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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第2話(前編2)――「焼け跡の線」

順子はお兼に連れられ、町会の世話役・片岡のもとへ向かった。正式な配給通帳はすぐには出ないが、お兼と村井静江の証言があれば、町会内の仮控えに入れる可能性はある。一方、尚人は大沢源蔵の現場へ向かう。そこでは仮小屋を増やす話が進んでいたが、焼け跡の土地は誰のものか分かりにくい。焼けた家の跡、残った井戸、側溝、塀の石。尚人は、瓦礫の下にまだ土地の線が残っていることに気づく。

 尚人が大沢源蔵の現場に着いた時、すでに男たちは動き始めていた。


 焼け跡の朝は、すでに人の動く音で始まっていた。瓦をどかす音、曲がった釘を缶へ落とす音、材木を引きずる音、誰かが咳き込む音。濡れた灰を踏むたび、靴底の下で湿った土がつぶれた。


 現場の端には、昨日建てた仮小屋があった。壁にはまだ隙間がある。屋根のトタンも完全ではない。それでも、外で眠るよりはるかにましだった。入口の前に敷いた瓦は、朝のぬかるみを少しだけ止めている。人が出入りしても、泥がすぐ中へ入り込むことはなかった。


 源蔵は、焼け残った柱のそばで腕を組んでいた。


「来たか、倉田」


「おはようございます」


「挨拶はいい。昨日の小屋を見た。入口の瓦は効いている。泥が入らねえ」


「雨が降れば、もっと差が出ます」


「なら、今日はもう1棟作る」


 源蔵は、現場の北側を指した。


 そこには家の跡が残っていた。土台の石が黒く焦げ、焼けた柱の根元だけが地面から出ている。井戸らしい丸い石組みがあり、その横に割れた陶器と焦げた鍋が転がっていた。道路側には、低い石の列が続いている。塀の土台か、家の境目だろう。


「そこの空いたところへ小屋を建てる。母さん連れの家族が2組入る予定だ。今日のうちに骨だけでも立てたい」


 尚人はすぐに返事をしなかった。


 指された場所を見た。たしかに、空いているように見える。だが、何もない土地ではない。焼けた家の跡がある。井戸があり、塀の土台があり、側溝も残っている。人が住んでいた形がまだ消えていない。


「親方、この場所は誰の土地ですか」


 源蔵は顔をしかめた。


「焼けたんだ。持ち主が戻ってこなきゃ、誰の土地も何もあるか」


「戻ってくるかもしれません」


「戻ってきたら話し合えばいい」


「小屋を建てたあとでは、話し合いが難しくなります」


 周りの男たちが手を止めた。


 1人が笑った。


「復員さん、朝から細かいな。寝る場所がねえから小屋を建てるんだろう」


 尚人は男を見ず、地面を見た。


「寝る場所が必要なのは分かっています。ただ、ここに建てると、あとで壊すことになるかもしれない」


 源蔵は尚人へ近づいた。


「なぜそう思う」


 尚人は焼けた井戸を指した。


「この井戸は、家の内側にあったように見えます。道路側の石の列が塀の跡なら、ここからここまでが元の敷地です。側溝は外側です。小屋を建てるなら、少なくとも井戸と土台の線を見てから決めた方がいい」


 源蔵は黙って地面を見た。


 焼け跡では、誰もが上を見ていた。屋根をどうするか。柱をどう立てるか。壁をどうふさぐか。だが、尚人は地面を見ていた。残った石、焼けた柱の根、雨水の流れる先。家が消えても、地面にはまだ前の暮らしの跡が残っている。


 梶原が荷車を引いて現場へ入ってきた。


「朝から何を揉めてるんだ」


 源蔵は顎で尚人を示した。


「こいつが、そこへ小屋を建てるなと言う」


 梶原は尚人を見た。


「また嫌なところを見てるな」


「嫌なところではありません。あとで揉めるところです」


 梶原は荷車を止め、地面を見た。資材屋として焼け跡を歩き回っている男である。最初は笑っていたが、井戸と石の列を見て、顔つきが少し変わった。


「ここは田島の家じゃなかったか」


 源蔵が聞いた。


「田島?」


「田島勝蔵だよ。戦前はこの辺で、鍋や包丁や戸車を直していた男だ。奥の方へ疎開したと聞いた。死んだとは聞いていない」


 源蔵は舌打ちした。


「面倒な名前を出すな」


「俺が出さなくても、戻ってくれば出る名前だ」


 梶原はそう言い、荷車の荷を下ろし始めた。


 その時だった。


 道路の方から、男の怒鳴り声がした。


「おい、そこで何をしている」


 男が1人、焼け跡を踏みながら近づいてきた。


 年は50前後である。国民服の上に古い外套を羽織り、足元は泥だらけだった。頬はこけているが、目つきは弱っていない。右手に風呂敷包みを持ち、左手には木の杖を握っていた。杖は体を支えるというより、相手をどかすための道具に見えた。


