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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第3話(後編1)――「葉山と三崎港の受け皿」

成城の応接間で、南方果物を扱う食品流通網の投資計画は固まった。早乙女側90億円、成城側30億円、銀行融資180億円。総額300億円を使い、輸入果物商社、冷蔵倉庫、青果配送、加工場、社宅を押さえる計画である。だが、直樹が急ぐ本当の理由は、尚人と順子の行方を探るためだった。2人がどの時代、どの場所へ消えたのか、1986年側の直樹たちには分からない。だからこそ、敵に顔を知られていないホーチミン側の人間を呼ぶ必要がある。直樹は、尚人がすでに持っている葉山の低層テラスハウスと三崎港の店舗付き共同住宅を使い、ミン・ハ、リエン、アン、フイ、ミーリン、タイン、マイの7人を受け入れる形を決める。ただし、必要なのは住まいと移動手段だけではない。寝具、台所、衣類、家電、医療、学び、娯楽までそろえて初めて、人は知らない時代で暮らし始められる。

 成城の応接間には、夕方の光が斜めに入っていた。


 テーブルの上には、投資計画の資料がまだ広がっている。湾岸の冷蔵倉庫、青果配送会社、加工場用地、社宅用地、銀行融資の枠。どれも金額は大きい。だが、直樹の目は別の資料に移っていた。


 表紙には、五反田、葉山、三崎と書かれている。


 尚人が残した持ち物件の整理である。


 直樹はそのファイルを開き、まず葉山のページを出した。


「ミン・ハさんとリエンさんは、葉山へ入れます」


 啓子は、すぐに意味を察した。


「尚人さんの低層テラスハウスですね」


「はい。新しく探す物件ではありません。尚人さんの持ち物件です。葉山の堀内から一色にかけてある、駐車場付きの低層テラスハウスです。外から見ると普通の住まいですが、秋谷にも横須賀にも出やすい。五反田へ動く前後の拠点にもできます」


 直樹は資料を指で押さえた。


「尚人さんは、葉山をただの収益物件として残したわけではありません。静かに人を住まわせ、必要な時だけ動かすにはちょうどいい場所です。ミン・ハさんとリエンさんを、加工場の社宅に入れるわけにはいきません」


 沙織がうなずいた。


「五反田へ入る役を持たせるなら、会社の社宅とは切り離した方がいいですね。食品会社の従業員として顔が広がりすぎると、動きにくくなります」


「そうです。2人は、会社の表に出しすぎない方がいい。あくまで尚人さんに近い協力者として、葉山に置きます」


 啓子は、そこで少しだけ表情を引き締めた。


「ミン・ハさんとリエンさんは、ただの雇い人ではありませんね」


 直樹はためらわずに答えた。


「はい。尚人さんが、生活と財産の一部を預けた人たちです。そこは軽く扱えません」


 応接間の空気が一段落ち着いた。


 ミン・ハとリエンは、尚人の近くにいた。ホーチミンの最上階で食事を整え、体調を見て、家と工場の流れを支えてきた。単に使えるから呼ぶのではない。尚人の不在を探るために、尚人の内側を知る者を呼ぶのである。


 麗子が資料を見ながら言った。


「葉山の使い方は、住まいと連絡拠点ですね。直樹さんが出入りしても不自然ではない。秋谷へも近い。三崎にも出られる」


「はい。ミン・ハさんとリエンさんには、葉山でまず1986年の日本に慣れてもらいます。買い物、電話、交通、金の使い方、道の渡り方。五反田へ入る前に、そこを整えます」


 志津江が言った。


「体調も見てください。2026年のホーチミンから1986年の日本へ来るのです。気温、食べ物、空気、寝具、医者。最初に崩れるのは、たいてい体です」


「神谷先生に相談します。葉山に入る前に、基本の薬と診療先も用意します」


 啓子は、もう一度、葉山の資料を見た。


「家具は入れておいた方がいいです。けれど、家具という言い方だけでは足りません。生活を丸ごと置くつもりで用意しないと、知らない時代に連れて来られた人は落ち着きません」


 直樹は顔を上げた。


「具体的には、どこまで必要ですか」


 啓子は順に言った。


「まず寝具です。布団、敷布団、掛布団、枕、毛布、シーツ、替えのシーツ、枕カバー。ホーチミンの人は日本の夜の冷えに慣れていません。夏でも朝方は冷えます。冬ならなおさらです。畳や床の硬さも違う。寝具を甘く見ると、翌日から体がだるくなります」


