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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第1話(中編)――「瓦礫を運ぶ復員兵」

焼け跡で一夜を越えた尚人と順子は、まず暮らしを立てるために働き口を探す。お兼の紹介で、尚人は焼け跡の片づけと仮小屋作りを請け負う親方の現場へ入る。身分は、横須賀から戻った復員兵の若い男である。最初は瓦礫運びから始まったが、尚人は焼け残った柱、雨水の流れ、材木の使い方、危ない積み方を見抜き、親方と資材屋の目を引く。金も家もない二人に、ようやく働ける場所が見え始める。

 翌朝、尚人は煙の匂いで目を覚ました。


 お兼の小屋の中は暗かった。板切れとトタンを寄せた壁の隙間から、白い朝の光が細く入っている。土の床にはむしろが敷かれ、夜のあいだ火を守っていた炭が、赤く小さく残っていた。


 順子は火のそばに座っていた。


 もんぺと羽織の姿は、昨日より少し体になじんでいる。だが、顔には疲れがあった。夜中に何度も目を覚ましたのだろう。お兼が貸してくれた薄い布を膝にかけ、手を火へ向けていた。


 お兼は鍋の前にしゃがみ、湯を温めていた。中身はほとんど湯である。ほんの少しだけ米の粒が沈み、塩気があるだけだった。


「起きたかい、復員さん」


 お兼が言った。


 尚人は体を起こした。背中が痛い。土の床にむしろだけでは、体の芯まで冷える。だが、屋根の下で眠れただけでも大きかった。


「はい。昨夜は助かりました」


「礼なら働いて返しな。腹が減ってるなら、なおさらだ」


 お兼は小さな椀に湯をよそった。順子へ先に渡し、次に尚人へ渡す。具はほとんどない。だが、湯気に塩気があり、口に含むと胃が動いた。


 尚人は椀を持ったまま、外を見た。


 焼け跡の朝には音が多かった。誰かが板を叩く音、子どもを呼ぶ声、遠くで電車が軋む音。夜が明けると同時に、人は動き出す。止まっていれば、腹が減るだけである。


 お兼が言った。


「この先の通りで、焼け跡を片づけている親方がいる。名前は大沢源蔵。口は悪いが、手間賃はごまかさない。復員してきた若い男なら、使うだろう」


 順子が顔を上げた。


「息子を使っていただけるのでしょうか」


 お兼は順子を見た。


「腕と腰があればね。母さんの方は、ここで少し手伝いな。水くみと煮炊きくらいならある。銭は出せないが、火のそばには置ける」


 順子は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 尚人は椀を置いた。


「行ってみます」


 人前では、復員した息子を演じる必要がある。背筋を伸ばしすぎても妙に見える。卑屈になりすぎても足元を見られる。尚人は、空腹と疲れを隠さず、若い男として立った。


 小屋を出ると、冷たい風が顔に当たった。


 お兼に言われた通り、焼け跡の通りを進む。瓦礫の中には、昨日より多くの人が出ていた。女は焼けた釘を拾い、子どもは割れた瓦を集め、男たちは焦げた柱を引きずっている。誰も余裕はない。だが、昨日より街は動いていた。


 人目が切れたところで、順子が尚人の横へ寄った。


「尚人さん、現場仕事に入るのですね」


「ああ。まず食うためだ。不動産も建設も、今は机に座って始める段階じゃない。この時代なら、現場に入った方が早い」


「私も、お兼さんのところで話を拾います。水くみでも何でもします」


「無理はするな。お前が倒れたら困る」


「はい」


「あと、会長とは呼ぶな。二人だけでも、尚人さんでいい。人が来たら母親に戻れ」


「承知しました、尚人さん」


 順子はそう答えた。


 尚人は順子の顔を見た。煤の薄い筋がまだ頬に残っている。昨日まで1986年にいた女が、今は焼け跡で母親の役を演じ、水くみの仕事を探している。


「順子」


「はい」


「俺が現場で信用を取る。お前はお兼のそばで、人の名前と物の流れを覚えろ。誰が材木を持っているか。誰が米を持っているか。誰が土地で揉めているか。そういう話が必ず出る」


