第1話(後編)――「石鹸と針、仮小屋の夜」
焼け跡で働き口を得た尚人は、大沢源蔵の現場で仮小屋作りに加わる。一方、順子はお兼に連れられて闇市へ向かい、前日に聞いた村井の娘を探す。そこには、石鹸、針、糸、布切れを扱う女がいた。金が使えない1946年では、小さな石鹸や針が暮らしを支える道具になる。尚人は現場で寝られる小屋を整え、順子は闇市で物と人の流れを知る。二人はようやく、焼け跡の東京で一晩を越す場所を得る。
翌朝、東京の空は曇っていた。
お兼の小屋の外では、朝早くから人の声がしている。水を汲みに行く女がいる。焼け跡から釘を拾って戻る子どもがいる。鍋の中では、米粒の少ない湯が温められていた。腹を満たす量ではない。それでも、冷えた朝にはありがたい湯だった。
尚人は椀を受け取り、少しずつ飲んだ。
順子も隣で椀を持っていた。人前なので、母親として座っている。だが、周囲はよく見ていた。お兼の動き、出入りする女たち、荷物を抱えて通る男。誰が何を持ち、誰が何を探しているかを見ていた。
お兼が鍋の蓋を置いた。
「今日は母さんを闇市へ連れて行ってやるよ。昨日言った村井の娘、朝のうちならいるかもしれない」
順子はすぐに頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
お兼は尚人を見た。
「あんたは源蔵のところだろう」
「はい。今日も行きます」
「なら、母さんのことは私が見ておく。もっとも、私だって自分の腹を守るので精いっぱいだけどね」
「それで十分です」
お兼は鼻で笑った。
「復員さんにしては、礼の言い方がうまいね」
尚人は返事をしなかった。余計なことを言えば、年齢に合わない言葉が出る。ここでは、若い復員兵として黙っている方がよかった。
小屋を出る前、人目が切れた。
順子が尚人のそばへ寄った。
「尚人さん、私はお兼さんと闇市へ行きます」
「ああ。村井の娘に会えたら、品物より人を見ろ。石鹸を誰から仕入れているか、針を誰が買いに来るか。そこを覚えてこい」
「分かりました」
「土地の話が出たら聞いておけ。誰の家が焼けたか。誰が戻ってきたか。誰が勝手に小屋を建てたか。そこに仕事がある」
「尚人さんの代わりに見てきます」
「無理に聞き出すな。母親として困っている顔でいろ。買うかどうか迷ったら、その場では決めずに戻れ」
「承知しました」
足音が近づいた。
順子はすぐに母親の口調へ戻した。
「尚人、寒いから襟を立てて行きなさい。現場で無理をしてはいけないよ」
「分かった、母さん」
お兼が戻ってきた。
「親子でよく言うことを聞くねえ」
順子はほほ笑んだ。
「この子だけが戻ってきましたから」
尚人は小屋を出た。
風は昨日より強かった。焼け跡の地面を灰が流れている。通りには、すでに荷を背負った人が出ていた。尚人は軍服の襟を立て、大沢源蔵の現場へ向かった。
◇ ◇ ◇
源蔵の現場では、昨日の仮小屋が朝の風を受けていた。
壁には隙間がある。トタンの端が風で鳴っている。床は地面から浮かせてあるため、ぬかるみは避けていた。だが、入口の足元に灰と水がたまり、出入りすれば泥が中へ入る。
源蔵は腕を組んで小屋を見ていた。
「倉田、昨日の小屋だ。どう見る」
尚人は入口に立ち、屋根、床、壁、風の向きを順番に見た。
「入口の前に瓦を敷いた方がいいです。土のままだと、中まで泥が入ります。火を置くなら奥ではなく、入口に近い方がいい。奥に置くと煙が抜けません」
「火を中に入れる気か」
「小さな炭火です。寒さで体を悪くすれば、仕事にも出られません。ただし、壁際は危ない。トタンと板の間に熱がこもります」
源蔵は小屋の中をのぞいた。
「寝るだけなら、それでいいだろう」
「寝る人間は、夜中に咳もするし、動きます。隙間風が顔に当たる場所は避けた方がいい。頭は奥、足を入口側にします。風が入っても顔に当たりにくい」
