第3話(中編1)――「成城の投資相談」
直樹は、輸入果物商社の買収に10億円を使う方針を固めた。だが、手元にはまだ90億円近い資金が残る。直樹はその金を預金に置いたままにせず、成城側の出資と銀行融資を加え、総額300億円の投資に広げることを考える。狙うのは、東京湾岸の冷蔵倉庫会社、青果配送会社、加工場用地、社宅用地である。南方果物の輸入を表の事業としながら、港に近い食品流通網を短期間で作り、大手商社か食品会社へ1,000億円で売る。それが直樹の狙いだった。
(1986年6月14日土曜日午後1時30分、東京・成城、榎本家)
直樹は、榎本家の応接間で資料をそろえていた。
机に出したのは、資金明細、輸入果物商社の買収案、東京湾岸の地図、冷蔵倉庫会社と青果配送会社の調査メモである。
啓子は資料を一通り見ると、電話台へ向かった。
4人へ伝えた内容は同じだった。
「早乙女側で、新しい投資案件を考えています。輸入と食品流通に関わる話です。直樹さんが今日、成城へ来ています。お時間があれば、榎本家までお越しいただけませんか」
相手が詳しい内容を聞いても、啓子は電話では深く話さなかった。
「資料を見ながら、直樹さんから直接お話しします」
それだけで通した。
投資案件であること。直樹が成城へ来ていること。本人が説明すること。電話ではそれで十分だった。
午後2時を過ぎると、4人は順に榎本家へ来た。
久我山沙織は、明るい色のスーツで現れた。応接間へ入ると、机の上の湾岸地図を見た。
「啓子さんが急に呼ぶ時は、土地かお金の話ですね」
「今日は、その両方です」
直樹が答えた。
高科真佐子は、冷蔵倉庫、温度管理、配送という文字を見て、すぐに資料を手に取った。
「食品流通の話なら、設備を見ないと危ないですね。場所がよくても、冷えない倉庫では使えません」
「そこを見ていただきたいと思っています」
神谷志津江は、加工場と社宅という文字を見た。
「働く人を受け入れる計画ですね。食品を扱うなら、住まいと健康管理は最初から考えた方がいいです」
「お願いします」
最後に大河内麗子が来た。
麗子は、机の地図と資金表を見てから席に着いた。
「ただの果物輸入ではありませんね」
「はい。果物輸入を入り口にして、東京湾岸の食品流通網を押さえる話です」
5人がそろうと、直樹は立ち上がった。
「今日は、早乙女側の新規投資について相談があります」
直樹は、資金明細を机の中央へ置いた。
「輸入果物商社の買収と加工会社の準備に、まず10億円を使います。それでも、早乙女側には90億円ほどの資金が残ります。この90億円を預金のまま置くつもりはありません」
沙織が聞いた。
「その90億円で、湾岸の倉庫を買うのですか」
「90億円だけでは足りません。早乙女側から90億円、成城側から30億円、銀行融資で180億円。合計300億円の投資枠を作ります」
真佐子が資料から顔を上げた。
「300億円ですか」
「はい」
直樹は湾岸の地図を指した。
「300億円で、港南、芝浦、品川、大井、平和島にある古い冷蔵倉庫会社、青果配送会社、加工場用地、社宅用地を押さえます。土地だけを買うのではありません。会社ごと買います。土地、建物、車両、従業員、取引先、銀行取引をまとめて引き受けるためです」
麗子が聞いた。
「それを持ち続けるのですか」
「一部は残します。ですが、主な狙いは売却です」
直樹は、別の資料を机の中央へ出した。
表題には、東京湾岸南方果物流通網、と書いてある。
「古い倉庫会社を1社ずつ買っても、それだけでは古い倉庫の寄せ集めです。ですが、輸入果物商社、冷蔵倉庫、青果配送、加工場、社宅をまとめれば、大手商社や食品会社が欲しがる形になります」
真佐子が言った。
「買った会社を、売れる形に作り直すのですね」
「はい。南方果物の輸入、冷蔵、追熟、加工、箱詰め、配送、百貨店やホテルへの販売。そこまで一体にします。大手商社が自分で作れば数年かかる流通網を、こちらで先に作ります」
沙織が地図を見ながら言った。
