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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第20話(前編)――「真紀の部屋、ベル・ローズの声」

黒岩辰夫は、1986年の五反田から消えた。直樹は、黒岩の鞄から片道式リモコンを取り上げ、敵が使っていた道具が確かに存在することを知る。だが、黒岩は入口にすぎない。田口、ベル・ローズ五反田の店長、先生、フランス女、地面師のボス、久里浜マリーナホテルの線は残っている。直樹は、ベル・ローズ周辺の調査を終えて五反田の遊興ビルへ戻ろうとするが、午後10時前の通りはまだ明るく、客引きの声が路地に飛んでいた。そこで直樹は、思いがけない女と出会う。

 (1986年6月14日土曜日午後9時50分、東京・五反田、尚人の遊興ビル前)


 直樹は、五反田の遊興ビルの前まで戻ってきた。


 黒岩辰夫は、もう1986年の東京にはいない。1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊へ送られた。金も会社も名刺も通じない時代である。黒岩が抱えていた通帳や印鑑は、そこでは何の役にも立たない。


 だが、これで終わったわけではない。


 黒岩は、敵の入口にすぎなかった。黒岩の後ろには、まだ名前の分からない相手がいる。


 田口。

 ベル・ローズ五反田の店長。

 先生。

 フランス女。

 地面師のボス。

 久里浜マリーナホテル。


 尚人と順子の行き先も、まだ分かっていない。


 直樹は、肩にかけた鞄の重みを確かめた。中には、自分で作った双方向リモコンがある。黒岩から取り上げた片道式リモコンは、尚人の持ちビルの部屋で布に包み、隠してきた。敵側の道具であり、敵が管理し損ねた証拠である。持ち歩くには危険すぎる。


 今日は、もう戻って整理するつもりだった。


 昼にはベル・ローズ五反田に入り、受付の田口を見た。奥の扉も見た。夜には黒岩を見つけ、鞄から片道式リモコンを取り上げた。頭の中にある情報を、敵情報ノートへ書き直す必要があった。


 直樹は、遊興ビルの入口へ向かった。


 午後10時前だというのに、通りの明かりは落ちていない。看板の赤や青がアスファルトに落ち、湿った路面でにじんでいる。居酒屋の入口からは会社員の笑い声があふれ、雑居ビルの上階では景気のよい音楽が鳴っていた。低いベース音が窓ガラスを震わせ、古いビルの壁を伝って外へ漏れてくる。


 その時、横から男が声をかけてきた。


「お兄さん、ちょっとだけ遊んでいかない?」


 直樹は足を止めなかった。


「帰るところです」


「帰るには早いよ。まだ10時前だよ。若いのに、まっすぐ帰るのはもったいないって」


 男は30代前半に見えた。派手なシャツに黒い上着を羽織り、髪を後ろへ流している。笑い方は柔らかいが、目は客を逃がさない。五反田の夜で飯を食っている男の目だった。


「本当に帰ります」


「見るだけでいい。写真だけ見ていきなよ。気に入らなければ帰っていいから。うちは変な店じゃないよ。ちゃんとしたピンサロだよ」


 男は、直樹の行く手を完全にはふさがない。だが、半歩ずつ前へ入ってきて、自然に道を狭める。手は出さない。声も荒げない。断ろうと思えば断れる。だからこそ、振り切るには少し面倒だった。


「ピンサロですか」


「そう。お兄さん、初めて? だったらなおさらいいよ。女の子が優しく教えてくれるから」


 直樹は、遊興ビルの入口を一度見た。


 このあたりは尚人の持ちビルの近くである。尚人も、若いころに何度かこの手の店へ入ったことがある。直樹は男の押しの強さに押され、写真だけ見ることにした。


「写真を見るだけなら」


「そうこなくちゃ。お兄さん、絶対に得するよ」


 男は笑顔を深くし、直樹をビルの横の階段へ案内した。


 ◇ ◇ ◇


 店は、地下にあった。


 階段を下りると、外の音が急に遠くなった。壁には古いポスターが貼られ、照明は赤みを帯びている。奥から低い音楽が流れ、空気には消毒液、煙草、化粧品の匂いが混じっていた。受付の近くには、今日出ている女の写真が並んでいる。