源蔵は尚人を見た。
「お前、建てるだけじゃなく、人が寝る場所まで見るのか」
「人が寝られない小屋は、使えません」
近くで聞いていた男たちが顔を見合わせた。
源蔵は口の端をゆがめた。
「言うじゃねえか。なら、直してみろ」
「はい」
尚人は割れた瓦を集め、入口の前に並べた。人が踏むところだけでいい。大きな仕事ではない。だが、これで泥が入りにくくなる。次に、昨日梶原が置いていった半端板を使い、壁の大きな隙間をふさいだ。全部はふさげない。風が一番入るところから止めた。
男の一人が聞いた。
「全部ふさがねえのか」
「全部は無理だ。先に風が当たるところを止める。小さい隙間は、後で布やむしろでふさげる」
「なるほどな」
尚人は屋根も見た。
トタンの重なりは悪くない。だが、端の押さえが弱い。風で鳴るところを選び、曲がった釘を打ち直した。釘は貴重である。一本も無駄にできなかった。
源蔵は黙って見ていた。
昼前、梶原がまた荷車を引いてきた。今日は短い板の束と、曲がった釘を入れた缶を持っている。
「源蔵さん、昨日の若いのはいるか」
「いる。倉田、梶原だ」
尚人は手を止め、荷を見た。
梶原は缶を地面に置いた。
「これを見ろ。長い釘だけ分けてきた。短いのは別だ。これで文句はねえだろう」
尚人は釘を数本取った。錆びはあるが、折れてはいない。曲がりも直せる。
「使えます。長い釘は屋根と柱に回せます。短い釘は板の押さえです」
梶原は得意そうに鼻を鳴らした。
「ほらな。俺だって分けりゃ分けられるんだ」
源蔵が言った。
「なら最初から分けて持ってこい」
「手間がかかるんだよ」
尚人は板の束を見た。
「この板は、細く割れば壁の押さえに使えます。節の抜けたところは避ける。穴のあるものは、物置の内側なら使えます」
梶原は尚人を見た。
「お前がいると、こっちも手抜きができねえな」
「使えない物を混ぜれば、次に買ってもらえません」
「また商売の話か」
「商売です。今は釘一本でも、芋半分でも無駄にできません」
梶原は笑った。
「若いのに、嫌なことを言う」
源蔵も笑った。
「だから使える」
その言葉で、尚人は源蔵と梶原に必要とされ始めたと分かった。まだ職人ではない。身元も薄い復員兵である。それでも、二人は材を見る時、尚人の目を使い始めていた。
◇ ◇ ◇
そのころ、順子はお兼と闇市へ向かっていた。
通りには人が多かった。焼け跡の道に、戸板や木箱を並べた店が続いている。芋、干物、古着、煙草、欠けた茶碗、鍋の蓋、軍手、釘、石鹸のかけら。どれも小さく、汚れている。だが、この町では必要な品だった。
お兼は人混みの間を迷わず進んだ。
「母さん、ここでは目をきょろきょろさせすぎるんじゃないよ。欲しい顔をすれば高くなる。困っている顔をしすぎれば、悪い奴が寄ってくる」
「分かりました」
「分かった顔をしてるね。あんた、ただの後家じゃないだろう」
順子は足を止めなかった。
「夫を亡くして、息子だけが戻りました。今はそれだけです」
お兼は横目で順子を見た。
「まあ、今はそれでいいさ」
しばらく歩くと、古い木箱を二つ並べた場所が見えた。
木箱の上には、石鹸のかけら、針、糸巻き、布切れ、欠けた櫛、小さなはさみ、錆びたボタンが並んでいる。品は少ないが、置き方が整っていた。ひとつひとつを見やすく分け、濡れないよう下に布を敷いている。
そこに座っていたのは、三十歳前後の女だった。
髪を後ろで結び、もんぺに古い上着を重ねている。頬は細いが、目はよく動く。客の手元、持ち物、足元、背後の人の動きまで見ている。
お兼が声をかけた。
「静江、生きてたね」
女が顔を上げた。
「お兼さん。今日は何を探してるの」
「この人が、村井の荒物屋を探してる」
女の目が順子へ移った。
