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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第1話(後編)――「石鹸と針、仮小屋の夜」

焼け跡で働き口を得た尚人は、大沢源蔵の現場で仮小屋作りに加わる。一方、順子はお兼に連れられて闇市へ向かい、前日に聞いた村井の娘を探す。そこには、石鹸、針、糸、布切れを扱う女がいた。金が使えない1946年では、小さな石鹸や針が暮らしを支える道具になる。尚人は現場で寝られる小屋を整え、順子は闇市で物と人の流れを知る。二人はようやく、焼け跡の東京で一晩を越す場所を得る。

 翌朝、東京の空は曇っていた。


 お兼の小屋の外では、朝早くから人の声がしている。水を汲みに行く女がいる。焼け跡から釘を拾って戻る子どもがいる。鍋の中では、米粒の少ない湯が温められていた。腹を満たす量ではない。それでも、冷えた朝にはありがたい湯だった。


 尚人は椀を受け取り、少しずつ飲んだ。


 順子も隣で椀を持っていた。人前なので、母親として座っている。だが、周囲はよく見ていた。お兼の動き、出入りする女たち、荷物を抱えて通る男。誰が何を持ち、誰が何を探しているかを見ていた。


 お兼が鍋の蓋を置いた。


「今日は母さんを闇市へ連れて行ってやるよ。昨日言った村井の娘、朝のうちならいるかもしれない」


 順子はすぐに頭を下げた。


「ありがとうございます。助かります」


 お兼は尚人を見た。


「あんたは源蔵のところだろう」


「はい。今日も行きます」


「なら、母さんのことは私が見ておく。もっとも、私だって自分の腹を守るので精いっぱいだけどね」


「それで十分です」


 お兼は鼻で笑った。


「復員さんにしては、礼の言い方がうまいね」


 尚人は返事をしなかった。余計なことを言えば、年齢に合わない言葉が出る。ここでは、若い復員兵として黙っている方がよかった。


 小屋を出る前、人目が切れた。


 順子が尚人のそばへ寄った。


「尚人さん、私はお兼さんと闇市へ行きます」


「ああ。村井の娘に会えたら、品物より人を見ろ。石鹸を誰から仕入れているか、針を誰が買いに来るか。そこを覚えてこい」


「分かりました」


「土地の話が出たら聞いておけ。誰の家が焼けたか。誰が戻ってきたか。誰が勝手に小屋を建てたか。そこに仕事がある」


「尚人さんの代わりに見てきます」


「無理に聞き出すな。母親として困っている顔でいろ。買うかどうか迷ったら、その場では決めずに戻れ」


「承知しました」


 足音が近づいた。


 順子はすぐに母親の口調へ戻した。


「尚人、寒いから襟を立てて行きなさい。現場で無理をしてはいけないよ」


「分かった、母さん」


 お兼が戻ってきた。


「親子でよく言うことを聞くねえ」


 順子はほほ笑んだ。


「この子だけが戻ってきましたから」


 尚人は小屋を出た。


 風は昨日より強かった。焼け跡の地面を灰が流れている。通りには、すでに荷を背負った人が出ていた。尚人は軍服の襟を立て、大沢源蔵の現場へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 源蔵の現場では、昨日の仮小屋が朝の風を受けていた。


