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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第2話(中編1)――「薄い汁、町会の列」

町会の仮控えに入った翌朝、尚人と順子は初めて炊き出しの列に並ぶ。片岡の名簿に名は残ったが、正式な配給通帳はまだ出ていない。仮控えの者は列の後ろへ回され、量も少ない。それでも、拾った物でも盗んだ物でもなく、町会の列に並んで受け取る初めての食べ物である。尚人は源蔵の現場へ向かう前に、順子とともにこの町での扱いを知る。

 翌朝、仮小屋の中は湿っていた。


 夜の間に冷えたトタンが、内側に水滴を作っていた。水滴は屋根の低いところに集まり、時々、床板へ落ちた。むしろの端は湿り、足を置くと冷たさが布越しに伝わった。


 尚人は入口近くで目を覚ました。


 炭火はほとんど消えていた。灰の中に赤い点が残っているだけで、火と呼ぶには弱い。昨日の作業で、肩と腰が張っていた。田島の井戸と土台を避けるため、小屋の位置を変え、側溝の泥もさらった。指の節には細かな傷があり、爪の間には黒い泥が残っている。


 順子は起きていた。


 尚人の軍服の袖口を見ている。針は出していない。破れが広がっていないかを確かめているだけである。針も糸も使えば減る。直せるからといって、何でも縫えるわけではなかった。


 戸板が動いた。


 お兼が顔を出した。


「起きてるかい」


 順子は頭を下げた。


「おはようございます」


「炊き出しが出るよ。片岡さんのところへ行きな」


 尚人は顔を上げた。


「炊き出しですか」


「そうだよ。ただし、あんたたちは仮控えだ。前からいる人たちの後ろに並ぶんだ。そこで文句を言ったら、昨日の話が全部だめになる」


「分かりました」


 お兼は尚人の手を見た。


「その手で器を出すんじゃないよ。先に洗いな」


 順子は布に包んでいた石鹸のかけらを取り出した。


「水を少し使います」


「使いな。傷を悪くしたら働けないよ」


 尚人は入口の外にしゃがみ、器の水で指を洗った。水はすぐ黒くなった。石鹸は指の節と爪の周りだけに使った。泡はほとんど出ない。それでも、表面の泥は落ちた。


「こすりすぎないで。傷が開くわ」


「分かった、母さん」


 お兼は外を指した。


「行くよ。遅れると、本当に汁だけになる」


 ◇ ◇ ◇


 町会の詰所の前には、すでに列ができていた。


 年寄り、子どもを抱えた女、復員服の男、焼けた布団を背負った夫婦、空き缶を持った子どもたち。皆、器になるものを持っていた。茶碗、欠けた丼、缶詰の空き缶、飯盒、割れた鍋の底。器の形が、そのまま家の事情を表していた。


 詰所の横には大きな鍋が置かれていた。


 鍋の下では薪が燃えている。煙は湿った灰の匂いと混じり、目にしみた。鍋の中では、薄い汁が煮えていた。浮いているのは芋のかけら、細かく切った菜の葉、麦の粒が少しである。米粒もあるにはあるが、白く見えるほどではない。


 片岡は机の前に立ち、名簿を開いていた。


「前からいる者を先にする。昨日仮控えに入った者は後ろだ。揉めるな」


 列の中から声が出た。


「また新しいのが増えたのか」


「うちだって足りないのに」


「復員ならどこかで食えるだろう」


 順子は何も言わなかった。


 尚人も黙っていた。ここで言い返せば、食べ物を受け取る前に面倒になる。お兼が横目で睨むと、不満を言った女は口を閉じた。


 片岡は2人を見つけた。


「倉田親子。後ろへ回れ」


「はい」


 順子が答えた。


 2人は列の後ろに並んだ。前にいる者たちは、ときどき振り返った。服を見る。手を見る。顔を見る。持っている器を見る。新しく来た者が、本当に困っているのか、余分に取りに来たのかを確かめる目だった。


 順子は、お兼から借りた欠けた椀を持っていた。尚人は空き缶を持っている。缶の縁は少し曲がり、唇を切らないように布が巻いてあった。


 列はなかなか進まなかった。


 配る女が、鍋の中身を底からかき混ぜる。具が上に偏らないようにしているのだろう。だが、後ろへ行くほど薄くなるのは誰でも分かっていた。前の者は、器の底に芋のかけらを見つけると、急いで受け取って去っていく。子どもは器を両手で抱え、こぼさないように歩いた。


 尚人の腹が鳴った。


 順子は聞こえないふりをした。


 やがて、2人の番が来た。


 配る女は順子の顔を見て、名簿の方を見た。


「この人たちも出すのかい」


 片岡が答えた。


「末席だ。多く入れるな。ただし、空では帰すな」


 女は黙って柄杓を動かした。


 順子の椀に薄い汁が入った。芋の小さなかけらが1つ、菜の葉が数枚、麦の粒が少し浮いている。尚人の缶にも同じように入った。量は前の者より少ない。それでも、湯だけではなかった。


