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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第2話(後編1)――「米穀通帳の申立て」

町会の仮控えに入った倉田親子は、炊き出しの列に並び、別々の場所で働いた。尚人は田島勝蔵の井戸まわりを片づけ、順子は村井静江の露店を手伝った。3日目の朝、片岡は2人の話が変わっていないことを確かめる。正式な証明書はない。それでも、町会が預かる形で、2人を米穀通帳の申立てへ進めることにする。

 3日目の朝、尚人と順子は町会の詰所へ向かった。


 仮小屋の外では、炊き出しを待つ人たちが器を持って並んでいた。鍋にはまだ火が入っていない。子どもが足踏みをし、年寄りが壁に背を預けている。風は弱いが、地面の冷えは足元から上がってきた。


 片岡は、詰所の机に向かっていた。


 机の上には名簿、鉛筆、印肉、欠けた湯呑みがある。湯呑みの中は空だった。片岡は2人を見ると、名簿を開いた。


「倉田順子、倉田尚人」


「はい」


 順子が前に出た。


「3日目だ。もう一度聞く。どこから来た」


「横須賀の方から参りました。夫の倉田佑馬は戦争で亡くなりました。家は焼け、息子と2人で村井のつてを頼って来ました」


 片岡は尚人を見た。


「息子は」


「倉田尚人、22歳です。横須賀方面で警備と営繕の手伝いをしていました。復員の途中で荷を失いました」


「復員証明はない」


「ありません」


「昨日と同じだな」


「はい」


 片岡は名簿に目を落とした。


 お兼が横から言った。


「話は変わってないよ。あの母さんは、余計なことを言わない」


 片岡はお兼を見た。


「お兼さんの顔だけで通すわけにはいかない」


「分かってるよ。だから、源蔵も静江も来てる」


 源蔵は作業着のまま立っていた。手には煤がついている。朝の現場から来たのだろう。


「片岡、倉田は昨日も働いた。田島さんの井戸の周りを片づけた。勝手に物を持っていってない。小屋の場所も見た」


 田島も少し離れていた。


 片岡が聞いた。


「田島さん、それで間違いないか」


「間違いない。俺の物は井戸の横に分けてある。勝手に捨てた物はない」


 源蔵が横目で田島を見た。


「まだ疑うのか」


「疑うさ。疑わない奴から物をなくす」


 片岡は止めなかった。


 静江が前に出た。


「倉田さんは、昨日も店を手伝いました。縫い物はできます。客とも揉めていません」


「使えるか」


「はい。品物を乱暴に扱いません」


 片岡は頷いた。


 それから、順子と尚人に向き直った。


「正式な証明書はない。だから、普通ならすぐには通せない」


 順子は黙っていた。


「だが、仮控えのまま炊き出しに来られても、町会の負担になる。働ける者には働かせる。米の列に入れる者は、米の列に入れる。その方が町会も助かる」


 片岡は名簿に線を引いた。


「倉田親子は、町会預かりで米穀通帳の申立てを出す」


 順子は息を止めた。


 尚人は片岡を見た。


「米穀通帳を、いただけるのですか」


「今日出るかどうかは、配給係が決める。俺は町会として申立てを出す。住所は源蔵の仮小屋。世帯は2人。移る時は必ず町会へ届けろ。勝手に消えたら外す」


「分かりました」


「それと、米穀通帳が出ても、米が毎日あると思うな。遅れる日もある。量が減る日もある。だが、通帳があれば、配給の列に並べる」


「はい」


 片岡は立ち上がった。


「今から配給係へ行く。順子さん、尚人、お兼さんも来い。静江は店へ戻っていい。源蔵と田島さんは現場へ戻れ」


 静江は順子に言った。


「通帳が出たら、昼から来てください。縫い物があります」


「伺います」


 源蔵は尚人に言った。


「終わったら来い。田島の井戸の奥を片づける」


「はい」


 田島は尚人を見た。


「俺の井戸に板を渡すなよ」


「渡しません」


「ならいい」


 話はそこで終わった。


 ◇ ◇ ◇


 配給係の窓口は、焼け残った小学校の一室にあった。


 窓ガラスは割れたままで、板が斜めに打ちつけられている。廊下には人が並んでいた。米穀通帳の再発行、転入、家族の増減、死亡の届出。窓口へ来る者は、それぞれ紙切れや印鑑や古い通帳を握っている。