 壁には隙間がある。トタンの端が風で鳴っている。床は地面から浮かせてあるため、ぬかるみは避けていた。だが、入口の足元に灰と水がたまり、出入りすれば泥が中へ入る。


 源蔵は腕を組んで小屋を見ていた。


「倉田、昨日の小屋だ。どう見る」


 尚人は入口に立ち、屋根、床、壁、風の向きを順番に見た。


「入口の前に瓦を敷いた方がいいです。土のままだと、中まで泥が入ります。火を置くなら奥ではなく、入口に近い方がいい。奥に置くと煙が抜けません」


「火を中に入れる気か」


「小さな炭火です。寒さで体を悪くすれば、仕事にも出られません。ただし、壁際は危ない。トタンと板の間に熱がこもります」


 源蔵は小屋の中をのぞいた。


「寝るだけなら、それでいいだろう」


「寝る人間は、夜中に咳もするし、動きます。隙間風が顔に当たる場所は避けた方がいい。頭は奥、足を入口側にします。風が入っても顔に当たりにくい」


 源蔵は尚人を見た。


「お前、建てるだけじゃなく、人が寝る場所まで見るのか」


「人が寝られない小屋は、使えません」


 近くで聞いていた男たちが顔を見合わせた。


 源蔵は口の端をゆがめた。


「言うじゃねえか。なら、直してみろ」


「はい」


 尚人は割れた瓦を集め、入口の前に並べた。人が踏むところだけでいい。大きな仕事ではない。だが、これで泥が入りにくくなる。次に、昨日梶原が置いていった半端板を使い、壁の大きな隙間をふさいだ。全部はふさげない。風が一番入るところから止めた。


 男の一人が聞いた。


「全部ふさがねえのか」


「全部は無理だ。先に風が当たるところを止める。小さい隙間は、後で布やむしろでふさげる」


「なるほどな」


 尚人は屋根も見た。


 トタンの重なりは悪くない。だが、端の押さえが弱い。風で鳴るところを選び、曲がった釘を打ち直した。釘は貴重である。一本も無駄にできなかった。


 源蔵は黙って見ていた。


 昼前、梶原がまた荷車を引いてきた。今日は短い板の束と、曲がった釘を入れた缶を持っている。


「源蔵さん、昨日の若いのはいるか」


「いる。倉田、梶原だ」


 尚人は手を止め、荷を見た。


 梶原は缶を地面に置いた。


「これを見ろ。長い釘だけ分けてきた。短いのは別だ。これで文句はねえだろう」


 尚人は釘を数本取った。錆びはあるが、折れてはいない。曲がりも直せる。


「使えます。長い釘は屋根と柱に回せます。短い釘は板の押さえです」


 梶原は得意そうに鼻を鳴らした。


「ほらな。俺だって分けりゃ分けられるんだ」


 源蔵が言った。


「なら最初から分けて持ってこい」


「手間がかかるんだよ」


 尚人は板の束を見た。


「この板は、細く割れば壁の押さえに使えます。節の抜けたところは避ける。穴のあるものは、物置の内側なら使えます」


 梶原は尚人を見た。


「お前がいると、こっちも手抜きができねえな」


「使えない物を混ぜれば、次に買ってもらえません」


「また商売の話か」


「商売です。今は釘一本でも、芋半分でも無駄にできません」


 梶原は笑った。


「若いのに、嫌なことを言う」


 源蔵も笑った。


「だから使える」


 その言葉で、尚人は源蔵と梶原に必要とされ始めたと分かった。まだ職人ではない。身元も薄い復員兵である。それでも、二人は材を見る時、尚人の目を使い始めていた。


 ◇ ◇ ◇


 そのころ、順子はお兼と闇市へ向かっていた。


 通りには人が多かった。焼け跡の道に、戸板や木箱を並べた店が続いている。芋、干物、古着、煙草、欠けた茶碗、鍋の蓋、軍手、釘、石鹸のかけら。どれも小さく、汚れている。だが、この町では必要な品だった。


 お兼は人混みの間を迷わず進んだ。


「母さん、ここでは目をきょろきょろさせすぎるんじゃないよ。欲しい顔をすれば高くなる。困っている顔をしすぎれば、悪い奴が寄ってくる」


「分かりました」


「分かった顔をしてるね。あんた、ただの後家じゃないだろう」


 順子は足を止めなかった。


「夫を亡くして、息子だけが戻りました。今はそれだけです」


 お兼は横目で順子を見た。


「まあ、今はそれでいいさ」


 しばらく歩くと、古い木箱を二つ並べた場所が見えた。


 木箱の上には、石鹸のかけら、針、糸巻き、布切れ、欠けた櫛、小さなはさみ、錆びたボタンが並んでいる。品は少ないが、置き方が整っていた。ひとつひとつを見やすく分け、濡れないよう下に布を敷いている。


