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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第六章――「灰の東京、母と復員兵」

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第1話(前編)――「使えない財布」

1946年2月、尚人と順子は終戦直後の東京へ飛ばされる。尚人は1986年当時と同じ22歳の姿、順子は43歳の姿である。二人には、着ていた服、靴、財布、時計、バッグなど、身の回りの品だけが残っていた。しかし、1986年の紙幣も硬貨も、この時代では使えない。焼け跡の東京で生きるため、順子は夫・倉田佑馬を戦争で失い、復員した息子の尚人と親戚を探す寡婦として名乗る道を選ぶ。人前では母と息子。だが、二人だけになれば、順子にとって尚人は早乙女不動産の会長であり、自分が従うべき相手であり、同時に離れがたい男でもあった。

 (1946年2月、東京・有楽町付近)


 尚人を最初に襲ったのは、体の痛みではなかった。


 焦げた木と、湿った灰の匂いである。


 黒く濡れた空気が鼻の奥へ入り込んできた。火事の跡というだけではない。柱、畳、布団、箪笥、障子、台所の道具。人の暮らしを支えていたものが、まとめて焼け落ちた匂いだった。風が吹くたび、地面から細かな灰が舞い上がり、口の中に苦い粉が残った。


 尚人は右手を地面につき、体を起こした。


 掌に触れたのは土ではない。砕けた瓦、割れたガラス、小石、焼けた木片である。指先に小さな痛みが走り、手のひらに黒い煤がついた。膝を立てると、靴底の下で瓦の欠片が割れた。


 顔を上げた先に、東京があった。


 だが、尚人の知っている東京とまるで違った。


 道の両側には、建物の残骸が広がっている。壁は途中で切れ、窓枠だけが黒く残り、かろうじて家の形を思い出させていた。ところどころに煙突だけが立っている。家は消えたのに、煙突だけが残る。その姿が、暮らしの消え方をかえってはっきり見せていた。


 空は低かった。冬の雲が薄く垂れ、日差しは弱い。建物が焼けてなくなったせいで、風を遮るものがない。冷たい風が道路と焼け跡を抜け、尚人の上着の襟から背中へ入り込んだ。


 少し離れた場所で、順子が咳き込んでいた。


 尚人は瓦礫を踏みながら、すぐに順子のもとへ向かった。


 順子は片膝をつき、片手で胸元を押さえていた。茶色のコートには灰が付き、髪にも煤が散っていた。靴は残っている。バッグも肩に掛かっている。ただ、顔色は悪い。寒さと衝撃で唇の赤みが引き、息が荒かった。


「順子、動けるか」


 尚人が膝をついて声をかけると、順子は顔を上げた。


「尚人さん……ご無事ですか」


 その呼び方が先に出た。


 順子はすぐに周囲を見た。近くにはまだ誰も寄ってきていない。だが、人の気配はある。焼け跡の小屋、遠くを歩く復員兵、荷を背負った女。ここは二人だけの部屋ではなかった。


「骨は折れていないと思います。立てます」


「無理するな。まず体を落ち着かせろ」


 尚人は手を差し出した。順子はその手を取った。指先は冷えていた。二人の手は一瞬だけ強く重なり、それからすぐ離れた。今の東京で、余計な近さは見せられない。その判断は、二人とも同じだった。


 尚人は周囲を見回した。


 焼け跡の上に、粗末な小屋がいくつも並んでいた。板切れ、トタン、むしろ、焼け残った戸板。それらを寄せ集め、かろうじて人が入れる形にしている。入口には鍋が置かれ、割れた茶碗が伏せられていた。火鉢のようなものから細い煙が出ている。煙は風に押され、地面を這うように流れていった。


 道の向こうでは、大きな荷物を背負った男が歩いていた。軍服の上着に、色の違うズボンを合わせている。靴は泥だらけで、頬はこけていた。復員兵だろう。男は尚人と順子をちらりと見たが、足を止めなかった。人の事情を見る余裕がない顔だった。


 さらに奥から、子どもの泣き声が聞こえた。腹をすかせた声である。怒って泣く力もなく、細く続く泣き方だった。


 順子はコートの裾を払った。灰は落ちたが、黒い筋が布に残った。


「ここは、本当に東京なのですね」


「東京だ」


 尚人は答えた。


 遠くに鉄道の高架らしい黒い線が見える。その向こうで電車の音がした。1986年の東京の音とは違った。車輪が鉄を噛む音が荒く、ゆっくりで、古い機械を無理に動かしているように聞こえた。


