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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第2話(後編2)――「初めての米」

町会預かりの形で、尚人と順子は米穀通帳を得た。通帳があれば米屋の列に並べる。だが、すぐに腹いっぱい食べられるわけではない。午後、2人は指定された林田米店へ向かう。そこで受け取れる米はわずかである。それでも、拾った芋でも、炊き出しの薄い汁でもない。倉田順子と倉田尚人の名で受け取る、初めての米だった。

 午後、尚人と順子は林田米店へ向かった。


 米穀通帳は、順子の懐にある。布で二重に包んでいた。濡らせば弱る。落とせば終わりである。順子は歩きながら、何度も懐の上から確かめた。


 林田米店は、半分焼けた店だった。


 表の看板は煤で黒くなり、文字も読みにくい。入口には戸板が立てかけられている。店の奥には米俵がいくつか積まれていたが、どれも満ちているようには見えなかった。


 店の前には列ができていた。


 女が多い。器を持つ者、袋を持つ者、風呂敷を持つ者。中には赤ん坊を背負ったまま並ぶ者もいる。列の前では、店の男が通帳を受け取り、台帳と照らし合わせていた。


 順子と尚人は後ろに並んだ。


 前にいた女が振り返った。


「あんたたち、新しい人だね」


 順子は答えた。


「はい。町会の片岡さんから、こちらへ行くように言われました」


「片岡さんの扱いなら、まあ通るだろうね。今日は少ないよ」


「少ないのですか」


「いつも少ないよ」


 女はそれだけ言って前を向いた。


 列はゆっくり進んだ。


 店の中から、米を量る音が聞こえる。升に入れ、袋に移す。ざらりと乾いた音がする。その音だけで、列の人間が前を見る。誰も無駄口を言わない。通帳を出す手つきも、米を受け取る手つきも、皆、真剣だった。


