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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第19話(後編)――「ラ・イサベラへ」

昼のベル・ローズ五反田で、直樹は受付の男が田口であること、奥に客用ではない扉があること、田口の上に店長がいることを確認した。だが、噂にあった背の高い外国女は昼には現れなかった。直樹は夜に再び五反田へ向かう。そこで彼が見つけたのは、破産して逃げ場を失いながらも、革の鞄だけは手放さない黒岩辰夫だった。

 (1986年6月14日土曜日午後7時30分、東京・五反田駅西口)


 五反田の夜は、昼よりも雑然としていた。


 駅前には会社帰りの男たちが流れ、タクシーの列が途切れない。居酒屋の看板が灯り、路地の奥では、昼には目立たなかった小さな店が赤や青の光を出していた。


 直樹は、バイクを駅から離れた駐車場に入れ、歩いてベル・ローズの雑居ビルへ向かった。


 昼に入った喫茶店は、まだ開いていた。ガラス越しに見ると、カウンターには昼と同じ女が座り、新聞ではなく週刊誌を読んでいる。直樹は店に入らず、向かい側の自動販売機の横に立った。


 ベル・ローズへ上がる男は、昼より多かった。


 背広姿の男、作業服の男、若い会社員らしい男。皆、看板を見ない。目的地を知っている歩き方で、階段かエレベーターへ入っていく。


 午後8時を少し過ぎたころ、1人の男が路地の角に現れた。


 黒岩辰夫だった。


 以前の黒岩とは違っていた。高そうな上着はよれ、靴には汚れがついている。顔はむくみ、目の下が黒い。だが、右手に持つ革の鞄だけは、胸の前に抱えるようにして離さない。


 直樹は、その鞄を見た。


 破産した男が、なお守る物である。金か、書類か、逃げ道か。いずれにせよ、ただの鞄ではない。


 黒岩はベル・ローズのビルへ入らなかった。入口の前で一度立ち止まり、階段を見上げたあと、裏手の細い路地へ回った。


 直樹は距離を取って追った。


 路地の奥には、ビルの勝手口があった。黒岩はそこでしばらく待った。やがて扉が少し開き、中から男が顔を出した。昼に見た田口ではない。年は40歳前後で、髪を後ろへなでつけている。