 ここは、ベル・ローズとは違う。


 ベル・ローズは、男がボックスに入り、外からかかってくる女の電話を待つ店である。店は電話と場所を貸すだけで、客と女性の関係には口を出さない。


 この店は、そうではない。


 ここでは女が店の中にいる。客は写真を見て指名し、決められた時間だけ個室へ入る。本番をする店ではない。女が手や口で客を抜く店である。客も店も、その線を分かって動いていた。


 受付には、黒い服の男が立っていた。年は20代後半ほどで、髪をきっちり分けている。客引きの男が、直樹を紹介するように手を上げた。


「初めてのお兄さん。写真を見たいって」


 受付の男は直樹の顔を一度見て、すぐに営業用の笑顔を作った。


「初めてですね。40分5,000円です。指名は別に500円いただきます。延長は10分1,000円、追加の1セットは40分5,000円です」


 直樹は料金表を見た。壁に同じことが書いてある。妙な曖昧さはない。


「分かりました」


「写真を見て選んでください」


 直樹はソファに座らされ、低いテーブルに置かれたアルバムを開いた。女の写真が並んでいる。20代の女もいれば、30代の女もいる。笑顔の作り方も、服装も違う。


 直樹は、1枚の写真で手を止めた。


 真紀、33歳。


 写真の女は、派手ではなかった。髪は肩のあたりで整えられ、目元に少し疲れがある。若さだけで押す女ではない。無理に笑っていない分、かえって印象に残った。


「この人でお願いします」


 受付の男は写真を覗いた。


「真紀ですね。指名込みで5,500円です」


 直樹は財布から5,000円札と500円玉を出した。受付の男は手早く数え、奥へ声をかけた。


「真紀さん、指名です」


 奥から、女の返事があった。


 直樹はソファに座ったまま、店の音を聞いた。カーテンの揺れる音、客の笑い声、女が客を呼ぶ声、受付の会計の音。狭い店に、男の欲と商売の段取りが詰まっている。


 少しして、真紀が現れた。


 写真よりも、実物の方が柔らかかった。33歳という年齢の落ち着きがあり、若い女のような軽さはない。化粧は濃すぎず、目元を丁寧に作っている。直樹を見ると、真紀は一瞬だけ足を止めた。


「あら」


 仕事の声ではない。客を見慣れた女が、思わず素の反応を出した声だった。


 直樹は立ち上がった。


「初めまして。直樹です」


 真紀は直樹の顔を見上げた。黒髪に、少し外国人の血を感じさせる顔立ち。背も高く、まだ20歳の若さがある。真紀の目が、仕事の目から女の目へ一瞬だけ変わった。


「本当に初めて?」


「はい」


「そう。じゃあ、緊張してる?」


「少し」


「正直ね。こっちへどうぞ」


 真紀は直樹の手を取り、細い通路の奥へ案内した。


 ◇ ◇ ◇


 個室は狭かった。


 2人掛けのソファ、低いテーブル、ティッシュ箱、ジェルの容器、灰皿。壁は赤っぽい照明で照らされ、隅には換気扇が回っている。消毒液の匂いに、甘い香水と煙草の匂いが重なっていた。


