第2話(中編2)――「井戸の横に分けた物」
炊き出しの薄い汁を受け取ったあと、尚人は大沢源蔵の現場へ戻る。田島勝蔵はすでに井戸のそばで、焼け跡から自分の家の物を探していた。焦げた鍋、割れた皿、曲がった金物。どれも価値のある物には見えないが、田島にとっては家がそこにあった証拠である。一方、順子は村井静江の露店へ向かい、針、糸、石鹸、布切れを扱う仕事を手伝う。2人は別々の場所で、この時代の信用がどのように作られるかを知っていく。
田島は井戸のそばにいた。
尚人が源蔵と戻った時、田島は膝をつき、灰を手でかき分けていた。外套の袖は黒く汚れている。杖は近くの土台に立てかけてあった。昨夜より早く来ていたらしい。
井戸の周りには、焼け残った物が置かれていた。
焦げた鍋、割れた皿、曲がった包丁、戸車の金具、釘の束、茶碗のかけら、黒くなった木箱の一部。売れるような物には見えない。だが、田島は1つずつ確かめていた。
源蔵が声をかけた。
「田島さん、早いな」
田島は振り向かなかった。
「俺の家だ。俺が来るのに、誰の許しがいる」
「誰も止めちゃいない」
「だったら黙って見てろ」
源蔵は顔をしかめたが、言い返さなかった。
尚人は田島の横にしゃがんだ。
「田島さん、今日出てきた物は井戸の横に分けて置きます。田島さんの家の物か分からないものは、勝手に持っていきません」
田島は尚人を見た。
「言ったことを覚えていたか」
「はい」
「なら、まずこっちをどけろ。これは俺の店で使っていた戸車だ」
田島は曲がった金具を指した。
尚人はそれを拾い、井戸の横に置いた。泥と灰がついている。戸車は半分焼け、軸も曲がっている。使えるかは分からない。それでも、田島はそれを目で追った。
源蔵が男たちに声をかけた。
「聞いたな。井戸の横に置いた物は触るな。田島さんが見る。使える材木と瓦だけこっちへ分けろ」
男たちは返事をして動き出した。
作業は進みにくかった。灰の下には、何があるか分からない。釘が出る。割れたガラスが出る。焼けた茶碗が出る。ときどき、田島が手を止めさせた。
「それはこっちへ置け」
「その金物は俺のだ」
「その皿は違う。隣の小野寺の家の物だ」
現場の男たちは面倒そうな顔をした。
しかし、田島本人がいる前で、黙って持っていくことはできない。尚人は、田島が指した物を井戸の横にまとめた。小野寺の物らしいものは別の場所に置いた。使える材木は源蔵の方へ運ぶ。割れた瓦は床を上げる材料に回す。
梶原も荷車を止めて手伝った。
「こりゃ時間がかかるな」
「あとで怒鳴られるよりはましです」
尚人が答えると、梶原は鼻で笑った。
「昨日と同じことを言うな」
「昨日と同じことが起きています」
「違いない」
田島は、黒く焦げた包丁を見つけた。
刃は欠け、柄は焼け落ちている。それでも、田島はそれを手に取り、煤を指でぬぐった。
「これは、俺が使っていた包丁だ」
源蔵が言った。
「そんな物、もう使えないだろう」
田島は源蔵を睨んだ。
「使えるかどうかを決めるのは俺だ」
尚人は割って入らなかった。
田島はしばらく包丁を見ていた。それから井戸の横に置いた。
「俺は鍋や包丁や戸車を直していた。こういう物を捨てるほどの余裕はない」
その言葉で、男たちの手が少し止まった。
田島は自分の店の跡を探している。家族を連れて戻れるか分からない。それでも、ここに自分の仕事があったことを、灰の中から拾い上げている。
尚人は穴の空いたトタンを持ってきた。焦げた石を2つ置き、その上にトタンを渡した。簡単な覆いである。
田島が聞いた。
「何をしている」
「金物に灰がかからないようにします。雨が降れば濡れますが、今よりはましです」
「そんな余りがあるのか」
源蔵が答えた。