 男は黒岩に何かを言った。


 黒岩は怒鳴りかけたが、声を飲み込んだ。鞄を抱え直し、必死に食い下がる顔になった。だが、扉の男は首を横に振り、勝手口を閉めた。


 黒岩は、路地に取り残された。


 直樹は、そこで姿を見せた。


「黒岩さん」


 黒岩は肩を跳ねさせ、振り返った。


「誰だ」


「早乙女尚人の身内です」


 黒岩の顔色が変わった。


「尚人はどこだ」


「それを聞きたいのはこちらです」


 黒岩は鞄をさらに強く抱いた。


「知らねえ。俺は何も知らねえ」


「知っているから、その鞄を離せないのでしょう」


 黒岩は一歩下がった。路地の出口は、直樹の後ろにある。黒岩の背後は勝手口で、もう開かない。


「金ならねえぞ。俺はもう終わりだ。会社も土地も、何も残ってねえ」


「金の話ではありません。道具の話です」


 その言葉に、黒岩の目が動いた。


 直樹は続けた。


「ここでは話せません。尚人の持ちビルがあります。そこなら人に聞かれません」


「俺を警察へ売る気か」


「警察なら、ここで呼べます」


 黒岩は唇をゆがめた。まだ疑っている。だが、道具という言葉を聞いて、足が止まっている。


「本当に逃げられるのか」


「あなたが持っている物次第です」


 黒岩はしばらく直樹をにらんだあと、路地の外へ歩き出した。


「案内しろ」


 直樹は黒岩を連れて、五反田の別の遊興ビルへ向かった。尚人が以前から持っていたビルである。上の階には空き室がいくつかあった。


 管理人は直樹の顔を見ると、すぐに鍵を出した。


「5階の奥を使います」


「承知しました」


 管理人は黒岩を見たが、何も言わなかった。


 5階の奥の部屋は、以前は小さな事務所だった。机と椅子が残り、窓には古いブラインドが掛かっている。外の看板の光が、細い線になって床に落ちていた。


 直樹は扉を閉めた。


「鞄を置いてください」


「断る」


「話をするなら、中身を見ます」


「お前に関係ねえ」


「では帰ってください。そのまま警察に追われるか、フランス女に切り捨てられるだけです」


 黒岩の顔がこわばった。


「フランス女のことを、どこまで知っている」


「尚人が追っていたことは知っています。ベル・ローズ、久里浜ホテル、黒岩興業。名前はつながっています」


 黒岩は歯を食いしばった。


「俺だけじゃねえ。俺だけが悪いわけじゃねえ」


「では、誰が悪いのですか」


「先生だ。あの女だ。俺は金を出した。部屋を用意した。女を動かした。だが、あんな道具を使うなんて聞いてねえ」


 直樹は、その言葉を聞き逃さなかった。


 あんな道具。


 それだけで十分だった。


「その道具は、鞄の中ですね」


 黒岩は答えなかった。


 直樹は一歩前へ出た。


 黒岩は鞄を抱えたまま体を引いたが、動きは鈍かった。若いころなら暴れただろう。だが、疲労と酒と追い詰められた生活が、体から力を奪っていた。


 直樹は黒岩の手首を押さえ、鞄を机の上へ置かせた。


「開けます」


「やめろ」


 黒岩は伸び上がったが、直樹は鞄の留め金を外した。


 中には、現金が少し、古い通帳、印鑑、名刺、折りたたんだ書類が入っていた。その底に、黒い布で包まれた物があった。


 直樹は布を開いた。


 小さなリモコンだった。


 直樹が自分で作った双方向リモコンとは違う。秋谷で見つけた尚人の予備とも違う。作りは粗く、表示も簡素だった。だが、素材の気配は同じである。1986年の工業製品ではない。


 黒岩は、そこで初めて声を荒らげた。


「拾ったんだ。俺のじゃねえ」


「どこで」


「港南だ。あの倉庫の近くだ。騒ぎのあと、床に落ちていた。俺は知らねえ。俺は押してねえ」


 直樹はリモコンを見た。


 片道式だった。


 これが尚人と順子を飛ばした道具そのものかどうかは、まだ断定できない。だが、港南の襲撃現場に、敵側の片道式リモコンが落ちていたことは確かである。黒岩はそれを拾い、隠し持っていた。金になると思ったのか、逃げ道になると思ったのか。どちらでもよかった。


「あなたは、これが何か知っていた」


「知らねえよ」


「知らない物を、命より大事そうに鞄へ入れて持ち歩くのですか」


 黒岩は黙った。


 直樹は片道式リモコンを調べた。表示は古く、行き先は空欄に戻っていた。設定はできる。だが、戻る機能はない。


 直樹には、自分で作った双方向リモコンがある。2026年から1986年へ来たのも、そのリモコンがあったからである。黒岩の鞄から出た片道式リモコンは、直樹の移動手段ではない。