「分かりました」


「身につけている物は、まだ出すな。何を使うかは俺が決める」


「はい」


 足音が近づいた。


 順子はすぐに顔を変えた。


「尚人、寒くないかい」


「大丈夫だ、母さん」


 通りがかった男は二人を一度見たが、そのまま過ぎた。


 順子は小さく頷き、お兼の小屋へ戻っていった。


 尚人は一人で、焼け跡の奥へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 大沢源蔵の現場は、元は長屋だったらしい。


 いくつもの家がつながっていた場所が、黒い柱の列だけになっている。土台は残り、風呂場だったらしい場所には割れたタイルがあった。井戸の周りには人が集まり、焼けた梁を動かす男たちが声を掛け合っている。


 大沢源蔵は、五十前後の男だった。


 背は高くない。だが肩が厚く、首が太い。国民服の上に継ぎの当たった半纏を羽織り、手には傷が多い。尚人を見る目は厳しかった。


「お兼の紹介か」


「はい。倉田尚人です。横須賀から戻りました」


「復員か」


「はい」


「何ができる」


「力仕事はできます。横須賀で、営繕の手伝いを少し見ていました」


 源蔵は鼻で笑った。


「見てただけか」


「最初は運ばせてください。使えるかどうかは、それで見てください」


 源蔵は尚人の靴を見た。昨日より服は目立たない。だが靴はまだ良い。そこを見逃さない目だった。


「いい靴だな。足を取られるぞ」


「替えられる靴が見つかるまでは、これで歩きます」


「口は落ち着いてるな」


 源蔵は顎で瓦礫の山を示した。


「そこの瓦を退けろ。割れた瓦は右。まだ使える瓦は左。釘と金物はあの缶に入れろ。材木は勝手に燃やすな。芯が残っていれば使う」


「分かりました」


「分かったなら動け。腹が減る前に手を動かせ」


 尚人は上着を脱がず、そのまま瓦礫の山へ入った。


 最初の仕事は、片づけだった。


 割れた瓦を拾い、使えそうな瓦を分ける。焦げた木片を運び、釘を拾う。灰が手に入り、爪の間が黒くなる。しゃがんでは立ち、立っては運ぶ。22歳の体は動いた。だが腹が空いているため、力は長く続かない。


