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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第20話(後編)――「追浜の夜、未来の孫」

追浜の早乙女工業で、直樹と杉山亜希子は3つのリモコンの改造に取りかかる。一方通行のリモコンをA、双方向のリモコンをBとCに分け、点検口を通らない直送式へ変える作業は、夕方まで続いた。机上確認を終えたところで、亜希子は作業を止める。疲れた目で細かい回路を触れば、命綱を壊しかねないからである。直樹は礼を言い、亜希子を追浜の食事処へ誘う。工場の作業台で始まった協力関係は、追浜の夜の中で、別の温度を帯び始める。

 (1986年6月15日日曜日午後6時40分、横須賀・追浜、早乙女工業)


 作業場の窓の外は、いつの間にか夕方の色になっていた。


 午前中には白く入っていた光が、いまは薄い橙色になり、波板の壁に斜めに当たっている。工場の中には、はんだの匂い、金属の匂い、古い油の匂いが重なっていた。作業台の上には、開かれた3つのリモコンが並んでいる。


 一方通行のリモコンA。


 双方向のリモコンB。


 双方向のリモコンC。


 亜希子は、方眼用紙に書いた回路図へ鉛筆で印を入れた。昼から何度も線を引き、消し、また引いた図である。端には、はんだの粉と消しゴムのかすがついていた。


「今日は、ここまでだね」


 亜希子は鉛筆を置いた。


 直樹は作業台の横に立っていた。朝からほとんど休んでいない。だが、亜希子の手元から目を離す気にはなれなかった。


「もう少し進められませんか」


「進められるよ。でも、間違える」


 亜希子は即答した。


「Aは直送式の形になった。Bも戻りの確認まで見えた。CはBを写せばいいところまで来ている。ここから先は、疲れた目でやる作業じゃない。1本、線を間違えただけで、戻れるはずのものが戻れなくなる」


 直樹は黙った。


 亜希子の言うことは正しい。ここで急げば、自分の命綱を自分で壊すことになる。


「分かりました。今日はここまでにします」


「そうして。明日の午前に、もう一度見直す。いま動いたように見えても、夜を挟んで見ると、変なところが見つかることがあるから」


 亜希子は、白い布の上に並べた部品を小さな箱へ移した。外したねじは番号ごとに分け、基板には薄い保護シートをかける。直樹も手伝い、A、B、Cの順に覆った。


「3台とも、このまま工場へ置いた方がいいですか」


「今夜は置いていきなさい。中途半端に組み直して持ち歩くより安全だよ。鍵のかかる部品庫に入れる。私以外は触らない」


「お願いします」


「尚人さんにも、そう伝える。こういうものは、持ち主より先に、作業する人間が落ち着かないと駄目だから」


 亜希子はそう言って、部品庫の扉を開けた。中には測定器、予備の工具、未使用の部品箱が並んでいる。3つのリモコンは、亜希子の手で金属製の箱に入れられ、鍵のかかる棚へしまわれた。


 鍵が回る音がした。


 直樹は、その音を聞いて息を吐いた。


「亜希子さん」


「何」


「ここまでしていただいて、このまま帰るわけにはいきません。夕食をご一緒していただけませんか」


 亜希子は少し意外そうに直樹を見た。


「私を?」


「はい」


「私は、工場の人間だよ。作業着に近い格好だし、洒落た店には向かない」


「洒落た店でなくていいんです。今日の礼をしたい。それに、工場の外でも少し話を聞かせていただきたいです」


 亜希子は直樹の顔を見た。


 尚人によく似た顔立ちである。だが、尚人ではない。若く、肌に張りがあり、目の奥に別の時代を見てきたような硬さがある。背は高く、立っているだけで工場の空気から少し浮いて見えた。


「直樹くん、そういう誘い方、誰に教わったの」


「教わっていません。今日の仕事に礼をしたいだけです」


「礼だけ?」


 亜希子は、少し笑った。


 直樹は答えに詰まった。


 亜希子は工具を片づけながら言った。


「いいよ。行こうか。駅の近くに、魚のうまい店がある。工場帰りでも入れる店だよ」


「ありがとうございます」


「ただし、今日は私が店を選ぶ。若い子に変なところへ連れていかれると困るからね」


 直樹は思わず笑った。


「分かりました」


 亜希子も笑った。


 その笑いで、朝から張っていた作業場の空気が少しだけ緩んだ。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後7時すぎ、横須賀・追浜、駅近くの食事処)


