屋の中は少し広く感じられた。直樹は机の上を整えた。リエン一族に見せる書類は、金額の細かな運用表ではない。彼らに必要なのは、自分たちがこの時代でどう扱われるのか、どこで暮らし、何をして、どこへ逃げ、いつ帰れるのかである。
直樹は、呼び鈴を押した。
しばらくして、リエン、ミン・ハ、アン、フイ、ミーリン、タイン、マイの7人が会議室へ入ってきた。
ミン・ハは、通訳のためにリエンの隣へ座った。アン、フイ、ミーリン、タイン、マイは、その横に並んだ。7人とも、すでに大きな金が動いたことは知っている。だが、これから自分たちに何が決められるのかまでは分かっていなかった。
直樹は、全員を見た。
「ここからは、皆さん自身の話です」
ミン・ハがベトナム語に訳した。
「分からないことがあれば、その場で聞いてください。今から話すことは、命令ではありません。皆さんに納得してもらうための説明です」
リエンは、直樹を見た。
「分かりました。聞きます」
直樹は、まず売却範囲から話した。
「今回、大手食品会社へ売ったのは、南方果物の食品流通網だけです。港に近い冷蔵倉庫、青果配送会社、加工場用地、社宅用地、取引先、設備、従業員をまとめた仕組みです。3か月前に作った300億円の計画で買い集め、使える形に整えたものです」
ミン・ハが訳すと、アンとフイが顔を見合わせた。
直樹は続けた。
「尚人さんが元から持っていた物件は売っていません。秋谷、横須賀、五反田、葉山、三崎港、そのほかの物件も残します。皆さんが住む場所も、退避に使う場所も、調査に使う場所も残っています」
リエンが尋ねた。
「私たちが住む場所は、食品会社に渡らないのですね」
「渡りません」
直樹は答えた。
「葉山は、リエンさんとミン・ハさんの住まいにします。三崎港の店舗付き共同住宅は、アンさん、フイさん、ミーリンさん、タインさん、マイさんの住まいにします。三崎には、南方果物を扱う工場も別に用意します」
ミン・ハが訳すと、7人の表情が少し変わった。
住む場所がある。
売られていない。
今日から眠れる場所が用意されている。
それだけで、知らない時代に来た者たちの不安は少し下がる。
直樹は言った。
「皆さんは使用人ではありません。協力者兼従業員です。早乙女側の都合で1986年へ来てもらった人たちです。だから、住む場所、食べるもの、医者、言葉、仕事、逃げる道、帰る権利まで用意します」
マイが目を伏せた。
安心したのか、不安が増したのかは分からない。ただ、自分たちの生活そのものを決める話だと分かったようだった。
直樹は、1人ずつ名前を呼んだ。
「リエンさん。ミン・ハさん」
2人が顔を上げた。
「お2人は、葉山の低層テラスハウスで暮らしてください。表向きは、早乙女側の南方果物連絡係です。実際には、私と行動をともにしてもらいます。通訳、連絡、調査、現場での確認役です。五反田へ入る話もあります」
リエンは頷いた。
「危険があるのですね」
「あります」
直樹は答えた。
「だから、条件を決めます。店に入る時も、相手の素性を見る時も、必ず逃げ道を先に決めます。店の人間を追いすぎない。自分から客を誘い出さない。帰れない場所へ行かない。相手の車には乗らない。飲み物は自分で管理する。連絡が切れたら、こちらが迎えに行きます」
ミン・ハは訳しながら、自分の母を見た。
リエンはすぐに答えた。
「その条件なら、私とミン・ハは動けます。ただし、私たちだけでは判断できない時があります」
「その時は動かないでください」
直樹は言った。
「確信がない時は、下がる。それを決まりにします」
「分かりました」
直樹は、次に5人を見た。
「アンさん、フイさん、ミーリンさんは、三崎港の店舗付き共同住宅で、南方果物の小売り、試作品、生活管理を担当してください。月給は各40万円です。タインさんとマイさんは補助として月給各30万円です」
タインが息をのんだ。
直樹は続けた。
「リエンさんとミン・ハさんは、月給60万円。五反田調査と私への同行の危険手当として、月40万円。合計で各月100万円です。全員について、住居費、光熱費、食費の基本分、医療費、日本語教材、交通費は早乙女側が負担します」
リエンは、直樹を見た。
「それほど受け取ってよいのですか」
「危険があるからです」
直樹は答えた。
「安く使うために呼んだわけではありません。知らない時代に来てもらい、危険な調査にも関わってもらう。なら、金は払います」
アンが、ミン・ハを通じて聞いた。
「三崎港の店は、食品会社に売られていないのですね」
「売っていません」
直樹は答えた。
「三崎港の店は、皆さんの生活拠点にもなります。大きな商売ではありません。表向きに不自然でない範囲で、果物や試作品を扱います。町の人に顔を覚えてもらう場所でもあります」
フイが言った。
「工場や倉庫の仕事と違って、店に立つのですね」
「はい。ただし、いきなり全部を任せるつもりはありません。日本語、金銭、客の扱い、仕入れ、伝票。少しずつ覚えてください」
ミーリンは頷いた。
直樹は、次に支度金の話へ移った。
「支度金は、1人300万円。7人で2,100万円です。これは貸付ではありません。返さなくていい金です。衣類、寝具、台所用品、冬物、防寒具、靴、雨具、下着、化粧品、衛生用品、家具、家電、辞書、ノートに使ってください」
