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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第2話(中編2)――「井戸の横に分けた物」

炊き出しの薄い汁を受け取ったあと、尚人は大沢源蔵の現場へ戻る。田島勝蔵はすでに井戸のそばで、焼け跡から自分の家の物を探していた。焦げた鍋、割れた皿、曲がった金物。どれも価値のある物には見えないが、田島にとっては家がそこにあった証拠である。一方、順子は村井静江の露店へ向かい、針、糸、石鹸、布切れを扱う仕事を手伝う。2人は別々の場所で、この時代の信用がどのように作られるかを知っていく。

 田島は井戸のそばにいた。


 尚人が源蔵と戻った時、田島は膝をつき、灰を手でかき分けていた。外套の袖は黒く汚れている。杖は近くの土台に立てかけてあった。昨夜より早く来ていたらしい。


 井戸の周りには、焼け残った物が置かれていた。


 焦げた鍋、割れた皿、曲がった包丁、戸車の金具、釘の束、茶碗のかけら、黒くなった木箱の一部。売れるような物には見えない。だが、田島は1つずつ確かめていた。


 源蔵が声をかけた。


「田島さん、早いな」


 田島は振り向かなかった。


「俺の家だ。俺が来るのに、誰の許しがいる」


「誰も止めちゃいない」


「だったら黙って見てろ」


 源蔵は顔をしかめたが、言い返さなかった。


 尚人は田島の横にしゃがんだ。


「田島さん、今日出てきた物は井戸の横に分けて置きます。田島さんの家の物か分からないものは、勝手に持っていきません」


 田島は尚人を見た。


「言ったことを覚えていたか」


「はい」


「なら、まずこっちをどけろ。これは俺の店で使っていた戸車だ」


 田島は曲がった金具を指した。


 尚人はそれを拾い、井戸の横に置いた。泥と灰がついている。戸車は半分焼け、軸も曲がっている。使えるかは分からない。それでも、田島はそれを目で追った。


 源蔵が男たちに声をかけた。


「聞いたな。井戸の横に置いた物は触るな。田島さんが見る。使える材木と瓦だけこっちへ分けろ」


 男たちは返事をして動き出した。


 作業は進みにくかった。灰の下には、何があるか分からない。釘が出る。割れたガラスが出る。焼けた茶碗が出る。ときどき、田島が手を止めさせた。


「それはこっちへ置け」


「その金物は俺のだ」


「その皿は違う。隣の小野寺の家の物だ」


 現場の男たちは面倒そうな顔をした。


 しかし、田島本人がいる前で、黙って持っていくことはできない。尚人は、田島が指した物を井戸の横にまとめた。小野寺の物らしいものは別の場所に置いた。使える材木は源蔵の方へ運ぶ。割れた瓦は床を上げる材料に回す。


 梶原も荷車を止めて手伝った。


「こりゃ時間がかかるな」


「あとで怒鳴られるよりはましです」


 尚人が答えると、梶原は鼻で笑った。


「昨日と同じことを言うな」


「昨日と同じことが起きています」


「違いない」


 田島は、黒く焦げた包丁を見つけた。


 刃は欠け、柄は焼け落ちている。それでも、田島はそれを手に取り、煤を指でぬぐった。


「これは、俺が使っていた包丁だ」


 源蔵が言った。


「そんな物、もう使えないだろう」


 田島は源蔵を睨んだ。


「使えるかどうかを決めるのは俺だ」


 尚人は割って入らなかった。


 田島はしばらく包丁を見ていた。それから井戸の横に置いた。


「俺は鍋や包丁や戸車を直していた。こういう物を捨てるほどの余裕はない」


 その言葉で、男たちの手が少し止まった。


 田島は自分の店の跡を探している。家族を連れて戻れるか分からない。それでも、ここに自分の仕事があったことを、灰の中から拾い上げている。


 尚人は穴の空いたトタンを持ってきた。焦げた石を2つ置き、その上にトタンを渡した。簡単な覆いである。


 田島が聞いた。


「何をしている」


「金物に灰がかからないようにします。雨が降れば濡れますが、今よりはましです」


「そんな余りがあるのか」


 源蔵が答えた。


「穴の空いたやつならある。売り物にはならん」


「穴があってもいい。包丁や金物に灰がかぶらなければ十分だ」


 田島は包丁と戸車を、その下へ移した。


 ◇ ◇ ◇


 その頃、順子は村井静江の露店に着いていた。


 木箱の上には、昨日と同じように針、糸、石鹸、布切れ、ボタン、細い紐が並んでいた。朝は客が多い。炊き出しのあと、人は動き始める。腹が少し温まると、服を直すことを考えられるようになるのだろう。