「村井は私です。村井静江。店は焼けました」
順子は頭を下げた。
「倉田順子と申します。夫の佑馬を戦争で亡くし、この子だけが戻りました。新橋の近くに親戚の村井の家があると聞いて、探していました」
静江はすぐには答えなかった。
順子の顔、服、手、足元を見る。次に、お兼を見た。
「お兼さんの知り合い?」
「昨日、うちに転がり込んだ。嘘もあるだろうけど、悪い嘘じゃない」
順子は黙っていた。
静江は小さく笑った。
「この町で、嘘のない人間なんて先に死にます」
順子は返事をしなかった。
静江は木箱の上の石鹸を並べ直した。
「村井の親戚なら、もう大きな家はありません。店は焼けました。父は空襲のあと体を悪くして、今は親類のところです。母は亡くなりました。私はここで細かい物を扱っています」
「ご無事でよかった」
「無事と言えるほど楽ではありません。でも、座る場所はあります」
順子は、木箱の上を見た。
石鹸は大きな塊ではない。割れたもの、削られたもの、端だけ残ったものが並んでいる。針は数本ずつ布に刺され、糸は黒、白、茶が少しずつ巻かれていた。
「針と糸を分けていただきたいのです。息子の服を直したいので」
静江は順子の持ち物を見た。
「金ですか、物ですか」
「物です」
順子はバッグから、薄いハンカチを取り出した。1986年から持ってきたものだった。派手ではないが、布の質は良い。順子は迷わず差し出した。
「これで、針と糸、それから石鹸を少しだけいただけませんか」
静江はハンカチを指で触った。
「いい布ですね」
「夫がいたころの物です」
順子はそう言った。
全部が本当ではない。だが、嘘だけでもない。静江はそれ以上聞かなかった。
「針を二本。黒い糸と白い糸を少し。石鹸はこの小さいのなら出せます」
順子は頭を下げた。
「助かります」
静江は品を小さな布に包んで渡した。
「石鹸は全部使わないで。手を洗うにも、少しこすれば十分です。針は落としたら戻りません。床で使う時は、下に布を敷いてください」
「覚えておきます」
順子は包みを受け取った。
お兼が横から言った。
「静江、この母さんは親戚探しだけじゃなく、働き口も探してる。息子は源蔵のところへ入った」
「大沢源蔵さんの現場ですか」
静江の目が少し鋭くなった。
「なら、梶原さんも出入りしていますね」
「知っているのですか」
「焼け残りの材を扱う人は、みんな知っています。梶原さんは目が利くけど、混ぜる人です。使える材と薪を一緒にして売る。源蔵さんは怒鳴る。いつものことです」
順子はその名を頭に入れた。
「材木は、梶原さんだけが扱っているのですか」
「いいえ。子どもが釘を拾い、女が金物を拾い、男が柱を抜く。最後に、梶原さんみたいな人が集めて売るんです。どこから来た物か、聞きすぎない方がいい物もあります」
「土地はどうですか」
静江の手が止まった。
「土地?」
「焼けた家の跡に、小屋が建っています。元の家の人が戻ったら、揉めるのではないかと思いました」
静江は順子をじっと見た。
「母さん、そこを見るんですか」
「戻る家がないので、人ごとではありません」
静江は頷いた。
「揉めています。空襲で家が焼けた人、疎開から戻ってくる人、戦地から戻る人、戻らない人。誰の土地か分からない場所に、勝手に小屋が建つ。持ち主が戻ると怒鳴り合いです。役所へ行っても、すぐには片づかない」
「そうですか」
「でも、揉める場所ばかりではありません。しばらく戻れない家もある。年寄りだけの家もある。そういうところは、誰かが見てくれれば助かることもある」
順子は何も書き留めなかった。ただ、静江の言葉を覚えた。
「教えていただき、ありがとうございます」
静江は石鹸を並べ直しながら言った。
「親戚を探すなら、ここへまた来てください。村井の名前で聞けば、誰かが何か言うかもしれない。ただし、知らない男について行ってはいけません。母さん一人なら、なおさらです」