 それでも、尚人は急がなかった。


 瓦を乱暴に投げれば、使えるものまで割れる。焼けた材木を見ずに運べば、まだ使える柱を薪にしてしまう。尚人は、割れ方と重さを見ながら分けた。


 若い男が横で笑った。


「復員さん、瓦に礼でもしてんのか」


 尚人は手を止めなかった。


「使える瓦まで割ったら、あとで屋根に困る」


「屋根なんか、トタンを乗せりゃいい」


「トタンだけなら、夏は焼ける。冬は冷える。雨音もきつい。瓦が残るなら使った方がいい」


 若い男は黙った。


 源蔵が少し離れた場所から見ていた。


 午前の半ば、梁が崩れかけた。


 焼け残った梁を数人で動かそうとしていた。梁は半分ほど焦げているが、長さがある。下には割れた柱と戸板が重なり、無理に引けば一気に崩れる形だった。


 男の一人が下から柱を抜こうとした。


 尚人は叫んだ。


「そこは抜くな。上が落ちる」


 男が振り返った。


「何だよ」


「下を抜いたら、あの梁がこっちに倒れる。先に上の焦げた板を外せ。梁は縄を掛けて、こっちへ寝かせる」


 男はむっとした顔になった。


「若造が口を出すな」


 その時、源蔵が来た。


「待て」


 源蔵は積み上がった材木を見た。しばらく黙り、梁の傾きを確かめた。


「下を抜くな。こいつの言う通りだ。縄を持ってこい」


 男たちは渋々、動きを変えた。


 縄を掛け、上の板を先に外し、梁を倒す向きを決める。数人で声を合わせて引くと、梁は土の上へ重く落ちた。下の柱を先に抜いていれば、足元へ倒れていた。


 源蔵は尚人を見た。


「横須賀で、何を見てた」


「焼けた建物の片づけです。崩れる順番を間違えると、怪我人が出ます」


「ふん」


 源蔵はそれ以上褒めなかった。だが、次の指示から尚人の立つ位置が少し変わった。


「倉田。こっちを見ろ」


「はい」


「この柱、使えるか」


 尚人は柱の焦げた表面を見た。黒いところを小刀で少し削る。中はまだ茶色く、芯は残っている。割れも深くない。


「表面を削れば使えます。ただ、土に触れていた下の部分は切った方がいい」


「なぜだ」


「水を吸っています。ここから腐ります。短くして、上の横材に使った方がいい」


 源蔵は柱を奪うように取り、削った面を見た。


「お前、営繕を少し見ただけじゃないな」


「見ただけではありません。少し手も出しました」


「最初からそう言え」


「最初に言っても、信じてもらえません」


 近くの男たちが笑った。


 源蔵も、口の端だけを動かした。


「昼まで働け。飯は少し出す」


「ありがとうございます」


「礼はあとだ。手を止めるな」


 尚人は瓦礫の中へ戻った。


 ◇ ◇ ◇


 昼前、源蔵の現場へ材木を積んだ荷車が来た。


 荷車を引いているのは男二人だった。荷の上には焼け残りの板、半端な柱、曲がった釘を抜いた材木が積まれている。後ろから、細い目をした中年男が歩いてきた。


「源蔵さん、持ってきたよ。これでも今は上物だ」


 源蔵が舌打ちした。


「梶原、これのどこが上物だ。半分は薪だろう」


 梶原と呼ばれた男は、肩をすくめた。


「薪にもならない物を持ってくる奴もいる。うちは良心的だよ」


 材木屋というより、焼け残りの材を集めて売っている男だった。だが、この時代ではそれも立派な資材屋である。新品の材木など簡単には手に入らない。焼け残り、取り壊し、軍の払い下げ、どこから来たか分からない板。それを使うしかない。


 源蔵は材木を一本ずつ見ていたが、顔が険しくなった。


「長さがそろってねえ。柱にするには弱い」


 梶原は言った。


「仮小屋だろう。立てばいいじゃないか」


「立てばいい小屋は、風で倒れる」


 尚人は黙って荷を見ていた。


 材木はひどい。だが全部が駄目ではない。焦げていても芯のあるもの。曲がっていても短く切れば使えるもの。床には向かないが、壁の下地なら使えるもの。分ければ、まだ使い道はある。


 源蔵が尚人を見た。


「倉田、見てみろ」


 梶原は尚人を見て笑った。


「若いのに分かるのか」


 尚人は一本を持ち上げた。重さを見て、叩き、焦げた面を削る。次に曲がりを見た。足元へ置き、端を押さえて反りを確かめる。


「これは柱にはしない方がいい。反りが強い。短く切って、壁の下地です」


 次の一本を持つ。


「これは使えます。焦げは浅い。下を切れば柱にできます」


 また別の板を手に取る。


「これは屋根には駄目です。節が抜けています。雨が入る。内側か、棚なら使えます」


 梶原の顔から笑いが消えた。


 源蔵は黙って聞いている。


 尚人は荷の山を指で分けた。


「柱に使えるものをこっち。横に渡すものをこっち。壁の下地がこっち。薪にするものは最後です。今のまま全部まとめて買うと、親方が損をします」


 梶原が眉を上げた。


「おいおい、商売の邪魔をするな」


「邪魔じゃない。使える順に分けた方が、次も買ってもらえる」


 梶原は口を閉じた。


 源蔵が低く笑った。


「言うじゃねえか」


 尚人は続けた。


「あと、屋根はここへ落とすと駄目です」


 現場の端に、仮小屋を建てる予定の場所があった。地面は少し低く、雨が降れば水が入りそうだった。源蔵はそこへ小屋を二つ並べるつもりらしい。


「入口側へ水が流れます。屋根を逆に傾けるか、こっちに溝を切らないと、雨のたびに床が濡れます」


 源蔵は地面を見た。


 梶原も見た。


 焼け跡では、誰もが上を見がちだった。屋根、柱、壁、トタン。だが尚人は地面を見ている。雨水の流れ、入口の高さ、隣の小屋との間。そこを見なければ、小屋は建っても暮らせない。