 これは、敵が残した道具である。


 人だけを目的地へ送り、リモコン本体は元いた場所に残る。戻れる道は与えない。そういう道具だった。


 直樹は、数字と地名を入れた。


 1495年。

 イスパニョーラ島北岸。

 ラ・イサベラ近郊。


 黒岩が顔をしかめた。


「何をしている」


「行き先を入れています」


「どこだ」


「あなたが好きな金のある場所です」


 黒岩は目を見開いた。


「金?」


「そうです。金を求める男たちが集まる場所です。あなたには向いています」


 黒岩は一瞬、欲に目を動かした。だが、すぐに警戒へ戻った。


「ふざけるな。俺をだます気だろう」


「あなたたちは、尚人と順子さんを片道で飛ばした。戻れる道を渡さなかった。ならば、同じ道を使えばよい」


 黒岩は後ずさった。


「俺じゃねえ。俺は押してねえ。あの女がやったんだ。俺は拾っただけだ」


「拾ったなら、すぐ届ければよかった。隠した時点で、あなたは同じ側です」


「待て。話せば分かる。金なら作る。俺はまだ」


「作れません。黒岩興業は終わりました」


 黒岩は突進した。


 直樹は身をかわし、黒岩の腕を取って机へ押しつけた。黒岩の体が机にぶつかり、書類が床へ落ちた。


「やめろ。どこへ飛ばす気だ」


「1495年のカリブです」


「何を言ってる。そんな所へ行けるわけがねえ」


「尚人と順子さんも、そう思う暇はなかったはずです」


 直樹は左手で黒岩の腕をつかみ、右手で片道式リモコンのボタンを押した。


 部屋の景色が消えた。


 足元には、色のない床が広がっていた。壁も天井も見えない。五反田の夜の音も遠のいた。ただ、正面に赤い光があり、背後に青い光があった。


 赤い光の向こうが、1495年のイスパニョーラ島である。


 青い光の向こうが、いま出てきた1986年の五反田である。


 黒岩は、ようやく意味を理解した。


「待て。戻せ。戻せよ」


 直樹は答えなかった。


 黒岩は青い光の方へ振り返ろうとした。直樹はその肩を押さえ、体ごと赤い光へ向けた。


「お前、何をする気だ」


「あなたが隠していた道です」


「俺は使う気なんかなかった」


「では、なぜ持っていたのですか」


 黒岩は答えられなかった。


 赤い光が、黒岩の顔を照らした。黒岩の目に、恐怖と怒りと欲が混じった。彼はまだ、どこかで助かると思っている。金のある場所だと聞いて、ほんの一瞬でも目を動かした男である。


 直樹は、黒岩を赤い光へ押し込んだ。


「やめろ。俺はまだ」


 言葉は途中で切れた。


 黒岩の姿は、赤い光の中へ消えた。


 直樹はすぐに振り返った。


 青い光は、まだ残っている。


 消える前に戻らなければならない。直樹は迷わず、青い光へ入った。


 次の瞬間、直樹は五反田の部屋に立っていた。


 机の上には、片道式リモコンが残っている。床には黒岩の鞄と、散らばった書類があった。


 黒岩辰夫だけが消えていた。


 直樹は机の上の片道式リモコンを見た。


 やはり、道具は残っていた。


 直樹の鞄には、自分で作った双方向リモコンが入っている。秋谷で見つけた尚人の予備は、成城の金庫に移してある。だから、この片道式リモコンがなくても、直樹は動ける。


 だが、この道具には別の意味があった。


 敵が使った種類の道具であり、敵が管理し損ねた証拠であり、敵自身を片道へ送るための道具である。


 黒岩辰夫は、1986年の五反田から消えた。


 ◇ ◇ ◇


 (1495年、イスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊)