 志津江が続けた。


「タオルも要ります。バスタオル、手拭い、台所用、足拭き。洗濯の回りも決めてください。洗濯機を置くだけでは足りません。物干し、洗剤、洗濯ばさみ、ハンガー、室内干しの道具。湿気が多い家なら除湿も考えるべきです」


 沙織が資料へ書き込んだ。


「葉山は塩気があります。窓、網戸、カーテン、雨戸、換気扇を見ます。畳があれば表替え、床ならワックスと傷の確認。鍵も交換した方がいいです。古い鍵のまま外国から来た女性2人を住ませるのは良くありません」


 啓子はうなずいた。


「台所も、鍋と包丁だけでは足りません。炊飯器、冷蔵庫、ガス台、やかん、フライパン、蒸し器、ざる、ボウル、まな板、包丁を数本。米びつ、調味料入れ、食器棚、茶碗、箸、スプーン、皿、保存容器。魚醤、米、香草、乾麺、茶、コーヒー、砂糖、塩、油。最初の数週間は、店を探すだけでも疲れます。家に帰れば食べられる状態を作っておくべきです」


 直樹は頷き、手元に書き込んだ。


 寝具一式。


 洗濯一式。


 台所一式。


 鍵交換。


 カーテン、網戸、換気。


 調味料、米、茶、乾麺。


 志津江が言った。


「衣類も忘れないでください。仕事着、部屋着、寝間着、下着、靴下、運動靴、雨靴、サンダル、上着、防寒着。女性なら生理用品も必要です。恥ずかしいからと本人に言わせてから買うのでは遅いです。最初から棚に置いておく方がよいです」


 直樹は真面目に頷いた。


「分かりました。そこも最初から用意します」


 麗子が言った。


「電話は最低2本欲しいですね。葉山の住戸に1本、直樹さんの連絡用に1本。できれば別名義で分けた方がいい。緊急連絡先も壁に貼る。秋谷、成城、杉浦さん、小沼さん、神谷先生、タクシー会社、近くの病院、警察、消防。言葉が通じない時のために、簡単な日本語とベトナム語の表も作りましょう」


「作ります」


「それから家電です。冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、掃除機、扇風機、ストーブか電気こたつ、アイロン、ドライヤー。テレビとラジオも置いてください。情報が入らない部屋は、人を不安にします」


 啓子がそこで少し表情をやわらげた。


「直樹さん。移動手段はもちろん必要です。けれど、それがあれば暮らせるわけではありません。寝る、食べる、洗う、温まる、連絡する、休む。そこが先です」


 直樹は、少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「はい。足は必要ですが、足だけでは暮らせません」


「そうです。最初に要るのは、安心して眠れる部屋です」


 その言葉で、直樹の中の順番が変わった。


 葉山に置くのは、ただの拠点ではない。


 ミン・ハとリエンが、知らない時代に来て、夜に目を閉じられる場所である。


 直樹は、紙の上に太い線を引いた。


 生活立ち上げ費、別枠。


 啓子がそれを見て言った。


「金額はけちらない方がいいです。葉山の2人分だけでなく、三崎港の5人分もあります。家具、寝具、家電、衣類、台所、医療、学用品、娯楽用品、予備費まで入れれば、数百万円では足りません。最初から生活立ち上げ枠を1億円で取りましょう」


 直樹は顔を上げた。


「1億円ですか」


「300億円を動かす話をしているのです。人を呼ぶための1億円を惜しむ方がおかしいです」


 麗子が笑わずに言った。


「銀行向けの投資計画とは別に、早乙女側の生活支援費として置けばよいです。帳簿上は、社宅整備、福利厚生、従業員生活支援、初期備品費に分けられます」


 直樹は即答した。


「分かりました。生活立ち上げ費として、まず1億円を別枠で置きます」


 啓子は頷いた。


「それでよいです」


 直樹は次に、三崎港の資料を開いた。


「一族の受け入れは、三崎港を軸にします」


 そこには、東岡から下町にかけての店舗付き共同住宅が整理されていた。1階を店舗や事務所に使い、上階を住まいにできる。港に近く、朝から人と荷が動く場所である。魚屋の氷、軽トラックの音、食堂の湯気、干物の匂い。生活と商売が同じ建物に入る町だった。


 真佐子が資料を覗き込む。


「三崎港なら、南方果物の販売や試作品の扱いを始めても不自然ではありませんね。上に家族が住み、下で店を回す。港町では珍しくありません」


「はい。いきなり湾岸の倉庫や工場へ入れるより、最初は三崎港の方がいいと思います。人の声があり、店があり、食べ物の匂いがある。ホーチミンから来る人たちには、静かすぎる葉山より、三崎港の方がなじみやすいはずです」


