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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第15話――「椰子の湯気、箱の赤」

日曜の最上階は人の気配が薄く、台所の熱と匂いだけが部屋を満たす。リエンが休みの朝、ミン・ハは椰子の湯気が立つインドネシア料理を用意し、尚人はそこで、看護師ハーと白松で会う約束を隠さず話す。花束と贈り物を買うためにモールへ出ると、革の匂い、金具の光、包装紙の擦れる音が積み重なり、赤い箱が静かに増えていく。戻った部屋で、ミン・ハは受け取る手をためらいながらも、言葉にして笑う。正午が近づき、尚人は花束だけを抱えて外へ出る。

 今日は日曜日だ。最上階の廊下は人の気配が薄く、冷房の風の音だけがまっすぐ通っていた。リエン〈40〉は休暇で、昨日の土曜日に休みを取っていたミン・ハ〈24〉が朝から出勤している。台所のほうから包丁がまな板を叩く乾いた音がして、次にバターが溶ける匂いが立った。にんにくの刺激が鼻をくすぐり、甘いソースの香りがあとから追いつく。


 尚人がリビングへ入ると、ミン・ハは火の前に立っていた。白い湯気が立ち上がり、フライパンの縁で油が小さくはねる。ミン・ハは振り向き、軽く頭を下げた。ミン・ハは言った。「おはようございます、ナオトさん。今日はインドネシア料理です。王宮料理みたいに、少しだけ豪華にしました」


 テーブルには2人分の皿が揃い、向かいの椅子が引かれていた。尚人は差し向かいで食事を取る距離を確かめるように座った。空調の乾いた冷えの中に、鍋の湯気が作る湿り気が戻ってくる。休日の朝にだけある静けさが、部屋の角まで行き渡った。


 皿の中央は王宮風のナシゴレンだった。粒の立った米が黄金色に染まり、鶏肉と小さなエビが混じる。にんじんの橙、キャベツの白、ピーマンの緑が細かく散って、油の光が薄く乗っている。ひと口運ぶと、バターの丸みが舌の先に触れ、甘いソースの香りが鼻へ抜けた。塩気は強すぎず、後ろから魚醤の影がかすかに追いかける。熱で汗がにじむ前に、冷えた空気が肌を撫でた。


 小さな椀には黄色いソト・アヤムが注がれている。ターメリックの色が濃く、表面にはココナッツミルクの白い筋がゆっくり揺れた。裂いた鶏肉ともやし、ねぎ、卵が入り、上にチーズが少しだけ落ちている。ミン・ハはライムを添えた。「少し絞ると、味が締まります」 尚人が絞ると、柑橘の香りが湯気に混ざり、喉の奥がすっとした。


 もう1皿はガドガドだった。温い野菜と豆腐に、ピーナッツの濃いソースが絡む。ソースは牛乳で少し伸ばされていて、舌にまとわりつく重さがない。甘みのあとに唐辛子の小さな刺しが来て、尚人は水をひと口含んだ。冷たさが胃へ落ちる感覚がはっきりした。


 食器の音が落ち着いたところで、尚人は箸を置かずに言った。「リエンさんは休みだな」

 ミン・ハはうなずいた。「はい。今日は休暇です」

 尚人はナシゴレンをもう一度すくい、噛んでから続けた。「昼に約束がある。『白松』で、看護師の人と会う」


 ミン・ハの手が一瞬止まった。知らない名前を探る目だった。ミン・ハは言った。「看護師さん……ですか」

 尚人は正面を見たまま答えた。「グエン・トゥイ・ハーさんだ。お前は知らない。俺がまだ話していなかった」


 ミン・ハは箸を揃え、静かに待った。尚人はコーヒーに口をつけ、苦味が舌に残ったところで言った。「この前、医院に行っただろう。俺が昼に薬袋を持って帰った日だ。あのときは、勃起不全じゃないかと疑っていた」


 ミン・ハは小さくうなずいた。「はい。具合が悪いのかと思いました」


 尚人は言葉を濁さなかった。「具合が悪いのは、逆だった。医者と看護師に調べてもらったら、駄目どころか敏感すぎるほど反応した。自分でも驚くくらい急で、恥ずかしい話だが、診察室の前でも隠しようがないほどだった」


