第2話(後編2)――「初めての米」
町会預かりの形で、尚人と順子は米穀通帳を得た。通帳があれば米屋の列に並べる。だが、すぐに腹いっぱい食べられるわけではない。午後、2人は指定された林田米店へ向かう。そこで受け取れる米はわずかである。それでも、拾った芋でも、炊き出しの薄い汁でもない。倉田順子と倉田尚人の名で受け取る、初めての米だった。
午後、尚人と順子は林田米店へ向かった。
米穀通帳は、順子の懐にある。布で二重に包んでいた。濡らせば弱る。落とせば終わりである。順子は歩きながら、何度も懐の上から確かめた。
林田米店は、半分焼けた店だった。
表の看板は煤で黒くなり、文字も読みにくい。入口には戸板が立てかけられている。店の奥には米俵がいくつか積まれていたが、どれも満ちているようには見えなかった。
店の前には列ができていた。
女が多い。器を持つ者、袋を持つ者、風呂敷を持つ者。中には赤ん坊を背負ったまま並ぶ者もいる。列の前では、店の男が通帳を受け取り、台帳と照らし合わせていた。
順子と尚人は後ろに並んだ。
前にいた女が振り返った。
「あんたたち、新しい人だね」
順子は答えた。
「はい。町会の片岡さんから、こちらへ行くように言われました」
「片岡さんの扱いなら、まあ通るだろうね。今日は少ないよ」
「少ないのですか」
「いつも少ないよ」
女はそれだけ言って前を向いた。
列はゆっくり進んだ。
店の中から、米を量る音が聞こえる。升に入れ、袋に移す。ざらりと乾いた音がする。その音だけで、列の人間が前を見る。誰も無駄口を言わない。通帳を出す手つきも、米を受け取る手つきも、皆、真剣だった。
順子の番が来た。
店の男が手を出した。
「通帳」
順子は布をほどき、米穀通帳を渡した。
男は表紙を見た。
「倉田順子、倉田尚人。2人世帯。町会預かり。林田米店」
台帳をめくる。
「今日からか」
「はい」
「遅配分だから、2人で2合だ。次は町会の知らせを待て」
順子は一度、尚人を見た。
2人で2合。
腹を満たす量ではない。だが、米である。
「お願いいたします」
店の男は、木の箱から米をすくった。
白い米だけではなかった。砕けた米、少し黒ずんだ粒、麦も混じっている。それでも、米の匂いがした。男は升で量り、小さな紙袋へ入れた。
紙袋は軽かった。
だが、順子は両手で受け取った。
「落とすなよ」
店の男が言った。
「はい」
尚人は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼より通帳をしまえ。次」
2人は店の外へ出た。
順子は米穀通帳を布に包み直した。米の紙袋は、尚人が持った。紙越しに、粒の硬さが指に当たる。軽い。だが、確かに重みがある。
お兼が店の向こう側で待っていた。
「もらえたかい」
尚人は紙袋を見せた。
「2合です」
「上等だよ。最初から空で帰されなかったんだ」
順子は言った。
「これを、どう炊けばよいでしょうか」
「飯にするには少ない。粥にしな。水を多くして、芋を少し入れる。炊きすぎるな。焦がしたら泣くよ」
「はい」
「それと、匂いを出しすぎるな。米の匂いは人を呼ぶ」
お兼の言葉は、冗談ではなかった。
尚人は紙袋を懐に入れた。
「仮小屋へ戻ります」
「戻りな。今日は早く食べた方がいい。米を持って歩く時間は短い方がいい」
◇ ◇ ◇
仮小屋へ戻ると、順子はすぐに湯を沸かした。
小さな鍋はお兼から借りた。底は黒く、取っ手は片方しかない。だが、水は漏れない。順子は米を手のひらに出した。
2合の米は、驚くほど少なく見えた。
順子は米を洗おうとして、手を止めた。
「水を使いすぎますね」
お兼が入口から言った。
「軽くでいい。今の米は、研ぎすぎたら減る」
順子は少ない水で米をすすいだ。水は白く濁った。捨てるのが惜しいほどだった。順子は2度目の水を入れず、そのまま鍋へ移した。
尚人は芋を薄く切った。
昨日、源蔵からもらった残りである。小さいが、米だけより量が増える。順子は米と芋を鍋に入れ、水を多めに注いだ。
火は弱い。
炭を足しすぎることはできない。順子は鍋を火にかけ、蓋代わりの板を置いた。しばらくすると、湯気が上がった。
米の匂いがした。
仮小屋の中で、年配の男が顔を上げた。
「米か」
尚人は答えた。
「今日、通帳が出ました」
「そうか。そりゃよかったな」
男はそれ以上言わなかった。
