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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第20話(中編)――「点検口を消す朝」

真紀の部屋で一夜を過ごした直樹は、ベル・ローズ五反田、美奈子、店長、先生、久里浜マリーナホテル、外国女という線を得た。だが、すぐにベル・ローズへ踏み込むわけにはいかない。直樹の成城の自宅金庫には、一方通行のリモコンが1つ、双方向のリモコンが2つある。3つとも強力な道具だが、どれも点検口を経由する。地面師連中を葬る時、点検口で問題が起きれば、敵を送るどころか、直樹自身が危険に巻き込まれる。直樹は3つのリモコンすべてを、点検口を通らない直送式へ改造するため、バイクで追浜の早乙女工業へ向かう。

 (1986年6月15日日曜日午前7時すぎ、東京・五反田、真紀のアパート)


 翌朝、直樹は真紀の部屋で目を覚ました。


 カーテンの隙間から、朝の光が細く入っていた。畳の上には、昨夜動かした低いテーブルが端に寄せられている。湯呑みはそのままで、底に少しだけ茶が残っていた。部屋には、古い畳の匂いと、化粧品の甘い匂いと、洗った衣類の匂いが混じっていた。


 真紀は直樹の隣で眠っていた。


 店にいた時の顔とは違う。客を迎えるための笑みは消え、疲れた女の寝顔になっている。直樹は、その顔を少しのあいだ見ていた。


 真紀は、直樹にとって大事な手がかりを持っていた。


 ベル・ローズ五反田。

 美奈子。

 店長。

 先生。

 久里浜マリーナホテル。

 外国の女。


 昨夜、真紀の口から出た言葉は、黒岩の先へ進むための道を示していた。だが、今朝すぐにその道へ踏み込むのは危ない。


 先に、道具を直す必要があった。


 直樹の成城の自宅金庫には、リモコンが3つある。一方通行のものが1つ、双方向のものが2つである。


 3つとも使える。

 しかし、3つとも点検口を経由する。


 それが危険だった。


 地面師連中を葬る時、点検口で何か起これば、相手を目的地へ送れないだけでは済まない。直樹自身が巻き込まれる恐れもある。敵の側が同じ仕組みを知っていれば、点検口を逆に利用される危険もある。


 だから、3つとも改造する。


 一方通行のものだけでは足りない。双方向のものも、直樹自身が使う以上、点検口を通るままでは危ない。戻る道具こそ、直送式にしておかなければならない。


 直樹は布団から出た。


 真紀を起こさないように服を取る。シャツを着て、ズボンを穿き、ベルトを締めた。五反田の夜の匂いが、まだ布地に少し残っていた。


 鞄を手に取ったところで、真紀が目を開けた。


「もう行くの」


 寝起きの声だった。店の中で聞いた声より、ずっと普通の女の声だった。


「はい。少し用事があります」


「ベル・ローズのこと?」


「それもあります。でも、先に済ませたい用事があります」


 真紀は上半身を起こし、布団を胸元へ引き寄せた。髪が少し乱れている。直樹を見て、不安そうに眉を寄せた。


「危ないこと?」


「危なくならないようにするための用事です」


 真紀は、それ以上を聞かなかった。


 直樹も、それ以上は言わなかった。


 真紀を巻き込む必要はない。真紀には、ベル・ローズの女たちのことだけ見ていてもらえばいい。リモコンの話をするのは危険である。真紀が口を滑らせるとは思わないが、知らない方が守れることもある。


「美奈子さんのことですが」


 直樹は鞄を肩にかけながら言った。


「無理に聞き出さないでください。今日、どこへ行くか、誰と会うか。向こうから話したら、それだけ覚えておいてください」


「分かった。あの子が自分から話したら、ちゃんと覚えておく」


「お願いします」


「直樹くんは、また来る?」


「来ます」


「本当に?」


「本当です。真紀さんには、まだ聞きたいことがあります」


 真紀は、少しだけ笑った。


「聞きたいことだけ?」


 直樹は真紀を見た。


「それだけではありません」


 真紀は布団の中で目を伏せ、照れたように笑った。


「じゃあ、待ってる」


「はい」


 直樹が玄関へ向かうと、真紀は布団の上から言った。


「気をつけてね」


「はい。行ってきます」


 直樹は真紀の部屋を出た。


 鉄の階段を下りると、五反田の朝の空気が肌に当たった。昨夜の看板の明かりは消え、店の前には空き瓶のケースが積まれている。歩道には濡れた紙くずが貼りつき、排水口からは酒と煙草と洗剤の匂いが上がっていた。