「水はどっちへ逃がす」


 源蔵が聞いた。


 尚人は足で地面を示した。


「この通りへ逃がすと、隣に文句を言われます。こっちの焼けた側溝へ流す方がいい。泥が詰まっているので、先に掘ります。屋根は側溝へ落とす。入口は少し上げる。床に敷く板は地面へ直に置かない。石か瓦を噛ませます」


 源蔵は腕を組んだ。


「誰に習った」


「横須賀で、雨漏りする小屋を何度も見ました」


「それだけで分かるか」


「雨は低い方へ行く。人も荷物も、動きやすい方へ流れる。そこは同じです」


 梶原が尚人をじろじろ見た。


「復員さん、あんた本当に22か」


「22です」


「年の割に、目が古いな」


 尚人は答えなかった。


 源蔵は材木の山を見て言った。


「梶原。この若いのの分けた通りに値をつけろ。柱に使える分は払う。薪にしかならん分は引け」


「冗談じゃないよ」


「なら持って帰れ。別のところで売れ」


 梶原は舌打ちしたが、すぐには帰らなかった。今の東京では、買い手を失うのも痛い。使える材木と使えない材木をきちんと分ける現場なら、次も商売になる。


「分かったよ。ただし、釘は別だ」


「曲がった釘だろう」


「叩けば使える」


 尚人は釘の缶を見た。


「曲がった釘は、まっすぐに直す手間を見て買うべきです。長い釘は使える。短くて錆びたものは、折れる」


 梶原は今度こそ苦い顔をした。


「こいつ、本当に嫌な目をしてるな」


 源蔵は笑った。


「俺は気に入った」


 その一言で、男たちは尚人を見る目を変えた。朝は腹をすかせた復員兵だった。昼前には、崩れそうな材木を見抜き、柱と薪を分ける男になっていた。


 ◇ ◇ ◇


 昼飯は、焼いた芋の半分と、薄い汁だった。


 汁には菜の切れ端が浮いていた。尚人は石の上に座り、両手で椀を持った。


 芋は甘かった。


 1986年の菓子のような甘さではない。冷えた胃に届く、重い甘さだった。尚人は一口ずつ食べた。急いで食べれば、体がかえって驚く。


 源蔵が隣に腰を下ろした。


「倉田」


「はい」


「明日も来い。日当は安い。だが、昼は出す。使えるようなら、少し上げる」


「ありがとうございます」


「母さんはどうする」


「お兼さんのところで世話になっています。水くみや煮炊きを手伝うと言っています」


「お兼か。あの婆さんのところなら、悪くはない。口は悪いが、人は見捨てん」


 源蔵は芋をかじった。


「寝るところは」


「まだありません」


「だろうな」


 源蔵はしばらく考えた。


「今日、仮小屋の一つを先に形にする。まだ壁は隙間だらけだが、風は少し避けられる。お兼がいいと言えば、母さんと隅を使え。家賃なんぞ取れんが、働け」


 尚人は源蔵を見た。


「助かります」


「助かるなら働け。礼は仕事でいい」


「分かりました」


 源蔵は尚人の顔を見た。


「横須賀で営繕を見たと言ったな」


「はい」


「なら、午後は仮小屋の方へ回れ。口だけならすぐ分かる」


「やります」


 尚人は芋の残りを食べた。


 腹はまだ満たされない。だが、明日も来いと言われた。昼が出る。風を避ける場所の目も出た。


 1946年で最初に得た仕事だった。


 ◇ ◇ ◇


 午後、尚人は仮小屋作りへ回された。


 場所は焼け跡の端で、残った土台の一部を利用する形だった。柱にする材木は足りず、板もそろっていない。トタンは穴がある。釘も曲がっている。道具は金槌、鋸、縄、古い水糸、欠けた差し金。足りないものばかりだった。