「穴の空いたやつならある。売り物にはならん」
「穴があってもいい。包丁や金物に灰がかぶらなければ十分だ」
田島は包丁と戸車を、その下へ移した。
◇ ◇ ◇
その頃、順子は村井静江の露店に着いていた。
木箱の上には、昨日と同じように針、糸、石鹸、布切れ、ボタン、細い紐が並んでいた。朝は客が多い。炊き出しのあと、人は動き始める。腹が少し温まると、服を直すことを考えられるようになるのだろう。
静江は順子を見ると、すぐに言った。
「来ましたね。座っている暇はありません」
「何をすればよろしいでしょうか」
「まず、針を数えてください。10本ずつに分けます。ただし、指で押さえすぎないでください。落とすと見つかりません」
「はい」
順子は木箱の横にしゃがんだ。
針は細く、光が弱いと見えにくい。地面に落ちれば、灰と泥の中に紛れる。順子は布の上に針を置き、10本ずつ向きをそろえた。数え終わるたび、静江が布で巻く。
子どもを背負った女が来た。
「石鹸を少しだけ欲しいんだけど」
静江は女を見た。
「米はあるの」
「米はないよ。芋なら半分ある」
「半分では足りません」
「子どもの服を洗いたいんだ。臭いが取れなくて」
女の背中の子どもは眠っていた。服は汚れ、袖口が固くなっている。洗っていないだけではない。何度も濡れ、乾き、また濡れた跡だった。
静江は石鹸のかけらを見た。
「この大きさなら、芋半分と糸を少し」
「糸はないよ」
「では、針仕事をしてください。破れた布を10枚つなぐ。それで石鹸を渡します」
女は迷った。
「今すぐ欲しいんだ」
「先に渡すと、あなたは戻ってこない」
「そんなことはしない」
「そう言う人は多いです」
静江の言い方は冷たかった。だが、ここでは情で物を渡せば、明日の商いが消える。静江自身も余裕があるわけではない。
順子は女に言った。
「布をお持ちなら、見せてください。破れが大きければ、先に当て布をした方がいいです」
女は順子を見た。
「あんたは?」
「倉田と申します。昨日からこちらでお世話になっています」
静江が横から言った。
「昨日から手伝ってもらっています。布の直しなら任せて大丈夫です」
女は背中の子どもを揺すりながら、風呂敷を開いた。中には破れた肌着と、布切れが入っていた。順子はそれを受け取り、破れの大きいところから見た。
「ここは糸だけでは裂けます。布を当てた方がいいです」
「糸が少ないんだ」
「なら、縫う場所を減らします。全部をきれいに直すのではなく、裂けないように止めます」
静江は黙って見ていた。
順子は針を1本取り、糸を短く通した。糸を使いすぎないように、縫い目を詰めすぎない。布の端を折り、破れの力がかかるところだけを押さえる。見栄えはよくない。だが、子どもが着て動いても、すぐには裂けない。
女はそれを見ていた。
「そんな縫い方でいいのかい」
「今は、長く使うことが先です。きれいに見せるのは、その次です」
静江が言った。
「その通りです。飾り縫いをする時代ではありません」
女は黙った。
やがて、芋半分を出した。
「これで、石鹸を少しだけ」
静江は石鹸のかけらをさらに半分に割った。
「これだけです。水に長くつけないでください。先に汚れをこすって、水は最後です」
女は受け取り、頭を下げた。
「助かるよ」
順子は肌着を返した。
「袖口は今日中に乾かしてください。濡れたまま着せると、子どもが冷えます」
「分かった」
女は去っていった。
静江は順子を見た。
「縫い方を知っていますね」
「戦中は、直して着るしかありませんでしたから」
「それだけではありません。糸を使いすぎない縫い方です」
順子は返事をしなかった。
ここでは、1本の糸、1枚の布、石鹸のかけらが、そのまま食べ物に変わる。丁寧に扱えば信用になり、雑に扱えば次から声がかからない。