 直樹は、昨夜バイクを停めた駐輪場へ向かった。


 この時代では、直樹は基本的にバイクで移動している。電車は人の目が多く、時間も駅に縛られる。バイクなら、途中で道を変えられる。五反田から成城へ戻るにも、追浜へ向かうにも、その方が動きやすかった。


 駐輪場の隅に、直樹のバイクがあった。


 直樹はヘルメットをかぶり、顎紐を締めた。鞄の肩紐を短くし、走っている途中で揺れないように体へ密着させる。エンジンをかけると、朝の路地に低い音が響いた。


 頭の中で順番を決めていく。


 まず成城へ戻る。

 自宅の金庫を開ける。

 リモコンを3つとも取り出す。

 一方通行のものも、双方向のものも、すべて追浜へ持って行く。

 杉山亜希子に見てもらう。

 点検口を通らない直送式へ改造する。


 やることは決まっていた。


 問題は、どこまで今日中に進められるかである。


 直樹はバイクを車道へ出した。五反田の朝の交通はすでに動き始めている。タクシー、配送車、出勤する会社員の車。その間を抜け、直樹は成城へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午前9時前、東京・成城、直樹の自宅)


 成城の家は、日曜日の朝らしく静かだった。


 門の内側には石畳があり、植え込みの葉には朝露が残っていた。五反田の路地とは空気が違う。ここには酒の匂いも、煙草の匂いもない。濡れた土と庭木の青い匂いがあるだけだった。


 直樹はバイクを門の脇に停め、エンジンを切った。


 走ってきたあとの耳に、住宅街の静けさが戻ってくる。ヘルメットを外すと、髪の根元に汗がにじんでいた。直樹は手で軽く整え、玄関を開けて中へ入った。


 廊下はひんやりしていた。床は磨かれ、足音が少しだけ響く。家の中に人の気配はない。柱時計の音だけが、広い廊下に落ちていた。


 直樹は奥の部屋へ入った。


 金庫の前に立つ。


 黒い扉に手を置くと、金属の冷たさが指先に移った。番号を合わせ、鍵を差し込む。内部の金具が動き、重い扉が開いた。


 中には、リモコンが3つ入っていた。


 一方通行のリモコンが1つ。

 双方向のリモコンが2つ。


 直樹はそれらを机の上に並べた。


 3つとも、点検口を通らないようにする。


 一方通行のものは、敵を送るために使う。

 双方向のものは、直樹が行き来するために使う。


 どちらも、点検口を通るままでは危ない。


 直樹はノートを開いた。


 1986年6月15日日曜日。

 追浜、早乙女工業。

 リモコン3台改造。

 一方通行1台、双方向2台。

 目的、点検口を通らない直送式へ変更。

 協力者、杉山亜希子。


 直樹は書き終えると、ペンを置いた。


 余計なことは書かない。ノートを誰かに見られた時、意味が分かりすぎるのは危険だった。


 リモコンを1つずつ布で包む。厚手の布で外装を保護し、さらに革のケースへ入れた。3つを同じ場所へ入れない。1つは鞄の奥、1つは鞄の内側のポケット、もう1つは上着の内ポケットへ入れる。


 3つをすべて持ち歩くのは危ない。


 だが、今日だけは仕方がない。


 改造するには、現物が必要である。図面だけで済む話ではない。点検口を通す部分を外し、直送式へ変えるには、3つを実際に開けて見なければならない。


 直樹は現金、身分証、手帳、敵情報ノートを確認した。


 金庫の中は空になった。直樹は棚の奥を一度見てから、扉を閉めた。鍵を回すと、金属の音が部屋に重く残った。


 これで後戻りはできない。


 直樹は鞄を肩にかけ、成城の家を出た。


 門の脇に停めていたバイクへ戻る。鞄を背中へ回し、肩紐をもう一度締め直した。上着の内ポケットに入れた双方向リモコンが、胸の内側で硬く当たる。直樹はその位置を少し直した。


 追浜まで、電車なら乗り換えを考えればいい。


 だが、今日は違う。


 3つのリモコンを持って、人の多い駅や車内に身を置く気にはなれなかった。バイクなら、人混みを避けられる。途中で何かあれば、脇道へ逃げられる。時間は読みにくいが、直樹にはその方が合っていた。


 直樹はヘルメットをかぶり、エンジンをかけた。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午前10時すぎ、東京・成城から横須賀・追浜へ向かう道路)