 男は井戸の前で足を止めた。


「ここは俺の家だ。誰が勝手に小屋を建てると言った」


 源蔵は前に出た。


「田島さんか」


「そうだ。田島勝蔵だ。2か月ぶりに戻ってみれば、土台の上に知らない材木が置いてある。泥棒と何が違う」


 現場の男たちは黙った。


 田島は足元の焼け跡を見た。井戸の石組みを見て、焦げた土台を見て、割れた陶器を拾い上げた。それは茶碗のかけらだった。田島は指で煤をぬぐい、すぐに捨てた。


「女房と娘は埼玉にいる。俺だけ先に戻った。家を建て直せるとは思っていない。だが、戻る場所まで取られたら終わりだ」


 その言葉には、怒りだけではなく疲れがあった。


 源蔵は頭をかいた。


「こっちも人を寝かせる場所がいるんだ。空いている焼け跡をそのままにしておく余裕はねえ」


「空いているんじゃない。俺の家が焼けただけだ」


 田島は杖で地面を突いた。


「ここに井戸がある。こっちが台所だった。そこが店の土間だ。道路側の石は俺が積んだ。勝手に使うな」


 男たちの間に気まずさが広がった。だが、誰も簡単には引けない。仮小屋に入る予定の家族もいる。今日建てなければ、今夜も外で眠る者が出る。


 源蔵は尚人を見た。


「倉田」


「はい」


「お前、地面を見ていたな。どうする」


 田島が尚人を見た。


「若いの、お前は誰だ」


「倉田尚人です。大沢さんの現場で働いています」


「復員か」


「はい」


「なら分かるだろう。戻る場所を取られるのは、死ぬのと変わらねえ」


 尚人は頷いた。


「分かります」


「分かるなら、材木をどけろ」


「分かるなら、材木をどけろ」


「どけます。ただ、今夜ここへ入るはずだった家族がいます。田島さんの土地にかからない場所へ小屋を移せるか、見させてください」


 田島は眉を寄せた。


「何を見る」


「何を見る」


「どこまでが田島さんの家の跡かを見ます。井戸と土台と塀の跡が残っています。そこを外せば、小屋を移せるかもしれません」


 田島はしばらく黙った。


 それから杖で地面を指した。


「ここから向こうはうちだ。こっちの細い通りは昔からあった。隣は小野寺の家だったが、まだ戻っていない」


 梶原が横から言った。


「小野寺は親戚のところへ行ったと聞いた。すぐ戻るかは分からん」


「それでも、勝手に建てりゃ同じ話になる」


 尚人は焼け跡の中を歩いた。


 まず井戸を見た。石組みはまだしっかりしている。井戸の周りに、濡れた泥が残っていた。次に土台の石を追った。焼けて崩れた場所もあるが、線は続いている。道路側の石列は田島の言う通り、塀の基礎に見えた。裏側には側溝があり、灰と泥で詰まっている。


 尚人は、地面に落ちていた細い木片で線を引いた。


「田島さんの家は、おそらくこの内側です」


 田島が近づいた。


「そうだ。だいたい合っている」


「小屋を建てるなら、この線の外へ出すべきです。ただ、側溝の上に乗せると雨の日に床が湿ります。だから、こちらへ約1mずらす。入口は道路へ向けず、通路側へ振る。屋根の水は側溝へ落とす。そうすれば、田島さんの土台と井戸には触りません」


 源蔵は地面を見た。


「狭くなるな」


「はい。ですが、田島さんの家の跡を避ければ、この大きさになります。ここで無理に広げると、あとで壊せと言われます」


 田島は尚人を見た。


「俺の井戸には触るな」


「触りません。むしろ、井戸の周りは空けた方がいい。埋めると、あとで困ります」


「分かってるじゃねえか」


 源蔵は腕を組んだ。


「人を入れるには狭い」


「2組は無理です。1組です。もう1組は昨日の小屋の横に、半分の大きさで先に雨除けだけ作る。完全にふさぐのは明日以降です」


 現場の男が言った。


「そんな半端な小屋に人を入れるのか」


「入れるなら、仮の雨除けだと先に言ってください。今日だけ風を避ける場所だと分かっていれば、文句は出にくい。住まいを用意したと言えば、狭い、寒い、話が違うと揉めます」


