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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第19話(中編)――「五反田ベル・ローズ」

横須賀のスナック「さざなみ」で、直樹はベル・ローズ五反田の場所と、背の高い外国女が夜遅く奥へ入るという噂を拾った。だが、その夜の直樹は酒を飲んでいた。バイクで戻ることはできない。直樹は横須賀の遊興ビルの空き室に泊まり、翌朝、1階の店で朝食を取ってから五反田へ向かう。一方、啓子は久里浜マリーナホテルについて、登記、名義、抵当権の調査を進めていた。直樹は五反田の店に客として入り、受付の男と店内の様子を確かめる。

 (1986年6月13日金曜日午後10時40分、横須賀・スナック「さざなみ」)


 直樹は、グラスを置いた。


 ベル・ローズ五反田の場所は分かった。五反田駅西口から桜田通りを越え、目黒川へ向かう細い通りの雑居ビル4階。1階には小さな喫茶店がある。受付の男は無愛想で、夜遅くには背の高い外国女が奥へ入るという。


 それ以上、酒場で聞く必要はなかった。


 直樹は勘定を頼んだ。


「もう帰るの。若いのに早いわね」


 涼子が言った。


「明日も用がありますから」


「バイクで帰るの?」


「酒を飲みましたから、今夜は横須賀に泊まります」


「そこはちゃんとしているのね」


「事故を起こしたら困ります」


 直樹は勘定を払い、角のボトルを残した。ボトル札には「直樹」と書かれている。次に来る理由は、それだけでよい。


「バイクを裏へ置かせてもらえますか。明日の朝、取りに来ます」


「いいわよ。ゆかり、案内してあげて」


 直樹は、ゆかりに案内されて裏の空き地へ回った。バイクを押して奥へ入れ、スタンドを立てる。エンジンはかけなかった。


 表通りへ戻ると、夜の横須賀は海の匂いが濃かった。看板の光がアスファルトに落ち、タクシーの赤いランプが流れていく。


 直樹は公衆電話を探し、成城6丁目の自宅へかけた。


「はい、モローでございます」


 執事が出た。


「直樹です。今夜は横須賀に泊まります。酒を飲んだので、バイクでは戻りません」


「承知いたしました」


「啓子さんから電話はありましたか」


「ございました。久里浜マリーナホテルの件で、ご伝言をお預かりしております」


「内容をお願いします」


「表向きの名義は日本の会社になっているそうです。ただし、登記簿と抵当権の動きだけでは、実際に誰が支配しているのかまでは断定できないとのことです。管理会社、出入り業者、借入金の流れをもう少し調べる必要がある、とおっしゃっていました」


 直樹は、秋谷の封筒に入っていた写真を思い出した。


 ホテルのロビーらしい場所に、背の高い外国女が写っていた。白いスーツを着て、日本人の男と話している。写真の裏には、尚人の字で「フランス女。久里浜ホテル関係者。表の名義とは別に動く可能性あり」とあった。


 分かっているのは、そこまでである。


 その女がホテルの実質オーナーなのか、代理人なのか、単なる関係者なのか。啓子の調べでも、まだ断定はできない。


「ほかには」


「引き続き、登記簿、抵当権、管理会社、出入り業者を調べるとのことです。無理に久里浜へ行かず、まずベル・ローズを確認してほしい、とおっしゃっていました」


「分かりました。戻り次第、こちらから連絡します」


「かしこまりました。どうぞお気をつけください」


 直樹は受話器を置いた。


 久里浜は啓子が資料で追う。


 五反田は直樹が店で見る。


 その分担でよかった。


 直樹はタクシーを拾い、横須賀の遊興ビルへ向かった。


 そのビルは、尚人が黒岩から切り離した場所である。1階にはフィリピン料理の店があり、夜はカラオケと酒の声が漏れていた。直樹は夜間の管理をしている男に事情を告げ、空いている部屋の鍵を受け取った。


 4階の端の部屋は、六畳ほどの和室だった。小さな台所と古い風呂が付いている。畳は新しくないが、掃除はされていた。押し入れには布団が二組あり、窓を開けると横須賀の夜の匂いが入った。