 それでも、小屋は建てなければならない。


 源蔵は言った。


「ここへ二間ほどの小屋を作る。今夜、人を入れたい」


 尚人は地面を見た。


「入口をこっちへ向けるのはやめた方がいい」


「なぜだ」


「風が通りからまともに入ります。雨も来る。入口は少し横へ振る。屋根の水は側溝へ落とす。床は焼け瓦を噛ませて上げます」


「手間が増える」


「今やらないと、雨の夜に中が濡れます。濡れたら、寝られない。病人が出ます」


 源蔵は眉を寄せた。


「言うだけなら簡単だ」


「やります」


 尚人は瓦を集めた。割れの少ないものを選び、土の上に並べる。高さはそろわない。そこで薄い木片を挟み、床板が大きく傾かないようにした。水糸を張り、目で高さを見る。水平器などない。だが、水はごまかせない。水が流れる方を見れば、低い場所は分かる。


 男の一人が言った。


「そこまでやるのか」


「人が寝る床だ。斜めすぎると眠れない」


「仮小屋だぞ」


「仮でも、寝る人間は本物だ」


 男は黙った。


 柱を立てる時、尚人は焦げた面を外へ向けなかった。


「こっちを内側へ回す」


「なぜだ」


「割れが入っている。外に向けると雨が入る。内側ならまだ見える。悪くなったら替えられる」


 源蔵は少し離れて見ていた。


 尚人は柱を立て、横材を渡し、斜めに一本入れた。材が少ないため、立派な筋交いとは呼べない。だが、風で小屋が揺れた時、これがあるのとないのでは違う。


「斜めの材が要るのか」


 源蔵が聞いた。


「要ります。四角だけだと揺れます。風が来た時、ひし形に潰れる」


 尚人は手で形を作って見せた。源蔵の目が少し変わった。


「なるほどな」


 屋根はトタンを重ねた。穴のあるものは上へ回さず、下地へ使う。重ね目を風上に向けない。釘は少ないので、押さえる場所を選ぶ。曲がった釘は石の上で叩いて直した。


 梶原がまた現場へ顔を出した。


「おいおい、本当に建ってるじゃないか」


 源蔵が言った。


「余計な口を叩くなら、使える釘を持ってこい」


「釘は高いよ」


 尚人は屋根から下り、梶原の荷を見た。


「釘より、細い板が欲しい。穴をふさぐ。長いものはいらない。半端でいい」


 梶原は目を細めた。


「半端板ならある。だが金は」


「今すぐ金は出ない。代わりに、薪にしかならないと思っていた板を、壁に使えるように切り分けます。売れる束にできます」


 梶原は源蔵を見た。


「この若いの、商売まで口を出すのか」


 源蔵は笑った。


「聞くだけ聞け。損なら帰れ」


 尚人は梶原の荷から、割れのある板を数枚選んだ。


「これは、このままでは売れない。割れの手前で切れば、短い板として使える。これは節が抜けているから、穴を避けて二枚に分ける。これは反りが強いが、細く割れば押さえに使える」


 梶原は腕を組んで見ていた。


 やがて、舌打ちした。


「嫌な若造だな。だが、言ってることは分かる」


「半端板を少し置いていけ。次に持ってくる時、最初から分けてくれれば、親方も買いやすい」


「値切る気だな」


「使えない束を混ぜるから値切られる。使える束にすれば、値はつく」


 梶原はしばらく黙ったあと、荷車から短い板を数枚下ろした。


「今日は貸しだ」


「覚えておきます」


「本当だろうな」


「仕事で返します」


 梶原は尚人を指さした。


「倉田と言ったな。次に材を見る時は、お前もいろ。源蔵さんだけだと、すぐ怒鳴る」


 源蔵が怒鳴った。


「聞こえてるぞ」


 現場に笑いが起きた。


 笑いはすぐに消えた。みな腹が減り、体は冷えている。それでも、午前の現場とは違っていた。尚人は材木を見分け、小屋の建ち方を変える男として見られ始めていた。


 夕方には、仮小屋が一つ形になった。


 壁には隙間がある。屋根も完全ではない。床も美しくはない。だが、入口は風を避け、屋根の水は側溝へ落ちる。床は地面から少し浮いている。中に入れば、冷たい風をいくらか防げる。