 沙織が言った。


「建物は見ます。店舗部分の水回り、上階の住居、階段、排水、電気。港に近い建物は湿気と塩で傷みます。人を入れる前に直すところを出します」


「お願いします」


 直樹は、三崎港の資料に線を引いた。


「三崎港には、アンさん、フイさん、ミーリンさん、タインさん、マイさんを置きます。加工、店舗、住まいの支えに回ってもらう。重い荷、床の水、道具の清潔、袋詰め、店の手伝い。それぞれに役目を持たせます」


 志津江が聞いた。


「子供は来ますか」


「今回は、まずこの7人に絞ります。あとから増やすかどうかは、住まいと仕事の流れを見て判断します」


「それがいいです。最初から広げすぎると、食事も医者も通訳も回らなくなります」


 直樹は頷いた。


「まず7人をきちんと受ける。そこを崩さないようにします」


 志津江はさらに言った。


「それでも学用品は要ります。日本語を覚える必要がありますから。ノート、鉛筆、消しゴム、辞書、簡単な日本語の教材。大人でも、文字と買い物の言葉が分からなければ不安になります」


 直樹は書いた。


 日本語教材。


 ノート、鉛筆、辞書。


 買い物の言葉。


 交通の言葉。


 病院の言葉。


 麗子が言った。


「大人にも娯楽は必要です。仕事と調査だけでは気持ちが荒れます。テレビ、ラジカセ、音楽テープ、新聞、雑誌。港ですから釣り道具もあっていい。休みの日に海を見に行けるように、敷物、弁当箱、水筒、簡単なレジャー用品も置きましょう」


 沙織も言った。


「三崎なら釣り竿は自然です。海を見ても、ただ眺めるだけでは退屈します。釣り道具があれば、町の人とも話しやすくなる」


 啓子が続けた。


「女性たちには、裁縫箱も要ります。針、糸、はさみ、ボタン、布。服を直せるだけで安心が違います。三崎港の上階にミシンを1台置いてもいいでしょう」


「入れます」


 直樹は、生活用品の欄が増えていくのを見た。


 寝具。


 台所。


 洗濯。


 衣類。


 家電。


 医療。


 学用品。


 娯楽。


 裁縫。


 釣り道具。


 日用品。


 移動手段は、その中の一項目に過ぎなかった。


 真佐子が、食品加工の方へ話を戻した。


「冷蔵設備や機械は、最初から無理をしない方がいいですね。三崎港では試験販売と小さな加工、箱詰めまで。本格的な冷蔵設備は、商社買収後に整える。その方が危なくありません」


「はい。三崎港は、暮らしと小さな仕事を始める場所にします。大型設備をいきなり入れる場所ではありません」


「冷蔵庫の扉の扱いも、最初に教えた方がいいでしょう。人が増えると、扉を開けたまま話す人が出ます。温度が上がれば、果物も箱も傷みます」


「作業の手順に入れます」


 啓子は、うなずいた。


「それで十分です」


 直樹は、ようやく移動手段の欄を出した。


「移動にはバイクを用意します」


 啓子はすぐに言った。


「必要だから用意する。それでよいです。大きな恩のように言う話ではありません」


「はい」


「ホーチミンの人たちは、車で運ばれるだけの生活には慣れていません。自分で動ける足が必要です。そこは正しい。ただし、生活の本体ではありません」


 直樹はうなずいた。


「三崎港の店、葉山、秋谷、横須賀、加工場、五反田。動く場所が多いので、バイクは必要です。50ccを中心にし、必要な人には90ccも用意します。ホンダ、ヤマハ、スズキの実用車。ヘルメット、雨具、手袋、防寒着、保険、登録、整備もそろえます」


 麗子がすぐに実務へ落とした。


「会社備品と個人貸与を分けましょう。名義、保険、事故時の連絡先。そこを曖昧にすると、あとで困ります」


「杉浦さんに整理させます」


 志津江が言った。


「乗る前に、日本の交通ルールも教えてください。左側通行、一時停止、踏切、夜間のライト、雨の日の制動距離。ホーチミンで乗れるから日本でもすぐ乗れる、とは考えない方がいいです」