「時代は」


 順子が聞いた。


 尚人は周囲をもう一度見た。焼け跡の広さ、復員兵の姿、女たちのもんぺ、粗末な小屋、米軍らしいジープの音。答えは目の前に出ていた。


「1946年だ。冬だな。おそらく2月だ」


 順子は目を閉じた。


「終戦のあとですね」


「ああ」


 風が二人の間を抜けた。


 尚人は自分の服を見た。1986年に着ていた上着とズボン、シャツ、革靴である。質は悪くない。だが、この場所では良すぎる。順子のコートも同じだった。焼け跡の東京では、上等な服は金と同じ意味を持つ。金を身につけて歩けば、奪われる。


 尚人は財布を出した。


 中には1万円札、千円札、硬貨がある。硬貨には昭和六十一年の刻印があった。紙幣の顔も、この時代の人間には見慣れないはずだった。順子もバッグから財布を出し、中を見た。紙幣を1枚抜きかけ、すぐに戻した。


「使えませんね」


「使うな。説明できない。偽札扱いになるか、もっと悪いことになる」


「未来から来た証拠だと言っても、信じる人はいないでしょう。信じないまま、警察か占領軍のところへ連れて行かれるだけです」


 順子の声は乱れていなかった。


 尚人は財布をしまった。金を持っているのに使えない。嫌な感覚だった。紙幣はただの印刷物になり、硬貨は危険な金属片になった。1986年なら宿にも食事にもなるものが、ここでは身を滅ぼす証拠になる。


「売れるものはあるか」


 尚人が聞くと、順子は自分の手を見た。指輪がある。腕時計もある。バッグの中には口紅、ハンカチ、櫛、小さな手帳が入っている。身分証やカード類は使えない。


 尚人は自分の腕時計を外しかけ、やめた。1986年の時計は、この時代では新しすぎる。質屋へ持ち込めば金にはなるかもしれない。だが、その前に説明を求められる。最初に使う品ではなかった。


「まず、服です」


 順子が言った。


「私たち、このままでは目立ちすぎます」


「同じことを考えていた」


 男たちは、軍服の払い下げ、国民服、古い作業着、継ぎの当たったズボンを着ている。女たちはもんぺや、古い着物をほどいて仕立て直したような服が多い。靴もまちまちで、地下足袋、軍靴、壊れた革靴、草履まである。


 順子のコートは、灰がついても上等だった。尚人の革靴も磨かれすぎている。飢えた町で、良い服と良い靴は目印になる。


 そのとき、道の向こうから米軍のジープが走ってきた。車体は泥で汚れ、タイヤが水たまりを踏むと黒い水が跳ねた。運転席の兵士が笑い、隣の兵士があたりを眺めている。子どもたちが遠巻きにジープを見た。誰かが英語で何かを叫び、兵士が手を振った。笑い声は明るいが、焼け跡の中ではそこだけ浮いて聞こえた。


 順子は顔を少し伏せた。


「尚人さん。ここで本当のことを言っても、誰も助けてくれません」


「分かっている」


「それなら、身の上を作るしかありません」


 尚人は順子を見た。


 順子はまだ顔色が悪い。だが、目はすでに戻っていた。早乙女不動産で働き、倉田家を支え、町で聞き込みもしてきた女の目である。泣くより先に、どう生き残るかを考えている。


「私は倉田順子。43歳。夫は倉田佑馬。戦争で亡くなった。家は空襲で焼けた」


 順子は、言葉を一つずつ置いた。


「尚人さんには、倉田尚人という名で動いてもらいます。22歳。私の息子です。内地の部隊から復員してきたけれど、戻る家がなかった。親子で親戚を探して東京へ来た。これなら、通ると思います」


