第4話(前編1)――「1,000億円の分配原資」
1986年6月16日、直樹は成城を拠点に、南方果物の食品流通網計画を決めた。早乙女側90億円、成城側30億円、銀行融資180億円を合わせ、総額300億円で湾岸の冷蔵倉庫、青果配送会社、加工場用地、社宅用地を押さえる計画である。3か月後の9月16日、その計画は決済の日を迎えた。直樹が作ったのは、古い会社の寄せ集めではない。南方果物を輸入し、冷蔵し、加工し、配送し、販売する仕組みそのものだった。大手食品会社は、その仕組みに値を付けた。返済、成城側出資の買戻し、税と諸費用の引当を終えた後、分配原資として1,000億円が残る。前編1では、直樹、杉浦、小沼、銀行員、司法書士、税理士が、決済内容と分配額を確認する。
(1986年9月16日火曜日午前9時、東京・品川、早乙女不動産会議室)
品川の早乙女不動産会議室には、朝から分厚い書類が積まれていた。
長い机の片側に、銀行員、司法書士、税理士が座っている。杉浦と小沼も同席していた。反対側には直樹が座っていた。
会議室の外では、別室へ案内されたリエンたちが待っている。直樹は、まだ呼び入れなかった。
まず決めるのは、銀行融資の返済、成城側出資の買戻し、税と諸費用の引当、売却対象の確認、早乙女側700億円と直樹個人300億円の分配である。これは、杉浦、小沼、銀行員、司法書士、税理士を交えて処理する話だった。
直樹は、机の上の資料を見た。
リエンたちには、このあと自分の口で説明する。彼らに必要なのは、細かな分配計算ではない。この時代でどこに住み、何をして、危険な時にどこへ逃げ、いつ帰れるのかである。
杉浦が、最初の資料を開いた。
「では、南方果物食品流通網計画の決済を確認します」
直樹は頷いた。
「お願いします」
杉浦は日付を読み上げた。
「1986年6月16日。成城で、南方果物の食品流通網計画が決まりました。早乙女側90億円、成城側30億円、銀行融資180億円。合計300億円です」
成城は、この3か月、直樹が計画を動かした拠点だった。
そこで資金を組み、成城側から30億円を引き出し、銀行に180億円を出させた。早乙女側の90億円だけでは、ここまでの規模にはできなかった。成城側の30億円が入ったから、銀行は動いた。銀行が動いたから、300億円の枠ができた。
杉浦は資料をめくった。
「この300億円で取得したものは、港に近い冷蔵倉庫、青果配送会社、加工場用地、社宅用地、冷蔵設備、配送車両、取引先、従業員承継です」
小沼が補った。
「単独の土地売買ではありません。会社、設備、人、取引先をまとめて、食品流通網として売れる形に整えたものです」
直樹は資料の項目を見た。
冷蔵倉庫。
配送会社。
加工場用地。
社宅用地。
冷蔵設備。
配送車両。
取引先。
従業員承継。
3か月前は、ばらばらの会社と土地だった。港に近いが古びた倉庫。配送車はあるが資金に詰まった会社。加工場に使えるが、まだ眠っていた用地。住まいとしては使えるが、会社の計画に組み込まれていなかった社宅用地。
直樹は、それらを一つの仕組みにした。
南方から入る果物を、港で受け、冷蔵し、選果し、加工し、配送する。百貨店、ホテル、果物店、量販店へ流す。マンゴー、パイナップル、バナナ、ライチ、ドラゴンフルーツ、ドライフルーツ、ジャム、ジュース。扱う品物は広げられる。冷蔵、加工、配送、販売の道筋があれば、買い手はすぐに動ける。
直樹が売ったのは、倉庫1つでも、会社1つでもない。
東京湾岸に置いた、南方果物の流通の骨格である。
杉浦が、入金控えを机の中央へ置いた。
「売却代金の入金は確認できました」
銀行員が頷いた。
「はい。買い手からの入金は、本日午前8時45分に確認済みです」
直樹は控えを見た。
買い手からの総支払額は、1,000億円を大きく超えていた。だが、それをそのまま残る金とは呼べない。銀行融資の返済、成城側出資の買戻し、税の引当、諸費用、旧会社の未払金、従業員承継費用、設備改修費の精算が必要だった。
杉浦は、処理する項目を読み上げた。
「銀行融資180億円は、本日同時に返済します」
銀行員が書類を差し出した。
「返済手続きは、この後すぐに実行できます」
杉浦は次の欄を見た。