 そこに座っていたのは、三十歳前後の女だった。


 髪を後ろで結び、もんぺに古い上着を重ねている。頬は細いが、目はよく動く。客の手元、持ち物、足元、背後の人の動きまで見ている。


 お兼が声をかけた。


「静江、生きてたね」


 女が顔を上げた。


「お兼さん。今日は何を探してるの」


「この人が、村井の荒物屋を探してる」


 女の目が順子へ移った。


「村井は私です。村井静江。店は焼けました」


 順子は頭を下げた。


「倉田順子と申します。夫の佑馬を戦争で亡くし、この子だけが戻りました。新橋の近くに親戚の村井の家があると聞いて、探していました」


 静江はすぐには答えなかった。


 順子の顔、服、手、足元を見る。次に、お兼を見た。


「お兼さんの知り合い?」


「昨日、うちに転がり込んだ。嘘もあるだろうけど、悪い嘘じゃない」


 順子は黙っていた。


 静江は小さく笑った。


「この町で、嘘のない人間なんて先に死にます」


 順子は返事をしなかった。


 静江は木箱の上の石鹸を並べ直した。


「村井の親戚なら、もう大きな家はありません。店は焼けました。父は空襲のあと体を悪くして、今は親類のところです。母は亡くなりました。私はここで細かい物を扱っています」


「ご無事でよかった」


「無事と言えるほど楽ではありません。でも、座る場所はあります」


 順子は、木箱の上を見た。


 石鹸は大きな塊ではない。割れたもの、削られたもの、端だけ残ったものが並んでいる。針は数本ずつ布に刺され、糸は黒、白、茶が少しずつ巻かれていた。


「針と糸を分けていただきたいのです。息子の服を直したいので」


 静江は順子の持ち物を見た。


「金ですか、物ですか」


「物です」


 順子はバッグから、薄いハンカチを取り出した。1986年から持ってきたものだった。派手ではないが、布の質は良い。順子は迷わず差し出した。


「これで、針と糸、それから石鹸を少しだけいただけませんか」


 静江はハンカチを指で触った。


「いい布ですね」


「夫がいたころの物です」


 順子はそう言った。


 全部が本当ではない。だが、嘘だけでもない。静江はそれ以上聞かなかった。


「針を二本。黒い糸と白い糸を少し。石鹸はこの小さいのなら出せます」


 順子は頭を下げた。


「助かります」


 静江は品を小さな布に包んで渡した。


「石鹸は全部使わないで。手を洗うにも、少しこすれば十分です。針は落としたら戻りません。床で使う時は、下に布を敷いてください」


「覚えておきます」


 順子は包みを受け取った。


 お兼が横から言った。


「静江、この母さんは親戚探しだけじゃなく、働き口も探してる。息子は源蔵のところへ入った」


「大沢源蔵さんの現場ですか」


 静江の目が少し鋭くなった。


「なら、梶原さんも出入りしていますね」


「知っているのですか」


「焼け残りの材を扱う人は、みんな知っています。梶原さんは目が利くけど、混ぜる人です。使える材と薪を一緒にして売る。源蔵さんは怒鳴る。いつものことです」


 順子はその名を頭に入れた。


「材木は、梶原さんだけが扱っているのですか」


「いいえ。子どもが釘を拾い、女が金物を拾い、男が柱を抜く。最後に、梶原さんみたいな人が集めて売るんです。どこから来た物か、聞きすぎない方がいい物もあります」


「土地はどうですか」


 静江の手が止まった。


「土地?」


「焼けた家の跡に、小屋が建っています。元の家の人が戻ったら、揉めるのではないかと思いました」


 静江は順子をじっと見た。


「母さん、そこを見るんですか」


「戻る家がないので、人ごとではありません」


 静江は頷いた。


「揉めています。空襲で家が焼けた人、疎開から戻ってくる人、戦地から戻る人、戻らない人。誰の土地か分からない場所に、勝手に小屋が建つ。持ち主が戻ると怒鳴り合いです。役所へ行っても、すぐには片づかない」


「そうですか」


「でも、揉める場所ばかりではありません。しばらく戻れない家もある。年寄りだけの家もある。そういうところは、誰かが見てくれれば助かることもある」


 順子は何も書き留めなかった。ただ、静江の言葉を覚えた。


「教えていただき、ありがとうございます」


 静江は石鹸を並べ直しながら言った。


「親戚を探すなら、ここへまた来てください。村井の名前で聞けば、誰かが何か言うかもしれない。ただし、知らない男について行ってはいけません。母さん一人なら、なおさらです」