その沈黙が、かえって重かった。米の匂いを前にして、欲しいと言わない。今の焼け跡では、それも我慢だった。
順子は鍋のそばを離れなかった。
吹きこぼれないように火を弱める。焦げないように、ときどき鍋を持ち上げる。湯気の匂いは薄いが、確かに米だった。
やがて、粥ができた。
飯ではない。米粒は水を吸い、芋と一緒に柔らかくなっている。塩はない。味噌もない。それでも、白い粒が見えた。
順子は器を2つ出した。
均等に分けようとして、少し迷った。尚人はすぐに言った。
「母さん、同じでいい」
「分かっています」
順子は、できるだけ同じ量になるようによそった。
尚人は器を受け取った。
熱が手に伝わる。湯気が顔に上がる。米の匂いが鼻に届いた。
「いただきます」
順子も器を持った。
「いただきます」
最初のひと口は熱かった。
舌に米粒が当たる。柔らかい。芋の甘さが少し混じる。味は薄い。だが、米だった。炊き出しの汁に浮いていた数粒の米ではない。自分たちの通帳で受け取った米である。
尚人はゆっくり食べた。
すぐに飲み込むのが惜しかった。噛めば米の甘さがわずかに出る。胃が空いているせいで、粥はすぐ体に落ちた。
順子は器を見たまま言った。
「米穀通帳が出ました」
「ああ」
「今日は2合でした」
「ああ」
「でも、私たちの名前で受け取りました」
「それが大きい」
尚人は粥を口へ運んだ。
「明日からは、働いてこの通帳を守る。なくせば終わりだ。移る時は町会へ届ける。話は変えない」
「はい」
「それと、通帳が出たからといって、気を抜くな。これからは、米を持っていると思われる」
「分かっています」
順子は器の底に残った米粒を箸で寄せた。
1粒も残せなかった。
お兼が入口から中をのぞいた。
「焦がさなかったかい」
「はい」
「なら上出来だよ」
順子は自分の器を見た。
「少しだけ、お兼さんにも」
お兼は首を振った。
「いらないよ。最初の米は、親子で食べな。礼なら明日、炭を起こすのを手伝っておくれ」
「必ず」
お兼は笑い、戸板を閉めた。
仮小屋の中は、米の匂いがまだ残っていた。
年配の男が壁際から言った。
「通帳を大事にしろよ。紙切れに見えて、命綱だ」
尚人は答えた。
「はい」
順子は米穀通帳を布に包み、服の内側へしまった。今夜は枕元に置かない。眠っている間に落ちても困る。濡れても困る。体から離さないのが一番だった。
◇ ◇ ◇
夜になると、風が強くなった。
戸板が鳴り、トタンの屋根が細かく震える。焼け跡の寒さは変わらない。床板の冷えも、隙間風も、空腹も残っている。2合の粥で腹いっぱいになるはずはない。
それでも、昨日までとは違っていた。
倉田順子と倉田尚人の名が、米穀通帳に書かれた。
林田米店で、2人は米を受け取った。
仮小屋の鍋で、その米を粥にした。
尚人は入口の隙間を板で押さえた。順子は火のそばで、濡れた布を乾かしている。米穀通帳は、順子の懐に入っている。
「尚人さん」
「何だ」
「今日、初めてこの時代で、私たちの米を食べました」
「ああ」
「少しだけですが」
「少しでもいい。次につながる」
順子は頷いた。
「明日は静江さんのところへ行きます」
「俺は源蔵の現場だ。田島さんの井戸の奥を片づける」
「はい」
「第1歩は通った。次は、住む場所と金だ」
「分かっています」
尚人は火を見た。
1946年の東京で、2人はまだ弱い。身分は薄く、持ち物も少なく、家もない。だが、米穀通帳を得たことで、町会の外に落ちる危険は少し減った。
今夜の粥は、腹を満たす食事ではなかった。
それでも、2人がこの時代で初めて得た、暮らしの形だった。
入口の戸板が風で鳴った。
順子は懐の上から、通帳の位置を確かめた。
尚人は、消えかけた炭を寄せた。
焼け跡の夜はまだ冷える。
だが、倉田順子と倉田尚人は、米穀通帳を持っていた。
それが、第2話の終わりに残った、はっきりした答えだった。
第2話後編2では、尚人と順子が初めて米の配給を受ける。米穀通帳は出たが、量は2人で2合だけであり、白米ばかりでもない。それでも、2人は林田米店で倉田順子と倉田尚人の名により米を受け取る。仮小屋へ戻った2人は、その米を芋と合わせて粥にする。腹は満たされないが、拾った物でも炊き出しでもない。2人がこの時代で初めて得た、自分たちの米である。第2話は、配給通帳のない親子が米穀通帳を得て、焼け跡の町に暮らしの足場を作るところで終わる。




