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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第13話――「湯気の皿、背中の熱」

土曜の昼、ミン・ハが休みになり、部屋の空気が少し緩む。リエンは台所で2人分の皿を整え、湯気と香りを立てながら尚人の前に出す。食卓では、ハイの悪い癖への不安がこぼれ、尚人は給料の渡し方を変えることで、生活の崩れを先に塞ぐ。言葉で整ったはずの場に、抱きつく腕の力と唇の熱が入り、2人の距離が急に縮まる。その後、尚人はスクーターを出し、リエンを連れてボクシングジムへ向かう。汗と打撃音の中で、リエンは身体を動かす手応えを掴み、続けたいと言い切る。

 その日は土曜日で、ミン・ハは昼から休みだった。家の中は人の気配が薄く、冷房の低い唸りだけが廊下に残っていた。窓の外では、昼のバイクの音が途切れず、遠いクラクションが薄い壁を1枚はさんで響いた。


 キッチンでは、リエン〈40〉が2人分の皿を用意していた。まな板の上で包丁が乾いた音を立て、ねぎの青い匂いが立ち上がる。生姜は薄く刻まれ、指先に辛みが残った。湯気の上がる鍋のふたを取ると、白身魚の身がふっくらと白くなり、熱い蒸気に魚の甘い匂いが混じった。別の鍋では、湯で戻した春雨がざるに上げられ、きくらげの黒いひだがつやを帯びている。


 リエンはフライパンに油を落とし、干し海老をひとつまみ入れて香りを出した。小さく弾ける音がして、甘い香ばしさが空気に広がる。鶏肉を入れると、表面がすぐに色づき、そこへきくらげと春雨が加わった。火が回るたび、湯気が頬に当たり、汗がこめかみを伝った。仕上げに、レモングラスの代わりに柑橘の皮をほんの少しだけ削って落とす。匂いが一段、軽くなった。


 テーブルには、蒸し魚の皿、鶏と春雨の炒め物、小鉢のもずくの酢の物が並んだ。器の縁に水滴が残り、冷たい酸味が鼻をすっと通る。リエンは湯飲みに茶を注ぎ、湯気の向こうで尚人の顔を見た。


 尚人〈62〉は椅子に座り、箸を取った。蒸し魚をほぐすと、身が静かにほどけ、ねぎと生姜の汁が皿の縁へ流れた。口に入れると、熱が舌に広がり、後から生姜の辛みが追いかけてくる。春雨はつるりとして、鶏の脂が薄く絡む。干し海老の香りが、噛むたびに戻ってきた。


 2人は横に並び、同じ速さで食べ進めた。だが、リエンは箸の動きが時々止まった。湯飲みを持つ手も、少しだけ迷うように宙で止まる。目線が皿から外れて、何かを数えるように壁の一点へ落ちた。


 尚人は声を落として言った。「リエンさん。少し元気がないね。体の調子でも悪いのかい?」


 リエンは首を振った。「会長さん。身体の調子は良いんですよ。ただ、亭主のことがね」


 尚人は、蒸し魚の身を箸で寄せてから言った。「ハイがどうかしたのかね? 怪我も回復しつつあるし、何の心配もないだろう?」


 リエンは小さく息を吐いた。酢の物の酸味が先に立つような、短い息だった。「悪い癖が出てこないと良いんですがね」


 尚人は、急かさないように茶をひと口飲んだ。湯が喉を通り、少し間を置いてから聞いた。「悪い癖? どんな癖なんだい?」


 リエンは笑う形だけを作り、目は笑わなかった。「飲む、打つ、買うと3拍子揃っているんですよ。給料なんて一晩で遣ってしまうんですから」


 尚人は箸を止めた。冷房の風が首の後ろを撫で、外のバイクの音がひときわ近く聞こえた。「それは良くないね」


 尚人は皿の縁についた汁を見て、はっきり言った。「こうしよう。ハイの給料は全部リエンさんに渡すよ。そこから小遣いをやれば良いじゃないか」


 リエンは一瞬、言葉が出なかった。目が丸くなり、唇が少し開いたまま止まる。それから、肩が落ちるように力が抜け、頬がほどけた。「そうして下されば助かります」


 尚人がうなずいた、その直後だった。リエンは椅子を引く音も立てずに身体を寄せ、尚人の胸に両腕を回した。料理の匂いの中に、石鹸の匂いと、乾いたタオルの匂いが近くなる。布越しに、尚人の胸の硬さが当たり、呼吸の上下が腹に伝わった。


 リエンは顔を上げ、ためらいのない動きで唇を重ねてきた。熱い茶を飲んだあとで、口の中に薄い渋みが残っている。尚人は咄嗟に背を引けなかった。驚きが先に来て、次に、抱きつく腕の強さが現実として押し返してきた。尚人はリエンの背中をしっかり抱えた。肩甲骨の形が掌にわかり、体温が指に移る。