 黒岩は、湿った砂の上に倒れた。


 目の前には、見たことのない海があった。日本の海ではない。空の色も、風の匂いも違う。背後には濃い森が迫り、鳥の声と虫の音が重なっていた。


 黒岩は立ち上がろうとして、足を取られた。


 靴に泥が入る。上着は熱気を吸い、汗が噴き出した。ポケットを探る。財布はあった。札もあった。だが、ここでそれが金として通じるかどうかは、見なくても分かった。


 遠くから、人の声がした。


 日本語ではない。


 海辺の道を、数人の男が歩いてくる。粗い布の服を着て、腰に刃物を下げている。肩に槍のような物を持つ者もいた。黒岩を見ると、男たちは足を止めた。


 黒岩は怒鳴ろうとした。


「おい、ここはどこだ」


 言葉は通じなかった。


 男たちは互いに顔を見合わせ、1人が黒岩の腕時計を指した。別の男が、黒岩の靴を見た。さらに別の男が、ゆっくり近づいてきた。


 黒岩は後ずさった。


 彼は、金で人を動かす男だった。借金で女を縛り、部屋と仕事で人を押さえつけてきた。だが、ここには黒岩興業も、銀行も、登記簿も、電話もない。


 黒岩辰夫という名前を知る者もいなかった。


 男たちの1人が、強い口調で何かを命じた。


 黒岩は答えられなかった。


 別の男が近づき、黒岩の腕を乱暴につかんだ。黒岩は振り払おうとしたが、すぐに数人に押さえ込まれた。腰の刃物が見えた。ここでは、脅しも怒鳴り声も通じなかった。


 男たちは黒岩を森の方へ連れていった。


 木々の奥には、土を掘り返した場所があった。泥にまみれた男たちが、浅い穴の中で石を砕き、川の水で砂を洗っている。金を探しているのだと、黒岩にもすぐ分かった。


 黒岩はそこで、粗い縄で手首を縛られた。


 金を貸し、女を縛り、部屋と借金で人を動かしてきた男は、今度は自分が金鉱を掘る側に落とされた。黒岩興業も、銀行も、登記簿も、電話もない。命令する相手はいない。


 1495年のイスパニョーラ島で、黒岩辰夫は金鉱掘りの奴隷にされた。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年6月14日土曜日午後9時10分、東京・五反田、尚人の持ちビル)


 直樹は、床に落ちた書類を拾った。


 黒岩の鞄には、大した現金は残っていなかった。通帳は空に近い。名刺の多くは古い関係先で、今は役に立たないものばかりである。


 ただ、片道式リモコンだけは残った。


 直樹はそれを布で包み、自分の鞄へ入れた。


 港南の襲撃現場には、敵側の片道式リモコンがあった。黒岩は、それを拾って隠し持っていた。つまり、敵は尚人と順子を飛ばしたあと、道具をすべて管理できていたわけではない。


 そこに、次の隙がある。


 直樹は敵情報ノートを開いた。


 黒岩辰夫。

 破産後も片道式リモコンを隠し持つ。

 港南の倉庫付近で拾ったと供述。

 1495年、イスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊へ転送。

 片道式リモコンは1986年側に残存。

 直樹の自作双方向リモコンとは別物。

 尚人の予備双方向リモコンとも別物。

 直樹の移動と追跡は、自作双方向リモコンで行う。

 片道式リモコンは、敵側の道具。

 中間地点。

 赤い光は目的地。

 青い光は元の場所。

 青い光が消えない間は戻れる。

 次に調べるべき相手。

 田口。

 ベル・ローズ五反田の店長。

 先生。

 フランス女。

 地面師のボス。

 久里浜マリーナホテル。


 直樹はノートを閉じた。


 これで、最初の線は切った。


 だが、尚人と順子の行き先はまだ分からない。フランス女も、先生も、ベル・ローズの店長も残っている。


 黒岩は、入口にすぎなかった。


 直樹は部屋の明かりを消した。


 五反田の夜の音が、廊下の向こうから戻ってきた。酒の声、車の音、ビルの古い配管の音。その中で、直樹は鞄の重みを確かめた。


 直樹には、自作の双方向リモコンがある。


 黒岩から取り上げた片道式リモコンは、移動のためではなく、敵の道をたどるための証拠である。そして、敵が作った片道の罰を、敵自身に返すための道具でもあった。


 敵が作った道は、これから敵自身を飲み込む。

後編では、直樹が夜の五反田で黒岩辰夫を見つける。破産した黒岩は、港南の襲撃後に拾った片道式リモコンを鞄に隠し持っていた。直樹は黒岩を尚人の持ちビルへ連れ込み、鞄からリモコンを取り上げる。直樹には自分で作った双方向リモコンがあり、秋谷では尚人の予備の双方向リモコンも見つかっている。黒岩の鞄から出た片道式リモコンは、直樹の移動手段ではなく、敵側の道具である。直樹はその片道式リモコンを1495年のイスパニョーラ島北岸、ラ・イサベラ近郊に設定する。ボタンを押すと、直樹と黒岩はいったん中間地点へ出る。直樹は黒岩を赤い光へ押し込み、自分は青い光で1986年へ戻る。リモコンは五反田の部屋に残った。黒岩は、金も会社も暴力も通じない時代と場所へ落とされた。直樹は最初の復讐を終えたが、尚人と順子の行き先、フランス女、先生、ベル・ローズの店長はまだ残っている。

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