表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

129/134

第19話(前編)――「秋谷に残されたもの」

直樹は榎本啓子に、未来から来たこと、尚人が祖父であること、リモコンの存在を打ち明けた。啓子は驚きながらも、直樹を信じることを選ぶ。だが、敵を追うには、まず情報が足りない。直樹は尚人が残した資料を探すため、啓子とともに秋谷の屋敷へ向かう。

 (1986年6月13日金曜日午後4時10分、東京・世田谷区成城6丁目、直樹の屋敷)


 直樹は、書斎の机に大学ノートを1冊置いた。


 表紙には、黒いペンで大きく書いた。


 敵情報ノート。


 榎本啓子は、その文字を黙って見ていた。つい先ほど、直樹から未来の話を聞いたばかりである。2026年から来たこと。尚人が直樹の祖父であること。リモコンで時代を越えられること。尚人と順子が、敵に片道式のリモコンでどこかへ飛ばされた可能性が高いこと。


 普通なら、受け止めきれる話ではない。


 それでも啓子は、逃げなかった。


「まず、分かっていることを並べます」


 直樹は言った。


 ノートの最初のページに、項目を書き出した。


 1、フランス女。

 2、久里浜のホテル。

 3、ベル・ローズ。

 4、黒岩興業。

 5、先生と呼ばれる男。

 6、地面師のボス。

 7、片道式リモコン。

 8、尚人さんが隠していた双方向リモコン。

 9、尚人さんと順子さんの行き先。


 啓子は、8番目の項目で目を止めた。


「尚人さんのリモコンは、どこにあると思いますか」


「祖父の本拠は秋谷の屋敷です。危ない物や大事な資料を残すなら、まずそこだと思います」


「行き先が分かれば、直樹さんのリモコンで追えるのですよね」


「はい。僕のリモコンで追えます。ただ、今は行き先が分かりません。だから、秋谷で探すべきものは、リモコンそのものよりも、祖父が残した情報です。フランス女の写真、ホテルの資料、敵の名義、そういう手掛かりです」


 啓子はすぐに立ち上がった。


「行きましょう」


「今からですか」


「今だからです。考えているだけでは、紙は出てきません」


 直樹は啓子を見た。


 彼女はまだ顔色が少し白い。だが、目はもう仕事の目になっていた。成城の家と土地を見てきた女の目である。


「分かりました。秋谷へ行きます」


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後6時、横須賀・秋谷の屋敷)


 直樹は、啓子を後ろに乗せて、成城から秋谷までバイクを走らせた。


 夕方の国道は混んでいた。車の排気の匂い、湿った風、海に近づくにつれて濃くなる潮の匂いが、ヘルメット越しに流れてくる。啓子は直樹の腰に手を回し、言葉少なに身を預けていた。


 秋谷の屋敷は、夕方の光の中に沈んでいた。


 黒松の影が庭に長く伸び、池の水面には赤みを帯びた空が揺れている。海から来る湿った風が、座敷の障子をかすかに鳴らしていた。


 澄江と新三は、尚人が戻らないことを知っていた。詳しい事情までは話されていない。ただ、尚人と順子が行方不明になり、直樹がその後を引き継いでいることだけは伝えられていた。


「旦那様のお部屋は、そのままにしてあります」


 澄江はそう言って、深く頭を下げた。


 直樹は礼を言い、啓子とともに尚人の書斎へ入った。


 机の上は、きれいに片づいていた。だが、何もないわけではない。引き出しの中には、地図、名刺、古い写真、電話番号のメモが、種類ごとに分けられていた。尚人らしい整理だった。


 啓子は部屋を見回した。


「この部屋なら、隠す場所は机だけではありません」


「どこを見ますか」


「まず、本棚。次に暖炉まわり。最後に床です」


 直樹はうなずいた。


 2人は黙って探し始めた。


 本棚の奥から、茶色の封筒が出てきた。表には、尚人の字で「久里浜」と書かれている。


 直樹は封を開けた。


 中には、ホテルのパンフレット、登記簿の写し、4枚の写真が入っていた。


 写真の1枚には、黒髪の背の高い女が写っていた。白いスーツに、細い金の腕時計。顔立ちは整っているが、笑っていない。ホテルのロビーらしい場所で、日本人の男と話している。