「成城側30億円の出資は、当初の約束通り60億円で買い戻します。成城側は、30億円の元本と30億円の利益を受け取り、食品流通網から外れます」
直樹は頷いた。
「成城側への支払いは、予定通りでお願いします」
「はい」
「この30億円がなければ、銀行融資180億円は引けなかった。そこは忘れないでください」
「もちろんです」
杉浦は、税理士の方を見た。
「税と諸費用の引当は、別口座へ移します」
税理士が答えた。
「売却益に関する税、旧会社整理にかかる費用、司法書士費用、従業員承継に関する費用、設備改修費の残額を見込んでいます。過少に見積もると後で困りますので、余裕を持たせます」
「それで進めてください」
直樹は言った。
「残す金額を大きく見せるために、必要な引当を削る気はありません」
杉浦は、旧会社債務の一覧を出した。
「旧会社の未払金、仕入れ先への残債、退職者への未払分、設備改修費の残りも、本日処理します」
「危ないものは残さないでください」
「分かっています」
杉浦は処理済みの欄に印を付けた。
会議室は静かだった。
机の上で動いているのは、書類と印鑑と数字だけである。だが、その数字の裏には、3か月分の買収、説得、融資、交渉、人員整理、設備確認が詰まっていた。
小沼が、買い手側の契約書を開いた。
「本日付で、食品流通網の会社群は買い手へ移ります。冷蔵倉庫、配送会社、加工場用地、社宅用地、設備、取引先、従業員承継を含めた一括譲渡です」
「大手食品会社は、すぐに使うのですね」
直樹が聞いた。
「はい」
小沼は答えた。
「買い手は、南方果物の全国展開を急いでいます。自社で1から作れば、土地取得、倉庫整備、配送網、人員、衛生管理、取引先づくりに何年もかかります。今回の買収なら、時間を買える。買い手にとっては、そこが一番大きいはずです」
直樹は、買い手側の資料を見た。
冷蔵技術。
百貨店の贈答需要。
ホテルのデザート需要。
加工食品の需要。
1986年の日本では、南方果物の流通にはまだ伸びしろがあった。特別な日に食べる果物、ホテルの皿に乗る果物、贈答品としての果物、ジャムやジュースに加工される果物。そこに一気に入れる仕組みを、大手食品会社は欲しがった。
直樹は、夢物語を売ったのではない。
土地と設備と人と取引先を、使える形にして売ったのである。
杉浦は、最後の計算表を出した。
「銀行融資180億円の返済、成城側60億円の買戻し、税と諸費用の引当、旧会社債務の整理、従業員承継費用、設備改修費の残額をすべて処理した後、分配原資として普通預金に残る金額は1,000億円です」
直樹は、計算表を受け取った。
1,000億円。
数字だけを見れば、現実離れしているように見える。
だが、空から落ちてきた金ではない。成城で300億円の投資枠を作り、3か月で会社群を買い集め、冷蔵、加工、配送、販売の仕組みを載せた。その仕組みを、時間を買いたい大手食品会社へ売った。返すものを返し、払うものを払い、危ない債務を消した後に残った金である。
「分配に入ってください」
直樹は言った。
杉浦は、分配表を開いた。
「当初の取り決め通り、分配原資1,000億円のうち、7割を早乙女側、3割を直樹さんの取り分とします」
小沼が、契約書の該当部分を机に出した。
「この計画は、尚人さん不在時の代理行為として始まりました。ただし、直樹さんは単なる連絡役ではありません。買収計画を組み、成城側を説得し、銀行融資をまとめ、食品流通網を形にし、売却先との交渉を進めました。そのため、当初から成果分配の取り決めを置いてあります」
杉浦が金額を示した。
「早乙女側700億円。これは尚人さんの資産管理口座に入ります」
「はい」
「直樹さん個人の分配金300億円。これは直樹さんの個人口座へ入ります」
「分けてください」
直樹は言った。
「尚人さんの金と、私の金は混ぜません」
「もちろんです」
杉浦は答えた。
「早乙女側700億円は、尚人さん個人の資産です。直樹さんは、公正証書に基づき、代理人として管理します。直樹さん個人の300億円は、今回の成果分配です。口座も会計処理も分けます」
小沼も確認した。
「早乙女側の資産管理と、直樹さん個人の資産運用は、法的にも分けておいた方が安全です」
「そうしてください」
直樹は答えた。