「港に近い土地、冷蔵倉庫、配送会社、社宅用地。それがまとまっていれば、買う側は何年分もの手間を省けますね」
「その通りです」
直樹は言った。
「300億円を使い、2か月から3か月で形を作ります。そして、大手商社か食品会社へ1,000億円で売る。これが目標です」
志津江が聞いた。
「300億円を、1,000億円にするということですか」
「はい」
「土地を高く売るだけの話ではありませんね」
「違います。土地だけではありません。会社、倉庫、配送、加工、人、取引先をまとめて売ります。買う側にとっては、すぐに使える食品流通網です」
麗子は、しばらく資料を読んでいた。
「大手に売るなら、最初から大手が買いやすい形にしなければなりません。帳簿が乱れている会社、古い借入が残る会社、訴訟を抱えた会社を混ぜると、値が下がります」
「杉浦さんと小沼さんにも確認してもらいます」
「それに加えて、売る相手を想定した整理が必要です。大手商社なら、銀行、法務、監査、労務、衛生を見ます。買う側に見られて困るものを残してはいけません」
「そのために、皆さんの力を借りたいのです」
沙織が資料を指した。
「私は、建物と社宅を見ます。古い倉庫は、外から見るより金がかかることがあります。屋根、床、排水、車両の出入口。そこを見れば、買値を下げる材料になります。社宅も、従業員を入れるなら急ごしらえでは駄目です。売る時に、住まいまで整っていることが価値になります」
「お願いします」
真佐子が続いた。
「私は、冷蔵設備を見ます。温度帯を分けられるか。記録装置があるか。追熟や検品の場所があるか。電気容量は足りるか。設備が弱ければ買値を下げる材料になりますし、改修計画を付ければ売値を上げる材料になります」
「そこを見ていただきたいです」
志津江が言った。
「私は、衛生と健康管理を見ます。食品を扱う以上、手洗い、作業服、作業場の区分、けがの処置、健康診断は必要です。大手が買う時、従業員が安心して働ける体制は評価されます」
「お願いします」
麗子が言った。
「私は、銀行と売り先の筋を見ます。ただし、政治家の名前で押す話ではありません。事業として通す話です。銀行には、湾岸の土地買いではなく、食品流通会社の買収と再編として見せる。大手商社には、何年分もの準備時間を買わせる。それがよいでしょう」
「はい」
啓子が、そこで全体を補足した。
「直樹さんの案は、早乙女側90億円、成城側30億円、銀行融資180億円で、まず300億円の投資枠を作るものです。成城側の出資は、単なる協力金ではありません。投資契約にします」
沙織が直樹を見た。
「私たちに30億円を出してほしい、ということですね」
「はい」
直樹は頭を下げた。
「情でお願いするつもりはありません。成城側には、3か月後に倍額で買い戻す条件を出します。30億円を出していただいた場合、早乙女側が60億円で買い戻す権利を持つ。買い戻さない場合は、成城側が持株を持ち続ける。その条件で考えています」
真佐子が言った。
「3か月で2倍。強い条件ですね」
「危険を取っていただく以上、利益も明確にします」
麗子が言った。
「契約書にしなさい。出資、買い戻し、持株、配当、議決権、売却制限、守秘義務。すべて書面にすることです」
「そのつもりです」
啓子も頷いた。
「親しい相手との金ほど、書面が必要です。曖昧にすれば、あとで家同士の問題になります」
沙織は地図を見ながら言った。
「300億円を入れるなら、買う順番が大事ですね。まず港に近い冷蔵倉庫。次に配送会社。最後に加工場と社宅用地。順番を間違えると、ただの不動産買いに見えます」
「順番も相談させてください」
真佐子が言った。
「設備の古さを理由に、買値を下げられます。ただし、売る時には改修計画を見せる。全部直してから売るのではなく、どこを直せば使えるかを示す方が早いです」
「買う側に、完成までの道筋を見せるのですね」
「そうです」
志津江が言った。
「大手に売るなら、食品衛生の最低線を先に整えた方がいいです。完璧でなくても、改善の手順があれば買いやすくなります」