静江は針を包み直した。
「午後も手伝えますか」
「はい。町会からも、働けることを探すように言われています」
「では、石鹸を割るのを手伝ってください。割り方が悪いと、片方だけ大きくなって揉めます」
「分かりました」
「それと、客の前で同情しすぎないでください。気持ちは分かります。でも、ただで渡せば、明日から人が押しかけます」
「はい」
順子は頭を下げた。
女たちが次々に来た。針を1本だけ欲しい者。糸を手の長さだけ求める者。ボタンを芋と替えたい者。石鹸を米ぬかと替えようとする者。静江はすべてをその場で決めず、物を見て、相手の顔を見て、必要なら断った。
順子は、その横で手を動かした。
針を数え、糸を切り、布をたたみ、石鹸を割る。どれも大きな仕事ではない。だが、1つ間違えれば揉める。1つ落とせば損になる。
この町では、女の仕事も食べ物へつながっていた。
◇ ◇ ◇
午後の終わり、尚人たちは田島の井戸まわりを片づけ終えた。
完全にきれいになったわけではない。灰はまだ残っている。土台の石も黒いままである。それでも、井戸の周りには歩く場所ができた。田島の物らしい金物や食器のかけらは、トタンの下に分けて置いた。使える瓦と材木は源蔵の小屋作りに回した。
田島は、トタンの下を見た。
「勝手に持っていかなかったな」
尚人は答えた。
「田島さんの家の物ですから」
「使える物ばかりじゃないぞ」
「それを決めるのは、田島さんです」
田島はしばらく黙った。
それから、黒く焦げた戸車を手に取った。
「これは直せるかもしれん」
源蔵が言った。
「直してどうする」
「戸を作る時に使う」
「戸なんか、まだ先だろう」
「先でも、物がなければ作れない」
田島は戸車を戻した。
片岡が詰所の方から歩いてきた。
「田島さん、片づけは進んだか」
田島は片岡を見た。
「進んだと言えるほどじゃない」
「だが、土台の上には建てていないな」
「倉田が止めた」
片岡は尚人を見た。
「そうか」
源蔵が言った。
「俺は建てるつもりだった。こいつが止めた」
「なら、止めて正解だ」
片岡は井戸の横のトタンを見た。
「これは何だ」
尚人が答えた。
「田島さんの家の物らしい金物と食器です。雨と灰を避けるため、ここにまとめました」
片岡は田島を見た。
「それでいいか」
「今のところはな」
「なら、町会としてもそう扱う。田島さんの物は井戸の横。使える材木と瓦は、田島さんが見た後で源蔵の現場へ回す。勝手に持ち出した者がいたら、俺のところへ来い」
田島は頷いた。
「そうする」
片岡は尚人へ視線を移した。
「倉田、明日もここへ来るのか」
「はい。源蔵さんに言われています」
「なら、同じようにやれ。物を分ける時は、持ち主が分かるものを先に外す。分からないものを使う時は、源蔵に聞け。勝手に決めるな」
「分かりました」
「それと、母親は静江のところで手伝ったそうだ」
「そうですか」
「静江が、よく手が動くと言っていた。この町では、それで十分だ」
「母に伝えます」
「伝えなくていい。本人には静江が言う」
片岡は源蔵を見た。
「源蔵、小屋を建てる場所は先に俺へ言え。田島さんみたいに、戻ってくる者がいる」
源蔵は頭をかいた。
「分かったよ」
「分かっただけでは足りない。明日の朝、候補地を俺に見せろ」
「面倒だな」
「面倒だから町会がいる」
片岡はそれだけ言って戻っていった。
◇ ◇ ◇
夕方、尚人と順子は仮小屋の前で合流した。
順子は、布に包んだ芋のかけらを持っていた。静江の店で手伝った分として、受け取ったものだった。大きくはない。だが、昨日までの順子なら、受け取る立場にさえなかった。
尚人も、源蔵から小さな芋を1つ受け取っていた。