 真紀はカーテンを閉め、直樹の隣に座った。


「うちは本番なし。手と口で最後まで、という店。初めてなら、無理に格好つけなくていいからね」


「分かりました」


「分かってない顔ね」


 真紀は笑った。からかう言い方ではあるが、きつくはない。


「学生さん?」


「はい。帝都工業大学です」


「頭いいんだ」


「まだ勉強しているだけです」


「それで、どうして五反田で遊んでいるの」


 真紀は何気なく聞いた。客の緊張をほぐすための世間話である。


「祖父の持ちビルが、このあたりにあります。今日は少し用があって来ました」


「お祖父さん、不動産の人?」


「はい。不動産をやっています」


「へえ。若いのに、そういう世界も見てるんだ」


 真紀は感心したように言い、直樹の顔をもう一度見た。年齢の割に落ち着いている。背が高く、顔立ちも目を引く。店で見慣れた客とは、少し違っていた。


「直樹くん、ハーフ?」


「父がフランスと日本の血筋です。母は日本人です」


「やっぱり。目元が少し違うもの。こんな子が来るなんて、今日は当たり日ね」


「僕の方が、真紀さんを選びました」


「うまいこと言うのね」


「本当です。写真を見て、落ち着いていそうだと思いました」


 真紀は一拍置いて笑った。


「落ち着いていそう、か。33歳への褒め言葉としては悪くないわ」


 会話はそこで切れた。


 真紀は仕事に入った。直樹の上着を丁寧に脱がせ、シャツのボタンを外し、胸元に手を当てた。手つきは慣れている。客を急がせず、緊張をほどいていく動きだった。


 真紀は、ジェルを掌に取った。冷たい感触が肌に触れ、直樹は一度だけ息を詰めた。真紀はそれを見て、声を柔らかくした。


「大丈夫。痛いことはしないわ」


「はい」


「初めての顔じゃないけど、初めての緊張はしてるのね」


 真紀はそう言い、手と口を使って、店のサービスとしての仕事を始めた。露骨に急がず、しかし何をする店かは、はっきり分かる動きだった。ここは抜きをする店である。女が客を最後まで導き、客はそのために金を払っている。


 直樹は、店の決まりを超えない範囲で、真紀の手つきに身を任せた。


 真紀は途中で何度か直樹の顔を見た。仕事として客の状態を確かめる目ではある。だが、その奥に、別の関心が混じっていた。若い男をさばく慣れた表情ではない。直樹という男そのものを見てしまっている目だった。


「困ったな」


「何がですか」


「仕事なのに、仕事だけで終わらせたくなくなってきた」


 直樹は返事をしなかった。


 真紀は、直樹の唇に軽く触れるような口づけをした。店の音楽は続いていたが、その個室だけ、音が少し遠のいた。カーテンの外で受付の声がして、すぐに消えた。


 時間の終わりが近づいたころ、真紀はもう一度ジェルを手に取り、最後まで丁寧に直樹を導いた。直樹の体から力が抜けると、真紀はティッシュを折り、汚れを拭き取り、何事もなかったように後始末をした。


 店のサービスとしての抜きは、終わった。


 だが、真紀はすぐには立ち上がらなかった。


 ソファに座り直し、少し乱れた髪を手で整えた。目元の仕事の色が薄れ、素の疲れと優しさが戻っている。


「直樹くん、今日はこのあと帰るの?」


「この近くの部屋へ戻るつもりでした」


「このあたりに部屋があるの?」


「はい。一時的に使っている部屋があります」


「そう」


 真紀はしばらく黙った。カーテンの外では、別の客の笑い声と受付の会計の声がしていた。


「私の部屋に来ない?」


 直樹は真紀を見た。


「店の外で、ですか」


「うん。嫌ならいい。だけど、もう少し話したい。今日は、仕事だけで帰したくない」


「僕も話したいです」


 真紀は安心したように息を吐いた。


「じゃあ、店には具合が悪いって言って上がる。ここから歩いて10分くらいのアパートだから」


「迷惑ではありませんか」


「迷惑なら誘わないわ」


 真紀は少し笑った。


「それに、直樹くんに話しておいた方がいいことがある気がする」


「話しておいた方がいいこと?」


「うん。変な意味じゃないの。ただ、直樹くんがさっき、不動産って言ったでしょう」


「はい」


「私の友だちがね、最近、そういう人たちとよく会ってるの。土地を持っている男とか、不動産屋とか、会社の社長とか。私には詳しいことを言わないけど、少し危ない感じがするの」