 源蔵は尚人をじっと見た。


「お前、建物だけじゃなく、人の文句まで計算に入れるのか」


「文句が出れば、建物は使えません」


 梶原が笑った。


「こいつは嫌な若造だ。だが、田島さんを怒らせて小屋を壊されるより安い」


 田島は、まだ怒っていた。だが、尚人が引いた線から内側には誰も入らないと分かると、杖を握る手の力を少し抜いた。


「今日のところは、それでやれ。ただし、井戸に触ったら承知しねえぞ」


 源蔵は息を吐いた。


「分かった。倉田の指示通りにやる。おい、材木をこっちへ移せ。井戸の周りは空けろ」


 男たちは動き出した。


 不満はあった。だが、田島本人が立っている前で、土台の上に小屋を建てるわけにはいかない。材木を運び直す。瓦をどける。詰まった側溝を掘る。朝からの仕事が増えた。


 尚人もすぐに動いた。


 湿った灰をスコップでどける。側溝の泥をさらう。灰と泥が混じったものは重い。持ち上げると、腐った水の臭いが立った。靴の中へ冷たい泥が入り、足先がしびれる。手の傷には泥が染みた。


 それでも、尚人は手を止めなかった。


 午前中いっぱいかけて、仮小屋の位置を変えた。柱は細い。板は足りない。屋根のトタンも穴がある。それでも、田島の土台には入らない場所に骨組みが立った。入口は通路側へ向け、屋根の水は詰まりをさらった側溝へ落ちるようにした。


 田島は、少し離れた場所でそれを見ていた。


 昼前、源蔵が尚人に芋のかけらを渡した。


「食え」


「ありがとうございます」


「礼はいい。朝から余計な仕事が増えた。だが、お前が止めなきゃ、俺は田島の土台に小屋を建てていた」


 尚人は芋を受け取った。まだ温かい。指先が熱を拾い、少しだけ痛みが和らいだ。


「戻ってくる人は増えます」


「だろうな」


「焼け跡が空いて見えても、誰かの家だった場所です。小屋を建てる前に、井戸、土台、塀、側溝を見るべきです。町会の片岡さんに確認できれば、もっといい」


 源蔵は顔をしかめた。


「片岡か。あいつは細かい」


「細かい人がいないと、ここはもっと揉めます」


「お前、片岡を知っているのか」


「母が今日、町会へ行っています。夕方、私も顔を出すことになりそうです」


「配給か」


「はい」


 源蔵は何も言わず、手元の芋をかじった。


 少ししてから言った。


「倉田。夕方は早めに上がれ。片岡に聞かれたら、昨日から俺の現場で働いていると言え。俺も、使っていると答える」


「助かります」


「ただし、いい気になるな。町会に名を置くのと、米を食えるのは別だ」


「分かっています」


「ならいい。米が出るまでは、まだ人の世話になる立場だ。そこを忘れるな」


 源蔵はそう言って、残りの芋を口へ放り込んだ。


 ◇ ◇ ◇


 午後は、田島の土台を避けた仮小屋作りにかかった。


 材木は足りない。柱に使えるものは3本しかない。残りは短い板を継ぎ、縄で仮に押さえた。釘は長いものを柱と屋根へ回し、短い釘は壁の押さえに使う。曲がった釘は石の上で叩いて直した。


 尚人は、まず床を高くした。


 焼け瓦を選び、土の上へ置く。高さをそろえるため、薄い木片を挟む。床板を直に地面へ置けば、夜の冷えと湿気が上がる。1晩だけなら耐えられても、数日で体を悪くする。


 源蔵が聞いた。


「また床を上げるのか」


「はい。ここは側溝の近くなので、低くすると湿ります」


「手間がかかる」


「でも、あとで文句が減ります」


「また文句か」


「この場所は田島さんが見ています。雨の日に水が入れば、あの人は『だからここに建てるなと言った』と言うはずです」


 源蔵は田島を見た。


 田島は少し離れて、井戸の周りの灰をかき分けていた。焼け跡から自分の家の物を探しているらしい。焦げた鍋、割れた皿、曲がった金物。どれも役に立つか分からない。それでも、田島は1つずつ手に取っていた。