 直樹は成城の住宅街を抜け、幹線道路へ出た。


 日曜の午前でも、道路は空いていない。家族連れの車、配送のトラック、バス、買い物へ向かう小型車が、信号ごとに列を作っていた。直樹は無理に飛ばさない。背中の鞄と上着の内ポケットには、3つのリモコンがある。転倒すれば終わりである。


 それでも、バイクの機動力は大きかった。


 信号の先頭へ出られる。詰まった車列の隙間を抜けられる。道が混めば、早めに横へ逃げられる。直樹は交通の流れを見ながら、横浜方面へ向かった。


 街並みが少しずつ変わっていく。


 成城の低い塀と庭木が後ろへ流れ、広い道路と工場へ向かう車が増える。やがて第三京浜へ入ると、風が強くなった。ヘルメットの外側を風が叩き、エンジンの音が体の下から続く。直樹は上体を少し低くし、鞄が浮かないよう左肩へ力を入れた。


 速度が上がると、考えは余計なところへ行かなくなる。


 ベル・ローズ五反田。

 美奈子。

 店長。

 先生。

 久里浜マリーナホテル。

 外国の女。

 地面師のボス。


 その名前だけが、ヘルメットの中で順番に浮かぶ。


 真紀には何も言わなかった。あれでいい。

 亜希子には、必要なことだけ言う。


 点検口を通る仕様を外したい。

 3台とも直送式へ変えたい。

 工場の道具と、亜希子の手が必要だ。


 それだけでいい。


 人をどこへ送るのか、誰を葬るのか、いま詳しく話す必要はない。亜希子は工場の人間だ。機械として見てもらえばいい。


 横浜を抜け、横須賀方面へ進むにつれ、空の色が少し明るく見えた。工場の煙突、倉庫の屋根、海へ向かうトラックが増えていく。道路脇の空気に、少しずつ潮と油の匂いが混じり始めた。


 直樹は、ハンドルを握る手に力を入れ直した。


 3つすべてが、いま直樹の手元にある。


 これが終われば、次に動ける。


 ベル・ローズの奥へ入る。

 美奈子に近づく。

 店長を探す。

 先生を探す。

 久里浜マリーナホテルの外国女を追う。

 そして、地面師のボスへ届く。


 その前に、点検口を消す。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午前10時40分、横須賀・追浜、早乙女工業)


 追浜へ入ると、潮と油の匂いがはっきりした。


 道路にはトラックのタイヤ跡が黒く残り、側溝の水には薄い油膜が浮いている。日曜日で止まっている工場も多いが、遠くから機械の音が聞こえた。


 直樹は早乙女工業の門の前でバイクを止めた。


 新しい看板に、早乙女工業の文字がある。敷地の奥には古い建屋があり、波板の壁と鉄骨の梁が見える。尚人が手に入れ、名前を変えた工場である。


 直樹はヘルメットを外し、シートの上に置いた。肩にかけた鞄を確認し、上着の内ポケットにも手を当てる。3つのリモコンはある。


 門を入り、事務所の扉を開けた。


 蛍光灯の白い光と、古い机の匂いが出迎えた。奥の机にいた女が顔を上げる。


 杉山亜希子である。


 髪を後ろでまとめ、作業用の薄い上着を羽織っていた。年齢は40を過ぎているはずだが、姿勢がよく、目がはっきりしているため、実年齢より若く見えた。机の上には伝票と部品箱が並んでいる。