麗子が続いた。
「売り先は1社に絞らない方がいいです。大手商社、食品会社、百貨店系流通、ホテル向け食材会社。2社以上が欲しがれば、値は上がります」
「競わせるのですね」
「はい。1,000億円を狙うなら、買い手に『今買わなければ他社に取られる』と思わせる必要があります」
直樹は、麗子の言葉を書き留めた。
1社に売らない。
競わせる。
準備時間を買わせる。
食品流通網として売る。
啓子が言った。
「直樹さん。この計画は、単なる買収ではありません。買う前から、売る相手を考えて組む必要があります」
「分かっています」
「商社買収の10億円と、湾岸投資の300億円は分けてください。輸入果物商社は、表の事業の入り口です。湾岸の会社群は、1,000億円で売るための本体です」
「分けます」
「それと、調査関係の資金をこの事業に混ぜないこと。表の会社に別の目的を入れれば、会社ごと危なくなります」
「はい」
直樹は、新しい紙に大きく書いた。
東京湾岸南方果物流通網。
300億円で作る。
1,000億円で売る。
社宅事業と一部株式は早乙女側に残す。
麗子が、その最後の行を見た。
「全部を売らないのですか」
「はい。流通会社の大部分は売ります。ですが、社宅事業と一部の持株は残したい。働く人の住まいを押さえれば、あとでこちらの事業にも使えます。完全に手放すより、次の足場になります」
沙織が言った。
「社宅を残すなら、最初から所有を分けた方がいいです。売る会社の中に全部入れてしまうと、あとで取り戻すのが面倒です」
「そこも設計します」
真佐子が言った。
「設備も同じです。売るものと残すものを分けておかないと、買い手に全部持っていかれます」
志津江が言った。
「人の住まいを残すなら、医療と相談先も残せます。働く人を守るなら、その方がよいです」
麗子が言った。
「大手へ売る時は、そこを条件に入れましょう。現金1,000億円。従業員の雇用維持。社宅事業は早乙女側に残す。これなら、利益と次の足場を両方取れます」
直樹は顔を上げた。
「それで行きます」
話の形は決まった。
古い倉庫を買い、食品流通網に作り替え、大手に高く売る。
300億円を入れ、1,000億円で売る。
その利益で、次に動く。
直樹の狙いが、5人にも分かる形になった。
啓子が話を締めた。
「今日は、まず方向を決めましょう。早乙女側は90億円を用意する。成城側は30億円の出資条件を詰める。銀行融資は180億円を目安にする。買収対象は、湾岸の冷蔵倉庫会社、青果配送会社、加工場用地、社宅用地。売り先は、大手商社か食品会社を複数想定する」
麗子が言った。
「それなら、投資話として聞けます。出口も見えます」
沙織が言った。
「建物を見ます。安く買える理由も、高く売れる理由も、建物から出せます」
真佐子が言った。
「設備を見ます。冷蔵の弱点は買値を下げる材料になり、改修計画は売値を上げる材料になります」
志津江が言った。
「働く人の体制を見ます。人が逃げる会社は、大手が買いません」
麗子が言った。
「銀行と買い手を見ます。1社に頼らず、競わせます」
直樹は深く頭を下げた。
「お願いします」
90億円は、預金に置いておく金ではなくなった。
300億円の投資を呼ぶ元手になった。
300億円は、古い倉庫を買う金では終わらない。
1,000億円を取りに行く金になった。
中編1では、直樹が成城の奥様方へ新しい投資計画を説明する。輸入果物商社の買収後に残る90億円を元に、成城側30億円と銀行融資180億円を加え、総額300億円で東京湾岸の冷蔵倉庫会社、青果配送会社、加工場用地、社宅用地を押さえる計画である。目的は、古い会社を買って持ち続けることではない。南方果物の輸入、冷蔵、加工、配送、販売を一体にした食品流通網を短期間で作り、大手商社か食品会社へ1,000億円で売ることである。沙織、真佐子、志津江、麗子は、それぞれ建設、設備、衛生、銀行と売却先の面から計画を支えることになる。