 直樹は鞄から敵情報ノートを取り出した。


 ベル・ローズ五反田。

 五反田駅西口。

 桜田通りを越える。

 目黒川方向の細い通り。

 雑居ビル4階。

 1階に小さな喫茶店。

 受付の男は無愛想。

 男性客はサクラが多いと言う。

 サクラは時給で電話をかけるアルバイト女性と見る。

 電話で気が合えば、会うこともあり得る。

 売春目的の電話も混じる。

 普通の女性もいる可能性あり。

 背の高い外国女が夜遅く奥へ入るという噂あり。

 調べるべきは、受付、奥の部屋、夜に出入りする人物。


 次に、久里浜マリーナホテルのページを作った。


 久里浜マリーナホテル。

 表向きは日本法人名義。

 実際の支配者は未確認。

 登記簿と抵当権だけでは断定不可。

 管理会社、出入り業者、借入金を啓子が調査中。

 秋谷封筒にホテル資料と写真あり。

 写真裏のメモ。

 フランス女。久里浜ホテル関係者。表の名義とは別に動く可能性あり。

 直樹はまだ接触しない。


 直樹はノートを閉じた。


 明日、ベル・ローズへ入る。目的は、電話をかけてくる女性を見分けることではない。見るべき相手は、店を動かす側である。


 受付にいる男。


 奥の部屋。


 夜に出入りする人物。


 直樹は布団を敷き、上着を畳んだ。酒の熱は少し残っていたが、頭は冴えていた。


 窓の外で、店の看板の明かりが消えた。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年6月14日土曜日午前7時30分、横須賀・遊興ビル1階)


 朝の遊興ビルは、夜とは別の建物に見えた。


 階段には煙草と酒の匂いが残っていたが、1階の店からは、にんにくと酢の匂いが流れていた。鍋の中では鶏肉が煮え、米の炊ける匂いもある。


 ローザは、朝食を運びながら直樹を見た。


「ここに泊まったの?」


「酒を飲みましたから。バイクでは帰れませんでした」


「それでいい。バイク、あぶない」


 ローザはそれだけ言い、鶏肉の煮込みと白い飯を置いた。


 直樹は礼を言って箸を取った。酢のきいた煮汁が飯に合い、昨夜の酒で重かった腹が少し落ち着いた。


 食事を終えると、直樹は代金を置いた。


「ごちそうさまでした」


「気をつけて」


「はい」


 直樹は店を出た。


 朝の横須賀では、商店街のシャッターが上がり始めていた。魚屋の前には氷が積まれ、パン屋から甘い匂いが流れている。直樹は歩いて「さざなみ」の裏へ向かい、預けていたバイクを取りに行った。


 バイクは、昨夜のまま倒れずに置かれていた。


 直樹はヘルメットをかぶり、エンジンをかけた。酒はもう抜けていた。


 行き先は五反田である。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午前10時20分、東京・五反田駅西口)