 亜希子は直樹を見ると、すぐに立ち上がった。


「あなたが直樹くん?」


「はい。早乙女直樹です。突然すみません」


「尚人さんから名前は聞いてるよ。背が高いね。尚人さんの若いころを見てるみたいだ」


 直樹は頭を下げた。


「今日は、どうしてもお願いしたいことがあります」


「工場で作るもの?」


「改造です」


 亜希子は、直樹の鞄へ目を向けた。


「急ぎなんだね」


「はい」


「分かった。まず見せて」


 直樹は、机の上を少し空けてもらい、鞄を置いた。


 最初に一方通行のリモコンを出した。布を開くと、使い込まれた外装が見えた。ボタンの周囲には細かい擦れがあり、角にも傷がある。


 次に、双方向のリモコンを2つ出した。


 3つが、机の上に並んだ。


 亜希子は腕を組み、じっと見た。


「3つとも?」


「はい。3つとも改造したいのです」


「同じ仕様に?」


「点検口を通らない直送式にしてください。一方通行のものも、双方向のものも、すべてです」


 亜希子の顔つきが変わった。


 事務所の奥さんではなく、機械を見る人間の顔になった。


「点検口を外すんだね」


「はい」


「1台だけじゃなく、3台全部」


「全部です」


 亜希子は、机の引き出しから方眼のノートを出した。鉛筆を持ち、リモコンの並びを見ながら番号を振った。


「一方通行をA。双方向をBとCにする。まずAを開けて、点検口へ行くところを見る。次にBとCを開ける。双方向は戻りの信号があるから、Aより面倒だと思うよ」


「構いません」


「構わないじゃなくて、時間がかかる。今日中に全部終わるとは限らない」


「途中まででもいいです。できるところまでお願いします」


 亜希子は頷いた。


「分かった。作業場へ移ろう。ここだと部品を広げられない」


 直樹はリモコンを布ごと持った。


 事務所の奥の扉を開けると、工場の空気が入ってきた。鉄と油と切削粉の匂いが混じっている。日曜日で機械の多くは止まっているが、作業台の上には工具が整えられ、部品箱が棚に並んでいた。


 亜希子は作業台の中央を空け、白い布を敷いた。


「小さいねじが落ちると探すのが面倒だから、ここで開ける」


 亜希子は工具箱から精密ドライバーを取り出した。柄の黒い部分は使い込まれて少しすり減っている。彼女は一方通行のリモコンを手に取り、裏側を確認した。


「まずAから」


 ねじにドライバーを当てる。金属がこすれる音が、作業場に小さく響いた。外したねじは、白い布の上に順番どおりに置かれる。


 ケースが開いた。


 中から、樹脂と金属と古いはんだの匂いが出た。亜希子は基板を覗き込み、しばらく何も言わなかった。


「作りは悪くないね。ちゃんとしたところに組ませてる」


「改造できますか」


「見てから言う」


 亜希子は拡大鏡を引き寄せた。基板の上を端から追い、部品の並び、はんだの色、追加された線を確かめる。


「ここだね」


 亜希子は細い棒で、基板の一角を示した。


「点検口へ行く部分は、この辺りにまとめてある。外すだけだと動かない。代わりの道を作らないと駄目だね」


「直送式にできますか」


「Aはできると思う。ただし、出力と確認信号を見ないと危ない」


「お願いします」


「次にBとCを見る」


 亜希子は一方通行のリモコンを白い布の左側へ置き、双方向の1つを手に取った。


 こちらは直樹が自分で使ってきたものだった。亜希子は外装の傷を見て、すぐに裏返した。ねじを外し、ケースを開ける。


 基板が見えた瞬間、亜希子は口を結んだ。


「やっぱり、Aより複雑だね」


「戻りの機能があるからです」


「点検口へ入る線と、戻りの線が絡んでる。ここを雑に切ると、行けても戻れない。あるいは戻れても、行き先がずれる」


「それは困ります」


「だから、BとCは同じようにいじらない。1台ずつ、戻りの系統を残して直送式にする。Bでうまくいった形をCへ写す。それが安全だね」


「分かりました」


 亜希子は3つ目も開けた。


 机の上に、3つのリモコンの中身が並んだ。外装だけを見ていた時より、はるかに緊張感があった。小さな基板、線、部品、はんだの盛り上がり。そのどれか一つを間違えれば、道具は壊れる。