「分かりました」


 お兼が笑った。


「ほら見な。静江は口数は少ないが、役に立つ」


「お兼さんほど口は悪くありません」


「それが悪いんだよ。口の悪さは身を守る」


 静江の口元がわずかにゆるんだ。


 順子は包みを懐に入れた。


 針二本、糸少し、石鹸のかけら。


 1986年なら、どれも小さな買い物である。だが今は違う。この小さな物で、服を直せる。手を洗える。人前に出る姿を整えられる。焼け跡で暮らすための道具だった。


 ◇ ◇ ◇


 夕方、順子はお兼の小屋へ戻った。


 尚人はまだ現場から戻っていない。お兼は鍋のそばに座り、拾ってきた菜の切れ端を刻んでいた。順子は水桶を置き、懐から包みを出した。


「針と糸を分けてもらえました。石鹸も少し」


 お兼は包みを見た。


「静江に会えたかい」


「はい。村井静江さん。石鹸と針を扱っていました」


「使える女だろう」


「はい。物の流れをよく知っています」


「それを見てくるあんたも、ただの母さんじゃないね」


 順子は包みをしまった。


「今は、息子の服を直す母です」


 お兼は笑った。


「うまいことを言う」


 日が落ちるころ、尚人が戻ってきた。


 手は黒く、軍服には灰と木屑がついている。だが、顔には朝の不安がなかった。今日も働き口を失わずに済んだ男の顔だった。


「お帰り、尚人」


 順子は母親の声で迎えた。


「ただいま、母さん」


 お兼が鍋をかき混ぜながら言った。


「源蔵から聞いたよ。仮小屋の隅を使っていいそうだ。今夜から移りな。うちにいても狭いだけだからね」


 尚人は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は私じゃなく源蔵に言いな。あんたが働いたからだよ」


 順子は尚人の袖を見た。


「肩がまた引きつっています。今夜、直しましょう」


 人前では、それは母親の言葉だった。


 尚人も息子として頷いた。


「分かった」


 お兼は鍋から薄い汁を二椀分けた。具は少ない。だが、温かかった。尚人と順子はそれを受け取り、腹へ入れた。食事と呼ぶには足りない。それでも、何も食べられない夜よりはずっとよかった。


 食べ終えると、二人はお兼に頭を下げ、仮小屋へ向かった。


 仮小屋は、源蔵の現場の端にあった。夕闇の中で見ると、壁の隙間から細い光が漏れている。中では、先に入った男がひとり、むしろを敷いていた。源蔵が入口に立っている。


「来たか」


「はい」


「奥の隅を使え。母さんと二人なら、そこだ。火は入口の近くに置く。倒すなよ。火事になったら全員終わりだ」


「分かりました」


 源蔵は順子を見た。


「母さん、寒けりゃむしろを二枚重ねろ。だが、勝手に持ち出すな」


 順子は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は息子に言え。こいつが役に立った」


 源蔵はそれだけ言うと、外へ出ていった。


 仮小屋の中は狭かった。


 床は地面より少し高いが、板の間から冷気が上がってくる。壁の隙間には半端板が打たれ、むしろが掛けられている。完全な住まいではない。風も入る。だが、屋根があり、地面に直接寝ずに済む。入口の近くには、小さな炭火が置かれていた。煙は上の隙間から抜けている。