 源蔵は小さく舌打ちした。


「家を焼かれた人間は、物を捨てられねえ」


「捨てたら、自分の家だった証拠も減ります」


 源蔵は尚人を見た。


「そういう見方をするのか」


「この時代では、焼け残った物も土地の説明になると思います」


「復員してきた若造が、なぜそんなことを考える」


 尚人は釘を打ちながら答えた。


「戻る家がないからです」


 源蔵はそれ以上聞かなかった。


 午後の終わりには、仮小屋はどうにか形になった。


 広くはない。大人2人と子ども1人が横になれば、足を伸ばすのも難しい。壁の隙間はむしろでふさいだ。屋根は穴の少ないトタンを上に回し、穴のあるものは下へ重ねた。入口には戸板を立てかける。鍵はない。風除けだけである。


 それでも、外で眠るよりはずっといい。


 田島が小屋の前まで来た。


「井戸には触ってねえな」


「触っていません」


 尚人は答えた。


 田島は中をのぞいた。


「狭いな」


「田島さんの土地を避けると、この広さです」


「なら仕方ねえ」


 田島は杖で地面を突いた。


「俺は明日も来る。井戸の周りを片づける。俺の家の物が出たら、勝手に持っていくな」


 源蔵は面倒そうな顔をしたが、尚人が先に答えた。


「分けて置きます。田島さんの家の物だと分かるものは、井戸の横にまとめます」


 田島は尚人を見た。


「お前、名前は」


「倉田尚人です」


「倉田。覚えた」


 田島はそれだけ言い、焼け跡の道を戻っていった。背中は曲がっていたが、足取りは怒りで支えられていた。


 梶原が近づいてきた。


「名前を覚えられたな。あの手の男は、明日も必ず見に来るぞ」


「その方がいいです。田島さんが見ている前で片づけた方が、あとで疑われずに済みます」


「面倒を増やす考え方だな」


「面倒を先に片づけているだけです」


 梶原は笑わなかった。


「このあたりは、これから毎日揉める。戻った者、戻らない者、戻れない者、勝手に入った者。誰が悪いと決められる話ばかりじゃない」


「だから、線が要ります」


「土地の線か」


「土地の線と、人の話を聞く順番です。先に建ててから怒鳴られるより、怒鳴られる前に聞いた方がいい」


 梶原は荷車の持ち手を握った。


「お前、源蔵のところで働くだけじゃもったいないな」


「今は働かないと食えません」


「食えるようになったら、何をする」


 尚人はすぐには答えなかった。


 焼け跡を見た。土台だけになった家、井戸、詰まった側溝、風に揺れるむしろの壁。ここには仕事がある。だが、急げば人を踏む。そこを間違えると、尚人自身もこの町から弾かれる。


「まずは、母と2人で、この町に残れるようにします」


「町会か」


「はい。片岡さんに認めてもらわなければ、仕事も飯も続きません」


「片岡は楽じゃないぞ」


「それでも、通らなければ始まりません」


 梶原は頷いた。


「なら夕方、行ってこい。俺の名を出すな。面倒だ」


「分かりました」


「本当に出すなよ。俺まで片岡に呼ばれたらかなわん」


 梶原はそう言い、荷車を引いて去った。


 ◇ ◇ ◇


 日が傾き始めた頃、順子が現場へ来た。


 お兼も一緒だった。少し後ろには、村井静江の姿もある。静江は木箱を片づけたあとらしく、小さな包みを抱えていた。


 順子は尚人へ近づいた。


「尚人、片岡さんのところへ行くわよ」


「分かった、母さん」


 尚人は作業の手を止めた。


 源蔵が近づいてきた。


「町会か」


「はい。母から聞きました」


 源蔵は順子を見た。


「母さん、こいつは今日も働いた。田島さんの家の跡に小屋を建てかけたんだが、井戸と土台を見て、場所をずらした方がいいと言った。おかげで、田島さんと大きな揉め事にならずに済んだ。片岡に聞かれたら、俺はそう言う」


