第3話(前編)――「成城へ持って行く話」
尚人と順子が消えたあと、直樹は1986年側の立て直しに入る。手元資金は104億2,666万200円に達していたが、金だけでは2人を探せない。理恵、佑馬、達也たちは敵に顔を知られる危険がある。直樹は、2026年ホーチミンにいるミン・ハとリエン、その身内を1986年へ呼ぶ方針を固める。そのためには、彼女たちを受け入れる表の会社が必要だった。直樹は、商社買収の相談をするため、自分から成城の榎本啓子を訪ねる。
(1986年6月14日土曜日午前8時30分、横須賀・秋谷の旧海運商別邸)
直樹は、秋谷の洋間で金庫を開けた。
机の上には、通帳、残高控え、都内4物件の売却代金の記録が並んでいる。前日の6月13日金曜日、4物件の残金決済はすべて終わった。尚人が事前に移していた預金、6月分の賃貸料、横須賀遊興ビルの賃貸料、4物件の売却代金、直樹自身の普通預金と手元現金を合わせ、直樹が動かせる金は104億2,666万200円になっていた。
数字は大きい。
だが、尚人と順子は戻っていない。
机の右側には、尚人が残していた公正証書の写しがあった。
尚人は、時間移動の道具を扱う以上、自分が突然動けなくなる場合を考えていた。死亡、病気、行方不明、通信不能、その他やむを得ない不在。その場合、孫の早乙女直樹を正式代理人とし、尚人個人の資産管理、関係会社への指示、不動産売買、融資、登記、顧問への依頼、従業員への指揮を認める。そういう内容である。
公証人役場で作られた書面には、尚人の署名と実印があり、印鑑証明も添えられていた。杉浦と小沼には、必要な時に写しを見せることになっている。尚人不在のいま、この紙がなければ、直樹はただの若い孫にすぎない。杉浦も小沼も、尚人の関係者である。直樹が動かすには、尚人が残した権限が必要だった。
直樹は、公正証書の写しを封筒へ入れた。
次に、別の紙を広げた。
理恵、佑馬、達也は使わない。
早乙女側の顔を出さない。
フランス女たちに顔を知られない者を使う。
2026年ホーチミン。
ミン・ハ。
リエン。
一族ごと呼ぶ。
表の会社が必要。
輸入果物の商社。
子会社はフルーツ加工。
子会社の敷地に社宅。
ミン・ハとリエンは別任務。
ベル・ローズ五反田へ入る。
直樹は、その紙を見たまましばらく黙っていた。
2026年のホーチミンには、尚人が関わったミン・ハとリエンがいる。2人はフルーツ工場で働く身内を持っている。1986年の敵から見れば、彼女たちは存在しない人間である。顔も知られていない。戸籍や過去を調べても、1986年の日本には何も出てこない。
だからこそ使える。
ただし、呼ぶだけでは駄目だった。
秋谷の屋敷に外国人の一族を住まわせれば、近所の目が集まる。使用人として置くにも人数が多すぎる。表向きの会社が要る。輸入果物を扱う商社を買い、その子会社として加工会社を作る。加工場の敷地に社宅を建て、従業員と家族として住ませる。
商社なら、ベトナムの果物とつながってもおかしくない。
マンゴー、ライチ、パイナップル、バナナ、ドライフルーツ、ジャム、ジュース。輸入、選果、加工、箱詰め、販売。表の仕事として形が立つ。
直樹は、啓子に頼むべきだと考えた。
啓子は直樹の恋人である。だが、恋人だから頼むのではない。啓子は成城の家で、土地、家、金の流れ、人の出入りを見てきた女である。商社そのものの専門家ではない。しかし、買ってよい会社と、買ってはいけない会社の臭いは嗅ぎ分けられる。杉浦と小沼を動かす前に、啓子に見てもらう価値があった。
ただし、頼むなら、呼びつけてはいけない。
直樹は電話を取った。
成城へかける。
呼び出し音のあと、啓子が出た。
「榎本でございます」
「直樹です。朝早くすみません」
「直樹さん。何かありましたか」
「相談があります。こちらから成城へ伺ってもよろしいですか」
「秋谷ではなく、こちらへいらっしゃるのですか」
「はい。お願いをするのは私の方です。啓子さんを呼びつける話ではありません」
受話器の向こうで、啓子は少し黙った。
「分かりました。お待ちしています」
