第12話――「杖の先、冷蔵庫の灯」
最上階の台所に、故郷からの電話が入る。ミン・ハの父は回復し、杖で歩けるまで戻ったが、現場で重い物を持つことはできない。代わりに、手順と記録、温度と出荷の段取りを握る仕事ならできると言う。尚人は条件を明確にし、本人と会ってから工場へ連れて行く。冷蔵庫の灯の下で、現場を回すための「止める役」が増える。
夕方、台所の窓から湿った光が差し、リエン〈40〉は鍋の湯気を逃がすように換気扇を回していた。ミン・ハは食器棚の前で皿を拭き、布巾を軽く絞った。甘い果物の匂いの奥に、洗剤の匂いがわずかに残っている。
卓上の携帯が震え、短い着信音が鳴った。画面には故郷の番号が出ていた。ミン・ハは布巾で指先を拭き、受話器を耳に当てた。
「お父さん?」
電話の向こうで、息を整える気配がした。少し間を置いて、低い声が返る。
「ミンか。いま大丈夫か」
ミン・ハは背を壁に寄せ、声を落とした。
「大丈夫。お母さんもいるよ」
「右の腕と脚は、まだ思うように動かない。重い物は持てないし、長く立つと痺れる。だが、杖で外を歩けるようになった。医者にも、座ってできる仕事なら始めていいと言われた」
ミン・ハは喉の奥で息を飲んだ。
「よかった」
父はそのまま続けた。
「前の工場では工場長をしていた。仕入れ、洗い、切り分け、乾燥、梱包、出荷までの流れは分かっている。温度の癖も、書類の扱いも知っている。現場で箱を運ぶことはできない。だが、記録と確認、出荷の段取り、新人に手順を守らせることならできる。もし会長の工場で働けるなら、働きたい。お前の負担も軽くなる」
声は落ち着いていたが、語尾には力がこもっていた。崩れそうなものを押さえ込んでいるのが、ミン・ハにも分かった。
「尚人さんに話してみる。無理なら無理って言うけど、まず聞いてみる」
父は短く笑った。
「頼む。家に戻る道が欲しい。失礼のないように話す」
通話が切れたあと、ミン・ハは携帯を膝の上に置いたまま、数秒動かなかった。リエンが鍋の火を弱め、横目で見る。
「お父さん?」
「杖で歩けるまで戻ったって。重い物は無理だけど、座ってなら働けるって。尚人さんの工場で働きたいって言ってた」
リエンは濡れた手を布巾で拭き、静かにうなずいた。
「会長さんに頼もう。あなたがずっと送ってきた。家の恥じゃない。仕事をもらえるなら、やるべきだ」
その夜、尚人が食卓に来ると、リエンは皿を並べる手を止めた。
「尚人さん、お願いがあります。私の夫が、働きたいと言っています。事故の後、右半身に麻痺が残りましたが、最近リハビリで杖歩行まで戻りました。重い物は持てません。長く立つのも無理です。でも、果物加工の工場長をしていたので、流れと管理は分かります」
ミン・ハも続けた。
「現場作業はしません。記録とか、出荷の段取りとか、新人の手順の確認とか。できる範囲で働きたいって」
尚人は箸を置き、二人の顔を見た。
「働けるなら働いた方がいい。条件ははっきりさせる。重い箱は持たせない。長時間立たせない。座ってできる管理の仕事にする。現場の手は現場の者が動かす。だが、手順と記録を握る人間は必要だ」
リエンは背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
尚人は視線をミン・ハへ移した。
「明日、本人と話す。工場の中も見せる。できることと、できないことを本人の口で確かめる。その上で、管理担当として入ってもらう。ミン・ハ、お前の送金も少し楽になるだろう」
ミン・ハは目を伏せた。
「はい」
「変な遠慮はいらない。必要なら頼め」
食後、ミン・ハは父へ短いメッセージを送った。会って話すことになった、とだけ書いた。送信表示が出ると、胸の奥の重りが少しだけ軽くなった。
◇ ◇ ◇
翌朝、尚人がシャワーを終えて廊下へ出ると、台所から包丁の乾いた音がした。リエンは湯を沸かし、ミン・ハは果物の皮を薄く剥いている。窓の外は白く霞み、車列のクラクションが早い間隔で重なった。
インターホンが鳴った。モニターには、帽子を手にした男が映っている。ミン・ハが扉を開けると、父〈44〉が立っていた。左手に杖を握り、右肩が少し落ちている。歩幅は小さいが、足の置き方は慎重で、目は逸れていない。
一歩だけ前へ出て、帽子を取り、深く頭を下げた。
「グエン・ヴァン・ハイと申します。本日はお時間を頂き、ありがとうございます」
尚人が玄関に出た。父の姿勢と杖を見て、短くうなずく。
「尚人だ。中へ。座って話そう」
リビングの椅子に腰を下ろすと、ハイは杖を膝の横に立て、背筋を崩さなかった。水のグラスに手を伸ばす動きは少し遅れたが、手元は落ち着いている。
尚人は先に条件を確かめた。
「重い物は持てない。長く立つと痺れる。右手の細かい作業が遅い。ここまでは聞いた」