 尚人はすぐには返事をしなかった。


 順子が21歳で自分を産んだ形になる。年齢としては無理がない。夫を戦争で失い、息子だけが復員した母。終戦直後の東京なら、同じような話はいくらでもある。


 だが、母と息子という言葉が、二人の間に別の重さを置いた。


 順子もそれを分かっている顔だった。


「尚人さんが嫌なら、別の形を考えます」


「いや、それで行く。この時代ではそれが一番安全だ」


「はい。人前では、私は母親として振る舞います。尚人さんも合わせてください」


「分かった」


 尚人は少し間を置き、続けた。


「人前では、母さんと呼ぶ」


 順子のまぶたが一度だけ揺れた。


「はい。それが自然です」


 尚人は、あえて口に出した。


「母さん」


 慣れない言葉だった。喉の奥に引っかかる。


 順子は一瞬だけ目を伏せた。だが、すぐに受けた。


「尚人。まずは人の集まるところへ行きましょう。食べ物、古着、寝る場所。何でも、人がいるところにしかないわ」


 言い方が変わった。


 いまの順子は、母親として話している。部下としての硬さを消し、息子を連れた女の口調に変えていた。その切り替えの早さに、尚人は少し痛いものを感じた。順子は生きるために、もう役に入っている。


「闇市だな」


「ええ。でも、買う顔をしてはいけないわ。こちらには使えるお金がないもの」


「分かった、母さん」


「それでいいわ」


 順子はそう言って歩き出した。


 足元は悪い。焼けた瓦が靴底で割れ、ガラス片が小さく鳴った。水たまりには灰が溶け込み、黒く濁っている。順子の靴がぬかるみに沈みかけ、尚人は腕を取って支えた。


 順子は人目がある場所では礼を言わなかった。母親が息子に支えられるのは自然である。だが、誰の目もない一瞬だけ、指先で尚人の手首に触れた。感謝と確認を一緒にしたような触れ方だった。すぐに離れる。尚人も何も言わなかった。


 道端には、戸板を台にした店が出ていた。芋の切れ端、黒っぽい団子、焦げたような魚の干物、古着、軍手、石鹸のかけら、煙草らしいものが並んでいる。値札はない。客と売り手が顔を寄せ、小声で話している。金だけではなく、米、衣類、時計、指輪、薬、何でも交換の材料になるらしい。


 匂いが入り混じっていた。


 焼き芋の甘い匂い。腐りかけた野菜の酸っぱい匂い。安い煙草の苦い煙。濡れた服の臭い。人の汗。乾かない土。そこへ、どこかから流れてくる薄い味噌汁の匂いが混じった。


 尚人の腹が鳴った。


 順子が横目で見た。


「尚人、今は食べ物に飛びつく顔をしないの」


「分かった」


「体は正直ね。でも、ここで飢えた顔を見せたら足元を見られるわ」


 言葉は母親のものだった。だが、言っている内容は、早乙女不動産で商談を見てきた女のものだった。


 屋台の前で、老婆が芋のかけらを並べていた。売っているというより、何かと替えようとしている。手はあかぎれで赤く、爪の間に黒い土が詰まっていた。老婆の前には、若い母親が布を差し出している。子どもは母親の膝にしがみつき、芋だけを見ていた。


 老婆は布をつまみ、首を横に振った。


「薄いね。これじゃ駄目だよ」


 母親の顔が白くなった。子どもが小さく泣いた。


 順子はその場を通り過ぎながら見ていた。立ち止まらない。だが目には入れている。


「ここは、同情だけでは駄目ね」


「助ける余裕がない」


「そう。今は私たちも同じ側よ」


 その言葉は冷たいのではない。現実を間違えないための言葉だった。


 少し進むと、古着を扱う男がいた。焼けた柱を背にして、木箱の上に服を積んでいる。軍服の上着、国民服、もんぺ、古い羽織、つぎはぎのズボン。どれも汚れているが、使えないほどではない。