 直樹は、そこで初めて真紀の言葉に注意を向けた。


「その友だちは、どこでそういう男たちと知り合うんですか」


「ベル・ローズ」


 真紀は声を少し落とした。


「五反田のベル・ローズ。知ってる?」


「名前だけは聞きました」


「私も、そこで電話のバイトをしてるの。友だちの美奈子〈30歳〉と一緒に。普通は、男の人と電話で話して時間をつなぐだけよ。サクラって言われるけど、ただのアルバイト。私はそれだけ」


 真紀は、自分に言い聞かせるように続けた。


「私は、電話で話して、時間が来たら切る。相手が会いたいって言っても、基本は会わない。店からも、普通はそこまで求められない」


「美奈子さんは違うのですか」


「うん。美奈子は違うと思う。あの子、電話だけじゃない。男を外へ連れ出してる。喫茶店とか、ホテルのラウンジとか。相手は、土地を持っている男とか、不動産屋とか、会社の社長とか、そういう人が多いみたい」


「それを、美奈子さんが自分で選んでいるのですか」


「分からない。でも、美奈子は時々、田口さんじゃない男に呼ばれてる。奥にいる人。店長って呼ばれてる人」


「店長」


「うん。田口さんは受付の人でしょう。美奈子が会っているのは、その人じゃない。もっと奥にいる人」


 直樹は黙って聞いていた。


 田口。

 店長。

 ベル・ローズの奥の扉。


 昼に見たものが、真紀の言葉で少しだけ意味を持ち始めた。


 真紀は、そこで一度口を閉じた。カーテンの外を気にするように目を動かし、それから声を低くした。


「それに、美奈子は時々、久里浜の話もしてた」


「久里浜」


「うん。マリーナホテルって言ってたかな。外国の女の人が出てくるって。きれいだけど、怖い感じの人だって。美奈子はそれ以上言わなかったけど」


 直樹の手が、膝の上で止まった。


 久里浜マリーナホテル。

 外国の女。


 それは、尚人が秋谷に残した資料とつながる言葉だった。


 真紀は、直樹の顔を見て不安そうに眉を寄せた。


「ごめん。私、何を話してるんだろう」


「大丈夫です。誰にも言いません」


「本当?」


「はい」


「美奈子のことを悪く言いたいわけじゃないの。あの子、昔から危なっかしいところはあるけど、悪い子じゃない。ただ、最近は少し変なの。電話のバイトだけじゃ、あんなに羽振りがよくなるはずがないのよ」


 直樹は、真紀の言葉を頭の中で並べた。


 ベル・ローズ五反田。

 受付の田口。

 奥にいる店長。

 美奈子。

 不動産関係の男たち。

 久里浜マリーナホテル。

 外国の女。


 店員が客の電話を聞く必要はない。電話をかける女が客と話し、外で会えば、土地や金や会社の話はいくらでも拾える。


「真紀さん」


「うん」


「その話は、ここではしない方がいいです」


 真紀は、はっとしてカーテンの方を見た。


「そうね。ここでは駄目だね」


「部屋で聞かせてください」


「うん。そうする」


 真紀は立ち上がり、カーテンを少し開けた。


「5分だけ待ってて。着替えてくる」


 直樹はうなずいた。


 真紀が個室を出ると、店の音が戻ってきた。音楽、男の笑い声、受付の会計、階段を上り下りする足音。さっきまでただの遊興の音に聞こえていたものが、今は別の意味を持って聞こえた。