 五反田駅西口には、土曜の午前でも人が多かった。


 買い物袋を持つ女、新聞を小脇に抱えた男、朝から酒の匂いをまとった中年客が行き交っている。駅前の道路にはタクシーが並び、排気ガスが歩道に溜まっていた。


 直樹はバイクを駅から少し離れた駐車場に入れた。


 ヘルメットをしまい、上着を整えた。学生に見えすぎても困る。遊び慣れた男に見えすぎても困る。今日は、好奇心で来た若い客でよかった。


 桜田通りを越えると、街の顔が変わった。


 表通りには会社や銀行の看板が並ぶ。一本入ると、古い雑居ビルが増えた。昼でも看板灯を点けている店があり、階段の入口には夜の匂いが残っている。


 小さな喫茶店の前に、食品サンプルが並んでいた。ナポリタン、カレー、トースト、コーヒー。ガラスケースの端は曇り、店名の文字は色あせている。


 その上の階に、細い看板が出ていた。


 ベル・ローズ。


 白地に赤い文字である。派手ではない。知らない者なら、ただの会員制の店だと思って通り過ぎるだろう。4階の窓には内側からカーテンが引かれていた。


 直樹は、まず喫茶店へ入った。


 コーヒーを頼み、入口から見える階段とエレベーターを確認した。10分ほどの間に、男が3人、上がっていった。全員が周囲を見ない。初めてではない歩き方だった。


 そのあと、若い男が1人、迷うようにビルの前で立ち止まった。看板を見上げ、喫茶店の入口を見て、結局エレベーターへ入った。初めての客らしい。


 直樹はコーヒーを飲み終え、勘定を払った。


 階段を使って4階へ上がった。


 4階にベル・ローズがあった。扉は厚く、外から中は見えない。横に小さな受付窓があり、押しボタンが付いていた。


 直樹がボタンを押すと、内側から鍵の外れる音がした。


 扉が少し開き、男が顔を出した。


 30代半ばに見える。髪は七三に分け、白いシャツに細いネクタイを締めている。顔に愛想はない。


「初めて?」


「はい。友人に聞いて来ました」


「1時間5,000円。延長は30分2,000円。飲み物は別」


 男はそれだけ言った。


 直樹は財布から5,000円札を出した。


「1時間でお願いします」


 男は札を受け取り、机の横に置いてあった小さな紙片に「5」と書いた。


 受付の机の端に、小さな名札が置いてあった。


 田口。


 直樹は、その名前を確認した。


 田口は紙片を渡し、奥へ向かって顎をしゃくった。


「5番」


 説明はそれだけだった。


 直樹は紙片を受け取り、廊下へ入った。


 廊下の両側には、薄い扉のボックスが並んでいた。中から男の話す声が聞こえる部屋もある。笑っている者もいれば、黙っている者もいる。


 5番のボックスは、畳一枚ほどの広さだった。


 小さな机、黒い電話機、灰皿、安いビニール張りの椅子。壁紙は古く、角が黄ばんでいる。


 直樹は椅子に座り、受話器を見た。


 ここは男女の出会いの場である。男が店のボックスで電話を待ち、女性が外から電話をかける。店は電話と場所を貸すだけで、客と女性の関係には口を出さない。受付も説明しない。壁にも注意書きはない。


 直樹が座ってすぐ、廊下の向こうで電話のベルが鳴った。


 隣のボックスから、椅子を引く音がした。男が慌てて受話器を取る。少し遅れて、別のボックスでもベルが鳴り、そちらの男もすぐに出た。


 電話は早取りである。


 鳴った電話を早く取った者が、相手の女性と話せる。店員が教えることではない。客は周囲の動きを見て覚えるのだ。


 直樹のボックスでも、数分後に電話が鳴った。


 受話器を取ると、若い女の声がした。


「もしもし。お兄さん、いくつ?」


「20歳です」


「若いね。今日は会える人?」


「今日は、様子を見に来ただけです」


「あら、つまらないの」


 女は笑い、すぐに電話を切った。


 それで十分だった。


 電話の向こうの女が、サクラか、一般女性か、売春目的かを見分ける必要はない。ここで調べるべきものは、電話の相手ではなかった。


 受付である。


 田口である。


 奥の部屋である。


 直樹は、ボックスの扉を少し開けた。


 廊下の奥に、客用ではない扉が見えた。田口は受付に座り、来た客から金を受け取り、紙片に番号を書いて渡している。余計な説明はない。男たちは金を払い、それぞれのボックスへ入っていく。


 直樹は10分ほど中にいたあと、ボックスを出た。


 受付へ戻ると、田口が顔を上げた。


「延長?」


「今日はここまでにします」


 田口はうなずき、何も言わなかった。


 その時、受付の電話が鳴った。


 田口は受話器を取った。


「はい、ベル・ローズ五反田です」


 直樹は財布をしまうふりをして、受付の机を見た。田口は電話を聞きながら、手元のメモ用紙に何かを書いた。文字は逆さで、読めなかった。


「はい。店長には伝えておきます」


 田口はそれだけ言って、電話を切った。


 直樹は頭を下げた。


「ありがとうございました」


「またどうぞ」


 田口は顔を変えなかった。


 直樹は店を出た。


 階段を下りながら、頭の中で整理した。


 田口。

 受付担当。

 料金を受け取り、ボックス番号を渡す。

 電話は早取り。

 奥に客用ではない扉。

 田口より上に店長がいる。

 昼の時間では、外国女の姿は見えない。


 直樹は、1階の喫茶店の前まで降りた。


 外へ出ると、午前の光がまぶしかった。目黒川の方から湿った風が来て、排気ガスとコーヒーの匂いを混ぜていた。


 ベル・ローズ五反田は、表向きには出会いの店として動いている。男がボックスで電話を待ち、女性が外から電話をかける。時給で話す女性もいれば、普通の女性もいる。売春目的の女性も混じるだろう。それは店の表の顔である。


 だが、受付の田口は、奥の部屋と店長につながっている。


 昼に見えたのは、そこまでだった。


 フランス女へ続く扉は、まだ開いていない。


 直樹は駐車場の方へ歩き出した。


 昼の調査を終えた直樹は一度成城へ戻り、秋谷で見つけた尚人の予備リモコンを金庫へ移した。

中編では、直樹が酒を飲んだため横須賀に泊まり、翌朝、五反田のベル・ローズへ向かう。啓子からは久里浜マリーナホテルの登記と名義について伝言が入るが、実際の支配者までは断定できない。直樹は、久里浜の件を啓子に任せ、自分はベル・ローズに客として入る。店は身分証や本名を求めず、金を払えばボックスへ通すだけだった。電話は早取りで、店は客と女性の関係には口を出さない。直樹が得たものは、受付の男が田口であること、奥に客用ではない扉があること、田口の上に店長がいることだけである。昼の五反田では、外国女の姿は見えなかった。次に見るべきは、噂の出る夜である。

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