第2話(後編1)――「米穀通帳の申立て」
町会の仮控えに入った倉田親子は、炊き出しの列に並び、別々の場所で働いた。尚人は田島勝蔵の井戸まわりを片づけ、順子は村井静江の露店を手伝った。3日目の朝、片岡は2人の話が変わっていないことを確かめる。正式な証明書はない。それでも、町会が預かる形で、2人を米穀通帳の申立てへ進めることにする。
3日目の朝、尚人と順子は町会の詰所へ向かった。
仮小屋の外では、炊き出しを待つ人たちが器を持って並んでいた。鍋にはまだ火が入っていない。子どもが足踏みをし、年寄りが壁に背を預けている。風は弱いが、地面の冷えは足元から上がってきた。
片岡は、詰所の机に向かっていた。
机の上には名簿、鉛筆、印肉、欠けた湯呑みがある。湯呑みの中は空だった。片岡は2人を見ると、名簿を開いた。
「倉田順子、倉田尚人」
「はい」
順子が前に出た。
「3日目だ。もう一度聞く。どこから来た」
「横須賀の方から参りました。夫の倉田佑馬は戦争で亡くなりました。家は焼け、息子と2人で村井のつてを頼って来ました」
片岡は尚人を見た。
「息子は」
「倉田尚人、22歳です。横須賀方面で警備と営繕の手伝いをしていました。復員の途中で荷を失いました」
「復員証明はない」
「ありません」
「昨日と同じだな」
「はい」
片岡は名簿に目を落とした。
お兼が横から言った。
「話は変わってないよ。あの母さんは、余計なことを言わない」
片岡はお兼を見た。
「お兼さんの顔だけで通すわけにはいかない」
「分かってるよ。だから、源蔵も静江も来てる」
源蔵は作業着のまま立っていた。手には煤がついている。朝の現場から来たのだろう。
「片岡、倉田は昨日も働いた。田島さんの井戸の周りを片づけた。勝手に物を持っていってない。小屋の場所も見た」
田島も少し離れていた。
片岡が聞いた。
「田島さん、それで間違いないか」
「間違いない。俺の物は井戸の横に分けてある。勝手に捨てた物はない」
源蔵が横目で田島を見た。
「まだ疑うのか」
「疑うさ。疑わない奴から物をなくす」
片岡は止めなかった。
静江が前に出た。
「倉田さんは、昨日も店を手伝いました。縫い物はできます。客とも揉めていません」
「使えるか」
「はい。品物を乱暴に扱いません」
片岡は頷いた。
それから、順子と尚人に向き直った。
「正式な証明書はない。だから、普通ならすぐには通せない」
順子は黙っていた。
「だが、仮控えのまま炊き出しに来られても、町会の負担になる。働ける者には働かせる。米の列に入れる者は、米の列に入れる。その方が町会も助かる」
片岡は名簿に線を引いた。
「倉田親子は、町会預かりで米穀通帳の申立てを出す」
順子は息を止めた。
尚人は片岡を見た。
「米穀通帳を、いただけるのですか」
「今日出るかどうかは、配給係が決める。俺は町会として申立てを出す。住所は源蔵の仮小屋。世帯は2人。移る時は必ず町会へ届けろ。勝手に消えたら外す」
「分かりました」
「それと、米穀通帳が出ても、米が毎日あると思うな。遅れる日もある。量が減る日もある。だが、通帳があれば、配給の列に並べる」
「はい」
片岡は立ち上がった。
「今から配給係へ行く。順子さん、尚人、お兼さんも来い。静江は店へ戻っていい。源蔵と田島さんは現場へ戻れ」
静江は順子に言った。
「通帳が出たら、昼から来てください。縫い物があります」
「伺います」
源蔵は尚人に言った。
「終わったら来い。田島の井戸の奥を片づける」
「はい」
田島は尚人を見た。
「俺の井戸に板を渡すなよ」
「渡しません」
「ならいい」
話はそこで終わった。
◇ ◇ ◇
配給係の窓口は、焼け残った小学校の一室にあった。