 順子は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼はいい。息子を働かせすぎた。手を見てやれ」


「はい」


 順子は尚人の手を見た。指の傷にはまた泥が入っていた。朝に洗ったばかりなのに、もう黒くなっている。


 人前なので、母親として言った。


「帰ったら洗います。今は町会が先です」


「分かった」


 お兼が言った。


「急ぎな。片岡は夕方になると機嫌が悪くなる。腹が減るからね」


 静江が小さく言った。


「私も行きます。昨日会ったことは話せます」


 尚人は静江に頭を下げた。


「ありがとうございます」


 静江は尚人を見た。


「聞かれたことだけ答えてください。若い男は余計な説明をして、かえって怪しまれます」


「覚えておきます」


 順子が横から言った。


「母さんが先に話すから、尚人は落ち着いていなさい」


「分かった、母さん」


 人前では、それでよかった。


 だが、歩き出してすぐ、人目が薄くなった場所で、順子は声を落とした。


「尚人さん、片岡さんは復員証明を聞いてきます」


「ああ」


「証明するものは焼けた。荷を失った。話はそこから動かしません」


「分かった。横須賀の警備隊で、営繕の手伝いをしていた。それ以上は言わない」


「部隊名を細かく聞かれたら」


「終戦後の混乱で所属の者とも散った。復員の途中で荷を失った。そう答える」


「はい」


「お前は俺の母だ。話しすぎるな。困った顔はしていいが、泣くな」


 順子は頷いた。


「分かっています」


 足音が近づいた。


 順子はすぐに声を戻した。


「尚人、町会では余計なことを言ってはいけませんよ。聞かれたことだけ答えなさい」


「分かった、母さん」


 お兼が横で笑った。


「しっかりした母さんでよかったな、復員さん」


「はい」


 尚人は素直に答えた。


 ◇ ◇ ◇


 片岡の詰所には、まだ人が並んでいた。


 朝より列は短いが、机の前には疲れた顔が残っている。片岡は欠けた湯呑みを横に置き、名簿を見ながら人をさばいていた。鉛筆の先は短くなり、何度も削った跡がある。


 お兼が先に声をかけた。


「片岡さん、連れてきたよ」


 片岡は顔を上げた。


「倉田の息子か」


 尚人は前へ出た。


「倉田尚人、22歳です」


「復員したと言ったな」


「はい」


「どこにいた」


「横須賀の方面です。警備と営繕の手伝いをしていました」


「復員証明は」


「荷と一緒に失いました。家の跡を回るうちに、残ったものもほとんどなくしました」


 片岡は尚人を見た。


「母親と同じ話だな」


「はい。母が話した通りです」


 お兼が横で少し笑った。片岡は笑わなかった。


「口は落ち着いている」


 源蔵が、少し遅れて詰所へ来た。作業着のまま、手には煤がついている。


「片岡、こいつは昨日から俺の現場で働いている。手は動く。今日も田島の焼け跡で揉めかけたが、こいつが土台と井戸を見て、小屋をずらした。使える」


 片岡は源蔵を見た。


「お前が人を褒めるのは珍しいな」


「褒めてねえ。使えると言っただけだ」


「同じようなものだ」


 静江が前に出た。


「片岡さん。倉田さんには昨日会いました。お兼さんが連れてきました。遠い親戚筋を頼って来たという話でした。私が保証できるのは、昨日会ったことと、今日また話したことだけです」