 写真の裏には、短いメモがあった。


 フランス女。久里浜ホテル関係者。表の名義とは別に動く可能性あり。


 啓子が写真を見た。


「この人が」


「はい。祖父が追っていた女です」


 直樹は写真をノートに挟んだ。


 封筒の中には、さらに名刺が1枚あった。


 ベル・ローズ。


 店名だけで、支店名はない。裏には、手書きで「新宿、渋谷、池袋、上野、五反田」と書かれていた。


 名刺の横には、小さな紙片が挟まっていた。そこにも尚人の字があった。


 ベル・ローズ五反田。場所は涼子が知る。さざなみ。


 直樹は、その紙を黙って見た。


「涼子さんというのは?」


 啓子が尋ねた。


「横須賀のスナック『さざなみ』のママです。祖父が出入りしていた店です」


「では、ベル・ローズのことは、そこから聞けますね」


「はい。祖父は、そう考えていたはずです」


 別の小さな紙には、黒岩興業、黒岩辰夫、先生、町田、女の金、パスポート、と並んでいた。ローザが残した紙片を書き写したものらしい。


 直樹は、ノートの項目に線を引いた。


 フランス女。

 久里浜ホテル。

 ベル・ローズ。

 ベル・ローズ五反田。

 さざなみの涼子。

 黒岩興業。

 先生。

 パスポート。


 別々に見えていた名前が、同じページに集まり始めた。


「尚人さんは、ここまで調べていたのですね」


 啓子が静かに言った。


「でも、まだ途中です」


 直樹は答えた。


「祖父は、行き先までは残していません。敵の仕組みを追っていた段階です」


 その時、啓子が暖炉の脇で手を止めた。


「直樹さん、ここを」


 暖炉の横板に、小さなずれがあった。古い木目に紛れるように、細い切れ目が入っている。啓子が爪先で押すと、板が少し浮いた。


 直樹が慎重に外すと、奥に黒い布包みがあった。


 包みを開けると、小さなリモコンが出てきた。


 直樹の持っているものとは形が少し違う。だが、素材と作りは同じ系統だった。1986年の道具ではない。


「双方向リモコンです」


 直樹の声が低くなった。


 啓子は息をのんだ。


「尚人さんは、これも残していたのですね」


「はい。ただ、これがなくても、行き先が分かれば僕のリモコンで追えます。これは今すぐ使う物ではありません。祖父が、別の目的で残した物だと思います」


 直樹はリモコンを手に取り、裏面を見た。そこには、小さな紙が貼られていた。


 予備。秋谷保管。使い道は状況で判断。


 尚人の字だった。


 直樹は、その1文をしばらく見つめた。


 尚人は、こうなることを考えていた。


 リモコンを残し、写真を残し、名刺を残し、敵の名前を残していた。だが、答えまでは残していない。答えは、これから直樹たちが拾わなければならなかった。


 啓子は、机の上に写真と名刺を並べた。


「敵情報ノートは、ここから始めるのですね」


「はい」


 直樹はうなずいた。


「今日は追いません。まず、分類します」


 ノートのページに、直樹は新しく書いた。


 秋谷で発見。

 双方向リモコン1台。

 フランス女の写真4枚。

 久里浜ホテル資料。

 ベル・ローズ名刺1枚。

 ベル・ローズ五反田の手掛かり。

 さざなみの涼子。

 黒岩興業関連メモ。

 先生の存在。

 ローザ紙片の写し。


 啓子は写真を指で押さえた。


「このホテルは、私の方で調べます。登記、名義、抵当権、管理会社、出入り業者。まず紙から見ます」


「お願いします」


 直樹は、ベル・ローズの名刺と、尚人のメモを封筒へ戻した。


「ベル・ローズの方は、僕が行きます。達也さんは巻き込みません。祖父とのつながりを、敵に知られている可能性があります」


 啓子はうなずいた。


「分かりました。私は久里浜ホテルを紙で追います」


「お願いします。僕は『さざなみ』へ行きます。涼子さんを問い詰める必要はありません。客として入って、酒を飲みながら話を聞きます」


 直樹は双方向リモコンを布へ戻さず、自分の鞄に入れた。写真と名刺、メモは封筒へ戻し、封筒ごとノートに挟んだ。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後8時10分、横須賀市内)