 男は尚人を見た。


「兄さん、いい靴を履いてるな」


 尚人は足を止めなかった。


 男はさらに言った。


「復員かい。その格好じゃ、夜に剥がされるぞ」


 順子が立ち止まった。


「この子に合う上着はあるかしら」


 男は順子を見た。順子のコート、靴、バッグ、手元。見る順番が早い。商売人の目だった。


「あるにはある。だけど、金か物だ」


「金はないわ」


「じゃあ物だ」


 順子はバッグを開けた。指輪には触れない。腕時計にも触れない。代わりに、小さな口紅を取り出した。1986年から持ってきたものだった。男の目が一瞬だけ光った。


「それは」


「口紅よ。まだ新しい」


 男が手を出したが、順子は渡さなかった。


「上着とズボン。あと、私の上に着るものをひとつ。これでどう」


 男は鼻で笑った。


「足りねえよ」


「なら、結構」


 順子は口紅をしまおうとした。


 男の顔が少し変わった。


 この時代、口紅はただの化粧品ではない。女が女でいるための品であり、別の場所へ持っていけば食べ物にも替わる。順子はそれを読んでいた。


「待ちな」


 男は服の山をかき分けた。


「兄さんには、これだな。軍の上着だ。ボタンが2つないが、着られる。ズボンはこっち。母さんには、もんぺと羽織でどうだ」


 母さん、と言われて、順子は表情を変えなかった。


 尚人は服を見た。汚れている。だが、今の上着よりはずっと目立たない。軍服の上着は肩が少しきつそうだが、着られるだろう。ズボンは丈が足りないかもしれない。しかし焼け跡で丈を気にする人間はいない。


「靴は」


 男が言った。


「兄さんの靴なら、もっと出せる」


 順子はすぐに答えた。


「靴は駄目。この子の足に合うものがないと歩けない」


 男は舌打ちした。


「強い母さんだな」


「夫を取られて、家も焼けて、この子だけ戻ってきたのよ。弱いままでは歩けないわ」


 順子は自然に言った。


 尚人は、その一言を黙って聞いた。順子の声に、作った感じはなかった。佑馬という名をまだ外へ出していないのに、その影はすでに言葉の中にあった。


 男は口紅を受け取り、服を包んだ。


「どこから来た」


「横須賀のほう。夫は佑馬といって、戦争で亡くなりました。家は焼けて、親戚を探しているの」


 男は、少しだけ黙った。


 夫を亡くした女は珍しくない。家を焼かれた親子も珍しくない。珍しくないからこそ、深くは疑われない。焼け跡では、悲しみもまた人の群れに紛れる。


「親戚なんて、みんな自分のことで精いっぱいだぜ」


「分かっているわ」


 順子は服を受け取った。


「でも、探さないわけにはいかないでしょう」


 男は返事をしなかった。


 2人は焼け残った壁の陰へ回り、そこで服を替えた。


 尚人は軍服の上着を羽織った。布は硬く、汗と埃と古い防虫剤の匂いがした。袖を通すと肩が少し突っ張った。だが、焼け跡に立つにはこちらのほうがいい。1986年の上着は丸めて抱えた。これは後で別の物に替えられるかもしれない。


 順子は羽織を重ね、もんぺに替えた。慣れない服だが、背筋は曲がらなかった。粗末な姿になっても、周囲を見る目は変わらない。ただ、さっきまでよりは目立たない。ここでは、それが命を守る。


 壁の陰には誰もいなかった。風が煤を運び、二人の足元へ流れてきた。


 順子は尚人の前に立ち、服の肩を指で直した。


「尚人さん、肩が少しきついですね」


「二人だけならそれでいい。だが、人の気配がしたらすぐ母親に戻れ」


「はい。承知しました」


 順子はそう答えたあと、尚人の袖口についた灰を払った。


「尚人さん、お怪我はありませんか」


「俺は大丈夫だ。順子、お前こそ無理するな」


「歩けます。歩けるなら、まだ何とかなります」


「なら行くぞ」


「はい」


 順子は一度だけ、尚人の顔を見た。そこには、尚人の無事を確かめる女の目があった。


 だが、次の瞬間にはもう母親に戻っていた。


「さあ、行きましょう。尚人」


「分かった。母さん」


 2人は再び歩き出した。


 夕方が近づいていた。焼け跡の影が長くなり、風がさらに冷える。小屋の中では火を起こす音がし、鍋の蓋が鳴った。どこかで魚を焼いている。焦げた脂の匂いが空腹を刺激した。順子の歩き方が少し遅くなる。尚人は気づいたが、すぐには言わなかった。


 母と息子なら、息子が母を気遣うのは自然である。だが、気遣いすぎれば不自然にもなる。


「少し休もう」


 尚人が言った。


 順子は首を振りかけ、やめた。


「そうね。休みましょう」


 焼け残った石段の前に腰を下ろすと、石の冷たさが服を通して体に入ってきた。尚人は丸めた自分の上着を順子の下に敷いた。順子は一度だけ尚人を見たが、何も言わずに座った。