 順子は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 尚人も続いた。


「ありがとうございます」


 片岡は2人を見た。


「礼はいい。これは正式な配給じゃない。町会の炊き出しだ。毎日あると思うな」


「承知しています」


「ここで食って終わりじゃない。働ける者は働け。母親も、手伝えるところを探せ。何もしない者はすぐ目立つ」


 順子は答えた。


「村井さんのところへ伺います」


「そうしろ。静江には話してある」


 片岡は尚人へ目を向けた。


「お前は源蔵のところだな」


「はい」


「田島の井戸まわりを片づけると聞いた。持ち主がいる物を勝手に動かすな。分からない物は田島本人に見せろ」


「分かりました」


「分かっているだけでは足りない。やれ」


「はい」


 片岡は次の者を呼んだ。


「次」


 それで2人の番は終わった。


 ◇ ◇ ◇


 2人は、焼け残った塀の陰で汁を飲んだ。


 湯気は細かった。


 順子は椀を両手で包んだ。冷えた指先に、熱が伝わる。汁を口に入れると、塩気は薄く、米の味もほとんどない。だが、芋のかけらが舌に当たった。噛むと、少し甘さがあった。


 尚人は空き缶を両手で持った。


 器の縁に巻いた布が濡れている。口をつけると、金属の匂いがした。汁は薄い。腹を満たすには遠い。それでも温かかった。喉を通ると、胃のあたりが動いた。


「尚人、急いで飲まないの」


「分かってる、母さん」


 近くで子どもが器の底をなめていた。母親らしい女が、その手を押さえる。


「やめなさい。みっともない」


「でも、まだついてる」


「あとで水を入れて飲ませてやる」


 順子は自分の椀の底を見た。菜の葉が1枚残っていた。箸でつまみ、口へ入れた。


 尚人は何も言わなかった。


 源蔵が道の向こうから現れた。


 作業着の袖をまくり、手には縄を持っている。朝からすでに動いていた顔だった。


「倉田、食ったか」


「はい」


「足りるか」


「足りません」


 源蔵は笑わなかった。


「正直でいい。足りないのは皆同じだ。動けるなら来い。田島がもう井戸のところにいる」


「分かりました」


 順子が言った。


「尚人、手を悪くしないように」


「分かった、母さん」


 源蔵は順子を見た。


「母さんは静江のところへ行くんだろう」


「はい。そのつもりです」


「静江は口はきついが、品物の扱いは細かい。針を落とすな。石鹸を余分に触るな。あそこは小さい物で飯をつないでいる」


「心得ています」


 源蔵は頷いた。


「ならいい」


 尚人は空き缶の底に残った汁を飲み干した。


 腹は満たされない。温かいものが入ったせいで、かえって空腹がはっきりした。それでも、体は少し動く。源蔵の現場へ行けば、昼に芋のかけらくらいは出るかもしれない。出ないかもしれない。どちらにしても、働かなければ次はない。


 順子は椀を布で拭いた。


 通りの人影が切れたところで、尚人の袖を直すふりをして近づいた。


「尚人さん、これが仮控えの扱いですね」


「ああ。名前はあっても、まだ後ろだ」


「それでも、列には入れました」


「昨日は列にも入れなかった」


「私は村井さんのところへ行きます」


「頼む。静江には無理を言うな。手伝いから入れ」


「分かっています」


「俺は田島の井戸まわりを片づける。田島の物は分けて置く。そこでまた信用を取る」


「はい」


 人の足音が近づいた。


 順子は椀を抱え直した。


「尚人、親方を待たせてはいけないわ。行きなさい」


「行ってくる、母さん」


 尚人は源蔵の後を追った。


 順子はお兼のいる鍋の方へ一度頭を下げ、それから村井静江の露店へ向かった。


 焼け跡の朝は、まだ寒かった。


 だが、2人は初めて町会の列に並び、薄い汁を受け取った。腹は満たされない。それでも、拾った物ではない。誰かの目を盗んで得た物でもない。


 片岡の名簿に仮に残された親子として、列の一番後ろから受け取った食べ物だった。

第2話中編1では、尚人と順子が初めて町会の炊き出しの列に並ぶ。仮控えに入ったとはいえ、順番は後ろであり、量も少ない。正式な配給通帳がない以上、米を受け取れるわけではない。それでも、2人は町会の列に入ることを許され、薄い汁を受け取る。尚人は田島の井戸まわりを片づけるため源蔵の現場へ向かい、順子は村井静江の手伝いに向かう。2人は、食べ物を得るには町会の中で働き、見られ、信用を保たなければならないことを知る。

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