 順子は奥の隅に座った。


 人目があるので、母として尚人の荷を整える。尚人は軍服の上着を脱ぎ、畳んで渡した。順子は懐から、村井静江から得た包みを出した。


「針が手に入りました」


 声は母親のものだった。


 近くにいた男がちらりと見た。


「いいな。針は今、なかなか出ねえ」


 順子は穏やかに答えた。


「親戚のつてで、少しだけ分けてもらいました」


 男はそれ以上聞かなかった。


 順子は布を広げ、針を一本取った。下に布を敷き、落としても見つかるようにする。静江に言われた通りである。黒い糸を針に通し、尚人の軍服の肩を直し始めた。


 尚人は炭火のそばに座り、手を温めた。手には細かな傷がいくつもあった。木片で切ったところ、釘で擦ったところ、瓦で傷ついたところである。


 順子は縫いながら言った。


「尚人、手を出しなさい。石鹸があります。汚れを落とさないと、傷が悪くなるわ」


「あとでいい」


「今です」


 母親の口調だった。周りの男が笑った。


「母さんには勝てねえな、復員さん」


 尚人は黙って手を出した。


 順子は小さな石鹸を水に濡らし、尚人の指先を洗った。石鹸はすぐに減る。強くこすらず、汚れのひどいところだけを落とす。黒い水が小さな器の底にたまった。


 人前では、母が息子の手を洗っているだけだった。


 だが、順子の指は震えていた。傷の多さを見れば、尚人がどれだけ働いたか分かる。順子はそれを口に出さなかった。ここで感情を見せれば、周囲に見られる。


 やがて、近くの男が外へ出た。


 入口にいた者も火の様子を見に行った。


 短い間だけ、二人の周りから人目が消えた。


 順子は小さな声で言った。


「尚人さん、村井静江という女性に会えました」


「話せ」


「石鹸、針、糸、布切れを扱っています。梶原さんのことも知っていました。焼け残りの材は、子どもや女が拾い、梶原さんのような人が集めて売るそうです。土地のことも聞けました。戻る人、戻れない人、勝手に小屋を建てた人で、すでに揉めているようです」


 尚人は手を拭きながら聞いた。


「やはりな」


「役所へ行っても、すぐには片づかないそうです」


「そこに仕事が出る。だが、まだ動くな。俺たちは身元が薄い。先に源蔵と梶原の信用を固める。お前は静江とお兼のつながりを切るな」


「はい」


「石鹸と針は大事に使え。今は金より役に立つ」


「分かっています」


 順子は尚人の手を見た。


「傷が増えています」


「現場に入ればこうなる」


「それでも、明日も行くのですね」


「行く。行かなければ食えない」


 順子は頷いた。


「では、服だけでも直します。破れたところをそのままにしておくと、また引っかかります」


「頼む」


 尚人は答えた。


 足音が戻ってきた。


 順子はすぐ母親の口調へ戻した。


「ほら、尚人。袖を通してみなさい。肩が動くか見ます」


「分かった、母さん」


 尚人は軍服を羽織った。


 肩はまだ少しきつい。だが、縫い目を直したことで、引きつれは減っていた。明日の現場でも動ける。


 順子は針を布に刺し、包みを懐にしまった。


 炭火が赤く光っている。外では風がトタンを鳴らしていた。隙間から冷たい風は入る。床も冷える。だが、二人は地面に倒れているわけではない。焼け跡をあてもなく歩いているわけでもない。


 今夜は屋根があった。


 火があった。


 針と石鹸があった。


 明日行く現場があった。


 尚人は壁にもたれ、順子へ言った。


「寝ろ。明日も動く」


 順子は頷いた。


「はい、尚人さん」


 周りの者には聞こえない声だった。


 すぐに、順子は母親の声に戻した。


「尚人、寒ければこっちのむしろを使いなさい」


「大丈夫だ、母さん」


 仮小屋の中で、誰かが咳をした。


 外では、焼け跡の風がまだ鳴っている。遠くで電車の音がした。昨日と同じ荒い音だった。


 1986年の財布は、まだ使えない。


 だが、1946年の夜を越すための道具は手に入った。

第六章第1話後編では、順子がお兼に連れられて闇市へ行き、村井の娘である村井静江と出会う。静江は石鹸、針、糸、布切れを扱っており、順子はハンカチと引き換えに針と糸、小さな石鹸を得る。そこで、焼け跡では材木、釘、土地、人の噂がつながって流れていることも知る。一方、尚人は源蔵の現場で仮小屋を直し、人が眠れる場所として整える。夜、二人は仮小屋の隅で軍服を直し、手を洗い、明日へつながる最低限の暮らしを作る。1986年の財布はまだ使えないが、石鹸と針、屋根と火、そして働ける現場が手に入った。

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