 静江は順子を見ると、すぐに言った。


「来ましたね。座っている暇はありません」


「何をすればよろしいでしょうか」


「まず、針を数えてください。10本ずつに分けます。ただし、指で押さえすぎないでください。落とすと見つかりません」


「はい」


 順子は木箱の横にしゃがんだ。


 針は細く、光が弱いと見えにくい。地面に落ちれば、灰と泥の中に紛れる。順子は布の上に針を置き、10本ずつ向きをそろえた。数え終わるたび、静江が布で巻く。


 子どもを背負った女が来た。


「石鹸を少しだけ欲しいんだけど」


 静江は女を見た。


「米はあるの」


「米はないよ。芋なら半分ある」


「半分では足りません」


「子どもの服を洗いたいんだ。臭いが取れなくて」


 女の背中の子どもは眠っていた。服は汚れ、袖口が固くなっている。洗っていないだけではない。何度も濡れ、乾き、また濡れた跡だった。


 静江は石鹸のかけらを見た。


「この大きさなら、芋半分と糸を少し」


「糸はないよ」


「では、針仕事をしてください。破れた布を10枚つなぐ。それで石鹸を渡します」


 女は迷った。


「今すぐ欲しいんだ」


「先に渡すと、あなたは戻ってこない」


「そんなことはしない」


「そう言う人は多いです」


 静江の言い方は冷たかった。だが、ここでは情で物を渡せば、明日の商いが消える。静江自身も余裕があるわけではない。


 順子は女に言った。


「布をお持ちなら、見せてください。破れが大きければ、先に当て布をした方がいいです」


 女は順子を見た。


「あんたは?」


「倉田と申します。昨日からこちらでお世話になっています」


 静江が横から言った。


「昨日から手伝ってもらっています。布の直しなら任せて大丈夫です」


 女は背中の子どもを揺すりながら、風呂敷を開いた。中には破れた肌着と、布切れが入っていた。順子はそれを受け取り、破れの大きいところから見た。


「ここは糸だけでは裂けます。布を当てた方がいいです」


「糸が少ないんだ」


「なら、縫う場所を減らします。全部をきれいに直すのではなく、裂けないように止めます」


 静江は黙って見ていた。


 順子は針を1本取り、糸を短く通した。糸を使いすぎないように、縫い目を詰めすぎない。布の端を折り、破れの力がかかるところだけを押さえる。見栄えはよくない。だが、子どもが着て動いても、すぐには裂けない。