 唇の圧が変わり、リエンの呼吸が一瞬止まって、それから小さく漏れた。冷房の風は変わらず乾いているのに、2人の間だけ空気が湿ったように感じた。外のクラクションが遠くへ引き、代わりに、互いの息と布の擦れる音が耳に残った。


 リエンは目を閉じたまま、尚人の腕の中に顔を埋めた。頬が尚人の胸に当たり、鼓動が規則正しく打つのが伝わる。彼女はそのまま、しばらく離れなかった。ずっと胸の奥に置いてきた気持ちを、言葉にしないまま抱きしめるように、尚人のたくましい身体の感触を確かめていた。


 テーブルの上では、蒸し魚の湯気がゆっくり細くなり、酢の物の冷たい匂いだけが残った。椅子の脚が床に小さく軋み、遠い街の音が、また薄い壁の向こうに戻っていった。


 ◇ ◇ ◇


 昼食の皿を下げると、尚人の腹の底が静かになった。蒸し魚の温かさと、生姜の辛みがまだ喉の奥に残っている。窓の外では土曜の昼の車列が続き、クラクションが途切れず鳴った。冷房の乾いた風が腕の汗をさらい、身体だけが先に動ける気分になった。


 尚人は立ち上がり、スクーターの鍵を手に取った。玄関脇でヘルメットの埃を払う。顎紐を指で確かめ、手袋を片方ずつはめる。エンジンをかける前の沈黙が短くあり、次の瞬間、低い振動が床から掌へ返った。


 その背中に、柔らかい重みが急に乗った。リエン〈40〉が後ろから抱きつき、腰のあたりへ腕を回した。薄い布越しに、豊かな胸の弾力が背中へ押し当てられ、尚人の呼吸が一拍だけ詰まった。


 リエンは耳元で言った。「会長さん。私も一緒に連れて行って下さい」


 尚人は振り向こうとしたが、腕がほどけない。甘い石鹸の匂いと、台所の湯気の匂いが混じって近い。断る言葉を探す前に、身体が先に反応してしまった。尚人はリエンの手首をそっとほどき、振り向いた勢いのまま彼女の肩を抱き寄せた。


 尚人は低い声で言った。「危ないだろ」


 リエンは笑いながら首を振った。「危なくない。会長さんの後ろなら」


 尚人はもう一度、言葉を探すふりをしたが、喉の奥が熱くなり、理屈が追いつかなかった。尚人はリエンの頬に触れ、そのまま唇を重ねた。昼の冷房で乾いていた空気が、2人の間だけ急に湿る。リエンはためらわず、胸を押しつけるようにして距離を詰め、息を吸う間も惜しむように口づけを深くした。唇が離れては戻り、熱と呼吸が交互に押し寄せる。尚人の舌先に、さっき飲んだ茶の渋みが残っていて、リエンの口の中には柑橘の皮の匂いが薄く漂った。


 リエンは息を漏らし、尚人の背中へ体重を預けた。揺れる胸の重みが、今度は正面から尚人の胸へ当たる。尚人はその場で強く抱きしめ返し、腕の中に収める感触を確かめた。玄関先の床が小さく軋み、外のクラクションが遠くへ退いたように聞こえた。


 尚人は短く言った。「行くか」


 リエンは頷いた。「行く。私、走るのも跳ぶのも久しぶり。でも、やってみたい」


 尚人はヘルメットを渡し、顎紐を締めるのを手伝った。指先が彼女の首筋に触れ、汗の気配が小さく戻ってくる。リエンは後ろの席にまたがり、尚人の腰へ腕を回した。背中に胸の柔らかさがもう一度当たり、尚人はそれ以上考えるのをやめた。


 スクーターは路地を抜け、大通りへ滑り込んだ。湿った熱気が顔にまとわりつき、排気の匂いが鼻の奥に残る。信号のたびに車列がほどけては詰まり、エンジンの振動が腿へ伝わった。リエンは尚人の背中に頬を寄せ、風の流れに合わせて身体を揺らした。腕の力が時々強くなり、尚人のシャツの背中が掌で少しだけつかまれる。


 大通りから少し入った建物が見えた。入口の上に、白い英字でGIONAMBOXINGCLUBと出ている。蛍光灯が一部だけちらつき、看板の端が薄く汚れていた。扉を開けた瞬間、空気が変わった。汗の匂い、ゴムの匂い、消毒液の匂いが混じり、乾いた打撃音が胸に響く。ミットを叩く音が短く跳ね、縄跳びの靴底が床を擦った。


 受付の男が目で気づき、端末を前へ出した。尚人は会員カードをかざし、軽く会釈した。男は画面を見て頷いたが、リエンを見ると一瞬だけ表情を変え、棚の奥から別のリストを引き出した。男は短く言った。「体験? それとも家族?」


