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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第14話――「湯気の縁、白松の名」

ジム帰りの汗を残したまま、尚人とリエンは部屋へ戻る。テラスの露天風呂に湯を張り、シャワーで汗を落とし、湯気の中で身体の距離がさらに近づく。夜が深まったころ、尚人は外へ出てトゥイの店に顔を出す。雑談の中から、銀行マンと西欧系の女が通っていたという焼肉屋の名が落ちる。その店の名前が、白松である。

 ジムから戻ると、尚人とリエンの肌には汗が薄い膜のように残っていた。シャツを脱いだ瞬間、布が背中から離れ、湿った熱がふっと抜ける。窓の外では夕方の車列が続き、遠いクラクションが高層の壁にぶつかって丸くなった。


 リエン〈40〉はテラス側へ回り、日本式の露天風呂に湯を張る支度を始めた。蛇口をひねると、硬い水音が配管の奥へ走り、木の縁を打って低い音に変わった。湯が溜まるまで時間がかかる。南国の湿気がまだ濃く、湯気が立つ前から空気がぬるい。


 その間に2人はシャワーへ向かった。白いタイルに水が当たり、細い音が一斉に跳ねる。冷えた水が肩から背中へ落ち、汗を押し流すと、肌が一度だけ小さく震えた。排水溝へ流れていく水は灰色に濁らず、ただ熱だけを連れていく。


 リエンはシャボンを泡立て、尚人の胸から腕、背中へと両手を動かした。泡が皮膚の上で滑り、筋肉の起伏が掌にそのまま返ってくる。肩の丸み、広い背、脇腹の固さ。指先が通るたびに、泡の匂いが少し甘く立ち、湿った浴室の空気に混じった。


 尚人は黙って立っていた。水が首筋を伝い、泡が薄くなって流れる。リエンの手は迷わず、洗うという行為だけで距離を詰めてくる。尚人の呼吸が深くなり、喉が鳴るのが耳に近かった。


 リエンは自分の身体も手早く洗った。肩から鎖骨、腹、腿へと泡を伸ばし、すぐに流す。南国のホーチミンでは、それだけで十分だと身体が知っている。洗い終えると、肌が軽くなり、呼吸が通る。


 テラスへ出ると、空気はまだ熱いが、風がある。露天風呂の湯はようやく張り終え、表面に細かな湯気が立ち始めていた。湯の匂いは強くない。湯気に混じるのは、夜の植物の青い匂いと、遠い排気の匂いだった。リエンは縁に手を置き、湯面を覗きこんだ。日本式の露天風呂に入るのは初めてで、目が少しだけ子どものように動いた。


 尚人は彼女の背中を見て、ゆっくり言った。「熱かったら、遠慮せずに上がれ。無理はするな」


 リエンは頷いた。「はい。会長さんが一緒なら、平気です」


 2人は湯へ入った。熱が足首から膝、腰へ上がり、皮膚の上の空気が一枚ずつ剥がれていく。湯が胸に届くと、身体の芯がほどけ、肩が落ちた。外の音は遠くなる。水面の小さな揺れと、湯気の立つ音だけが近い。


 尚人はリエンを抱き寄せ、腕の中へ収めた。湯の中では体重が軽くなり、リエンの身体がふわりと浮く。彼女の肩から背中へ掌を滑らせると、濡れた肌がぬめりではなく柔らかさとして残った。首筋に指が触れた瞬間、リエンは短い息を漏らし、頬を尚人の胸へ寄せた。


 リエンも尚人に手を回そうとした。だが身長差がある。リエンも160cmほどで、ベトナムでは大きい方だが、尚人は190cmで、湯の中でも肩幅の大きさがはっきりした。リエンの腕は届くところまで伸び、指が背中の途中で止まる。彼女は一度だけ悔しそうに笑い、それから肩の力を抜いた。


 リエンは小さく言った。「会長さんに任せます。今日は……全部、預けます」


 尚人の手は急がなかった。胸の中心へ、腹へ、腰へと掌を移し、触れる圧を少しずつ変えていく。湯の熱で肌は敏感になり、指が通るたび、リエンの身体が水面を小さく揺らした。湯が肩の周りでちゃぷりと鳴り、湯気が顔にまとわりつく。リエンは目を閉じ、呼吸を整えようとして、整えきれずに吐息を漏らした。


 しばらくして尚人はリエンを抱きかかえ、湯から上がった。水が鎖のように身体を伝い、足元で音を立てて落ちる。夜風が濡れた肌を撫で、熱いのに冷たい。リエンは尚人の腕の中で肩をすくめ、すぐに尚人の首へ腕を回してしがみついた。


 大きなバスタオルが広げられ、リエンの身体を包んだ。厚い布が水分を吸い、肌を押さえるたびに温度が落ち着く。髪先から滴が落ち、タオルの繊維に消えていく。尚人の手は乱暴ではなく、丁寧だった。拭かれるという行為が、抱かれるのと同じくらい確かな安心感を連れてきた。リエンは胸の奥がゆるみ、言葉にならない声を小さく出した。


 浴室へ戻ると、リエンは引き出しから用意していたものを出した。ペペローションとコンドームだった。リエンは視線をそらさずに言った。「前に話してたでしょう。だから、用意しておきました」


 尚人は短く頷いた。そこには照れも躊躇も少なく、ただ相手を傷つけないための段取りがあった。ローションの冷たさが指先に触れ、次の瞬間には体温で薄く温まっていく。濡れた肌に滑りが生まれ、痛みの気配が遠のく。コンドームの薄いゴムの匂いが一瞬だけ立ち、すぐに石鹸と湯気の匂いに溶けた。