 源蔵は小屋の中を見て、何も言わずに外へ出た。


 それから尚人に向き直った。


「明日から、お前は瓦礫運びだけじゃない。材を見ろ。建てる前に地面を見ろ。俺が聞いたら答えろ」


「はい」


「ただし、調子に乗るな。ここでは腹を減らした男の方が多い。目立ちすぎると、味方も敵になる」


「分かっています」


「本当に分かってる顔だな。気に入らねえ」


 源蔵はそう言いながら、芋を一つ投げた。


「母さんに持っていけ」


 尚人は受け取った。


「ありがとうございます」


「礼は仕事で返せ」


「はい」


 尚人は芋を懐に入れた。


 芋の熱が、軍服越しに伝わった。


 ◇ ◇ ◇


 日が落ちるころ、尚人はお兼の小屋へ戻った。


 手は黒く、爪の間には煤と泥が入っている。肩は重く、腕も痛い。だが、朝より足取りは強くなっていた。


 小屋の前で、順子が水桶を置いていた。お兼に言われたのだろう。手は冷え、赤くなっている。それでも顔を上げた時の目は、朝より強かった。


「お帰り、尚人」


 人前なので、母の声である。


「ただいま、母さん」


 お兼が奥から顔を出した。


「どうだった」


 尚人は懐から芋を出した。


「大沢親方からです。明日も来いと言われました」


 お兼は芋を見て、少しだけ笑った。


「なら、使えたんだね」


「まだ分かりません。でも、働き口はできました」


「上等だよ。ここじゃ、明日も働けるってだけで大したもんだ」


 順子は芋を受け取らず、まず尚人の手を見た。


「手を洗いましょう。傷があるかもしれないわ」


「大丈夫だ」


「大丈夫でも洗うの。母さんの言うことを聞きなさい」


 お兼が笑った。


「強い母さんだ」


 尚人は逆らわず、水桶の前へ座った。順子が水をかける。冷たさで指が痛んだ。黒い水が土へ流れ、煤が爪の間から落ちていく。


 お兼が小屋へ戻ると、ほんの少しだけ二人きりになった。


 順子は声を落とした。


「尚人さん、仕事は取れたのですね」


「ああ。源蔵という親方だ。乱暴だが、仕事は見ている。資材屋の梶原もいる。あの二人につけば、しばらく食える」


「無理はしていませんか」


「無理はした。だが、やるしかない」


 順子は尚人の手に残った細かな傷を見た。


「その手で、これから生きるのですね」


「今はな。だが、運ぶだけで終わらせない。焼け跡には土地がある。小屋がある。材が流れている。権利で揉める。必ず仕事になる」


「尚人さんなら、見つけます」


「お前も見つけろ。お兼の周りに人が集まる。女の口から出る話は馬鹿にできない。誰が困っているか。誰が物を持っているか。誰が戻ってこないか。聞いておけ」


「はい」


 足音が近づいた。


 順子はすぐに母親の顔へ戻った。


「ほら、尚人。芋を半分にしましょう。急いで食べてはいけないわ」


「分かった、母さん」


 お兼が戻ってきて、二人を見た。


「親子で半分かい。泣けるねえ」


 順子は笑った。


「この子が持って帰ってくれた芋ですから」


 尚人は芋を割った。


 湯気が細く上がった。中は黄色く、甘い匂いがした。二人は半分ずつ受け取り、少しずつ食べた。


 腹は満たされない。


 だが、昨日とは違った。


 火のそばで体を温められる場所があり、明日行く現場がある。親方の名があり、資材屋の名もある。芋を半分にして食べる相手もいる。


 焼け跡の一日は、暮らしの形へ近づいていた。

第六章第1話中編では、尚人が暮らしを立てるため、焼け跡の現場仕事へ入る。お兼の紹介で大沢源蔵の現場へ行き、最初は瓦礫運びから始める。しかし、崩れかけた梁を見抜き、焼け残った柱の使い道を判断し、仮小屋の屋根と床の向きを考えたことで、親方の目が変わる。資材屋の梶原も、尚人が材木の使える部分と使えない部分を分けるのを見て、ただの復員兵では済まない男だと気づく。順子はお兼のそばで水くみをしながら、人の名と物の流れを拾う役に回る。二人はまだ貧しく、食べ物も足りない。それでも、火のそばで体を温められる場所に続いて、明日も働ける現場を得る。

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