「誰にも聞かれたくない話です」
「応接間を空けておきます」
「ありがとうございます。公正証書の写しも持っていきます」
「尚人さんの代理権の書類ですね」
「はい。これがないと、杉浦さんや小沼さんを正式に使えません」
「では、それも拝見します」
電話は切れた。
直樹は封筒を革鞄へ入れた。公正証書の写し、資金明細、商社買収の案、ホーチミンの協力者に関するメモ。リモコンは上着の内側へ入れた。むやみに人へ見せるものではない。
新三が玄関で車の用意をしていた。
「成城へ行きます」
「お戻りは」
「昼を過ぎるかもしれません。杉浦さんから電話があれば、私が戻るまで待ってもらってください。急ぎなら成城へ回してかまいません」
「承知しました」
直樹は車に乗った。
秋谷の門を出る時、屋敷の庭が後ろへ流れた。尚人と順子がいない屋敷は、まだ落ち着かない。だが、立ち止まっている時間はなかった。
1986年側を守る。
敵を探る。
ホーチミンへ行く。
その前に、成城で啓子に頭を下げる。
直樹はハンドルを握り直した。
◇ ◇ ◇
午前10時少し前、直樹は成城の榎本家に着いた。
門の中はよく手入れされていた。生垣は刈られ、玄関までの石畳には落ち葉が少ない。成城の家らしい静けさがある。秋谷の広さとは違う。こちらは外へ見せる顔と、家の内側を守る顔が近い。
啓子は玄関で直樹を迎えた。
白いブラウスに紺のスカートを合わせ、髪をきちんとまとめている。表情は落ち着いていたが、目だけは直樹の鞄を見ていた。
「おはようございます」
「朝から押しかけてすみません」
「押しかけるという顔ではありませんね。大きな話を持ってきた顔です」
「その通りです」
啓子は応接間へ案内した。
茶が運ばれ、扉が閉められた。家の者の足音が遠ざかるのを待ってから、直樹は革鞄を開けた。
最初に出したのは、公正証書の写しだった。
「まず、これを見てください」
啓子は紙を受け取り、丁寧に読んだ。急がない。署名、実印、印鑑証明、公証人の記載、代理権の範囲。1つずつ目で追っていく。
「尚人さんは、ここまで用意していたのですね」
「はい。尚人さんは、時間移動の道具を扱う以上、自分が急に不在になる危険を考えていました」
「これなら、杉浦さんや小沼さんに直樹さんが指示を出せます」
「そうです。杉浦さんも小沼さんも、尚人さんの関係者です。私が口で頼むだけでは筋が立ちません。だから、この写しを見せたうえで動いてもらいます」
啓子は紙を机へ戻した。
「よいと思います。最初にそれを見せてくださったのは正しいです」
「今日は、そのうえでお願いがあります」
「商社の件ですね」
「はい」
直樹は資金明細を出した。
「昨日の決済で、私が動かせる金は104億2,666万200円になりました」
啓子は数字を見ても、声を上げなかった。
「大きなお金です。けれど、尚人さんと順子さんを探すには、まだ足りないのですね」
「金だけでは足りません。人が要ります。ただし、理恵さん、佑馬さん、達也さんたちは使えません」
「顔を知られる危険があるからですね」
「はい。フランス女たちは、早乙女側の人間の顔を覚えれば、そこから家族や会社へ手を伸ばします。敵の近くへ出せるのは、顔を知られていない者だけです」
「その人たちが、外国人協力者なのですね」
「はい。ここからは、啓子さんにも全部話します」
啓子は背筋を伸ばした。
直樹は、紙をもう1枚出した。
「2026年のホーチミンに、ミン・ハとリエンという女性がいます。尚人さんと関わりがあります。2人には、フルーツ工場で働く身内がいます。私はホーチミンへ行き、その一族を1986年へ呼ぶつもりです」
啓子の指が、手帳の上で止まった。
「一族ごと、ですか」
「はい。人数はこれから確認します。1人や2人ではありません。働ける者、管理できる者、家族をまとめられる者が必要です」
「その人たちは、1986年には存在しない」
「存在しません。だから、敵には顔を知られていない。調べようもありません」
「けれど、表の身分が必要です」
「そこです」
直樹は商社買収案を出した。