「私は、尚人さんの金を自分の金のように使う気はありません。逆に、私の取り分を尚人さんの金に混ぜる気もありません。混ぜると、後で必ず話が濁ります」
杉浦は、2つの口座欄に赤線を引いた。
「早乙女側700億円。直樹さん個人300億円。どちらも本日中に普通預金で確認できる形にします」
「お願いします」
直樹は、次に売却範囲の資料を見た。
「売ったものと、残したものをもう一度確認してください」
小沼が一覧を出した。
「今回、大手食品会社へ渡したのは、300億円の計画で買い集め、整備した南方果物の食品流通網だけです。湾岸の冷蔵倉庫、青果配送会社、加工場用地、社宅用地、設備、配送車両、取引先、従業員承継が対象です」
直樹は頷いた。
「尚人さんが元から所有していた物件は」
「売却対象に入れていません」
小沼は別の一覧を開いた。
「秋谷の旧海運商別邸、横須賀の遊興ビル、ベル・ローズ五反田に関する持ち分と調査線、葉山の低層テラスハウス、三崎港の店舗付き共同住宅。そのほか、尚人さんが元から所有していた物件群は手つかずで残ります」
「それでいいです」
直樹は言った。
「尚人さんの既存物件まで売ったように見えると困ります。今回売ったのは、3か月で作った食品流通網だけです。秋谷、横須賀、五反田、葉山、三崎港は残す。成城も、私の拠点として残します」
杉浦は書き込んだ。
「売却対象外物件は、別紙で明確に残します」
「お願いします」
直樹は、資料を閉じた。
早乙女側700億円。
直樹個人300億円。
食品流通網は売った。
尚人の既存物件は残した。
成城は、直樹が次に動くための拠点である。品川は会社の中枢。横須賀と秋谷は退避と連絡。葉山と三崎港は、ホーチミンから来た者たちの住まいになる。五反田は、調査の入口になる。
金の処理だけではない。
どの場所を売り、どの場所を残すかが、今後の動き方を決める。
銀行員が、最終確認書を差し出した。
「本日の実行内容は、融資返済、買戻し支払い、税と諸費用の引当、売却代金の分配です。こちらに署名と押印をお願いします」
直樹は内容を読み、署名した。
司法書士が書類を確認し、税理士が引当額をもう一度見た。杉浦は最後の数字を照合した。小沼は契約書の控えをまとめた。
午前の会議は、淡々と進んだ。
大声を出す者はいない。派手な喜びもない。1,000億円という数字の大きさに比べて、会議室の空気はむしろ重かった。金が入れば終わりではない。その金をどう分け、どう守り、どの物件を残し、誰のために使うか。直樹は、その責任を受け取った。
杉浦は資料を閉じた。
「これで、前段の決済確認は終わりです」
「分かりました」
直樹は時計を見た。
まだ午前である。
「この後は、私の300億円の扱いを杉浦さんと詰めます。銀行員、司法書士、税理士、小沼さんは、必要な処理を進めてください」
「承知しました」
銀行員たちは立ち上がった。
司法書士と税理士も書類を持って会議室を出た。小沼も、決済控えをまとめて別室へ向かった。
会議室には、直樹と杉浦だけが残った。
机の上には、早乙女側700億円と直樹個人300億円の分配表が残っている。
ここから先は、直樹個人の金の使い方である。
50億円を流動資金として残す。
250億円を都内の土地と建物に入れる。
それは、次の前編2で決める話だった。
前編1では、1,000億円が突然出てきた金ではないことを明確にした。1986年6月16日、直樹は成城を拠点に、早乙女側90億円、成城側30億円、銀行融資180億円を合わせて300億円の投資枠を作った。3か月後の9月16日、その資金で買い集めた冷蔵倉庫、青果配送会社、加工場用地、社宅用地、設備、配送車両、取引先、従業員承継を、南方果物の食品流通網として大手食品会社へ売却した。銀行融資180億円の返済、成城側30億円出資の60億円買戻し、税と諸費用の引当、旧会社債務の整理を終えた後、分配原資として1,000億円が残る。取り決め通り、早乙女側は700億円、直樹は300億円を受け取る。売ったのは今回の計画で作った食品流通網だけであり、尚人が元から所有していた物件群、成城の拠点、秋谷、横須賀、五反田、葉山、三崎港は手つかずで残る。リエン一族7人への説明は、この後、前編2で直樹自身が行う。