 片岡は頷いた。


「それでいい」


 順子は口を挟まなかった。今は、尚人、源蔵、静江が話す場面である。母親として心配する顔は作っているが、余計なことは言わない。


 片岡は名簿を開いた。


「倉田順子、43歳。倉田尚人、22歳。夫、倉田佑馬、戦死。横須賀方面から来た。村井のつてを頼った。現住は源蔵の仮小屋。お兼と静江が確認。源蔵の現場で就労中」


 片岡は鉛筆で印をつけた。


「正式な配給通帳はまだ出せない」


 順子が頭を下げた。


「承知しております」


「ただし、町会の仮控えには入れる。3日様子を見る。その間、炊き出しがある時は、末席に入れてやる。米の配給はまだ約束できない。通帳の話は、もう少し先だ」


 尚人は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 片岡は尚人を見た。


「礼を言うのは早い。ここでは、町会の控えに入れたあとで揉める者も多い」


「肝に銘じます」


「また落ち着いた口を利く」


 片岡は少しだけ眉を寄せた。


「だが、1つ覚えておけ。ここでは復員兵だからといって、いつまでも同情はされない。働くなら働け。食うなら働け。母親を抱えているなら、なおさらだ」


「はい」


「それと、田島の土地の件は聞いた。勝手に土台へ小屋を建てなかったのはよかった。これから戻る者は増える。焼け跡だからといって、全部が空き地ではない」


 尚人は頷いた。


「分かりました」


「分かっているなら、源蔵にも言っておけ。小屋を増やす時は、先に俺へ話を通せ。全部は止めない。だが、井戸と土台の上へ勝手に建てられると、町会で収拾がつかない」


 源蔵が嫌そうな顔をした。


「いちいち面倒だな」


「面倒だから俺がいる」


 片岡は返した。


 お兼が笑った。


「その通りだよ。面倒を見る人間がいなきゃ、こっちは毎日殴り合いだ」


 片岡は名簿を閉じた。


「倉田親子。今日はこれでいい。明日も源蔵の現場へ行け。母親はお兼のところか、静江の店で手伝えることを探せ。何もしない者は、この町では長く置けない」


 順子は答えた。


「はい。働けることを探します」


「明後日の朝、もう1度来い。話が変わっていないか確認する」


「承知しました」


 片岡は次の人間を呼んだ。


「次」


 それで話は終わった。


 詰所の外へ出ると、日が落ちかけていた。焼け跡の影が長く伸び、風が冷たくなっている。どこかで夕飯代わりの薄い汁を煮る匂いがした。具の匂いはほとんどない。それでも、温かい湯の匂いだけで腹が鳴りそうになる。


 お兼は順子の肩を軽く叩いた。


「仮控えに入れたなら上出来だよ。通帳まではまだ遠いが、完全なよそ者ではなくなった」


 静江も頷いた。


「片岡さんが名を書いたなら、明日から見る目が少し変わります」


 源蔵は尚人に言った。


「明日も来い。田島の井戸まわりを片づける。あの男が怒鳴る前に、使える物と田島の物を分けるぞ」


「はい」


 源蔵は去っていった。お兼と静江も、それぞれの場所へ戻る。


 尚人と順子は、仮小屋へ向かって歩いた。


 人通りが少なくなったところで、順子が小声で言った。


「尚人さん、仮控えには入れました」


「ああ。これで完全なよそ者ではなくなった」


「でも、配給通帳はまだです」


「それでいい。早く進みすぎる方が危ない」


 順子は、少しだけ尚人の手を見た。


「傷を洗いましょう。石鹸は少し残っています」


「帰ったら頼む」


「はい」


 尚人は焼け跡を見た。


 今日、米は手に入っていない。配給通帳もまだ出ていない。それでも、片岡の控えには倉田順子と倉田尚人の名前が仮に書かれた。尚人が寝る小屋も、田島の井戸と土台を避けた場所に建った。


 それだけで、昨夜とは違っていた。


 仮小屋の前まで来ると、入口の隙間から炭火の赤が見えた。中では誰かが咳をしている。床板は冷たいだろう。食べ物も足りない。それでも、今夜はここへ戻ってこられる。


 順子は人前に戻る前に、声を落とした。


「尚人さん。今日は、片岡さんの控えに入りました」


「明日は、源蔵さんの現場で続けて働く。田島さんの井戸まわりも片づける」


 尚人は答えた。


 足音が聞こえた。


 順子はすぐに母親の顔へ戻った。


「尚人、先に手を洗いなさい。傷を悪くしてはいけないわ」


「分かった、母さん」


 2人は仮小屋へ入った。


 入口の戸板が風で鳴った。焼け跡の夜は、また冷える。


 だが、町会の控えには、倉田順子と倉田尚人の名が残った。


 田島の焼け跡では、井戸と土台に触れない場所へ小屋が移された。


 1946年の東京で生きるには、米をもらう前に、町会に顔を覚えられ、寝る小屋が誰の土地に建っているのかをはっきりさせなければならなかった。

第2話前編2では、尚人が大沢源蔵の現場で、焼け跡の土地境界をめぐる揉め事に向き合う。源蔵は空いているように見えた場所へ仮小屋を建てようとするが、そこは疎開先から戻った田島勝蔵の家の跡だった。尚人は井戸、土台、塀の石、側溝を見て、田島の土地に入らない位置へ小屋をずらす。これにより、尚人はただの力仕事の若者ではなく、焼け跡に残った土地の線を読める男として見られ始める。夕方、順子は尚人を町会の片岡のもとへ連れて行く。お兼、村井静江、大沢源蔵の証言により、2人は正式な配給通帳こそ得られないものの、町会の仮控えに入る。第2話前編では、2人が食べ物を得る前に、町会の仮控えに入れてもらい、寝泊まりする小屋の場所を守るところまで進む。

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