 直樹は、啓子を横須賀の駅近くまでバイクで送った。


 啓子はヘルメットを外し、乱れた髪を手で整えた。駅前の灯りが、白い横顔を照らしていた。


「ここからは電車で戻ります」


「気をつけてください」


「直樹さんも」


 啓子は短くそう言い、改札の方へ歩いていった。


 直樹はその背中を見送り、ヘルメットをかぶり直した。


 これから向かうのは、敵の本拠ではない。


 だが、尚人が残した線の1つである。


 直樹はバイクを発進させた。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後8時40分、横須賀・スナック「さざなみ」)


 スナック「さざなみ」は、表通りから少し入った場所にあった。


 古い看板に、青い文字で店名が出ている。扉の脇には小さな灯りがあり、中から笑い声とカラオケの音が漏れていた。直樹は扉を開けた。


 店内には、煙草の匂いとウイスキーの匂いが混じっていた。カウンターには中年の客が3人、奥のボックスには会社帰りらしい男が2人座っている。カラオケの音は大きすぎず、会話の邪魔にはならない。


「いらっしゃい」


 カウンターの中から、涼子が声をかけた。


 涼子は40歳前後に見えた。派手すぎない化粧をし、髪をきれいにまとめている。目は明るいが、客を選ぶ鋭さもあった。


 その横に、ゆかりがいた。20代後半の女で、涼子より柔らかい印象がある。直樹を見た瞬間、少し目を丸くした。


「1人ですか」


 涼子が尋ねた。


「はい。入れますか」


「もちろん。若いお客さんは珍しいわね」


 直樹はカウンターに座った。


「帝都工業大学の学生です。横須賀に用があって来ました。少し飲んでから帰ろうと思って」


「帝都工業大学?」


 ゆかりが声を弾ませた。


「すごいじゃないですか」


「まだ学生です」


 直樹は笑った。


 涼子は、その笑顔を見て、表情を少しやわらげた。


「何を飲む?」


「ボトルを入れます。角でお願いします」


 涼子の顔が明るくなった。


「まあ、最初からボトル? 学生さんなのに景気がいいのね」


「横須賀で何度か飲むかもしれませんから」


「うれしいことを言ってくれるじゃない」


 涼子はすぐに角瓶を出し、ボトル札を用意した。


「お名前は?」


「直樹でお願いします」


「直樹くんね」


 涼子はそう言って、ボトル札に名前を書いた。


 ゆかりが水割りを作った。氷がグラスの中で鳴り、薄い琥珀色の酒が揺れた。


「どうぞ、直樹さん」


「ありがとうございます」


 直樹はグラスを受け取り、軽く口をつけた。


 強く聞いてはいけない。


 笑って、聞き役に回る。


 それだけでよい。


「学生さんが、どうして横須賀に?」


 涼子が尋ねた。


「知り合いの家が秋谷にあります。今日はそちらに寄りました」


「秋谷なら、いい家が多いわね」


「はい。海も近くて、いいところです」


 直樹は、自然に話を続けた。


「東京の学生は、最近、テレフォンクラブの話ばかりしています。男の人が店の個室に入って、外からかかってくる女の人の電話を待つんでしょう。電話で出会う場所みたいなものですよね」


 涼子は、すぐには答えなかった。


 だが、カウンターの端にいた客が笑った。


「そうそう。出会いの場だよ。もっとも、電話してくる女の大半はサクラか、売春目的だけどな」


 別の客が言った。


「それでも、たまに普通の子がいるんだよ。そこに当たるかもしれないから、男が集まるんだ」


 直樹は、面白そうに笑った。


「そういうものなんですか」


「そういうものさ。横須賀より、東京の方が派手だ。五反田だの新宿だの、あっちの方が多い」


 奥のボックスにいた男が、そこで声をかけた。


「五反田なら、ベル・ローズだろう」


 店の空気が、ほんの少しだけ動いた。


 直樹は振り返りすぎず、笑ったままグラスを持っていた。


「有名なんですか」


「有名だよ。五反田駅の西口を出て、桜田通りを越えて、目黒川の方へ入る細い通りがあるだろう。そこの雑居ビルの4階だ。1階に小さな喫茶店が入っていて、夜でも看板だけは明るい。知らない男は通り過ぎるけど、知ってるやつは迷わない」