 女はそれを見ていた。


「そんな縫い方でいいのかい」


「今は、長く使うことが先です。きれいに見せるのは、その次です」


 静江が言った。


「その通りです。飾り縫いをする時代ではありません」


 女は黙った。


 やがて、芋半分を出した。


「これで、石鹸を少しだけ」


 静江は石鹸のかけらをさらに半分に割った。


「これだけです。水に長くつけないでください。先に汚れをこすって、水は最後です」


 女は受け取り、頭を下げた。


「助かるよ」


 順子は肌着を返した。


「袖口は今日中に乾かしてください。濡れたまま着せると、子どもが冷えます」


「分かった」


 女は去っていった。


 静江は順子を見た。


「縫い方を知っていますね」


「戦中は、直して着るしかありませんでしたから」


「それだけではありません。糸を使いすぎない縫い方です」


 順子は返事をしなかった。


 ここでは、1本の糸、1枚の布、石鹸のかけらが、そのまま食べ物に変わる。丁寧に扱えば信用になり、雑に扱えば次から声がかからない。


 静江は針を包み直した。


「午後も手伝えますか」


「はい。町会からも、働けることを探すように言われています」


「では、石鹸を割るのを手伝ってください。割り方が悪いと、片方だけ大きくなって揉めます」


「分かりました」


「それと、客の前で同情しすぎないでください。気持ちは分かります。でも、ただで渡せば、明日から人が押しかけます」


「はい」


 順子は頭を下げた。


 女たちが次々に来た。針を1本だけ欲しい者。糸を手の長さだけ求める者。ボタンを芋と替えたい者。石鹸を米ぬかと替えようとする者。静江はすべてをその場で決めず、物を見て、相手の顔を見て、必要なら断った。


 順子は、その横で手を動かした。


 針を数え、糸を切り、布をたたみ、石鹸を割る。どれも大きな仕事ではない。だが、1つ間違えれば揉める。1つ落とせば損になる。


 この町では、女の仕事も食べ物へつながっていた。


 ◇ ◇ ◇


 午後の終わり、尚人たちは田島の井戸まわりを片づけ終えた。


 完全にきれいになったわけではない。灰はまだ残っている。土台の石も黒いままである。それでも、井戸の周りには歩く場所ができた。田島の物らしい金物や食器のかけらは、トタンの下に分けて置いた。使える瓦と材木は源蔵の小屋作りに回した。


 田島は、トタンの下を見た。


「勝手に持っていかなかったな」


 尚人は答えた。


「田島さんの家の物ですから」


「使える物ばかりじゃないぞ」


「それを決めるのは、田島さんです」


 田島はしばらく黙った。


 それから、黒く焦げた戸車を手に取った。


「これは直せるかもしれん」


 源蔵が言った。


「直してどうする」


「戸を作る時に使う」


「戸なんか、まだ先だろう」


「先でも、物がなければ作れない」


 田島は戸車を戻した。


 片岡が詰所の方から歩いてきた。


「田島さん、片づけは進んだか」


 田島は片岡を見た。


「進んだと言えるほどじゃない」


「だが、土台の上には建てていないな」


「倉田が止めた」


 片岡は尚人を見た。


「そうか」


 源蔵が言った。


「俺は建てるつもりだった。こいつが止めた」


「なら、止めて正解だ」


 片岡は井戸の横のトタンを見た。


「これは何だ」


 尚人が答えた。


「田島さんの家の物らしい金物と食器です。雨と灰を避けるため、ここにまとめました」


 片岡は田島を見た。


「それでいいか」


「今のところはな」


「なら、町会としてもそう扱う。田島さんの物は井戸の横。使える材木と瓦は、田島さんが見た後で源蔵の現場へ回す。勝手に持ち出した者がいたら、俺のところへ来い」


 田島は頷いた。


「そうする」


 片岡は尚人へ視線を移した。


「倉田、明日もここへ来るのか」


「はい。源蔵さんに言われています」


「なら、同じようにやれ。物を分ける時は、持ち主が分かるものを先に外す。分からないものを使う時は、源蔵に聞け。勝手に決めるな」


「分かりました」


「それと、母親は静江のところで手伝ったそうだ」


「そうですか」


「静江が、よく手が動くと言っていた。この町では、それで十分だ」


「母に伝えます」


「伝えなくていい。本人には静江が言う」


 片岡は源蔵を見た。


「源蔵、小屋を建てる場所は先に俺へ言え。田島さんみたいに、戻ってくる者がいる」


 源蔵は頭をかいた。


「分かったよ」


「分かっただけでは足りない。明日の朝、候補地を俺に見せろ」


「面倒だな」


「面倒だから町会がいる」


 片岡はそれだけ言って戻っていった。


 ◇ ◇ ◇


 夕方、尚人と順子は仮小屋の前で合流した。


 順子は、布に包んだ芋のかけらを持っていた。静江の店で手伝った分として、受け取ったものだった。大きくはない。だが、昨日までの順子なら、受け取る立場にさえなかった。


 尚人も、源蔵から小さな芋を1つ受け取っていた。


 2人は仮小屋の中へ入った。炭火は弱い。順子は芋を薄く切り、湯に入れた。塩はない。味噌もない。朝の炊き出しよりさらに粗末である。だが、2人がそれぞれの場所で働いて得た食べ物だった。