 店は、追浜駅から少し歩いた場所にあった。


 表に大きな看板はない。引き戸の横に、小さく店名が書かれているだけである。中へ入ると、焼き魚の匂い、だしの匂い、酒の匂いが混じっていた。奥では作業着姿の男たちがビールを飲み、カウンターには1人で煮魚をつつく老人が座っている。


 亜希子は慣れた様子で座敷の端を選んだ。


「ここなら、話していても目立たない」


「よく来るんですか」


「杉山工業のころからある店だよ。従業員を連れて来たこともある。今は、たまに寄るくらいだね」


 直樹は座敷に腰を下ろした。


 亜希子は瓶ビールを頼み、刺身の盛り合わせ、焼き魚、だし巻き、揚げ出し豆腐、漬物を注文した。直樹には白いご飯も頼んだ。


「若い男は食べないと駄目だよ」


「ありがとうございます」


「今日は朝から顔が固い。昼もまともに食べてないんじゃないの」


「少しだけです」


「やっぱりね」


 瓶ビールが運ばれてきた。亜希子が栓を抜き、直樹のグラスへ注いだ。直樹も亜希子のグラスへ返す。泡が白く立ち、すぐに落ち着いた。


「お疲れさまでした」


 直樹が言った。


「そっちこそ。よく黙って見ていられたね。若い男は、途中で口を出したがるものだけど」


「分からないことに口を出しても、邪魔になるだけです」


「それが分かってるなら大したものだよ。尚人さんも、作業する相手には余計な口を出さない人だね。任せたら、ちゃんと任せる」


 亜希子はビールを飲んだ。


「直樹くんは、本当に尚人さんに似てる」


「よく言われます」


「顔だけじゃないよ。黙っている時の押しの強さが似てる。何かを決めている時の顔だね」


 直樹は苦笑した。


「そんな顔をしていますか」


「してる。尚人さんも、この工場を見に来た時、笑ってはいたけど、もう心の中では決めている顔をしていた。あの人は、決める時が早い」


 料理が運ばれてきた。


 刺身は白身と赤身が少しずつ盛られ、皿の端にわさびが置かれている。焼き魚は皮に焦げ目がつき、箸を入れると白い身から湯気が出た。だし巻きは厚く、切り口からだしがにじんでいる。


 亜希子は直樹へ小皿を渡した。


「食べなさい。工場のはんだの匂いばかり吸ってると、腹が変になる」


 直樹は箸を取った。


 朝は真紀の部屋で目覚め、成城へ戻り、追浜までバイクで走り、リモコンを開けて一日が過ぎた。食事処のだしの匂いを嗅いだ時、ようやく腹が空いていたことに気づいた。


 亜希子は、そんな直樹を見て笑った。


「ようやく若い子らしくなった」


「そう見えますか」


「見えるよ。さっきまでは、20歳の顔じゃなかった」


「20歳に見えないと言われることはあります」


「それは、抱えているもののせいだね」


 亜希子は焼き魚をほぐした。


「直樹くん。尚人さんと順子さんのこと、どこまで知ってるの」


 直樹の箸が止まった。


 亜希子は声を潜めた。


「大雑把には聞いているよ。尚人さんと順子さんがいなくなったこと。普通の失踪じゃないこと。リモコンが関係していること。だから今日、あんな道具を持ってきたんでしょう」


 直樹は少し間を置いた。


「はい。ただ、まだお話ししていないことがあります」


「言えるなら聞く。言えないなら聞かない」


「言います。ただ、ここでは全部は話せません」


 亜希子は直樹の顔を見た。


 その視線は、工場で基板を見る時と似ていた。余計な情を挟まず、目の前のものを確かめる目である。


「分かった。じゃあ、今は食べよう。話はあとでいい」


 直樹は頷いた。


 それからしばらく、2人は仕事とは関係のない話をした。


 追浜の工場のこと。杉山工業のころに使っていた古い機械のこと。早乙女工業に名前が変わった時、看板を外すのに半日かかったこと。亜希子が若いころ、機械の中身を見るのが好きで、事務所より作業場にいる方が落ち着いたこと。


 直樹は、亜希子の話をよく聞いた。


 亜希子は、話しながら少しずつ表情を緩めた。夫を失ってから、工場の中では気を張って生きてきた女である。誰かに自分の話をゆっくり聞いてもらう時間は、そう多くなかった。