「練習の時間を作ります」


「それでいいです。足を与えるなら、安全も一緒に渡すべきです」


 直樹は、移動手段の欄に追記した。


 交通練習。


 左側通行。


 保険。


 事故連絡。


 夜間ライト。


 雨天走行。


 啓子は、ゆっくり息を吐いた。


「ようやく筋が通りましたね。葉山はミン・ハさんとリエンさん。三崎港はアンさん、フイさん、ミーリンさん、タインさん、マイさん。加工場は商社買収後。五反田へ入る2人は、会社の社宅に置かない。そして、移動手段だけでなく、寝具、台所、衣類、家電、医療、学用品、娯楽まで整える」


「はい」


「ホーチミンで話す時は、最初に正直に言ってください。尚人さんと順子さんの行き先は分からない。生きていると信じたいが、断定はできない。だから探す人が必要だ、と」


 直樹は顔を上げた。


「そうします。1946年などと言えるはずがありません。こちらは知らないのですから」


 啓子は少しだけ目を細めた。


「そこを間違えると、全部壊れます」


「分かっています」


 応接間の外では、夕方の風が庭木を揺らしていた。遠くで車の音がし、成城の家々に灯りが入り始めている。


 直樹は、資料を鞄へ戻す前に、もう一度、生活立ち上げ費の欄を見た。


 1億円。


 大きな数字ではある。だが、90億円を出し、300億円を動かそうとしている計画の中では、決して過大ではない。人を時代の違う日本へ呼ぶのだ。家と仕事だけを用意して、あとは慣れろでは済まない。


 葉山には、ミン・ハとリエンが夜に眠れる部屋を作る。


 三崎港には、アン、フイ、ミーリン、タイン、マイが朝に湯を沸かし、道具を覚え、仕事へ出て、夜に戻れる家を作る。


 その上で、移動の足を置く。


 順番は、そこだった。


 直樹は資料を閉じた。


 葉山の低層テラスハウス。


 三崎港の店舗付き共同住宅。


 ミン・ハ、リエン。


 アン、フイ、ミーリン、タイン、マイ。


 寝具、台所、洗濯、衣類。


 家電、電話、医療、学用品。


 娯楽、裁縫、釣り道具。


 南方果物の表の仕事。


 移動用のバイク。


 五反田のベル・ローズ。


 尚人と順子の行方。


 行き先は分からない。


 分からないから、探す。


 直樹は、その順番を胸の中で何度も確認した。


 成城の玄関を出ると、夕飯の匂いがどこかの家から流れてきた。味噌か醤油か、火の入った野菜か。普通の暮らしの匂いだった。


 直樹は車に乗り、革鞄を膝に置いた。


 尚人と順子は、今どこにいるのか分からない。


 時間の向こうかもしれない。場所の向こうかもしれない。生きていると信じたい。だが、信じるだけでは戻せない。


 葉山と三崎港は、尚人が残した現実の床である。


 その床に人を迎える。


 まず眠れる部屋を作る。


 次に食べる台所を作る。


 洗う場所、温まる道具、連絡する電話、休むための娯楽、学ぶための道具を置く。


 それから、足を与える。


 そこから、1986年の闇を探る。


 直樹は秋谷へ戻ったら、すぐ杉浦へ電話すると決めた。


 葉山の使用住戸。


 三崎港の使用区画。


 鍵交換。


 家具、寝具、台所、洗濯、衣類。


 冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、掃除機、テレビ、ラジカセ。


 医者、薬、通訳表、緊急連絡先。


 日本語教材、辞書、ノート。


 新聞、雑誌、釣り道具、裁縫箱。


 そして、バイク。


 明日の朝にはホーチミンへ向かう。


 ようやく、計画が人の暮らしの形を持ち始めた。

後編1では、ホーチミンから呼ぶ7人の受け皿を、尚人の既存持ち物件で整理した。ミン・ハとリエンは、葉山の低層テラスハウスへ入る。ここは会社の表から切り離された住まいであり、直樹の連絡拠点にもなる。アン、フイ、ミーリン、タイン、マイは、三崎港の店舗付き共同住宅を軸に受け入れる。1階は南方果物の販売や試作品の扱い、上階は住まいとして使える。本格的な加工場は商社買収後に整える。ただし、用意するのは住まいと移動手段だけではない。寝具、台所用品、洗濯用品、衣類、家電、医療、学用品、娯楽用品、裁縫道具、釣り道具までそろえ、生活立ち上げ費として1億円を別枠で置く。移動用のバイクは必要だが、暮らしの本体ではない。直樹は、尚人と順子の行き先を知らない。だからこそ、敵に顔を知られていない人間を1986年側へ入れる必要がある。

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