 順子と尚人には、何もなかった。


 片岡だけが、町会の控えを持っている。


 窓口の男は、片岡の顔を見ると眉を寄せた。


「片岡さん、またですか」


「まただ。焼け出されが増えている」


「証明は」


「ない」


「ないなら難しいですよ」


「だから、町会預かりで出す」


 男は順子と尚人を見た。


「どこの人ですか」


 片岡が答えた。


「倉田順子、43歳。倉田尚人、22歳。夫は戦死。横須賀方面から来た。村井のつてを頼った。今は源蔵の仮小屋にいる」


「復員証明は」


 尚人が答えた。


「荷と一緒に失いました」


「便利ですね」


 窓口の男は、前日の片岡と同じような顔をした。


 尚人は黙った。


 片岡が言った。


「疑うのは勝手だ。だが、こいつは源蔵の現場で働いている。田島さんの家の跡でも揉め事を止めた。母親は村井静江の店で働いている。町会で3日見た。俺が控えに入れる」


「片岡さんが預かるんですね」


「ああ。問題が出たら町会で戻す」


「住所は」


「新橋近く、源蔵の仮小屋。詳しい番地はまだ立たない。町会控えで扱う」


 窓口の男は、古い台帳を開いた。


 紙は薄く、端が黒ずんでいる。インクのにじんだ欄に、男はペンを走らせた。


「世帯2人。受配先は林田米店。通帳は町会預かり扱い。移動時は町会経由。これでいいですね」


「それでいい」


 男は小さな紙の通帳を取り出した。


 表紙は薄く、角がすぐ折れそうだった。そこへ、倉田順子、倉田尚人、世帯2人、林田米店と書き込まれる。男は印を押し、片岡に渡した。


 片岡は中を確かめた。


 それから順子へ渡した。


「なくすな。濡らすな。人に預けるな」


 順子は両手で受け取った。


「ありがとうございます」


 尚人も頭を下げた。


「ありがとうございます」


 窓口の男が言った。


「今日の配給は午後からです。遅配分で量は多くありません。林田米店へ行ってください」


 片岡は頷いた。


「分かった」


 廊下へ出ると、お兼が通帳をのぞき込んだ。


「出たね」


 順子は通帳を胸の前で持っていた。


「はい」


「泣くなら帰ってからにしな」


「泣きません」


「それでいい。紙は濡らすと弱い」


 片岡が歩きながら言った。


「喜ぶのは早い。米穀通帳は飯そのものじゃない。列に並ぶ権利だ」


 尚人は答えた。


「分かっています」


「ならいい。午後、林田米店へ行け。受け取ったら、余計に見せびらかすな。通帳を欲しがる者もいる」


「はい」


 小学校の外へ出ると、風が吹いた。


 順子は通帳を布に包み、懐へ入れた。紙1冊で腹は満ちない。だが、その紙がなければ米屋の列に立つこともできない。


 尚人は言った。


「母さん、先に仮小屋へ戻ろう。通帳をしまってから、俺は現場へ行く」


「分かったわ」


 お兼は笑った。


「今日は少し顔がましになったね」


 片岡は言った。


「顔で米は増えない。働け」


 尚人は頭を下げた。


「働きます」


 こうして、倉田順子と倉田尚人は、町会預かりの米穀通帳を得た。


 まだ、米は手に入っていない。


 だが、2人はようやく、米屋の列へ立てる身分になった。

第2話後編1では、片岡が倉田親子の3日目の確認を行う。お兼、源蔵、静江、田島の話に食い違いはなく、尚人と順子が町の中で働いたことも分かる。片岡は、2人を町会預かりとして米穀通帳の申立てに進める。配給係の窓口では証明書がないことを疑われるが、片岡が町会で預かると押し、2人分の米穀通帳が発行される。まだ米は受け取っていないが、2人は初めて米屋の列に並べる立場を得る。

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