2人は仮小屋の中へ入った。炭火は弱い。順子は芋を薄く切り、湯に入れた。塩はない。味噌もない。朝の炊き出しよりさらに粗末である。だが、2人がそれぞれの場所で働いて得た食べ物だった。
仮小屋には他の者もいる。
「尚人、先に手を出しなさい」
「また洗うのか」
「当たり前です。井戸まわりを触ったのでしょう」
近くの年配の男が笑った。
「復員さん、母さんには勝てないな」
尚人は苦笑いして手を出した。
「勝てない」
順子は器に水を入れ、石鹸のかけらを少し使った。朝よりも手は汚れていた。泥、灰、鉄の匂い。爪の間には黒い筋が残っている。完全には落ちない。それでも、傷の周りの泥は落とした。
「明日も働くなら、手を大事にしなさい」
「分かった、母さん」
やがて、湯の中で芋が柔らかくなった。
順子はそれを2つの器に分けた。芋の量は少ない。湯の方が多い。それでも、朝の炊き出しと合わせれば、昨日よりは食べ物らしい1日になっている。
2人は器を持った。
「尚人さん、村井さんのところで手伝いを続けられそうです」
「何をした」
「針を数え、石鹸を割り、子どもの肌着を直しました」
「静江は何と言った」
「たいした仕事ではないが、続けられる人は少ないと言われました」
「片岡も同じことを言っていた」
順子は尚人を見た。
「片岡さんが?」
「ああ。静江から聞いたらしい」
「早いですね」
「町会は見ている。俺の現場も、お前の手伝いも、もう片岡の耳に入っている」
順子は器の湯を見た。
「見られているのは怖いですが、見られなければ信用も積めません」
「その通りだ」
尚人は芋を口に入れた。
薄い。味はほとんどない。だが、腹に落ちる。今日の食べ物は、町会の列、源蔵の現場、静江の露店から来ている。どれも小さい。どれも足りない。だが、どれも今の2人には必要だった。
順子が言った。
「田島さんは、どうでしたか」
「怒ってはいる。だが、井戸の横に分けた物には納得していた」
「信用されましたか」
「まだだ。盗まないとは思われたかもしれない」
「それは大きいです」
「ああ。この時代では、盗まないだけで評価される」
順子は頷いた。
外では風が鳴っていた。戸板の隙間から、冷たい空気が入ってくる。誰かが咳をした。遠くで、荷車の車輪が軋んだ。
尚人は器を置いた。
「明日も同じだ。俺は源蔵の現場へ行く。田島の井戸まわりを続ける。お前は静江の手伝いを続けろ」
「はい」
「町会の仮控えは、3日様子を見ると言われている。話を変えるな。余計なことを言うな」
「分かっています」
「それと、食べ物が少なくても焦るな。焦れば闇市で無理な交換をすることになる」
「はい」
順子は器の底に残った湯を飲んだ。
それで食事は終わった。
満腹には遠い。体はまだ冷えている。配給通帳もない。米もない。明日の炊き出しがある保証もない。
それでも、昨日とは違っていた。
尚人は田島の家の物を勝手に持ち去らなかった。順子は静江の露店で針を落とさず、石鹸を割った。片岡はその両方を知っていた。
井戸の横に分けた焦げた金物。布の上にそろえた10本の針。薄い汁を受け取る列の後ろ。その1つずつが、倉田順子と倉田尚人を、この町の中へ少しずつ押し込んでいった。
第2話中編2では、尚人と順子が別々の場所で信用を作る。尚人は田島の井戸まわりを片づけ、田島の家の物を勝手に持ち去らず、井戸の横に分けて置く。田島はまだ怒っているが、尚人が盗みに来たわけではないことを見始める。一方、順子は村井静江の露店で針、糸、石鹸、布切れを扱い、女たちの暮らしを知る。夕方、2人はそれぞれの仕事で得た芋を持ち寄り、仮小屋で食べる。正式な配給通帳はまだないが、2人は町会、現場、露店の中で少しずつ見られ、信用を積み始める。