 この町では、女が電話をかける。


 男が話す。


 その話が、土地詐欺の材料になる。


 ◇ ◇ ◇


 真紀は、薄い上着を羽織って戻ってきた。


 店の中で見た時より、年相応に見えた。化粧はそのままだが、表情から仕事の笑みが消えている。手には小さなバッグを持っていた。


「行こう」


「店は大丈夫ですか」


「体調が悪いって言った。今日はもう上がる」


 受付の男は、真紀を見て何か言いたげだったが、直樹が横にいるのを見て口を閉じた。真紀は軽く頭を下げ、直樹と一緒に階段を上がった。


 外へ出ると、五反田の夜の匂いが一気に戻った。焼き鳥の煙、酒、排気ガス、雨の名残を含んだ路面の匂い。看板の光はまだ強く、通りには客引きの声が飛んでいる。


 真紀は直樹の腕に手を添えた。


「こっち」


 2人は路地を抜け、少し古いアパートへ向かった。駅から近いが、表の騒ぎは少し遠のく場所だった。階段は鉄製で、踏むたびに薄い音が鳴る。2階の端に、真紀の部屋があった。


 真紀は鍵を開け、先に中へ入った。


「狭いけど、入って」


 部屋は六畳一間だった。小さな台所、畳、低いテーブル、布団をしまった押し入れ。窓の下には化粧品の瓶が並び、端に小さなラジカセが置かれている。部屋には、店とは違う匂いがあった。洗った衣類の匂い、化粧品の甘さ、古い畳の乾いた匂いである。


 真紀は上着を脱ぎ、湯を沸かした。


「お茶でいい?」


「はい」


「泊まっていく?」


 直樹は、すぐには返事をしなかった。


 真紀は振り返り、少しだけ笑った。


「変な意味だけじゃないよ。もう遅いし、話すなら長くなる。私も、直樹くんに聞いてほしいことがある」


「では、泊まらせてください」


「うん」


 真紀は湯呑みを2つ出した。


 夜の五反田の明かりが、カーテンの隙間から細く入っていた。直樹は畳に腰を下ろし、鞄を横へ置いた。中には自作の双方向リモコンがある。


 真紀は湯を注ぎながら言った。


「美奈子のこと、話すね。あの子、ベル・ローズの電話だけじゃない。たぶん、男を外へ連れ出してる」


「どこへ」


「喫茶店とか、ホテルのラウンジとか。五反田だけじゃないの。時々、久里浜へ行くって言ってた」


「久里浜マリーナホテルですか」


 直樹は、つい先に言ってしまった。


 真紀は目を見開いた。


「どうして知ってるの」


「身内が、その名前を調べていました」


「やっぱり、ただの話じゃないんだね」


「はい」


 直樹は湯呑みを両手で包んだ。


「その身内は、最近いなくなりました。ただの行方不明ではないと思っています」


 真紀は、しばらく何も言わなかった。湯気が2人の間に上がり、古い畳の匂いと茶の匂いが混ざった。外では、まだ五反田の夜が続いている。だが、この小さな部屋の中で、ベル・ローズ、美奈子、久里浜マリーナホテル、そして背の高いフランス女が、初めて1本の線につながり始めていた。


 真紀は湯呑みを置き、直樹の向かいに座った。


「美奈子は悪い子じゃない。でも、巻き込まれてるかもしれない。私、何度か止めようと思ったの。でも、あの子は笑ってごまかすだけだった」


「店長という男の名前は分かりますか」


「知らない。みんな店長って呼ぶだけ。田口さんは受付の人で、店長は奥にいる人。美奈子は、その店長に呼ばれると、電話の仕事とは別に出ていく」


「先生という男の話を聞いたことはありますか」


 真紀は少し考えた。


「先生……。美奈子が一度だけ言ってたかもしれない。『先生が見るから大丈夫』って。何を見るのかは知らない。書類なのか、土地なのか」


 直樹は、声を出さずにうなずいた。


 先生。

 土地。

 書類。

 ベル・ローズの店長。

 美奈子。

 久里浜マリーナホテル。

 外国女。


 点だったものが、少しずつ線になっていく。


 真紀は直樹の顔を見た。


「直樹くん。その身内の人、助けたいんでしょう」


「はい」


「じゃあ、私が知っていることは話す。でも、美奈子をいきなり悪者にしないで。あの子は、たぶん利用されてる」


「分かっています」


 直樹は答えた。


「危ないのは、美奈子さんを使っている人間です」


 真紀は、湯呑みを両手で包んだ。


「土地の話ばかりしてるって言ってた。最初は、お金持ちと付き合ってるだけかと思った。でも、ホテルとか、先生とか、店長とか、そういう言葉が増えてきて、変だと思ったの」