 直樹は、亜希子の手を見た。


 指は細いが、爪の周りには作業でついた跡がある。工具を持つ女の手である。その手が、今日一日、直樹の命綱を作り替えてくれた。


「亜希子さん」


「何」


「今日は、本当に助かりました」


「何度も言わなくていいよ」


「言いたいんです」


 亜希子は目を伏せ、少しだけ笑った。


「そういうところも似てるね。礼を言う時に、妙にまっすぐになる」


 直樹は返事をしなかった。


 亜希子はグラスを置いた。


「このあと、どうするの。バイクで成城まで戻るの?」


「戻るつもりでした」


「その顔で?」


「顔に出ていますか」


「出てる。疲れてるし、考えすぎてる。夜に飛ばす顔じゃない」


 直樹は窓の外を見た。追浜の夜は、五反田とは違う暗さを持っていた。港に近い町の、潮と鉄の匂いがする暗さである。


「近くで休んだ方がいいですね」


 亜希子は、そう言ってから少し黙った。


 直樹も黙った。


 どちらが誘ったわけでもなかった。


 だが、食事処を出た時、2人は同じ方向へ歩いた。駅の方ではなく、灯りの少ない通りの方である。亜希子は何も説明しなかった。直樹も尋ねなかった。


 追浜の夜風が、亜希子の髪を少し揺らした。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後9時前、横須賀・追浜、ホテルの一室)