 そのとき、近くの小屋から女が顔を出した。


 年は50前後に見える。頬はこけ、髪には白いものが混じっている。だが、目は鋭い。手には鍋の蓋を持っていた。


「そこに座るなら、火のそばへ来な。風邪を引くよ」


 順子はすぐに頭を下げた。


「すみません。少しだけ休ませていただきます」


 女は尚人の軍服を見た。


「復員かい」


 尚人は立ち上がり、背筋を伸ばした。


「はい。倉田尚人です。こちらは母です」


 順子も立ち上がった。


「倉田順子と申します。夫の佑馬を戦争で亡くしまして、この子だけが戻りました。焼けた家の跡を見に来たのですが、親戚の行方も分からず……」


 言いすぎない。泣きすぎない。だが、必要なところは隠さない。


 女は鍋の蓋を持ったまま、2人を見比べた。


「そういう人ばっかりだよ、この辺は」


 その声には、同情と疑いが同じだけ混じっていた。終戦直後の東京で他人を招き入れるには、同情だけでは足りない。疑いがあるからこそ、自分の小屋を守れる。


 女は顎で小屋の中を示した。


「火のそばで休むだけなら、金はいらない。食うなら別だよ」


 順子は深く頭を下げた。


「火のそばで休ませていただけるだけで十分です」


 尚人は、その言葉でようやく理解した。


 1946年の東京で、最初に得たものは金ではなかった。食べ物でもなかった。火のそばに座り、冷えた体を温められる場所だった。それだけで、今は命に近かった。


 小屋の中に入ると、煙が目にしみた。床は土で、むしろが敷かれている。隅には荷物が積まれ、鍋から薄い汁の匂いがしていた。具はほとんどない。それでも、湯気に混じる塩気が喉の奥をつかんだ。


 女は鍋をかき混ぜながら言った。


「私はお兼だよ。この辺で焼け残った連中の世話を少ししてる。世話って言っても、何も持っちゃいないけどね」


 順子は火のそばに手をかざした。指先が赤くなっている。


「倉田順子です。しばらく、この辺で親戚を探すことになると思います」


「親戚の名前は」


 順子は一拍置いた。


 尚人は横で息を止めた。


 ここで詰まれば、話が崩れる。


 順子は顔を上げて答えた。


「新橋の近くで小さな荒物屋をしていた、村井という家です。空襲のあと、誰が残ったのか分かりません」


 お兼は鍋の手を止めた。


「村井の荒物屋なら、聞いたことがあるね」


 順子の表情は動かなかった。だが、尚人はその名をすぐに覚えた。


 お兼は続けた。


「店は焼けたよ。だけど、娘がひとり、生きてるって話を聞いた。闇市のほうで、石鹸や針を扱ってる女がいる。村井の娘かどうかは知らないけどね」


 順子は、ゆっくり頭を下げた。


「ありがとうございます。それだけでも、助かります」


 尚人は火を見つめた。


 小さな炎が黒い鍋の底を舐めている。煙で目が痛い。腹は減っている。体は冷えている。金はあるのに使えない。身分は作り物で、寝る場所もない。


 だが、手がかりはできた。


 村井の娘。


 闇市。


 石鹸と針。


 焼け跡の東京には、人がいて、噂があり、物が流れていた。嘘の身の上で入った小屋の中で、二人は初めて次に行く場所を得た。


 順子が、火の向こうで尚人を見た。


 人前なので、言葉は出さない。だが、目で十分だった。


 今夜は、ここでしのげる。


 尚人は小さく頷いた。


 その仕草は、母に従う息子のものだった。少なくとも、お兼の目にはそう見えたはずである。

第六章第1話前編では、尚人と順子が1946年2月の東京へ落とされ、最初に「使えない財布」と向き合う。1986年の金は持っていても使えず、服や靴も時代に合わない。二人は、夫・倉田佑馬を戦争で失った寡婦と、復員した息子という身の上を作る。人前では順子が母として振る舞い、尚人も息子として応じる。二人だけの時は、順子は尚人を「尚人さん」と呼び、尚人は順子に丁寧語を使わない。焼け跡で最初に得たものは、金でも食べ物でもなく、火のそばで体を温められる場所である。

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