 亜希子は棚から測定器を出した。コードをほどき、端子をつなぐ。スイッチを入れると、針が一度振れ、少し戻った。


「直樹くん、そこのクリップ線を取って。赤と黒、両方」


「はい」


「それと、方眼のノートをこっちへ。3台分、別々に書く」


 直樹は言われた通りに動いた。


 亜希子はまずAの測定を始めた。ボタンを押すたび、豆球が光り、測定器の針が動く。亜希子は針の動きと基板を見比べ、方眼のノートへ線を書いた。


「Aは、点検口へ入る信号をここで作ってる。直送式にするなら、ここを通さない。出力を別に取る」


 次にBを測った。


「Bは戻りがある。点検口を使って戻りを合わせているね。ここを外すなら、戻りの確認を別に作らないと駄目だ」


「作れますか」


「作る。Cも同じ構成なら、Bを先に直してから写す」


 Cも測った。


 亜希子はしばらく無言で測定器の針を見ていた。やがて、鉛筆を置いた。


「分かった。順番はこうだね。まずAを直送式にする。次にBを直送式の双方向にする。Bで戻りが安定したら、Cも同じ形にする」


「今日、どこまでできますか」


「Aは今日中に形にする。Bは仮組みまで。Cは部品を揃えるところまでだね。夜までやれば、もう少し進むかもしれない」


「お願いします。必要なものは買います」


「部品はだいたいあるよ。足りないのは、たぶんスイッチと小さいコネクタくらいだね。そこは近くで買わせる」


 亜希子は部品箱を開けた。


 抵抗、コンデンサ、トランジスタ、ICソケット、スイッチ、配線材。仕切りの中で小さな部品が並んでいる。彼女は必要なものを迷わず取り出し、白い布の上へ置いていった。


「Aは元の回路を使いすぎない方がいい。点検口の部分は残しておく。見本として必要だからね。新しい直送の線を作る」


「元の機能は残りますか」


「残す。ただし、点検口へ入る部分は殺す。切るだけじゃなく、そっちへ電気が流れないようにする」


 亜希子は、はんだごての電源を入れた。


 先端が熱を持つまでの間、作業場には測定器の低い音と、外を通るトラックの音だけがあった。やがて、はんだの匂いが立つ。


 直樹は、作業台の横に立った。


 3つのリモコンが開かれている。


 成城の金庫にあった安全な道具は、いま追浜の作業台で中身を見せていた。敵を送るための道具も、自分が戻るための道具も、同じ問題を抱えていた。


 点検口を通る。


 その一点を消さなければ、次の復讐は危ない。


 亜希子は、Aの基板を固定した。


「始めるよ」


「はい」


 はんだごての先が、基板の一点に触れた。古いはんだが溶け、銀色に光った。亜希子は吸い取り線を当て、余分なはんだを取り除く。小さな部品が外れ、白い布の上に置かれた。


「ここが点検口へ行く入口だね。まずここを外す」


 直樹は、息を止めるように見ていた。


 亜希子は新しい線を取り、長さを測って切った。被覆をむき、端に予備はんだを乗せる。線の先が銀色に光る。


「直送の線を作る。Aで動けば、BとCにも応用できる」


「分かりました」


「ただし、双方向は別物だよ。戻りの確認を作らないと危ない。そこは焦らない」


「焦りません」


「焦ってる顔してるよ」


 亜希子は少し笑った。


 直樹は返事をしなかった。


 焦っていないと言えば嘘になる。尚人と順子は、まだ戻っていない。ベル・ローズの奥には、店長と先生がいる。久里浜マリーナホテルには、外国女の影がある。地面師のボスも、まだ見えていない。


 だが、ここで焦ってリモコンを壊せば、すべてが終わる。


 直樹は、拳を軽く握って力を抜いた。


 作業場の外では、日曜の追浜の空が明るくなっていた。波板の壁に光が当たり、工場の中の影が少しだけ薄くなる。作業台の上では、亜希子の手が止まらない。


 点検口へ入る線を外す。

 直送の線を作る。

 Aを試す。

 Bに移る。

 Cへ写す。


 順番は見えた。


 直樹は、開かれた3つのリモコンを見た。


 これを直せば、次の一手が打てる。


 黒岩を消しただけでは終わらない。田口も、店長も、先生も、外国女も、地面師のボスも、逃がすつもりはない。


 だが、送る側が巻き込まれては意味がない。


 だから、まず点検口を消す。


 亜希子は、はんだごてを置き、Aの基板を指先で支えた。


「直樹くん、電源を入れて」


 直樹は一方通行のリモコンの電源を入れた。


 豆球が一瞬だけ光った。


 亜希子は測定器の針を見て、少しだけ口元を緩めた。


「よし。まず入口は外れた。次は直送の確認だね」


 直樹は頷いた。


 追浜の早乙女工業で、3つのリモコンの改造が始まった。


 直樹の復讐は、五反田の夜から、工場の作業台へ移っていた。

中編では、直樹が真紀の部屋を出て、成城の自宅金庫から3つのリモコンを取り出し、バイクで追浜の早乙女工業へ向かう。真紀にはリモコンの正体を話さず、美奈子の動きだけを見てほしいと頼むにとどめた。成城の金庫にあったのは、一方通行のリモコンが1つ、双方向のリモコンが2つである。直樹は3つすべてを点検口を通らない直送式へ改造することに決める。追浜では杉山亜希子が3台を確認し、一方通行をA、双方向をBとCに分けて作業を始める。Aを先に直送式へ改造し、BとCは戻りの機能を残したまま点検口を外す方針となった。ベル・ローズを追う前に、直樹は自分の武器と命綱を作り替える。

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