窓ガラスは割れたままで、板が斜めに打ちつけられている。廊下には人が並んでいた。米穀通帳の再発行、転入、家族の増減、死亡の届出。窓口へ来る者は、それぞれ紙切れや印鑑や古い通帳を握っている。
順子と尚人には、何もなかった。
片岡だけが、町会の控えを持っている。
窓口の男は、片岡の顔を見ると眉を寄せた。
「片岡さん、またですか」
「まただ。焼け出されが増えている」
「証明は」
「ない」
「ないなら難しいですよ」
「だから、町会預かりで出す」
男は順子と尚人を見た。
「どこの人ですか」
片岡が答えた。
「倉田順子、43歳。倉田尚人、22歳。夫は戦死。横須賀方面から来た。村井のつてを頼った。今は源蔵の仮小屋にいる」
「復員証明は」
尚人が答えた。
「荷と一緒に失いました」
「便利ですね」
窓口の男は、前日の片岡と同じような顔をした。
尚人は黙った。
片岡が言った。
「疑うのは勝手だ。だが、こいつは源蔵の現場で働いている。田島さんの家の跡でも揉め事を止めた。母親は村井静江の店で働いている。町会で3日見た。俺が控えに入れる」
「片岡さんが預かるんですね」
「ああ。問題が出たら町会で戻す」
「住所は」
「新橋近く、源蔵の仮小屋。詳しい番地はまだ立たない。町会控えで扱う」
窓口の男は、古い台帳を開いた。
紙は薄く、端が黒ずんでいる。インクのにじんだ欄に、男はペンを走らせた。
「世帯2人。受配先は林田米店。通帳は町会預かり扱い。移動時は町会経由。これでいいですね」
「それでいい」
男は小さな紙の通帳を取り出した。
表紙は薄く、角がすぐ折れそうだった。そこへ、倉田順子、倉田尚人、世帯2人、林田米店と書き込まれる。男は印を押し、片岡に渡した。
片岡は中を確かめた。
それから順子へ渡した。
「なくすな。濡らすな。人に預けるな」
順子は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
尚人も頭を下げた。
「ありがとうございます」
窓口の男が言った。
「今日の配給は午後からです。遅配分で量は多くありません。林田米店へ行ってください」
片岡は頷いた。
「分かった」
廊下へ出ると、お兼が通帳をのぞき込んだ。
「出たね」
順子は通帳を胸の前で持っていた。
「はい」
「泣くなら帰ってからにしな」
「泣きません」
「それでいい。紙は濡らすと弱い」
片岡が歩きながら言った。
「喜ぶのは早い。米穀通帳は飯そのものじゃない。列に並ぶ権利だ」
尚人は答えた。
「分かっています」
「ならいい。午後、林田米店へ行け。受け取ったら、余計に見せびらかすな。通帳を欲しがる者もいる」
「はい」
小学校の外へ出ると、風が吹いた。
順子は通帳を布に包み、懐へ入れた。紙1冊で腹は満ちない。だが、その紙がなければ米屋の列に立つこともできない。
尚人は言った。
「母さん、先に仮小屋へ戻ろう。通帳をしまってから、俺は現場へ行く」
「分かったわ」
お兼は笑った。
「今日は少し顔がましになったね」
片岡は言った。
「顔で米は増えない。働け」
尚人は頭を下げた。
「働きます」
こうして、倉田順子と倉田尚人は、町会預かりの米穀通帳を得た。
まだ、米は手に入っていない。
だが、2人はようやく、米屋の列へ立てる身分になった。
第2話後編1では、片岡が倉田親子の3日目の確認を行う。お兼、源蔵、静江、田島の話に食い違いはなく、尚人と順子が町の中で働いたことも分かる。片岡は、2人を町会預かりとして米穀通帳の申立てに進める。配給係の窓口では証明書がないことを疑われるが、片岡が町会で預かると押し、2人分の米穀通帳が発行される。まだ米は受け取っていないが、2人は初めて米屋の列に並べる立場を得る。