「分かりました」
お兼が笑った。
「ほら見な。静江は口数は少ないが、役に立つ」
「お兼さんほど口は悪くありません」
「それが悪いんだよ。口の悪さは身を守る」
静江の口元がわずかにゆるんだ。
順子は包みを懐に入れた。
針二本、糸少し、石鹸のかけら。
1986年なら、どれも小さな買い物である。だが今は違う。この小さな物で、服を直せる。手を洗える。人前に出る姿を整えられる。焼け跡で暮らすための道具だった。
◇ ◇ ◇
夕方、順子はお兼の小屋へ戻った。
尚人はまだ現場から戻っていない。お兼は鍋のそばに座り、拾ってきた菜の切れ端を刻んでいた。順子は水桶を置き、懐から包みを出した。
「針と糸を分けてもらえました。石鹸も少し」
お兼は包みを見た。
「静江に会えたかい」
「はい。村井静江さん。石鹸と針を扱っていました」
「使える女だろう」
「はい。物の流れをよく知っています」
「それを見てくるあんたも、ただの母さんじゃないね」
順子は包みをしまった。
「今は、息子の服を直す母です」
お兼は笑った。
「うまいことを言う」
日が落ちるころ、尚人が戻ってきた。
手は黒く、軍服には灰と木屑がついている。だが、顔には朝の不安がなかった。今日も働き口を失わずに済んだ男の顔だった。
「お帰り、尚人」
順子は母親の声で迎えた。
「ただいま、母さん」
お兼が鍋をかき混ぜながら言った。
「源蔵から聞いたよ。仮小屋の隅を使っていいそうだ。今夜から移りな。うちにいても狭いだけだからね」
尚人は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は私じゃなく源蔵に言いな。あんたが働いたからだよ」
順子は尚人の袖を見た。
「肩がまた引きつっています。今夜、直しましょう」
人前では、それは母親の言葉だった。
尚人も息子として頷いた。
「分かった」
お兼は鍋から薄い汁を二椀分けた。具は少ない。だが、温かかった。尚人と順子はそれを受け取り、腹へ入れた。食事と呼ぶには足りない。それでも、何も食べられない夜よりはずっとよかった。
食べ終えると、二人はお兼に頭を下げ、仮小屋へ向かった。
仮小屋は、源蔵の現場の端にあった。夕闇の中で見ると、壁の隙間から細い光が漏れている。中では、先に入った男がひとり、むしろを敷いていた。源蔵が入口に立っている。
「来たか」
「はい」
「奥の隅を使え。母さんと二人なら、そこだ。火は入口の近くに置く。倒すなよ。火事になったら全員終わりだ」
「分かりました」
源蔵は順子を見た。
「母さん、寒けりゃむしろを二枚重ねろ。だが、勝手に持ち出すな」
順子は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は息子に言え。こいつが役に立った」
源蔵はそれだけ言うと、外へ出ていった。
仮小屋の中は狭かった。
床は地面より少し高いが、板の間から冷気が上がってくる。壁の隙間には半端板が打たれ、むしろが掛けられている。完全な住まいではない。風も入る。だが、屋根があり、地面に直接寝ずに済む。入口の近くには、小さな炭火が置かれていた。煙は上の隙間から抜けている。
順子は奥の隅に座った。
人目があるので、母として尚人の荷を整える。尚人は軍服の上着を脱ぎ、畳んで渡した。順子は懐から、村井静江から得た包みを出した。
「針が手に入りました」
声は母親のものだった。
近くにいた男がちらりと見た。
「いいな。針は今、なかなか出ねえ」
順子は穏やかに答えた。
「親戚のつてで、少しだけ分けてもらいました」
男はそれ以上聞かなかった。
順子は布を広げ、針を一本取った。下に布を敷き、落としても見つかるようにする。静江に言われた通りである。黒い糸を針に通し、尚人の軍服の肩を直し始めた。