「美奈子さんと直接会うことはできますか」


「たぶんできる。私から呼べば来ると思う。でも、今夜は無理。あの子、土曜の夜はベル・ローズの後でどこかへ行くことが多いから」


「分かりました。無理に呼ばなくていいです」


「直樹くん、危ないことをするつもり?」


「危ないことをしているのは、向こうです」


 真紀は答えなかった。


 湯呑みを置くと、真紀は直樹の隣へ移った。さっきまで向かい合っていた距離が、畳一枚分もなくなる。店で見せていた仕事の顔は、もう消えていた。


「直樹くん、今夜は帰らないで」


 真紀はそう言って、直樹の手を取った。


「話を聞いてほしいのも本当。でも、それだけじゃない。私は、あなたをこのまま帰したくない」


 直樹は真紀を見た。33歳の女が、店の客に言うための言葉ではなかった。真紀は迷いながらも、目を逸らさなかった。


「僕も、真紀さんを選んでよかったと思っています」


 直樹が答えると、真紀の表情が少し緩んだ。


 真紀は押し入れから布団を出した。六畳の部屋は狭く、布団を敷くと、低いテーブルを端へ寄せなければならなかった。湯呑みの茶は冷め、窓の外では五反田の夜の音がまだ続いている。だが、部屋の中だけは、店とは違う静けさに包まれていた。


 真紀は灯りを少し落とし、直樹の胸に顔を寄せた。直樹も真紀の背に手を回した。店での時間とは違い、急ぐ必要はなかった。互いの体温を確かめるように、ゆっくり距離が縮まっていった。


 その夜、直樹と真紀は、客と店の女ではなく、男と女として結ばれた。


 真紀は直樹の若さに驚き、直樹は真紀のやわらかさと、人を受け止める落ち着きに惹かれた。真紀は何度か名前を呼び、直樹の肩に指を立てた。直樹も、その声を聞きながら、真紀を大切に抱いた。


 しばらくして、2人は布団の中で並んで横になった。真紀は直樹の腕に頭を預け、息を整えていた。窓の外から車の音が遠く聞こえ、古いアパートの壁が小さく鳴った。


「ごめんね。話の途中で、こんなことになっちゃって」


「謝ることではありません」


「直樹くん、変な子ね。若いのに、妙に落ち着いてる」


「真紀さんが、落ち着かせてくれたんです」


 真紀は小さく笑い、直樹の胸に頬を寄せた。


「じゃあ、話すね。美奈子のこと。あの子、たぶん危ないところへ入ってる」


 直樹は真紀の肩を抱いたまま、黙ってうなずいた。


 黒岩を消した夜は、まだ終わっていなかった。だが、その夜、直樹は真紀という女と出会い、五反田の闇へ入るための新しい手がかりを得た。

前編では、黒岩を片道へ送った直樹が、午後10時前に五反田の遊興ビルへ戻ろうとする。その入口で客引きに押され、ピンサロへ入る。店はベル・ローズとは違い、女性が客を相手にし、手や口で抜くことを仕事にしている場所である。直樹は真紀〈33〉を指名し、店のサービスを受ける。真紀は、友人の美奈子〈30歳〉がベル・ローズ五反田の電話バイトから外の仕事へ進み、不動産関係の男たちや久里浜マリーナホテルに関わっていることを心配していた。田口や店長が客の電話を聞けない以上、情報を拾う役は電話をかける女たちである。真紀の話によって、ベル・ローズの店長、美奈子、先生、久里浜マリーナホテル、外国の女がつながり始める。直樹は真紀のアパートに泊まり、詳しい事情を聞くことにした。

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