「はい。事実です。ですから、現場作業はできません。けれど、座ってなら記録と確認ができます。手順を見て、止めることもできます。私にできる範囲で働かせてください」
「前はどんな仕事をしていた」
ハイは目を伏せずに答えた。
「果物加工の工場で工場長でした。仕入れ、洗浄、切り分け、乾燥、梱包、出荷までの段取りを見ていました。事故のあと戻れず、雇い止めになりました。娘が送金し、妻も働いています。私は家で座っているだけでした。回復して杖で歩けるようになり、医者からも座ってできる仕事なら始めていいと言われました。会長の工場で、私に役目があるなら、雇って頂きたいです」
言い終えると、ハイはもう一度頭を下げた。必要なことだけを崩さず並べる話し方だった。
尚人は立ち上がった。
「工場を見よう。見てから決める」
外へ出ると、朝の熱気が顔にまとわりついた。車に乗るとすぐ渋滞の列に吸い込まれ、バイクが左右をすり抜ける。排気の匂いが窓から入り、信号ごとに車列が詰まったりほどけたりした。ハイは杖を両膝で挟み、揺れに合わせて体を固めないようにしていた。
工場の入口に着くと、甘い果物の匂いに消毒液の匂いが混ざった。換気扇の音が低く続き、床には水が乾きかけた跡が残っている。冷蔵庫の表示灯が点き、扉のゴムが少し白く曇って見えた。
「ここだ。あなたは荷に触らない。立ちっぱなしにもさせない。管理をやってもらう。できるか」
ハイは入口の温度表示を見たあと、尚人へ視線を戻した。
「会長、よろしければ一つだけ。温度計が入口に近いので、人の出入りで数字が揺れます。庫内にも一つ置くと、判断がぶれません」
「それは今日中にやる」
ハイは事務机の前に腰を下ろし、記録用紙の束を手に取った。紙の端が少し湿っている。
「記録が湿る場所に置かれています。数字が滲むと追えません。乾いた棚を決めて、そこだけに置きたいです。私が管理します」
「任せる」
奥では、作業員が袋を熱で封していた。ハイはしばらく見てから、尚人に目でうかがいを立てた。尚人がうなずく。
ハイは作業員の方へ向き直った。
「失礼します。封をしたあと、端を指で一度だけ触って確認して頂けますか。空気が入ると、あとで全部が無駄になります」
作業員が手を止めた。尚人が短く補う。
「今のは聞け。確認してから次へ行け」
ハイはラベルを見た。書式がまちまちで、数字の位置も揃っていない。
「ロットの書き方が乱れています。問い合わせが来たときに追えません。日付、品目、乾燥回数、担当の印。これだけに統一したいです」
「それもやれ」
ひと通り見終えると、尚人は事務所の椅子にハイを座らせた。ハイは息を整え、右脚を少し伸ばして痺れを逃がした。無理をした顔は見せないが、身体の限界を隠し切ってはいなかった。
しばらく見ていた尚人が、そこで決めた。
「雇う。肩書きは管理担当だ。現場の手は現場が動かす。あなたは止める。記録を残す。出荷の判断をまとめる。条件は厳守だ。重い物は触らない。立ちっぱなしはしない」
ハイは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。会長の工場で恥をかかせることはしません。身体の条件も守ります。できることを増やし、結果で返します。娘と妻の負担を減らしたいです。働かせてください」
リエンは唇を結び、目を伏せた。ミン・ハは黙って父の背中を見ていた。
「今日から来い。座れる机を用意する。記録棚を決めろ。形式を統一しろ。困ったら連絡しろ。ただし、毎回呼ぶな。自分で止めて、自分で直せ」
「はい。まず、記録と温度の管理から整えます」
帰りの車の中で、リエンは何度も小さく頭を下げた。ミン・ハは窓を見たまま、声を絞った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。仕事で返せ。工場は回る形にした。俺が毎日、細かいところまで見に行く必要はなくなった」
高層ビルに戻ると、廊下の空気が少し冷えて感じられた。尚人は最上階へ上がる前に足を止め、扉の並びを一度だけ見た。鍵穴の色、床の乾き具合、空調の音の混ざり方を確かめるように、目だけを動かした。
工場の責任を握る手が一つ増えた。尚人は、自分の時間が空くことを確かめ、何も言わずにエレベーターへ乗った。
第12話では、家族の事情が仕事の形に入ってくる。ハイは作業員としてではなく、温度と記録を守り、現場を止める判断を担う立場で迎えられる。冷蔵庫の灯、湿る紙、揃わないラベルといった細部が、管理の必要をそのまま示す。ミン・ハの胸の奥の重りが少し軽くなり、リエンは礼を重ね、尚人は工場が回る形を確認する。最上階へ戻る廊下の冷えが、配置替えの結果を静かに残す。