尚人は炭火のそばに座り、手を温めた。手には細かな傷がいくつもあった。木片で切ったところ、釘で擦ったところ、瓦で傷ついたところである。
順子は縫いながら言った。
「尚人、手を出しなさい。石鹸があります。汚れを落とさないと、傷が悪くなるわ」
「あとでいい」
「今です」
母親の口調だった。周りの男が笑った。
「母さんには勝てねえな、復員さん」
尚人は黙って手を出した。
順子は小さな石鹸を水に濡らし、尚人の指先を洗った。石鹸はすぐに減る。強くこすらず、汚れのひどいところだけを落とす。黒い水が小さな器の底にたまった。
人前では、母が息子の手を洗っているだけだった。
だが、順子の指は震えていた。傷の多さを見れば、尚人がどれだけ働いたか分かる。順子はそれを口に出さなかった。ここで感情を見せれば、周囲に見られる。
やがて、近くの男が外へ出た。
入口にいた者も火の様子を見に行った。
短い間だけ、二人の周りから人目が消えた。
順子は小さな声で言った。
「尚人さん、村井静江という女性に会えました」
「話せ」
「石鹸、針、糸、布切れを扱っています。梶原さんのことも知っていました。焼け残りの材は、子どもや女が拾い、梶原さんのような人が集めて売るそうです。土地のことも聞けました。戻る人、戻れない人、勝手に小屋を建てた人で、すでに揉めているようです」
尚人は手を拭きながら聞いた。
「やはりな」
「役所へ行っても、すぐには片づかないそうです」
「そこに仕事が出る。だが、まだ動くな。俺たちは身元が薄い。先に源蔵と梶原の信用を固める。お前は静江とお兼のつながりを切るな」
「はい」
「石鹸と針は大事に使え。今は金より役に立つ」
「分かっています」
順子は尚人の手を見た。
「傷が増えています」
「現場に入ればこうなる」
「それでも、明日も行くのですね」
「行く。行かなければ食えない」
順子は頷いた。
「では、服だけでも直します。破れたところをそのままにしておくと、また引っかかります」
「頼む」
尚人は答えた。
足音が戻ってきた。
順子はすぐ母親の口調へ戻した。
「ほら、尚人。袖を通してみなさい。肩が動くか見ます」
「分かった、母さん」
尚人は軍服を羽織った。
肩はまだ少しきつい。だが、縫い目を直したことで、引きつれは減っていた。明日の現場でも動ける。
順子は針を布に刺し、包みを懐にしまった。
炭火が赤く光っている。外では風がトタンを鳴らしていた。隙間から冷たい風は入る。床も冷える。だが、二人は地面に倒れているわけではない。焼け跡をあてもなく歩いているわけでもない。
今夜は屋根があった。
火があった。
針と石鹸があった。
明日行く現場があった。
尚人は壁にもたれ、順子へ言った。
「寝ろ。明日も動く」
順子は頷いた。
「はい、尚人さん」
周りの者には聞こえない声だった。
すぐに、順子は母親の声に戻した。
「尚人、寒ければこっちのむしろを使いなさい」
「大丈夫だ、母さん」
仮小屋の中で、誰かが咳をした。
外では、焼け跡の風がまだ鳴っている。遠くで電車の音がした。昨日と同じ荒い音だった。
1986年の財布は、まだ使えない。
だが、1946年の夜を越すための道具は手に入った。
第六章第1話後編では、順子がお兼に連れられて闇市へ行き、村井の娘である村井静江と出会う。静江は石鹸、針、糸、布切れを扱っており、順子はハンカチと引き換えに針と糸、小さな石鹸を得る。そこで、焼け跡では材木、釘、土地、人の噂がつながって流れていることも知る。一方、尚人は源蔵の現場で仮小屋を直し、人が眠れる場所として整える。夜、二人は仮小屋の隅で軍服を直し、手を洗い、明日へつながる最低限の暮らしを作る。1986年の財布はまだ使えないが、石鹸と針、屋根と火、そして働ける現場が手に入った。