 別の客が口を挟んだ。


「階段が狭いんだよ、あそこは。エレベーターもあるけど、古くて遅い。受付の男が無愛想でな。初めて行った時、こっちが悪いことでもしに来たみたいな顔をされた」


 客たちは笑った。


 涼子は水割りを作りながら、何も言わずに聞いていた。ゆかりは直樹の横で、客の方を見ている。


「ベル・ローズって、そんなに人が来るんですか」


 直樹は、ただ興味を持った学生の口調で尋ねた。


「来る来る。男も多いし、電話も多い。ただな、あそこはサクラが多いって評判だ」


「サクラですか」


「そうだよ。店が女を雇って、客に電話をかけさせるんだ。客はそれを分かっている。それでも、たまに普通の女がいるかもしれないと思って通うんだよ」


 カウンターの端の客が、煙草を灰皿に押しつけた。


「それに、売春目的で電話してくる女もいる。だから、まともな出会いを期待して行く男もいるけど、実際は外れの方が多いんだ」


「そういうものなんですか」


 直樹は、面白そうに笑った。


「そういうものさ。それでも、男は行くんだよ。サクラでもない、売春目的でもない、普通の女に当たるかもしれない。その少しの期待でな」


 別の客が、声を少し落とした。


「ただ、あの店は少し変な噂もある」


「変な噂?」


 直樹は笑顔のまま聞いた。


「背の高い外国の女が出入りしてるって話だ。黒い髪で、白っぽい服を着てる女。日本語も話すらしいが、時々、フランス語みたいな言葉で男と話しているって聞いた」


 直樹の指が、グラスの底にわずかに触れた。


 だが、顔には出さなかった。


「外国の女ですか。客ですか」


「客じゃないだろうな。夜遅くに、受付の奥へ入っていくって話だ。普通の女客なら、そんな所へ入らない」


 別の客が笑った。


「金を出してる女じゃないのか。あの手の店は、表の店長と、本当に金を出してるやつが違うことがあるからな」


 涼子が、そこで初めて口を開いた。


「噂よ。酒場の話は、半分で聞いておくものよ」


「分かっています」


 直樹は素直に答えた。


 涼子は直樹のグラスに水を足した。


「店そのものが悪いわけじゃないのよ。男の人と女の人が電話で知り合う場所だから。ただ、かけてくる女の子の中には、売春目的の子もいる。客の方も、それを分かっていて通っている人が多いわ」


「なるほど」


「直樹くんみたいな子が行くなら、よく分かってからにした方がいいわ。女の子と話したいなら、うちで飲んでいればいいの」


 ゆかりが笑った。


「そうですよ。私たちが話し相手になります」


「それは助かります」


 直樹は素直に笑った。


 涼子とゆかりの表情が、さらにやわらいだ。


 直樹は、そこで無理に踏み込まなかった。


 ベル・ローズ五反田は、五反田駅西口から桜田通りを越え、目黒川へ向かう細い通りの雑居ビル4階にある。1階には小さな喫茶店。受付の男は無愛想。店はサクラが多いと噂されている。さらに、背の高い外国の女が、夜遅くに奥へ出入りしているらしい。


 それだけ拾えれば十分だった。


 店の中では、またカラオケが始まった。客の1人が古い演歌を歌い、涼子が手拍子を打った。ゆかりは直樹の隣に立ち、時々楽しそうに話しかけてくる。


 直樹は、ニコニコ笑いながらグラスを持った。


 聞き込みは、始まっていた。

前編では、直樹と啓子が秋谷の屋敷へ向かい、尚人が残した資料を探す。そこで、双方向リモコン、フランス女の顔写真、久里浜ホテルの資料、ベル・ローズの名刺、黒岩興業に関するメモが見つかる。さらに、ベル・ローズ五反田については、横須賀のスナック『さざなみ』の涼子が知っているという尚人のメモも見つかった。啓子は久里浜ホテルを紙の上から調べ、直樹は達也を巻き込まず、自分で「さざなみ」へ入る。直樹は帝都工業大学の学生だと名乗り、角のボトルを入れて場に溶け込む。酒の席の雑談から、ベル・ローズ五反田の具体的な場所と、サクラが多いという評判、背の高い外国女が出入りしているという噂を拾う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