 ホテルの部屋は広くはなかった。


 窓の外には、港へ向かう道路の灯りが少し見えた。室内には白いベッドと小さなテーブルがあり、壁際の古い空調が低い音を立てていた。


 亜希子は入口の近くに立ったまま、しばらく直樹を見ていた。


「直樹くん、本当にいいの」


「亜希子さんこそ」


「私は大人だよ。自分で決めてここに来た」


「僕も同じです」


「20歳でしょう」


「はい。でも、子どもではありません」


 亜希子は、ふっと息を吐くように笑った。


「そういう顔で言われると、困るね」


 直樹は一歩近づいた。


 亜希子は逃げなかった。


 2人の距離が縮まった。工場で一日、同じ作業台を見つめていた距離とは違う。食事処で向かい合って話していた距離とも違う。男と女の距離である。


 亜希子の指が、直樹のシャツの胸元に触れた。


「尚人さんに似ているのに、尚人さんじゃない」


「はい」


「若いのに、ずいぶん遠いところを見ている」


「遠いところから来ました」


「それ、あとで聞かせて」


「話します」


 亜希子は頷き、直樹の胸に額を寄せた。


 そこから先は、自然だった。


 どちらが強く誘ったわけでもない。追浜の食事処で笑い、工場の疲れを引きずったまま夜道を歩き、部屋に入った時には、もう互いの気持ちは決まっていた。


 直樹は亜希子を抱き寄せた。


 亜希子も直樹の背に腕を回した。


 その夜、若い直樹と未亡人の亜希子は、追浜のホテルで結ばれた。


 亜希子は、直樹の若さと美しい顔立ちに驚きながらも、その奥にある強さに引かれた。直樹は、亜希子の落ち着きと、作業場では見せなかった女としての柔らかさに引かれた。


 工場で積み上げられた緊張が、夜の部屋で別の熱へ変わった。


 激しく求め合ったあと、2人はしばらく言葉を出さないまま、ベッドの上で並んでいた。空調の音だけが部屋に残り、外を走る車の音が遠く聞こえた。


 亜希子は、直樹の胸に手を置いた。


「若いって、すごいね」


 直樹は苦笑した。


「亜希子さんも、十分すごいです」


「そういう返しを覚えてるところが危ない」


 亜希子はそう言って笑った。


 その笑いは、工場で見せたものとは違った。少し疲れ、少し満たされ、少しだけ女の弱さが出ていた。


 直樹は、亜希子の髪に触れた。


「話しておかなければならないことがあります」


「尚人さんと順子さんのこと?」


「はい」


 亜希子は体を起こした。シーツを胸元へ引き寄せ、直樹の方を向いた。


「聞く」


 直樹も上体を起こした。


 今度は、工場の説明ではない。隠していた根の部分を話す時だった。


「僕は、1986年の人間ではありません」


 亜希子は黙っていた。


「2026年から来ました。早乙女尚人の孫です」


 亜希子の表情が止まった。


「孫?」


「はい。未来の尚人の孫です。僕の祖父が尚人です。僕は2026年のホーチミンから、こちらへ来ました」


「待って。尚人さんの孫ってことは、直樹くんは……」


「未来から来た人間です」


 亜希子は、すぐには言葉を出せなかった。


 大雑把な事件のことは知っていた。尚人と順子が普通ではない形で消えたことも、リモコンが関係していることも、直樹が何かを隠していることも分かっていた。


 だが、直樹が未来から来た尚人の孫だとは思っていなかった。


 亜希子は直樹の顔を見た。


 似ている理由が、そこで初めて分かった。


「だから、そんなに似てるの」


「はい」


「尚人さんは、未来で生きてるの」


「生きています。2026年では62歳です。ホーチミンに自分のビルを持っています」


「ホーチミン……」


 亜希子は片手で額を押さえた。


「頭が追いつかないね」


「無理に信じてくださいとは言いません。ただ、リモコンを見た亜希子さんなら、普通の話ではないことは分かると思います」


「それは分かる。あんなものを見せられて、普通ですとは言えないよ」


 亜希子は深く息を吸った。


「尚人さんと順子さんは、どこへ消えたの」


「まだ分かりません。敵側が持つリモコンか、別の道具で送られた可能性があります。黒岩はすでに処理しました。でも、黒岩は入口にすぎません」


 直樹は、これまで分かっていることを話した。


 ベル・ローズ五反田。


 受付の田口。


 奥にいる店長。


 先生と呼ばれる男。


 美奈子という女。


 久里浜マリーナホテル。


 外国の女。


 地面師のボス。


 黒岩が持っていた片道式リモコン。


 真紀から聞いた話。


 尚人と順子が消えたあと、直樹が敵を追っていること。


 亜希子は口を挟まずに聞いていた。工場で回路を見る時と同じように、ひとつひとつ頭の中で線を引いている顔だった。


「つまり、ベル・ローズが入口で、女たちが客から情報を取っているかもしれない」


「はい」


「田口や店長だけでは、客の会話を全部拾えない。電話で話す女、外で会う女が必要になる」


「そう見ています」


「その美奈子という女が、奥につながっている可能性がある」


「はい」


「そして、久里浜のホテルに外国の女がいる」


「真紀はそう言っていました」


 亜希子はしばらく黙った。


 やがて、直樹を見た。


「手伝うよ」


 直樹は顔を上げた。


「いいんですか」


「今さらでしょう。私はもう、リモコンを開けている。3台とも点検口を外す作業に入っている。ここで知らないふりをして帰る方が無理だよ」


「危険です」


「危険なのは分かってる。でも、工場を残してくれたのは尚人さんだし、今の私にこの仕事を任せてくれたのもあの人だよ。私だって、自分の手で関わったものが何に使われるのか、知らないままではいられない」


 亜希子は、直樹の顔をじっと見た。


「それに、直樹くんを気に入った」


 直樹は言葉に詰まった。


 亜希子は笑った。


「何、その顔。さっきまであんなことをしておいて、急に真面目な顔をするの」


「いえ」


「私は、直樹くんを気に入った。顔だけじゃないよ。若くてきれいな男なのは確かだけど、それだけならここまで話を聞かない。あなたは、尚人さんに似ている。でも、尚人さんとは違う。そこがいい」


 直樹は、胸の奥が少し熱くなった。


「ありがとうございます。亜希子さんが味方になってくれるなら、かなり助かります」


「かなり?」


「大いに助かります」


「よろしい」


 亜希子は満足そうに頷いた。


 直樹も笑った。


 有能な味方を得たことは大きい。リモコンを直せる者は限られている。亜希子は、ただ部品を扱えるだけではない。危険を理解し、作業の止め時を知っている。直樹にとって、これほど心強い相手はいなかった。


 だが同時に、胸の奥に小さな重さも生まれていた。


 榎本啓子の顔が浮かんだ。


 成城で会い、土地の図面を読み、地面師をはめるための知恵をくれた女である。直樹は啓子にも惹かれていた。啓子に対して、今日のことを言えば、裏切りになるのではないかと思った。