「輸入果物を扱う商社を買いたいんです。休眠会社ではなく、動いている会社です。仕入先、売り先、銀行口座、倉庫、配送、取引記録が生きている会社。その子会社としてフルーツ加工会社を作る。子会社の敷地に社宅を作り、ミン・ハとリエンの一族を従業員と家族として住ませる」
啓子は黙って聞いていた。
「ミン・ハとリエンには、その子会社の実務を任せます。加工、品質管理、従業員のまとめ役です。ただし、2人には別の役目もあります」
「ベル・ローズ五反田ですね」
直樹は頷いた。
「はい。2人だけは、ベル・ローズ五反田のサクラに応募してもらいます。地面師たち、黒岩の残党、フランス女の素性を探るためです」
「会社の表の顔と、五反田の店の顔を重ねてはいけません」
「分かっています。そこも相談したいんです」
啓子は手帳を開いた。
「整理します」
啓子の声は、恋人としてではなく、実務を見る者の声になっていた。
「第一に、商社本体は都内か横浜がよいです。港、倉庫、銀行、百貨店、ホテル、果物店への説明がつきます。第二に、子会社の加工場は横須賀か三浦半島に置く。秋谷の屋敷の中ではなく、会社の敷地として別に持つ方が安全です。第三に、社宅は加工場の敷地に置く。社員寮ではなく、家族で住める小さな住宅にする。第四に、五反田へ入る者は、会社の表に出さない。表の名刺、住居、車、名前を分ける」
直樹はすぐにメモした。
「その通りにします」
「第五に、杉浦さんと小沼さんを使うなら、公正証書の写しを最初に見せてください。尚人さん不在時の正式代理人として直樹さんが動く。この筋を外すと、あとで人が割れます」
「はい」
「第六に、商社は看板だけで買ってはいけません。会計書類と支払記録を見ます。仕入先への未払い、銀行借入、倉庫料、手形、税金、保証、古い訴訟。そこに穴があれば、協力者を受け入れる前に会社が沈みます」
「候補探しを、啓子さんにお願いしたいんです」
直樹はそこで頭を下げた。
「お願いします。啓子さんの成城の人脈、銀行、税理士、管理会社の線を貸してください。私はホーチミンへ行かなければなりません。その間に、買収先の候補を探してほしい」
啓子は、すぐに返事をしなかった。
机の上には、104億2,666万200円の資金明細、公正証書の写し、商社買収案、ホーチミンの名前が並んでいる。どれも軽い紙ではなかった。
「直樹さん」
「はい」
「私は、あなたの恋人です。けれど、恋人だから何でも黙って従うわけではありません」
「分かっています」
「危ないと思えば止めます。甘いと思えば言います。啓子に任せればどうにかなる、という頼み方なら断ります」
「そうではありません」
直樹は啓子を見た。
「私は、この時代の家や土地の見方を、まだ十分に知りません。尚人さんの金は預かっていますが、尚人さんそのものにはなれません。だから、啓子さんの目が必要です」
啓子は、直樹の顔をしばらく見ていた。
やがて、手帳に線を引いた。
「分かりました。商社の候補を探します」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「ミン・ハさんとリエンさんを、道具として扱わないでください。未来から呼ぶ人たちは、1986年では頼れるものが直樹さんしかありません。住む場所、給料、身分、医者、学校、通訳、食事。そこまで用意する必要があります」
「はい」
「それと、ベル・ローズ五反田へ入れる2人の安全です。店に入れるなら、出入口、連絡方法、戻る場所、使う名前、逃げる合図まで決めてからです」
「決めます」
「もう1つ。商社の買収資金と、調査の資金は分けてください。会社の金で裏の調査をすると、会社が汚れます」
直樹は別紙に書いた。
商社買収枠。
子会社設立。
加工場。
社宅。
協力者生活費。
五反田調査費。
予備費。
救出資金。
「金額はどう見ますか」
直樹が聞くと、啓子は考えながら答えた。
「商社本体で3億円から5億円。借入整理と運転資金で2億円。加工場、冷蔵設備、車両、社宅で3億円。最初の枠は10億円。そこに、協力者の生活費と調査費は別枠で持ってください」