 ミン・ハの頬がわずかに赤くなった。だが視線は逸らさない。仕事の顔だった。ミン・ハは言った。「今は、大丈夫ですか」


 尚人はうなずいた。「大丈夫だ。薬は必要ない。あのとき処置してくれたのがハーさんだ。落ち着いた人で、変に笑ったりもしない。あとで屋台で偶然会って、少し話した」


 ミン・ハは慎重に言った。「それで、今日の約束ですか」


 尚人は答えた。「そうだ。向こうから日曜の昼なら会えると言われた。白松の入口で正午。俺が行くと言った」


 ミン・ハは一拍置いた。「その方は、独身ですか」


 尚人は首を振った。「夫がいる。早乙女建設の社員だと言っていた」


 ミン・ハのまなざしが少しだけ固くなった。「では、なぜ……」


 尚人は言った。「俺が1人で静かに暮らしていることも、あの場で話した。向こうも事情は分かっている。昼の限られた時間に、話をするだけだ。俺は、隠し事をしたくない」


 ミン・ハは唇を結び、もう一度うなずいた。「分かりました。花と……バッグを買うのですか」


 尚人は答えた。「花は変に凝らなくていい。淡い色の小さな花束がいい。持ち歩けるやつだ。バッグは派手じゃないもの。職場で目立つと困るだろう」


 ミン・ハは視線を落として言った。「淡いピンクか、少しアプリコット。バラと、トルコキキョウ。葉を少し入れると、きれいです」


 尚人はそのまま言った。「それと、今日はお前にも買う。リエンさんにも買う」


 ミン・ハはすぐ首を振った。「いりません。私たちは、仕事です」


 尚人は声を落とした。「仕事でも、毎日助けてもらっている。今日は俺の気分でやる。お前はリエンさんの分を選べ。休みの日に本人を連れ出す気はない」


 ミン・ハは小さく息を吸い、やっと言った。「母は、目立つものは嫌がります。でも、良いものは分かります」

 尚人はうなずいた。「それでいい」


 ◇ ◇ ◇


 ショッピングモールに入ると、外の湿気が扉の向こうへ切り離された。冷房の風が首筋に当たり、床の石が乾いた音を返す。香水と洗剤と焼き菓子の匂いが混じり、人の話し声が天井で軽く跳ねた。


 ミン・ハは最初、値札の並びを見るだけで歩みを遅くした。革の匂いが店内に薄く漂い、棚の照明が金具を白く光らせる。尚人は店員に軽く会釈し、ミン・ハへ言った。「母親に似合うものを見てみろ。遠慮は要らない」

 ミン・ハは小声で言った。「高いです」

 尚人は答えた。「高くてもいい。長く使える」


 ミン・ハが選んだのは、ロゴが強く出ない黒い革のトートだった。手に取ると柔らかく、縫い目が揃っている。取っ手の芯がしっかりしていて、重いものを入れても形が崩れにくい。ミン・ハは指先で革を撫で、ためらいながら言った。「母は、これなら使います。市場でも、病院でも、変に見えません」

 尚人はうなずき、店員に包みを頼んだ。


 隣の宝飾店では、ショーケースの中で小さな光が止まっていた。ミン・ハは足を止めたが、すぐに引く。尚人は言った。「見ろ。母親に似合うなら、それでいい」

 ミン・ハは迷いながら、淡水パールの小さなピアスを選んだ。白すぎない色で、光り方が柔らかい。ミン・ハは言った。「母は働くとき、派手なのは嫌です。でも、これは……静かです」

 尚人はその言い方を気に入ったようにうなずいた。「それでいい」


 会計は早かった。尚人は金額を見ず、必要な書類だけ確認した。包装紙が擦れる音がして、黒い箱が2つ重なった。店員が淡い色のリボンを結び、手渡す手が丁寧だった。


 スマホの売り場へ移ると、空気が少し軽くなる。ミン・ハは機種を触る手つきが慎重で、画面の明るさ、文字の見え方、通話の音を確かめた。尚人は言った。「自分の目で選べ」

 ミン・ハは落ち着いた色の機種を選び、ケースも一緒に手に取った。「これなら、割れません」

 尚人ははっきり答えた。「それでいい」


 手続きが終わるころ、尚人のスマホが震えた。尚人は画面を一度だけ見て言った。「少し電話をする。近くで待っていろ」

 ミン・ハはうなずいた。「分かりました」


 尚人は人波の向こうへ消え、別の階の静かな売り場へ入った。香りが違う。空気が乾いて、革の匂いが深い。尚人は小型のバッグをいくつか手に取り、鏡の前で高さを確かめた。ミン・ハは背が高くない。肩に掛けたとき、腰の少し上で止まる長さがいい。金具は控えめで、色は夜の街でも昼の台所でも浮かないものがいい。


 尚人は決めると早かった。店員を呼び、別の袋で包むように頼んだ。紙袋の外から中身が想像できない色にする。箱は角が潰れないように厚紙で補強し、受け渡しは車寄せにしてもらった。


 次は宝飾店だった。尚人が選んだのは、細いブレスレットと、小さな石が一粒だけ光るペンダントだった。主張は強くないのに、近づけば質が分かる。尚人は「仕事の場で邪魔にならないこと」と「汗に強いこと」だけを確認した。店員はうなずき、赤い箱を白い紙で包んだ。紙の角がきっちり折られ、指先に冷たさが残った。