 尚人は答えた。「同行者の登録だ。名前はリエン〈40〉、新しく会員カードを作ってくれ。請求は俺に回せ」


 リエンは小さく頭を下げた。背筋は伸びているのに、目だけが落ち着かない。若い会員の女が鏡の前で髪を束ね、グローブをはめているのが視界に入った。リエンは自分の腹のあたりを一度だけ押さえ、すぐに手を離した。


 ロッカー室は冷房が効いていた。リエンは用意されたTシャツに着替え、胸の位置を手早く整えた。布が張る音が小さくして、彼女は鏡を見て口を結んだ。尚人がバンテージを巻く横で、リエンは同じ布を手に取ったが、指の間に通すところで止まった。


 尚人は言った。「焦らなくていい。今日は動ける範囲で十分だ」


 リエンは頷いた。「今日は基本だけで十分です。縄跳びとシャドーを教えてください。体を引き締めたいんです。今のままだと、気持ちまで緩んでしまうから」


 ◇ ◇ ◇


 フロアへ戻ると、熱がある。人の汗で湿った空気が肌に貼りつき、床のゴムが薄く匂った。トレーナーが近づき、リエンの足元を見て言った。「最初は縄跳び。30秒ずつ。息が上がりすぎたら止める」


 リエンは縄を持ち、肩をすくめる癖が出た。最初の数回で縄が足に当たり、乾いた音が床に転がる。彼女は恥ずかしそうに笑い、頬がすぐ赤くなった。だが、諦めずに手首を小さく回し始めると、縄が一度だけ綺麗に通った。足裏が軽く弾み、靴底が規則正しく鳴った。


 リエンは息を吐きながら言った。「これ、思ったより苦しい」


 尚人は横で同じリズムを刻み、短く言った。「苦しいのは最初だけだ。身体が思い出す」


 30秒が終わると、リエンの首筋に汗が浮いた。冷房の効いたロッカーと違い、ここでは汗がすぐに形になる。髪の生え際が濡れ、Tシャツの背中に湿りが広がる。リエンは水を飲み、喉を鳴らした。冷えた水が胃に落ち、内側の熱が少し引いた。


 次はシャドーだった。トレーナーが言った。「顎を上げない。肩を固めない。ジャブだけでいい」


 リエンは拳を前へ出し、戻す。出して、戻す。最初は腕だけが動き、腰が遅れた。尚人は彼女の横に立ち、鏡越しに癖を見て言った。「足も一緒に動かす。拳を出したら、戻すのも同じ速さで」


 リエンは一度目を閉じ、次に目を開けた。ジャブが空気を切る音が小さく揃い始める。息が短くなり、胸が上下する。だが、その揺れを嫌がる様子はなかった。汗で布が肌に貼りつき、動いた分だけ自分の輪郭がはっきりするのを、彼女は確かめているようだった。


 ミットは軽く触れるだけにした。トレーナーが掌を出し、リエンの拳がそこへ当たる。乾いた音が1つ鳴るたび、リエンの目が少しずつ強くなる。最後にスクワットを数回だけ入れた。腿が震え、息が漏れたが、リエンは途中でやめなかった。


 終わると、リエンは壁際でタオルを首にかけ、汗を拭いた。頬が赤く、目が冴えている。口元だけがほどけた。


 リエンは尚人を見て言った。「会長さん。私、続けたい。少しずつでいい。ここへ来たら、家のことを忘れられる」


 尚人は頷いた。「続ければ変わる。身体は正直だ。今日は十分だ」


 受付へ戻る道すがら、リエンは何度も自分の腕を撫でた。汗で滑る肌を確かめるように、筋が動く感触を確かめるように。外へ出ると、湿った熱気が一気に戻ったが、リエンの背中はさっきより真っすぐだった。スクーターの後ろに乗ると、彼女は尚人の腰へ腕を回し、さっきより少しだけ強く抱いた。


 リエンは小さく言った。「会長さん。連れてきてくれて、ありがとう」


 尚人は返事を急がず、エンジンをかけた。振動が掌に戻り、街の音が広がる。その背中に、汗の匂いと石鹸の匂いが重なり、尚人は今日の午後がまだ続いていくのを感じていた。

食卓の湯気と冷房の乾いた風の間で、リエンの不安が言葉になる。ハイの癖を放置しないために、給料の渡し先を変える判断が出て、生活の芯が先に固まる。そこから先は、理屈よりも体温が前へ出る。抱きつく腕、唇の圧、背中に乗る重みが、部屋の空気を別のものにする。外へ出れば、街の熱気と排気の匂いが戻り、ジムの汗とゴムと消毒液が重なる。縄跳びとジャブで息が上がっても、リエンの目は曇らない。身体を動かすことで、家の中に溜めていたものが少しずつ抜け、背筋が真っすぐに戻っていく。その変化を、尚人は言葉を急がず背中で受け止めている。

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