 仮小屋には他の者もいる。


「尚人、先に手を出しなさい」


「また洗うのか」


「当たり前です。井戸まわりを触ったのでしょう」


 近くの年配の男が笑った。


「復員さん、母さんには勝てないな」


 尚人は苦笑いして手を出した。


「勝てない」


 順子は器に水を入れ、石鹸のかけらを少し使った。朝よりも手は汚れていた。泥、灰、鉄の匂い。爪の間には黒い筋が残っている。完全には落ちない。それでも、傷の周りの泥は落とした。


「明日も働くなら、手を大事にしなさい」


「分かった、母さん」


 やがて、湯の中で芋が柔らかくなった。


 順子はそれを2つの器に分けた。芋の量は少ない。湯の方が多い。それでも、朝の炊き出しと合わせれば、昨日よりは食べ物らしい1日になっている。


 2人は器を持った。


「尚人さん、村井さんのところで手伝いを続けられそうです」


「何をした」


「針を数え、石鹸を割り、子どもの肌着を直しました」


「静江は何と言った」


「たいした仕事ではないが、続けられる人は少ないと言われました」


「片岡も同じことを言っていた」


 順子は尚人を見た。


「片岡さんが?」


「ああ。静江から聞いたらしい」


「早いですね」


「町会は見ている。俺の現場も、お前の手伝いも、もう片岡の耳に入っている」


 順子は器の湯を見た。


「見られているのは怖いですが、見られなければ信用も積めません」


「その通りだ」


 尚人は芋を口に入れた。


 薄い。味はほとんどない。だが、腹に落ちる。今日の食べ物は、町会の列、源蔵の現場、静江の露店から来ている。どれも小さい。どれも足りない。だが、どれも今の2人には必要だった。


 順子が言った。


「田島さんは、どうでしたか」


「怒ってはいる。だが、井戸の横に分けた物には納得していた」


「信用されましたか」


「まだだ。盗まないとは思われたかもしれない」


「それは大きいです」


「ああ。この時代では、盗まないだけで評価される」


 順子は頷いた。


 外では風が鳴っていた。戸板の隙間から、冷たい空気が入ってくる。誰かが咳をした。遠くで、荷車の車輪が軋んだ。


 尚人は器を置いた。


「明日も同じだ。俺は源蔵の現場へ行く。田島の井戸まわりを続ける。お前は静江の手伝いを続けろ」


「はい」


「町会の仮控えは、3日様子を見ると言われている。話を変えるな。余計なことを言うな」


「分かっています」


「それと、食べ物が少なくても焦るな。焦れば闇市で無理な交換をすることになる」


「はい」


 順子は器の底に残った湯を飲んだ。


 それで食事は終わった。


 満腹には遠い。体はまだ冷えている。配給通帳もない。米もない。明日の炊き出しがある保証もない。


 それでも、昨日とは違っていた。


 尚人は田島の家の物を勝手に持ち去らなかった。順子は静江の露店で針を落とさず、石鹸を割った。片岡はその両方を知っていた。


 井戸の横に分けた焦げた金物。布の上にそろえた10本の針。薄い汁を受け取る列の後ろ。その1つずつが、倉田順子と倉田尚人を、この町の中へ少しずつ押し込んでいった。

第2話中編2では、尚人と順子が別々の場所で信用を作る。尚人は田島の井戸まわりを片づけ、田島の家の物を勝手に持ち去らず、井戸の横に分けて置く。田島はまだ怒っているが、尚人が盗みに来たわけではないことを見始める。一方、順子は村井静江の露店で針、糸、石鹸、布切れを扱い、女たちの暮らしを知る。夕方、2人はそれぞれの仕事で得た芋を持ち寄り、仮小屋で食べる。正式な配給通帳はまだないが、2人は町会、現場、露店の中で少しずつ見られ、信用を積み始める。

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