ミン・ハが訳した。
直樹は言葉を重ねた。
「支度金で縛ることはしません。金を出したから従え、という関係にはしません」
リエンは答えた。
「分かりました。ですが、こちらも遊びに来たわけではありません。受け取る以上、働きます」
「お願いします」
直樹は言った。
「ただし、働くことと、命を捨てることは違います」
次に、直樹は帰還権について話した。
会議室の空気が少し変わった。
2026年ホーチミンへ帰れるかどうか。
これは7人にとって、最も重い話だった。
「皆さんには、2026年ホーチミンへ帰る権利があります」
直樹は言った。
ミン・ハが訳すと、マイが顔を上げた。
「帰れるのですね」
「はい」
直樹は答えた。
「本人が希望し、リモコンの使用条件が整い、安全が確認できた場合、帰れます。早乙女側は帰還を妨げません。帰還時には、特別協力金として1人1,000万円を支給します」
リエンは、直樹をじっと見た。
「それを書面に残すのですね」
「残します」
「なら、信じます」
「帰還は、本人の意思、安全確認、道具の使用可能状態。この3つを条件にします。危険な時に無理に戻すことはできません。ですが、こちらの都合で皆さんを1986年に閉じ込めることはしません」
ミン・ハは、丁寧に訳した。
7人は黙って聞いていた。
知らない時代へ人を呼ぶ。
それは簡単な言葉ではない。住む場所を用意しただけでは足りない。戸惑い、不安、病気、言葉の壁、寒さ、食べ物の違い、周囲の視線。そういうものが、毎日少しずつ人を削る。
だから金を出す。
だが、金だけでも足りない。
退避先を用意し、連絡先を決め、逃げる合図を決め、帰れる権利を残す。そこまでやって初めて、協力を頼める。
直樹は、退避先の説明に移った。
「リエンさんとミン・ハさんが五反田で危険を感じた場合、葉山には戻りません。まず横須賀へ退避してください。葉山を相手に見られないようにするためです」
リエンは頷いた。
「危険な時は、家へ帰らない。横須賀へ行く」
「そうです」
直樹は続けた。
「三崎港の5人に危険が及ぶ場合は、秋谷へ入ってください。秋谷では新三さんと澄江さんが受け入れます」
アンが聞いた。
「店を閉めて逃げる時も、秋谷ですね」
「はい」
直樹は答えた。
「三崎港で危険が出た場合は、店や荷物より人を優先します。品物は捨てて構いません。人が秋谷へ入る方が先です」
直樹は、連絡表を机の上に置いた。
「連絡表は5か所に置きます。秋谷、横須賀、葉山、三崎港、品川です。合言葉は別に決めます。難しい日本語にはしません。電話で言いやすい言葉にします」
「分かりました」
ミン・ハは答えた。
会議室の中で、数字と人の扱いが、ようやく同じ場所に並んだ。
1,000億円。
700億円。
300億円。
葉山で眠る部屋。
三崎港で炊く飯。
五反田から逃げる道。
横須賀へ戻る電話。
秋谷で開く門。
2026年へ帰る権利。
直樹は、その全部を同じ場で説明した。
早乙女側700億円。
直樹個人300億円。
直樹の300億円は、50億円を流動資金として残し、250億円を都内の土地と建物への投資に回す。
売ったものは、今回の計画で買い集め、整備した南方果物の食品流通網である。
手つかずで残したものは、尚人が元から所有していた物件群である。秋谷、横須賀、五反田、葉山、三崎港を含むそれらの物件は、尚人と順子を探すための拠点であり、直樹が管理を任されている資産だった。
そして、リエン一族7人は、その場で条件を聞き、役目を受けた。
直樹は、机の上の書類を閉じた。
「午後は、葉山と三崎港へ行きます。住む場所を見てもらいます。今日決めたことは、書面だけで終わらせません」
リエンは頷いた。
「私たちも見ます。自分たちが暮らす場所を、自分たちの目で確かめます」
「お願いします」
直樹は言った。
窓の外では、品川の昼が動き始めていた。会社員が歩き、車が流れ、ビルの影が道路に落ちている。東京はいつもの顔で仕事を続けている。
だが、早乙女側の金と権利は、この日を境に大きく変わった。
1,000億円の分配原資は、早乙女側700億円と直樹300億円に分かれた。
食品流通網は売った。
尚人の既存物件群は、手つかずで残した。
ホーチミンから来た7人は、ただの手駒ではなく、生活と権利を持つ協力者として位置づけられた。
リエンとミン・ハは、今後、直樹と行動をともにする。
アン、フイ、ミーリン、タイン、マイは、三崎港を生活と表の仕事の拠点にする。
7人は使用人ではなく、生活と権利を持つ協力者である。
前編2では、まず直樹と杉浦の2人だけで資金の扱いを決めた。分配原資1,000億円は、早乙女側700億円、直樹300億円に分かれる。直樹は自分の取り分300億円について、50億円を流動資金として残し、250億円を都内の土地と建物への投資に回すよう杉浦に指示した。その後、杉浦は退席し、リエン一族7人が会議室へ入る。直樹は1人で、売却対象、尚人所有物件の扱い、住居、給料、危険手当、退避先、帰還権を説明した。大手食品会社へ売ったのは、今回の計画で買い集め、整備した南方果物の食品流通網だけである。尚人が元から所有していた物件群は手つかずで残し、直樹が引き続き管理する。リエンとミン・ハは今後、直樹と行動をともにし、アンたち5人は三崎港を守る。