 リエンは抱かれながら、尚人のそれが常人より大きいことを改めて実感した。だが恐怖はなかった。準備があり、尚人の手があり、何より速度が乱れなかった。尚人は無理を押し通さず、リエンの呼吸と表情を見て、入る深さと間合いを合わせた。リエンは肩をすくめる代わりに、背中を預け、腰の力を抜いた。湯でほどけた身体が、そのまま受け入れる形になる。


 息が乱れ、汗がまた戻ってくる。だが不快ではない。湿気の中に、肌と肌が触れる音が混じり、短い吐息が壁に当たって戻る。リエンは尚人の首に腕を回し、届く範囲のすべてで抱いた。届かない分は、尚人の腕が埋めた。


 やがてリエンは、得も言われぬ快楽と安心感に包まれた。頭の中が静かになり、体の輪郭だけがはっきりする。終わったあと、尚人はリエンを抱きかかえ直し、もう一度タオルで包んだ。拭われる圧が優しく、布の温かさが肌に残る。リエンは尚人の胸に頬を寄せ、目を閉じた。


 テラスの露天風呂には湯気がまだ残り、夕方の風がそれをゆっくりほどいていた。遠い街の音は続いていたが、部屋の中の時間は別の速度で進んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 リエンが階下の自分の部屋へ戻ると、尚人の部屋は急に広く感じた。冷房の風は乾いていて、床のタイルがわずかに冷たい。浴室で落としたはずの汗が、夜の支度を始めるとまた皮膚の奥から戻ってくる気がした。


 尚人は財布と鍵を取り、上着を羽織った。袖を通すと布が腕に滑り、石鹸の匂いがまだ手首に残っている。エレベーターで降りるあいだ、モーターの低い音だけが続いた。扉が開くと、湿った熱気が顔に当たり、排気と屋台の油の匂いがいっぺんに鼻を埋めた。


 トゥイ〈25〉の店は、同伴で1度行っている。今夜が3度目だ。入口の前には小さな照明があり、看板は派手ではない。扉の取っ手は手の脂で少し温く、押すと蝶番がかすかに鳴った。中は冷房が効き、甘い酒の匂いと、氷の水滴の匂いが混じっている。グラスが触れ合う乾いた音が、曲の合間に小さく立った。


 尚人が顔を出すと、女の子たちの視線が一度だけ集まり、すぐに散った。珍しがる目ではなく、場の空気を読もうとする目だった。奥からトゥイが出てきた。髪はきっちりまとめ、歩くたびに耳元の飾りが光る。笑う前に目が先に細くなる癖は、前と同じだった。


 トゥイは言った。「会長さん。久しぶり。今日は1人?」


 尚人は頷いた。「顔だけ出しに来た。軽く一杯やって帰る」


 トゥイは短く手を叩き、女の子を2人つけた。右にフォン〈19〉、左にミー〈21〉が座る。香水が近づき、煙草の匂いが薄く重なる。尚人はメニューを見ずに言った。「ママも飲め。女の子も遠慮はいらない。腹が空いてるなら、つまみも取ろう」


 ボトルが置かれ、氷が器に落ちる音がした。グラスの縁に水滴がにじみ、指先が冷えた。尚人は口を湿らせる程度に飲み、トゥイの話を聞いた。店の客筋、最近の近所の揉め事、同業の噂。尚人は笑うところで笑い、言葉を挟むところでは短く返した。相手の気分を煽り、黙り込ませるような言い方はしない。


 フォンが軽い冗談を投げると、ミーが遅れて笑い、尚人は同じ調子で受けた。派手に場を回さないが、席の温度は落とさない。フォンのグラスが空く前に、尚人の指が軽く上がる。トゥイが目で合図し、次が早い。金の使い方が乱暴でないと分かると、店側の呼吸も整ってくる。


 尚人は探りを露骨に出さなかった。話題は軽く流し、噂が出るのを待った。トゥイの店には、人が寄ってくるぶん、断片が落ちる。


 帰り際、尚人は上着を取り、席を立った。冷房の匂いの中に、酒の甘さがまだ喉に残っている。トゥイが見送りに立ち、扉の前で何気ない調子で言った。


「そういえばね。私がたまに行く焼肉屋さんで、33か34くらいの銀行マンと、20代の西欧系の女が、何度か2人で食事してたの。最近は見かけなくなったわね」


 尚人は立ち止まった。表情は崩さず、声だけを軽くした。「その店、名前を教えてくれ」


 トゥイはすぐに答えた。「店の名前は白松。角を曲がって2本目で、煙が少ない店よ」


 尚人は頷いた。「ありがとう。覚えておく」


 トゥイは尚人の目を見た。「同伴、いつにする?」


 尚人は即答した。「近いうちに。ママの空いてる日をいくつか言ってくれ。飯は白松でもいいし、別でもいい」


 トゥイは笑って言った。「そのうち連絡するわ」

 尚人は頷いた。


 外へ出ると、湿った熱がすぐに肌へ戻った。排気の匂いと、どこかの炭の匂いが風に混じっている。尚人はスクーターにまたがり、エンジンをかけた。白松という名前だけが、街の騒音の中でも妙に鮮明に残り、頭の中で静かに位置を持った。

湯気の中では、言葉より先に手が動き、手つきが相手の不安をほどく。露天風呂の熱、タオルの厚み、準備された小さな道具が、乱れや痛みを避けるための筋道になる。リエンは届かない腕の長さを笑いに変え、尚人は急がず、相手の呼吸の速さに合わせて進める。夜の温度が落ち着くと、尚人は外へ出て、店の空気の中で情報を拾う。酒と香水と冷房の匂いの間で、噂は何気ない顔で落ちる。白松という店名が残り、次に動く場所が決まっていく。

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