「10億円を商社と子会社の初期枠にします」
「余ったから使う、ということはしないでください」
「分かっています」
「100億円を超える資金があると、10億円が小さく見えます。でも、10億円は会社と人の暮らしを丸ごと動かす金です。雑に使えば、助けるはずの人を巻き込みます」
直樹は頷いた。
啓子は、買収候補の条件を手帳に書き出した。
「輸入果物または青果を扱う会社。都内か横浜。冷蔵倉庫との取引がある。百貨店、ホテル、果物店、喫茶店のどれかに売り先がある。銀行取引が残っている。経営者が高齢、または後継者がいない。会計書類が読める。子会社を作れる。横須賀か三浦半島に加工場用地を持てる余地がある」
「候補は探せますか」
「成城の銀行、税理士、古い管理会社へ当たります。表向きは、早乙女家が青果輸入に関心を持っているという話にします。急いでいる顔は見せません」
「急いでいます」
「急いでいる顔を見せる必要はありません」
直樹は苦笑した。
「尚人さんにも同じことを言いそうですね」
「言います」
啓子は当然のように答えた。
その返事で、部屋の張りつめた感じが少しだけ和らいだ。
◇ ◇ ◇
話は昼前まで続いた。
啓子は、その日のうちに成城の銀行筋へ当たりをつけることになった。杉浦には、直樹から正式代理人として連絡し、公正証書の写しを渡す。小沼には、買収候補が出た時点で登記、担保、借入、未払い、保証関係を調べてもらう。
直樹は、ホーチミン行きの準備に入る。
啓子は手帳を閉じた。
「直樹さん。ホーチミンへ行く前に、もう一度こちらへ来てください」
「分かりました」
「ミン・ハさんとリエンさんに話す内容を、先に整理しましょう。相手には相手の家族があります。助けてくれと言うだけでは済みません」
「はい」
「それと、啓子には隠さないでください。危険を減らすために伏せる話と、判断に必要な話は違います」
「今日は全部話しました」
「これからも、そうしてください」
直樹は頭を下げた。
「約束します」
啓子は、そこでようやく恋人の顔に戻った。
「直樹さん」
「はい」
「あなたは今、尚人さんの代理人として動いています。でも、尚人さんの代わりに全部背負おうとしないでください」
「背負わないと、動けません」
「背負うことと、1人で抱えることは違います」
直樹は返事に詰まった。
啓子は続けた。
「だから、今日は成城へ来たのだと思います。頼みに来た。それは正しいことです」
「ありがとうございます」
「次も、頼みに来てください。電話で呼びつけるのではなく」
「そうします」
啓子は少し笑った。
「それなら、私は動きます」
直樹は書類を鞄に戻した。
玄関まで送られ、靴を履く。外は昼の光になっていた。成城の道には人の声が少ない。生垣の向こうで、どこかの家の犬が短く吠えた。
門の前で、啓子は言った。
「商社は私が探します。直樹さんは、ホーチミンの人たちへ嘘をつかないでください」
「嘘はつきません」
「なら、大丈夫です」
直樹は車に乗った。
成城の門を出る時、啓子はまだそこに立っていた。直樹はバックミラーでその姿を見た。恋人であり、止めてくれる人であり、成城の家の目を持つ協力者である。
直樹は、革鞄の重みを助手席に感じた。
公正証書。
104億2,666万200円。
商社買収案。
ホーチミン。
ミン・ハ。
リエン。
話は、ようやく動き始めた。
次は2026年のホーチミンである。
第3話前編では、直樹が成城の榎本啓子を訪ね、商社買収を正式に頼む。頼む側である直樹が自分から成城へ出向くことで、啓子への敬意と、2人の関係の自然さを示した。尚人不在時に直樹が杉浦や小沼を動かせる理由として、尚人が残した公正証書も明らかになる。直樹は、2026年ホーチミンにいるミン・ハとリエン、その一族を1986年へ呼び、輸入果物商社の子会社で働かせる計画を啓子に打ち明ける。啓子は、商社、子会社、加工場、社宅、五反田調査の線を分けるよう助言し、買収候補を探す役を引き受ける。第3話前編は、直樹が100億円を超える資金だけでなく、啓子の目と成城の人脈を使い始めるところで終わる。