 尚人はそれらを自分の手で持たず、車へ運ばせた。ミン・ハの目に入る前に消しておく。隠すというより、驚かせるための間を作る。


 尚人が戻ると、ミン・ハはカフェの端で水を飲んでいた。尚人は何事もなかったように言った。「終わった。次は花だ」

 ミン・ハはうなずき、立ち上がった。


 花屋の前は温度が少し違う。水の匂いが混じり、切り口の青い匂いが鼻へ入る。尚人は淡いピンクのバラを主役にし、トルコキキョウを混ぜ、ユーカリを少し足した。余計な飾りは付けない。小ぶりで、持ったとき腕が疲れない重さ。店員が保水材を巻き、紙で包む。紙がこすれ、指先に乾いた音が残った。


 モールを出ると、外の熱気が頬にまとわりついた。尚人の手元には花束だけがある。ほかの包みはすべて車に収まっていた。花の香りは湿った風の中でも崩れず、バラの甘さがひと筋残った。


 ◇ ◇ ◇


 部屋へ戻ると、冷房の乾いた風が汗をさらった。尚人は花を一度だけ水に挿し、茎の先を切り直した。ミン・ハは台所へ立ち、買ってきたスマホの箱を静かに開ける。手が少し震えているのが見えた。


 尚人はテーブルの上に、黒い紙袋を2つ置いた。ひとつはミン・ハが選んだ母親のトート。もうひとつはパールの箱だ。尚人は言った。「リエンさんにはこれだ。今日は休みだ。渡すのはお前がいい。帰ってきたときにでも、落ち着いたときにでもいい」

 ミン・ハは目を丸くし、すぐに頭を下げた。「母、驚きます。こんなの……」

 尚人は言い切った。「驚かせていい」


 尚人は立ち上がり、少し間を置いた。時間を確かめるように時計へ目をやってから、もう一度テーブルへ戻った。今度は別の包みを出した。さっきまで何もなかった場所に、紙の色が増える。袋の口が固く、触ると厚い。


 ミン・ハは不思議そうに見た。「それは……」


 尚人は言った。「お前のだ。内緒で選んだ」


 ミン・ハは動けなかった。呼吸だけが浅くなる。尚人は袋から箱を出し、順に置いた。革の香りがふっと広がり、次に赤い箱が光を返した。


 ミン・ハは声が出ないまま箱を見て、ようやく言った。「ナオトさん、私は……そんな……」


 尚人は遮らずに聞き、最後に言った。


「昨日休みだっただろう。今日は朝から働いている。俺は、お前がここでちゃんと息をしているのを見ている。だから渡す。気に入らなければ替える。だが受け取れ」


 ミン・ハの指先が箱に触れた。紙がわずかに鳴る。ふたを開けると、金属の光が静かに立った。派手ではない。だが、薄い光が確かに残る。ミン・ハは目を伏せ、もう一度開け直すように見た。泣くほどではないのに、まつ毛が濡れた。


 ミン・ハは小さく息を吸って言った。「嬉しいです。でも、怖いです。私が、これを持っていいのか」


 尚人は答えた。「持っていい。お前のものだ。俺が選んだ。誰にも説明しなくていい」


 ミン・ハはやっと笑った。声を立てない笑いで、唇の端がほどけた。「ありがとうございます。……ありがとうございます」


 尚人はそれ以上言葉を足さなかった。喜びを言葉で固めると、逃げ場がなくなる。尚人は花束を取り、紙の端を整えた。時計を見る。正午が近い。


 尚人は玄関で靴を履きながら言った。「ハーさんのことは、今言った通りだ。俺は隠さない。だからお前も、嫌なら嫌と言え」


 ミン・ハは首を振った。「嫌ではないです。ナオトさんが、正直に言ってくれたから」


 尚人は一度うなずいた。「行ってくる」


 ミン・ハは言った。「花、きれいです。……気をつけてください」


 エレベーターの扉が閉まり、冷房の風が背中から切れた。外に出ると湿った熱気が顔へ貼りつく。花束の紙が指にかすれ、バラの匂いがひと筋残った。クラクションが一度鳴り、バイクの列が途切れない。尚人は花を腕に抱え、白松へ向かった。約束の時間が、もうそこまで来ていた。

椰子の湯気が立つ食卓から、赤い箱の角が光る部屋まで、この回は尚人の「渡し方」と「言い方」を前へ出している。会う相手の事情を伏せず、嫌なら嫌と言えと口にして、先に線を引く。贈り物は派手さではなく、縫い目の揃い方や金具の控えめさ、紙の厚みで現実の重さを持つ。ミン・ハは嬉しさと怖さを同時に言い、尚人は言葉で固めずに次の時間へ移る。最後に残るのは花の香りで、白松へ向かう足取りが次の場面へつながっていく。

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