 順子の番が来た。


 店の男が手を出した。


「通帳」


 順子は布をほどき、米穀通帳を渡した。


 男は表紙を見た。


「倉田順子、倉田尚人。2人世帯。町会預かり。林田米店」


 台帳をめくる。


「今日からか」


「はい」


「遅配分だから、2人で2合だ。次は町会の知らせを待て」


 順子は一度、尚人を見た。


 2人で2合。


 腹を満たす量ではない。だが、米である。


「お願いいたします」


 店の男は、木の箱から米をすくった。


 白い米だけではなかった。砕けた米、少し黒ずんだ粒、麦も混じっている。それでも、米の匂いがした。男は升で量り、小さな紙袋へ入れた。


 紙袋は軽かった。


 だが、順子は両手で受け取った。


「落とすなよ」


 店の男が言った。


「はい」


 尚人は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼より通帳をしまえ。次」


 2人は店の外へ出た。


 順子は米穀通帳を布に包み直した。米の紙袋は、尚人が持った。紙越しに、粒の硬さが指に当たる。軽い。だが、確かに重みがある。


 お兼が店の向こう側で待っていた。


「もらえたかい」


 尚人は紙袋を見せた。


「2合です」


「上等だよ。最初から空で帰されなかったんだ」


 順子は言った。


「これを、どう炊けばよいでしょうか」


「飯にするには少ない。粥にしな。水を多くして、芋を少し入れる。炊きすぎるな。焦がしたら泣くよ」


「はい」


「それと、匂いを出しすぎるな。米の匂いは人を呼ぶ」


 お兼の言葉は、冗談ではなかった。


 尚人は紙袋を懐に入れた。


「仮小屋へ戻ります」


「戻りな。今日は早く食べた方がいい。米を持って歩く時間は短い方がいい」


 ◇ ◇ ◇


 仮小屋へ戻ると、順子はすぐに湯を沸かした。


 小さな鍋はお兼から借りた。底は黒く、取っ手は片方しかない。だが、水は漏れない。順子は米を手のひらに出した。


 2合の米は、驚くほど少なく見えた。


 順子は米を洗おうとして、手を止めた。


「水を使いすぎますね」


 お兼が入口から言った。


「軽くでいい。今の米は、研ぎすぎたら減る」


 順子は少ない水で米をすすいだ。水は白く濁った。捨てるのが惜しいほどだった。順子は2度目の水を入れず、そのまま鍋へ移した。


 尚人は芋を薄く切った。


 昨日、源蔵からもらった残りである。小さいが、米だけより量が増える。順子は米と芋を鍋に入れ、水を多めに注いだ。


 火は弱い。


 炭を足しすぎることはできない。順子は鍋を火にかけ、蓋代わりの板を置いた。しばらくすると、湯気が上がった。


 米の匂いがした。


 仮小屋の中で、年配の男が顔を上げた。


「米か」


 尚人は答えた。


「今日、通帳が出ました」


「そうか。そりゃよかったな」


 男はそれ以上言わなかった。


 その沈黙が、かえって重かった。米の匂いを前にして、欲しいと言わない。今の焼け跡では、それも我慢だった。


 順子は鍋のそばを離れなかった。


 吹きこぼれないように火を弱める。焦げないように、ときどき鍋を持ち上げる。湯気の匂いは薄いが、確かに米だった。


 やがて、粥ができた。


 飯ではない。米粒は水を吸い、芋と一緒に柔らかくなっている。塩はない。味噌もない。それでも、白い粒が見えた。


 順子は器を2つ出した。


 均等に分けようとして、少し迷った。尚人はすぐに言った。


「母さん、同じでいい」


「分かっています」


 順子は、できるだけ同じ量になるようによそった。


 尚人は器を受け取った。


 熱が手に伝わる。湯気が顔に上がる。米の匂いが鼻に届いた。


「いただきます」


 順子も器を持った。


「いただきます」


 最初のひと口は熱かった。


 舌に米粒が当たる。柔らかい。芋の甘さが少し混じる。味は薄い。だが、米だった。炊き出しの汁に浮いていた数粒の米ではない。自分たちの通帳で受け取った米である。


 尚人はゆっくり食べた。


 すぐに飲み込むのが惜しかった。噛めば米の甘さがわずかに出る。胃が空いているせいで、粥はすぐ体に落ちた。


 順子は器を見たまま言った。


「米穀通帳が出ました」


「ああ」


「今日は2合でした」


「ああ」


「でも、私たちの名前で受け取りました」


「それが大きい」


 尚人は粥を口へ運んだ。


「明日からは、働いてこの通帳を守る。なくせば終わりだ。移る時は町会へ届ける。話は変えない」


「はい」


「それと、通帳が出たからといって、気を抜くな。これからは、米を持っていると思われる」


「分かっています」


 順子は器の底に残った米粒を箸で寄せた。


 1粒も残せなかった。


 お兼が入口から中をのぞいた。


「焦がさなかったかい」


「はい」


「なら上出来だよ」


 順子は自分の器を見た。


「少しだけ、お兼さんにも」


 お兼は首を振った。


「いらないよ。最初の米は、親子で食べな。礼なら明日、炭を起こすのを手伝っておくれ」


「必ず」


 お兼は笑い、戸板を閉めた。


 仮小屋の中は、米の匂いがまだ残っていた。


 年配の男が壁際から言った。


「通帳を大事にしろよ。紙切れに見えて、命綱だ」


 尚人は答えた。


「はい」


 順子は米穀通帳を布に包み、服の内側へしまった。今夜は枕元に置かない。眠っている間に落ちても困る。濡れても困る。体から離さないのが一番だった。


 ◇ ◇ ◇


 夜になると、風が強くなった。


 戸板が鳴り、トタンの屋根が細かく震える。焼け跡の寒さは変わらない。床板の冷えも、隙間風も、空腹も残っている。2合の粥で腹いっぱいになるはずはない。


 それでも、昨日までとは違っていた。


 倉田順子と倉田尚人の名が、米穀通帳に書かれた。


 林田米店で、2人は米を受け取った。


 仮小屋の鍋で、その米を粥にした。


 尚人は入口の隙間を板で押さえた。順子は火のそばで、濡れた布を乾かしている。米穀通帳は、順子の懐に入っている。


「尚人さん」


「何だ」


「今日、初めてこの時代で、私たちの米を食べました」


「ああ」


「少しだけですが」


「少しでもいい。次につながる」


 順子は頷いた。


「明日は静江さんのところへ行きます」


「俺は源蔵の現場だ。田島さんの井戸の奥を片づける」


「はい」


「第1歩は通った。次は、住む場所と金だ」


「分かっています」


 尚人は火を見た。


 1946年の東京で、2人はまだ弱い。身分は薄く、持ち物も少なく、家もない。だが、米穀通帳を得たことで、町会の外に落ちる危険は少し減った。


 今夜の粥は、腹を満たす食事ではなかった。


 それでも、2人がこの時代で初めて得た、暮らしの形だった。


 入口の戸板が風で鳴った。


 順子は懐の上から、通帳の位置を確かめた。


 尚人は、消えかけた炭を寄せた。


 焼け跡の夜はまだ冷える。


 だが、倉田順子と倉田尚人は、米穀通帳を持っていた。


 それが、第2話の終わりに残った、はっきりした答えだった。

第2話後編2では、尚人と順子が初めて米の配給を受ける。米穀通帳は出たが、量は2人で2合だけであり、白米ばかりでもない。それでも、2人は林田米店で倉田順子と倉田尚人の名により米を受け取る。仮小屋へ戻った2人は、その米を芋と合わせて粥にする。腹は満たされないが、拾った物でも炊き出しでもない。2人がこの時代で初めて得た、自分たちの米である。第2話は、配給通帳のない親子が米穀通帳を得て、焼け跡の町に暮らしの足場を作るところで終わる。

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