 亜希子との関係は、今夜の流れの中で自然に起きたことだった。


 それでも、啓子に話せることではない。


 直樹は心の中で決めた。


 亜希子との肉体関係は、啓子には言わない。


 言わないこと自体に後ろめたさは残る。だが、今はその後ろめたさまで抱えて進むしかない。


 亜希子は、直樹の沈黙に気づいた。


「何を考えてるの」


「少し、先のことです」


「女のこと?」


 直樹は一瞬だけ目を逸らした。


 亜希子は、それで察したように笑った。


「若いね」


「すみません」


「謝らなくていいよ。私も若い男に手を出したんだから、お互いさま」


 亜希子はそう言って、直樹の肩に指を置いた。


「ただし、仕事は仕事。リモコンのことは明日やる。今日のことは今日のこと。それでいい」


「はい」


 直樹は頷いた。


 そして、次に必要な手を考えた。


 明日は、3つのリモコンの仕上げがある。それが済めば、当面、亜希子に頼むことはない。そこから先、ベル・ローズの内情を探るには別の人間がいる。


 テレフォンクラブのサクラとして入り込める女。


 客と電話で話し、必要なら店の奥を見て、田口や店長の動きを探れる女。


 美奈子に近づき、ベル・ローズの内側から情報を取れる女。


 真紀は使えない。すでに店と関係がありすぎる。美奈子に近い分、危険も大きい。


 新しい女が必要だった。


 直樹の頭に、2026年のホーチミンが浮かんだ。


 ミン・ハ〈24〉である。


 尚人のビルで住み込みとして働く若い女。勘がよく、生活の中で人の顔色を読むことにも慣れている。日本語の問題はあるが、必要な準備をすれば、サクラ役として使える可能性がある。


 直樹は考えた。


 一度、2026年のホーチミンへ戻る。


 ミン・ハに頼めるかどうか、確かめる。


 彼女が無理なら、別の女を探す。


 どちらにしても、ベル・ローズへ潜り込む女が必要だった。


「亜希子さん」


「何」


「明日、リモコンを完成させたら、僕は一度2026年へ戻るかもしれません」


「ホーチミンへ?」


「はい。ベル・ローズに潜り込める女性が必要です。電話のサクラとして入って、敵の内情を探れる人間です」


「危ない役だね」


「危ないです。でも、男では入れない場所があります」


「その女に頼むの?」


「候補がいます。ミン・ハという若い女性です。祖父のビルで働いています」


 亜希子は少し眉を寄せた。


「未来の人間を1986年へ連れてくるつもり?」


「必要なら」


「簡単に言うね」


「簡単ではありません。だからリモコンを安全にする必要があります」


 亜希子は納得したように息を吐いた。


「なるほど。点検口を消す理由は、そこにもあるわけだ」


「はい」


「分かった。明日は、必ず3台とも形にする。少なくとも、直樹くんが行き来できるところまでは持っていく」


「お願いします」


「ただし、無茶はしない。私が駄目と言ったら止める」


「分かりました」


 亜希子は、直樹の胸にもう一度手を置いた。


「直樹くん」


「はい」


「尚人さんを助けよう。順子さんも」


 直樹は亜希子を見た。


「はい。必ず」


 窓の外で、車の音が遠ざかった。


 追浜の夜は、五反田の夜ほど派手ではない。だが、その夜の中で、直樹は新しい味方を得た。リモコンを直せる女。工場の内部を任せられる女。そして、今夜から直樹の秘密も知った女である。


 黒岩を消した復讐は、ここで次の段階へ進んだ。


 点検口を消す。


 ベル・ローズへ女を入れる。


 久里浜マリーナホテルへ近づく。


 尚人と順子を取り戻す。


 直樹は、亜希子の体温を感じながら、次に行くべき場所を決めていた。


 2026年、ホーチミン。


 ミン・ハに会うために。

後編では、追浜の早乙女工業で行われたリモコン改造が夕方に一段落する。亜希子は、疲れた状態で作業を続ければ命綱を壊すと判断し、3台のリモコンを部品庫へしまう。直樹は礼として亜希子を追浜の食事処へ誘い、2人は工場の外で初めてゆっくり話す。食事のあと、どちらが強く誘ったわけでもなく、直樹と亜希子は追浜のホテルで結ばれる。亜希子は、尚人によく似た若く美しい直樹を大いに気に入り、直樹はリモコンを扱える有能な味方を得る。その後、直樹は自分が2026年から来た尚人の孫であること、尚人と順子の失踪、ベル・ローズ、店長、先生、久里浜マリーナホテル、外国の女について話す。亜希子は驚きながらも協力を決める。直樹は亜希子との関係を榎本啓子には言えないと感じつつ、次の手として、テレフォンクラブのサクラ役を探す必要を考える。ベル・ローズへ潜入できる女として、直樹は2026年ホーチミンのミン・ハ〈24〉を思い浮かべる。

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